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円坐は、目的や題目のない、時間と場所だけが定められている、呼びかけに応じて集まった人々が円になって座るところから始まる場。
影舞は、民衆芸能であり、人との関わりそのものでありその学びであり、真剣な遊びであるもの。
未二観は、聴き手が話し手の声や言葉をそのままに辿ることによる、聴くこと聴かれることの体験であり、15分間のそこから見えてくる景色を共に見る、文字による写真のようなものとも言えそうです。
これらそのものを生きることと同義として開催し、
時間の分かち合いや節目の贈りものなどにしていただき、
また組織や個人の研修や学びの場として活用いただいています。
目的もお題もなく、時間と場所だけが定まっている、呼びかけに応じて集まった人たちが円になって座るところから始まる場。
そこには、呼びかけた人、聴くことと場を開き閉じることを役割とする人がいます。いわゆるワークショップや何かの集まりで言われるようなルールや心がけのようなものはありません。日常の人とのかかわりは本来がそのようなものだと思います。
目的もお題もないからこそ、時間が区切られているからこそ、予めの意図を持たず聴くことを最優先に自らに課している人のいる場で、見聞きすること話されることがあるのだと思います。そうして話されることからの関わり合いがあります。
このような場のことを考えれば、意味合いをいろいろと挙げることができるでしょう。けれどそれらを予め言うことはできないだろうと思います。冷たく固まった氷が溶けていくような感覚を覚えることも、もう二度と来たくないと思うことも、あの人とまた会いたいと思うこともあの人とまたと会いたくないと思うこともあるかもしれません。
そのような円坐という場での、その場や体験が重ねられたときの、起きること、見えてくるもの、聞こえてくるもの、関わりのありようはどのようなものでしょうか。
言葉を交わさずに、相手を聴くこと、自分を聴き二人の間を聴くこと。真剣に向かい合うこと。
人がいて、真剣な遊び。人と、事と、関わるとは、向き合うとは、どういうことでしょうか。
影舞そのものを説明することは困難なものです。
それは、私がある時言われた「影舞というものがあるわけじゃないんだよ」ということと関係しているように思います。
影舞は動き、又は、運びであると言えるかもしれません。
ここにあらわれる動きは、
組になった二人が向かい合い、
二人の指先と指先がその間にモンシロチョウを挟むように
潰さぬよう飛んでいかぬような加減で触れて、始まります。
そこからどのような動きになるかはその二人にもわかりません。
その時それぞれに起きているのはどんなことでしょうか。
二人の間には何が生まれているのでしょうか。
あなたとわたしとあいだ、なくなる区別。それは本当だろうか。
そこに「表現」はないようです。
それを見る人には、何がどのように見え、聞こえてえているでしょうか。
聞き覚えのある音楽を合わせた時、
場所が古い民家であった時、
舞い手が知っている人だった時、
桜の舞う下での時。
寿ぎの時、弔いの時、祭りの時、節目の時。
ただ思い立った時。
たまたま向かい合うことになった二人。
たまたま観ることになった人。
二人に、観る人がいればその人に、その間に、何が起き、聞こえ、見えているでしょうか。
このようなもので、見ることはもちろん、
踊りや舞台などの経験がなくても身体に不自由があっても大人も子どもも誰もができるものです。
聴くこと聴かれることの体験。相手をそのままに聴くということ。わたしたちは普段、相手の話すことをどれだけ聞いているでしょうか、相手の話していることがどれだけ聞こえているでしょうか。
二人一組になり、聴き手と話し手になり、お互いに相手の15分間を聴き合います。話し手は話したいことを話し、声にならないときには黙し、聴き手は促したり質問したりせず、ただそのままに聴き辿ります。
