専念寺の歴史
~後世に残したい思い出~

消えてしまう前に、
思い出の雫をあつめて
大切に残しておきたい

聞かせてください
ー専念寺の思い出ばなしー

思い出 
―問わず語りでー
ー話してくれた専念寺にまつわる思い出話を集めてみましたー

出征するとき、「専念寺の庭でまた会おう」と、友人や先輩と別れた。その後、自分だけ生きて戻ってきた。どこからでも見える専念寺の屋根を目にする度に、あの時また会おうといって別れた友の顔を思いだし、思わず手を合わせるんだ。(90代、男性)
昭和20年頃。亘理に疎開していました。庫裡の前に、立派なキンモクセイの木があったことを覚えています。(80代女性)

出征の朝、亘理駅には多くの見送りがありました。その中で、頭ひとつ飛び出した男性の顔がはっきりみえました。専念寺住職の岡 弌音さんでした。有難い思いで胸がいっぱいになりました。(90代男性)
専念寺では農繁期に託児所をやっていて、朝、「専念寺の歌」を歌ってから1日が始まりました。おやつの時間が楽しみでした。おばさんが大きな缶の中からビスケットを出して、みんなに配ってくれた。当時、ビスケットはとてもめずらしくてね。美味しかったことを今も懐かしく思い出されます。(80代、女性)
おばさんが踊りを教えてくれました。本堂で舞台をつくってみんなの前で踊った晴れやかな気持ちを思い出します。     (80代女性)

専念寺の庭にブランコ、屋根の下に水色の滑り台があった。みんなならんで順番を待って遊んだ。瓢箪形の池もあって魚が泳いでいた。(70代男性)

本堂の隅に小さな図書館があって、夏休みに通った思い出がある。(70代男性)

わたしら専念寺の庭は遊び場だった。学校帰りによく遊んだ。(70代男性)

託児所は春と秋の農繁期に一か月くらいずつ開いていた。皆勤すると野球ボールくらいの大きさのやわらかいボールがもらえた。ガキ大将にとられて、おばさんに訴えたら、取り返してくれた。(80代女性)
亘理神社のお祭りで稚児行列に参加しました。専念寺にある衣装を着せてもらって、おばさんに化粧してもらいました。専念寺から亘理神社まで行列をつくって歩きました。結構、遠いですからね。よく歩いたと思います。(80代女性)
お盆には新しい下駄と着物で、家族揃ってお寺にいきました。境内では櫓をくんでの盆踊りもあり、それはそれは賑やかでした。観音様のお祭りも人がたくさん出ていた。参道両側に屋台が軒を並べていてね。買い物をしたり遊んだり、楽しみにしていたものでした。(90代女性)

お盆の夜、家族みんなで提灯をもって墓参りに専念寺へいきました。墓にも提灯が立ててあって、とても特別な気持ちになりました。(60代女性)

盆踊りは華やかでした。櫓の上にお父さんがのって太鼓をたたいていた。誇らしい気持ちでした。(60代女性)

子供の頃、年2回あった観音様のお祭りがとても楽しみでした。今の駐車場のところに借家が建っていたので、狭い参道の両脇に屋台が軒を連ねて並んでいました。向かい合う屋台と屋台の間の狭い通路にたくさんの人が行き来していて、身体をよじらないとすれ違うことができないほどでした。(60代女性)

専念寺のお祭りの夜、屋台がカーバイトランプを灯していました。カーバイトの塊に水を注ぐことで放たれる赤い炎の色と独特の匂いを思いだします。(70代男性)

祀られることもなく放置された墓石を無縁塔に納めた時のことです。昭和38年12月ごろのことでした。檀家の酒屋さんの酒樽にお湯を積み、それをトラックで墓地まで運びました。一基ずつ掘り起こした墓石をそのお湯で、丁寧に洗ってあげました。とても寒い日でした。大変な作業だったことを覚えています。(70代男性)

日照りのとき、寺の境内で焚火をし、その真ん中に等身大の大きな観音様を立たせて雨ごいをした話を昔きいたことがある。そうすると、必ず、雨が降ってきたそうだ。(80代男性)
 昭和17年12月10日。政府の金属類回収令に従い、専念寺の鐘楼・半鐘をはじめとして妙鉢、銅鑼、燈籠、燭台他すべての金属仏具は供出しました。戦争に勝つためには仕方がないと、みんな涙を流して見送ったとお爺さんが話していた。(70代男性)
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葬送の流儀
ー亘理町・山元町ー

