神戸中央教会神父、シスターと
黙想の時間

黙想をする時(ポポン エマニュエル神父)

1)時間と場所を決める

自分を失いそうな忙しい毎日の中にこそ、心の中にひびく神様の声を聞くことは欠かせないことです。黙想をすることによってその声に聞く準備をします。
黙想はどこでも、いつでもできますが、自分にふさわしい場所と時間帯をできるだけ選んだ方がいいです。時間は限られているので、黙想のために時間を割かなければなりません。暇な時で黙想をするのではなく、自分が選んだ時間を決めた方が聞くことにふさわしいです。できるだけ場所をも選んだ方がいいです。落ち着くことができる場所がおすすめです。
場所と時間が決まったら、黙想に入る準備をします。黙想の時間を神様に向かって過ごすために、黙想の間に人里離れた所にいることを想像して、電話やSNSなどを切ります。それも黙想に欠かせない準備です。これから聞くことに集中できるためです。場所と始まる時間が決まったら、終わる時間をも決めます。例えば45分間にします。決まったらその黙想を最後までに守ります。退屈になっても守ります。

2)心を用意する

黙想の時間になったら、自分のことを考えないように、自分のすべてを神様に委ねます。最初は心を落ち着かします。いろんな考えを認識しながら少しずつ自分から神様に向かいます。すべての考えを神様に委ねます。そしてイエスが祈っていたように、祈ります。
「父よ、わたしのすべてをあなたに委ねます。わたしの中にあなたの望んでいることが実現されますように。」
最後に神様への信頼を表す祈り言います。心が落ち着くまで繰り返してもいいです。
「父よ、あなた息吹はわたしを命の道へ導いてくださいます。父よ、わたしはあなたを信じます」

3)言葉に聞く

平和になったら、聖書の箇所をゆっくり読みます。読むというより言葉を聞きます。つまり、一人で読んでいても、誰かに読んでもらっているように想像します。自分が自分に読みます。これで読むこと聞くことになります。
言葉を聞くときは聞くことに集中します。言葉の意味が完全に分からなくても聞きます。
黙想は勉強する時間と違って、感じる時間です。相手となる神様を聞くことに配慮します。
読み始めたら、読まれている箇所に描けれているシーンにわたしも参加していることを想像します。特にどんな人物がいる、誰が何をするかを想像します。
読んだこと、想像したことに対してわたしはどう感じますか。読むときに感じることが大事です。読んだ言葉はわたしの中にひびきます。心を動かします。心が動かせれた時、どう動かせれたか、何を感じたかを味わいます。感じることによって神様はわたしを平和に導いてくださいます。神様の息吹と信じて、その導きについていきます。もしその導きが感じられなければ、最後までそれを待ちます。黙想は神様に委ねた時間であるので、期待はしません。いつもの我がままと違って、無償に受け入れる時間です。神様を素直に、無償に待つ時間です。
黙想する時に、脱線するところになりそうだったら、心を落ち着かせる祈りを心を込めてゆっくり繰り返します。

4)時間終わったら、感想を紙に書きます


4)時間終わったら、感想を紙に書きます


ポポン エマニュエル神父

愛の喜び

8月6日の朝、パリ・シャルル・ド・ゴール空港に着いた途端、パリ外国宣教会の本部から「9月の会議が延期になりました」とパリミッション会の本部から連絡が届きました。実はこの会議はフランスに行く主な理由でした。会議員の一人のスケジュールが変更したことに従って10月11日まで延期せざるを得ないことになっていました。それに加えて、コロナ禍の影響で日本への帰り便が少なくなったため10月27日までフランスに滞在することになりました。ついに6週間の休暇が3ヵ月になりました。司祭叙階の時から初めてこんなに長く故郷に滞在することになっていました。神様が与えてくださった時間と思い、どのような出会い、出来事が待っているかを楽しみにしながら毎日を味わおうと決めました。明日のことを思い悩まずにこの時間を過ごしたかったのです。

まず実家に行って、3年間ぶりに会わなかった家族と出会い、喜びました。両親が年をとっていたことを目で見て改めて時間の経過を感じました。一緒にいる時間の大切さを感じる同時に、別れの時間も毎日近づいていることも感じました。日本に帰る時の別れだけではなく、死の別れも感じていました。それで、会う度に喜びと悲しみを覚えていました。時間を止めることはできないので、どういうふうにしてこの大切な時間を過ごすことが出来るのかをよく考え、祈っていました。そうしたら、あることがわかりました。別れの悲しみは出会いの喜びから生まれます。その悲しみを避けることはできません。しかし、そもそも出会う喜びどこから来ていますか。それは、一緒にいる人を一緒にいる間に大切にすることから来るのです。家族であろうか、まだ知らない他人であろうか、一緒にいる人を愛することから喜びが来ます。愛する人と過ごせる時間は限られています。別れる日はいずれ必ず来ます。その時が来ると悲しみを覚えます。しかし、愛は別れの悲しみを生き残ります。いつもともにあります。親しい人のそばにいる喜びがなくなっても、悲しみを覚えても、愛の力はいつもわたしたちの中にあります。それを信じれば、愛そのものが人生の生きがいになります。親しい人に出会うと求めるより、人を愛したいと思うようになります。それはイエス様から学んだことだと分かります。愛する人との出会いから覚える喜びは、愛の大切さを教えます。親しい人と一緒にいる喜びは愛から来ます。大切なのは喜びではなく、愛することです。愛を生かそうとしているからこそ出会いの喜びがあります。愛は生かすものだと思うと、誰を愛するのかが自分で決めることになります。親しい人と一緒にいる時に自然に愛を感じます。その愛が大切です、その愛を深めていくことによって喜びも増えていきます。そしていずれ悲しみが感謝に変えられます。イエスが人となったことから学んだことは出会う人を大切にすることです。愛することに実の喜びがあります。