その15分間を録音しておき、聴き手ができるだけ正確に書き起こします。
それを丁寧に読んでいく時、書き起こされた声や言葉によって、読み手には話す方のいた空間や見ていた景色が立ち現れてきます。それは普段の会話では聞き流されがちな時間や空間や動きの言葉からそれらを感じ、接続詞や語尾から話し手の在りようを知ることから起こってくるようです。
聴き手にとっては、自分が人の話を聞くときに何をしているのか、聴いていたのか、聞けていたのかという、聴くことの修練になります。
話し手にとっては、例えばその瞬間を切り取る写真のように、過去から未来の間にあるその時の15分間というものが文字や形になって残るものです。
事柄や場所や人との出会いから
一人の思いから同志とともに、あってほしい身の回りと世界へ
(コミュニティ・オーガナイジングに学ぶ)
聴くことと話すことを丁寧に重ねていく
(リフレクティング(オープンダイアローグの核))
ウェルビーイング・ワークショップ
当事者研究
みんなで困りごと解決
1on1
「1.5人反省会」など(相手の方の要望に応じて)
小さな組織への協力(研修など)
やさしいコンテンポラリーダンスクラスのまねクラス
出張 こたね(詩のワークショップ) (釜ヶ崎芸術大学・大学院「真剣なことば」より)
〃 釜ヶ崎妖怪かるた
〃 本間にブックカフェ一日店長 ある中からあなたに本を選びます
〃 幻聴妄想かるた大会
〃 てるぺん(椅子型の積み木)遊び
〃 釜ヶ崎のおじさんと
伊豆大島へのご案内
新潟県の津南町へのご案内
ブックカフェで
ゲストハウスで
ココルームという場で
帝塚山の家で
みんなで使う平屋で
ひでと
すだにさんと
たかったーさんと
ゆみこさんと
芝の家での人との関わりから
祖母の死から
何かを学びたいとき、現状を変えたいとき、どうしてますか?
~
必要そうなものや気の向くものを身にしたいけれど、もう少し知るにも学ぶにも、近くには合う人がいない、適当な場がない、手を届かせられない、(いろんな意味で)そんなこともあると思います。
~
項目として掲げるものはこちら。
・自らの困りごとを「自分自身で、共に」「研究」する(当事者研究の理念集を読むことから)
・非暴力の作法(NVC・My Tree)
・呼吸と姿勢
・みるきくはなす・会って話す
・感覚と気持ち・触れる
・はたらくこととお金
・人(あるいは物、事、場)との関わり
・わたしにとっての生きること
・わたしの今とつながる、他者の過去いま未来
・書く、文字にする、あらわす時間
・そのままに聴くこと
・円坐
ワークショップのようなものは世の中にたくさんあります。そのような場は基本的には、教える人や企画している人の伝えたいことに沿ってだったり、ペースやテンポや目標が彼らの基準でだったり、世の中の忙しさに合わせたりして作られているのだと思います。そこに合わせられ学べる人はそちらに行かれるでしょう。他方で、もう少し間があったらもう少し消化できそうなのに、その時間のうちに少し振り返る時間があったら得たものを日常に慣らしやすくなるのに、そんなふうに思うことがあります。ここでは、ゆっくりと、又は時間を設けて、自らの思いや考えと、起きていることと、居合わせた他の人と、向き合ったり会話をしたりして、時には同じ方向を見たり傍らにいたりしながら、今やあとさきを、聴き眼差す時間にしたいと思います。〈わたしの世界〉が変わっていく、新たになっていく、といいな。
「日曜日よりの使者」、一人の民主主義、自治の感覚、羅須地人会(ジョン・ラスキン生誕200年)
現在は自らの企画を休止しています。
お声かけいただいたときに開きます。
昭和50年頃に建てられた平屋。
ダイニングキッチン、四畳半、8畳の居間と6畳の和室からなります。