葬送の流儀
故人の偲び方には地方によって様々な流儀がありました。
亘理町、山元町ではどのように人を送ってきたのか?
当時のことを知っている人も少なくなってきた今、ここに記録しておきたいと思います。

(1) 昭和30年頃   亘理町高屋地区の場合(80代男性)   聞き取り日  令和2年5月2日

祖父が亡くなったときのこと
契約長がすべての行程や行列の順番・持ち物、献立などを記録し、申し送る習わしになっていた。
〇第一日目~葬儀前日までにやること
*隣組と契約に連絡
 みんなで手分けして以下の準備をする
 ・地区の人、親戚に2人一組でお知らせに回る
 ・自宅の準備
 ・死道具づくり
   棺桶(当時は座棺が多かった)板で作る。カンナをかけず、釘をつかわず、金槌も使わず。
   白装束(遺体に着せる着物。女の人がさらしで縫った。自ら準備している人もいた)
 ・女の人は食事作り
 ・行列の通り道に角送りの準備(要所要所にご座を敷き、上に小さな机、お線香立てとろうそくたてを準備)
 ・行列の通り道の角々に、先端に蝋燭をともす細い竹を建てる。葬儀前夜に蝋燭をともす。(霊が迷わないよ
  うに)
 ・契約の中から重役(おもやく)を選ぶ。
  重役は白いハッピを着る
  役割・・・棺桶を埋葬するための穴ほり(葬儀の朝)
       葬儀では家族が埋葬した棺桶に土をかけた後、土を綺麗に整え竹花を立てる
  重要な役割を担うということで、葬儀後は親戚と同じお膳でねぎらわれる
*僧侶に枕経をあげてもらう
〇葬儀の日(通常は亡くなって3日目、または5日目。4日目は避ける)
*朝、重役が墓穴を掘る
*午後1時、自宅での葬儀
*葬儀の後、自宅から墓地まで行列をつくって行進する
 先頭は、「まき菓子」係。道中、沿道に出てくれている人に菓子を配る
 花竹(高さ1mの孟宗竹に十文字の台をつけたもの)
 五色の幡、動物の頭の昇り、金銀の蓮の花(寺から借りる)が続く
 行列の順番と持ち物は故人との関係や親せきの中での順列によって決められる。
 会食の際の席順と同じで、時には争いのもとにもなるため、大変神経をつかうところ。
 列の最後は棺桶、位牌、写真。棺桶は籠のようにお墓まで担いでゆく。
 親戚の女の人は全員 頭を白い布(手ぬぐいサイズ)で覆う。
 門(竹二本で柱、縄で梁)の係は家で全員がくぐったのを確認したあと、急いでその門をもって墓地で待機
 再び、全員が門から入るように誘導する。
*墓地から家に戻って、精進あげ

〇初七日まで、毎朝、墓参りし、竹花をトントンと叩いて、故人に挨拶をした。
〇初七日 ババぶるまい
 お手伝いをしてくれた女の人たちに精進料理を出してねぎらう。
 手土産に靴下やハンカチや前掛けなどを配った。
 (亘理町五日町地区では、葬祭会館を利用するようになる20年位前までババぶるまいの習慣は続いた)
〇二七日忌から四十九日まで朝に墓参りをする。


