的を中てるの箭の必を取るべきものは、
従容閑暇よりこれを得るなり。
【射経:正志 第四】
(抜粋)
現代の弓道では「真、善、美」が掲げられていますが、武道の理念として「心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度」も生きています。
武道は、武士道の伝統に由来する我が国で体系化された武技の修錬による心技一如の運動文化で、柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道を修錬して心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、国家、社会の平和と繁栄に寄与する人間形成の道である。
<武道の理念:日本武道協議会:平成20年10月10日制定>
「的中は従容閑暇のうちにあり」とは良い言葉だと思います。李呈芬は『射経』の中で、次のように語っています。
故に、的を中てるの箭の必を取るべきものは、従容閑暇よりこれを得るなり。未だ匆忙恍惚にして、必を取るべきことあらざるなり。匆忙にて中ることあるは、また幸ひなるのみ。
[訳]
故に射侯の矢が必ず的中を取りうるのは、従容閑暇の平穏さの中から保証されてくるのである。忙々繁多で精神の集中を欠きながら、必中を取りうるということはあったためしがない。落ち着きのない忙ただしさの中で、的中があるのは、まぐれ幸いにしかすぎない。
【射経:正志第四:濱口富士夫著:明徳出版社】
(以下略)
『射学正宗』に心胆を養い修めることの重要性が述べられています。いくら射法を学んでも、「度、胆、気」の三つに根本を置かないと、神妙の域には達しないと説いています。
よく考へて見るのに、度量の広き事や、胆力の壮なる事や、気分の和平なる事は、皆射技の頼りて以て巧妙の技を行ふ事の出来る基となるものである。此三のものを捨て置てに法を言ふても、法用をさんやである。彼の射て法を知らざる者は言ふに足らざれども、法を知るもを度、胆、気の三に根本を置かざれば、法もより神妙の域に達せざるのである。
【弓道講座 第10巻:武経射学正宗講義:弁惑門 第十二:小沢瀇:雄山閣】
[訳]
度量の広いことや胆力の盛んなことや気分の穏やかなことはみな弓射る技のおかげで、その上手名人の技を行うことができる基となるものである。この三つのことを捨ておいて、ただ無闇に法を言っても法は役にたたない。どうにもならないのである。世間の弓を射ても法を知らない者は論外であるが、法を知ってもその基本を度、胆、気の三つにおいて習わねば、法も神妙な域には到達しないのである。これは射において大きな惑いとなるところであるから、わきまえ知らねばならないのである。
【武經射學正宗解説:弁惑門 第十二:村河清詳解:仲和良著:弓道誌2002年4月号】
(以下略)