それまでは貸家になっていた2013年に、庭と2階屋の1階部分と合わせて「キタナラにやりフェス」の会場となって以来、それを機に発足したキタナラにやり研究所の研究員やその周りの人々によって、千葉県船橋市にあるキタナラの地域のみんなで、朝活、映画の上映会や音楽ライブ、勉強の会やワークショップなど、各種のイベントや様々な用途に使われてきました。
将来的には、曜日を問わず朝昼晩と開いていて、何時でも誰でも来られる開かれた場として、東京の芝の家や大阪のココルームのような場所にしていきたいと思います。
2階部分に5部屋、1階部分にダイニングキッチン、合わせてイベントスペースにもなる居間と座敷があり、社会的制度的に強いられての経済的な困難を抱える個人や世帯と経済的に困難を抱えていない個人や世帯が同居するシェアハウス。LGBTSフレンドリー。明文化された決まり的なことは最小限に、運営は同居人の話し合いでされていきます。
現在、耐震基準適合工事と改装を合わせると額にして1,000万円から2,000万円だという、費用、技術、材料、労力、知恵が必要になっています。
経済的に困難を抱える個人や世帯の方が次への溜めを作れるよう安価な賃料で住むことができ、経済的な困難のない個人や世帯の方は多様な人と住み暮らすことを実際にしていくことになります。
実の生る庭。
これまでに、「開墾」から始まり、マーケットやマルシェ、大人のバーベキュー、子どもアトリエ夏休み企画、雑草遊びなど、この空間でのことが行われてきました。
これからは、みんなで手入れをし、小さな畑をしたり、花屋さんに教えてもらっての庭づくりをしたり、誰もがいつでも出入りできてゆっくり過ごせる場所になるとよいと思っています。
3つの場所とも、ものごとやかたちの、はじまりや原型の、小さな試みや実験のできる場としていきたいと思います。お金の投資はできないけれど、そこにいて声をかけられたり声をかけたりする、斜め後ろから伴走するようなお手伝いができるでしょうか。
場をひらくこと、ひらいておくこと、
聴く/聴こうとすること、
他といること。
聴く/聴かれる体験を届けること。
まだまだその駆け出し。
ひらく場も、自らの道行きも、
これからどうなるかわかりません。
それでも、引き受けていくこと。
最近はどうやら、小さな橋を架ける人なのかもしれないと思っています。
心の中にはロックとパンクを。
場をひらくことの畏れと楽しみ。
私にとって、円坐、影舞、未二観は、
人と一緒にいる、
どんな人とでも一緒にいることの実践であり、
自由であること、
人がその人として居られるための試みであり、
聴く人、聴こうとする人が
世の中に増えたらいいという思いからの
あそびでありまなびになる時間の分かち合いです。
そうあれば、世界は面白いから。
わたくしが生きていくこと自体の一つのプロジェクト(第一稿)
映画 『人生、ここにあり』『隣る人』『ロック・ストック・トゥ・スモーキングバレルズ』
音楽 hide
本 『発達障碍の理解と対応』『ポケット詩集』
アート 草間彌生・イサムノグチ・「釜ヶ崎芸術大学・大学院」
ラジオ好き
これまでSNSに短文や各時で投げかけていたようなものを、
事業の内容、あそびのあひだ や個人としての「はたらき」として言葉にしここに置きました。
まだまだ拙いものですが、ここまでご覧くださりありがとうございます。
公開にあたって投稿した言葉を最後に。
その場に来る目の前の人と、会話をし、時間を共にする。それだけです。
能力の優る人、人格的に優れた人、より適した人がいるでしょう。
それでも、そこで居たのはわたくしなのでした。
このはたらきはとても小さなものです。
常に必要とされるのではなく、
たまたま出会った時と
要のあった時に
一緒にいる
こと。
その後にこちらから期待は持たず、
常に、そこに向き合うのみ。
見、聴き、はなし、
感じ、居る。
影舞のように。
場を、ひらき続ける。
何の力もないので、人と場の力を借りて。
求められなくても、いるだろう誰かが来られるように。
よろしくお願いします。
おまけ