(2) 昭和51年 山元町大平地区の場合(60代女性)  聞き取り日  令和2年4月27日
  第1日目 義祖父が亡くなる  まず区長に連絡
    区長は班内の人(10軒10人)にお手伝いを頼む。家の片付け等。
    祭壇一式と葬儀関連書類一式は契約会で所有。
    枕経を僧侶にお願いする。
  第2日目 死道具づくり
    朝8時 区長は契約会3班と4班を集め役割分担をする。
        3班は二人組で部落知らせに町内を回る。4班は道具づくりをする。
    葬儀屋に棺を手配
    死道具・白装束一式(さらしで着物、手差し、足袋など)
       ・さらしで身内の女の人が頭にかぶる布・身内用のわら草履・竹で門づくり
       ・竹で息つき(色紙でかごをつくり上にとめる)・墓地用一式(線香立て、お盆3つ、
        鹿花、たいまつ)
    家族ーお湯を沸かし、大きなたらいで遺体を清め白装束を着せる
    夜ー通夜(ひじき、煮物、おひたし)
  第3日目  葬儀当日
    朝ー火葬
    昼ーお膳(角・・・饅頭または落雁  直・・・洋菓子または甘納豆
         煮物   ひじきまたはおひたし   しろぶかし、汁物)
    会食後  
       葬儀  僧侶による読経
         墓へ向かう行列の順番とそれぞれの持ち物が指示がされる
         出棺のお経
         自宅からお墓へ  行列
         途中、要所要所に線香立ての机が配置され、部落の人が手をあわせて行列を見送る
         沿道に出てくれた人に「まき菓子」を配る
         墓地(共同墓地)に到着すると、行列は輪になって右回り3回
         お経・・・納骨
         みんなで線香をあげる。一杯めしは墓の角で割る
         行列は帰途につく   身内の人はわら草履を道中に脱ぎ、普通の草履にはきかえる
    精進上げ  お刺身、焼き魚、おひたし、ひじき、酒
  逮夜 初七日の前夜  クルミ餅
    数珠まわし
  初七日忌   墓参り後、お弁当を出す
  三七日忌   墓参り後、お弁当を出す
  七七日忌   墓参り後、餅つきぶるまい
  新盆     庭に提灯、矢を立てる、盆棚の用意


(3)昭和60年頃  亘理町南町地区の場合(70代女性)  聞き取り日  令和2年5月2日
第一日目  隣のおばあちゃんが亡くなる。
 班の人全員に招集がかかる。
 女の人・・・食べ物の準備
       リーダーがいて采配をふるった。
       2~3人で組をつくって
       きんぴら係、煮しめ係、ひじき・お浸し係、ごはん(おふかし)係、買い出し係など、役割が決
       められた
       何人分用意するかはその家をみて推測し上手に采配する人が必ずいたものでした。
       食事はご飯・味噌汁(サトイモ、大根、あぶらげ、豆腐)と5品(落雁、きんぴら、おにしめ、
       ひじき、おひたし)などを準備
 男の人・・・死道具づくり
       納屋の前にムシロを敷いて作業はすぐに始まる。
       昔は全部手作りだった。作り方は若い人たちに引き継がれていて、みんな何をしたらいいか
       わかっていた。
       棺桶・白装束・・・葬儀屋さんが手配
       重役(おもやく)は穴掘り。火葬であっても墓地に納骨堂がない場合穴掘りが必要。
第2日目   夜、通夜(おふかし、サトイモ汁、5品)
第3日目   朝、火葬に出発(火葬になってからは行列はなし)
       火葬から戻るまでに食事係は昼食を済ませておく
       火葬から戻ってきたらお膳を出す(とても忙しかった)
       午後1時から自宅で本葬、法事
       *南町では女性が白い布を被ることはなかったが、話者の実家である芝町では30年ほど前、親
        の葬儀で、姉妹でシンモスを正方形に切り、それを三角に折って首にまいて参列した。
       法事の会食は魚屋さんのお膳を手配
       納骨
       精進あげ
        手伝いもいっしょに食べる
        赤飯、おにしめ、きんぴら、鶏肉のお吸い物(鶏肉の大きな塊をから入りしてから、
        しょうゆ、さとう、みりんで味付けし、その汁をのばしてお吸い物の汁とする)

御 親 教
(専念寺)

2009年10月5日
遊行74世他阿真円上人御親教

1984年6月10日
遊行72世他阿一心上人御親教
(当日、雨のため、2回にわけて撮影)

1984年6月10日
遊行72世他阿一心上人御親教


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1954年9月4日
遊行71世他阿隆宝上人御親教
記録に残る 江戸時代の御親教

1848年12月1日(嘉永元年)
遊行57世他阿一念上人ご来山の記録

お上人様をお迎えするにあたって、以下のような通達が亘理伊達家より出された記録が残っていました。

御親教における専念寺門内外諸役仕様
(嘉永元年12月1日)


  •  一、寺社奉公遠藤左太夫、志賀恆之助の両人麻上下にて出仕
       (若党草履取り上下着用三人一組)
     一、表門番として足軽二人、三ツ道具飾り
     一、上人御着の説は土下座し、御出立のときも同様とする。
     一、警固には御旗本両人が当る。
     一、殿堂前(専念寺本堂前)には
       御馳走役の家老、出入司、小姓頭をはじめ作業奉行、徒
       目付、幕役、火触、掃除方、大工棟梁、が籠出る。
     一、殿堂(専念寺本堂)には紋付御幕二張(昼夜共差置く)
       玄関には紋付提灯(昼夜差置)を提げる。
     一、着寺当日は、武頭忠之介(上下四人)及び月番の家老
       朝上下着用にてお見舞に参上のこと。
     一、上人着席には、火鉢、煙草盆、お菓子、煎茶を出す。
       給仕は小姓小川林之丞が当る。
     一、上人御着の晩に料理を進ぜらる。
       内容は香のもの外二汁五菜、御相伴十人位、
       御給仕役は
       丹野勇之進、樽場造之助、小川林之丞、黒川兼次郎、三橋善平  
       大衆方の御賄いは香のもの外三菜とし、給仕は麻上下着用、
       永田甚治、渡辺善助、日下貞治、管野留等
  • 参考資料   *『郷土わたり』亘理郷土史研究会  55号(1985)pp.52-56                            「遊行上人と専念寺」寺島正
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1744年5月4日~5月11日(寛保4年)
遊行51代他阿賦存上人ご来山の記録

「遊行五十一代賦存の東北廻国について」*1

明大商學論叢第76巻2号
p.215, ll.20-23
圭室文雄著
より抜粋

  • 4月27日午前7時白石を発ち,午後1時角田専福寺へ到着している。
     専福寺(宮城県角田市角田裏林)は開山は一遍,開創年代は弘安3年(1280)と伝えている。角田の領主は伊達氏の家臣石川大和守である。滞在は7泊8日。
     石川大和守からは白米10俵をはじめとして味噌・塩・大根・わらび・豆腐・茶・薪・ローソク・水油・炭等が大量に届けられている。専福寺で賦存は檀家すべてに名号札(南無阿弥陀仏)をくぼっているが,家持には大幅の名号,借屋者には小幅の名号をくぼった。合計で220幅である。一方報謝銭として,家持は百文ずつ,借屋者は50文ずつ出している。このように遊行上人が廻国する時檀家すべてに報謝金を義務づけていた様子がわかる。角田専福寺を出発したのは4日の午前9時,亘理専念寺に到着したのは午前11時であった。
     専念寺(宮城県亘理郡亘理町上町)は開山一遍,開創建治年中(1275~8)と伝えている。滞在は7泊8日,天明8年本末帳には所収されているが,寛永10年には記されていない。この領主は伊達安房守である。新築・普請等万全の準備であり,米4石(10俵)をはじめとして食料・野菜・薪炭等が続々と運びこまれている。この期間に宝物開帳*2*3を行っている。11日専念寺を午前7時に出発し,午後2時真福寺へ到着した


  • *1  清浄光寺に残る遊行上人の旅日記である『遊行日鑑』の中から51代賦存上人の東北遊行についての記録をまとめている。本論文によると、当時、一行は、将軍から特別な保護(伝馬朱印)を受け、規模も大名級の旅をしていたことがわかる。
    *2 杓子をはじめ宝物・掛物・熊野権現などの開帳仏・神をもって歩いていた。遊行上人が廻国の途次各所で仏像や仏画などの秘宝の開帳を行なった。
    *3 遊行上人賦存一行が専念寺で行った宝物開帳の様子は「第五十一代遊行上人賦存の廻国について」明治大学人文科学研究所紀要、第35巻(1994)圭室文雄著、p.61,l.6-p.62,l.2の中で詳しくのべられている。以下、抜粋
     『昨日御息女(伊達安房守息女おさき)参詣之節宝物拝見被成候節,世話いたし候もの共江目録来ル,本々
    とあり,亘理伊達家領主の娘が専念寺へ出向き秘仏秘宝等開帳させている様子がわかる。また同月19日,仙台真福寺に賦存上人滞在中に,亘理伊達家領主の仙台屋敷へ出向き,屋敷内にて出開帳を行なっている。伊達安房守様依御所望御宝物御屋敷迄被遣候,絵説臥竜軒哲道・弁順相添,と,絵説役を派遣している様子がうかがえる。この様な例は各地で散見できる』
     


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