2021プネウマクリスマス号より

その悲しみが喜びになります 

ご無沙汰しております。お元気でいらっしゃいますか。今年の聖霊降臨のお祝いを一緒にできなくて残念でした。その日、わたしは皆さんのために祈りました。

わたしたちはイエスの愛のうちにいつもつながっています。緊急事態宣言が延長された今、あなたに励ましの言葉を送りたいと思ってこれを書いています。

 

復活節第6木曜日の福音書にこう書いてありました。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と。

ヨハネによる福音書 16:16-20

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」

 

イエスが弟子たちから離れて天にあげられ、もう会わなくなると言った時、弟子たちは悲しくなりました。それは自然な感情でした。その暗い感情にとらわれた弟子たちは、「悲しみが喜びに変わる」というイエスの約束の言葉を、あやうく聞きそこなってしまうところでした。

 

誰かが不安と悲しみに襲われた時、「明日は晴れる」という励ましの言葉がよく使われます。それぞれの性格によって、その言葉に支えられて元気を出す人もいれば、不安のためにそれを受け入れられない人もいます。弟子たちの場合も、イエスの言葉によって力づけられた弟子もいれば、そうでない弟子もいました。

緊急事態宣言が続き、教会に行かない日々、教会の仲間に会えない日々が続くと、信仰生活を続けるのが面倒だなと感じることはありませんか? 今のように、一人だけでいる時には、私たちはどのように信仰生活を守り育てていけばいいのか迷うものです。聖書の言葉を読んでも分からない、難しくて諦めたくなる、そんな時、私たちはどのようにすればいいのでしょうか?

 

教会は信仰を支える場所なので、その場所に行けなくなったら信仰はなくなるのでしょうか。上の福音書の箇所をもう一度読んだ時、「わたしを見るようになる」という言葉が目にとまりました。弟子たちはイエスを見ることによって喜びを受けます。彼らとイエスとの間に絆が結ばれていることがわかります。それが信仰だと感じます。一人ひとりがイエスにつながっています。だから一人でも信じることはできます。イエスを信じることはすべてです。つまり、今は教会に行けなくても、信仰をもって自分をイエスに結べば、いつもイエスに結ばれることになります。そしてイエスが約束してくださった喜びに少しずつ入ることができます。

 

最近のわたしの祈りは「イエスとともにいる喜びを望むこと、味わうこと」です。教会に行くこと、ミサをささげることは喜ばしい恵みです。イエスとの絆のうちに生きることを強めてくれます。またその喜びを表現してくれます。しかし、「イエスとともにいる喜び」をわかるためには、日常生活の中でイエスに従っていかないと、それはどうしてもつかめないのです。

 

しばらくお会いしていませんが、あなたのイエスとの絆は今どうなっていますか? イエスが約束してくださった喜びを信じていますか? お互いに愛しあいなさいという言葉を守っていますか。むずかしいですね。でも、むずかしくても、イエスがともにいてくださることを信じてください。今日、イエスを信じる喜び、イエスとともにいる喜びがわたしたちに与えられるように祈ります。

 

時がきたらまた教会に集まって、ともに感謝しながらお祝いしましょう。

 エマニュエル ポポン

ご復活祭おめでとうございます

わたしたちに主と呼ばれるイエスの復活は信じられないと思っても、生きることを改めて考えさせるものです。命と愛は死を含めて、全ての悪に勝つ。それは復活が明らかにされたことです。この世の中に、見えないけれどわたしたちを包み、わたしたちを動かす命の息があります。その息吹は神の霊とよく呼ばれています。その息吹がイエスとともずっといて、その息吹がイエスを死から蘇らせました。復活というできごとが大切と言っても、それが一番大切ではないと感じます。

復活は命の息吹の働きによって行われたことです。つまり、わたしたちにできないことで、受け入れるしかないできごとです。とはいえ、復活はその命の息吹である神の霊の存在を証しました。わたしたちはその命の息吹とともに生きています。イエスは復活を述べ伝えませんでした。神の霊とともに生きることを述べ伝えました。天国を述べ伝えませんでした。神の霊に従って生きることを述べ伝えました。

イエスの生涯をみると、一つのことがわかります。命の息吹である神の霊は人の見方であり、人を豊に生きる状態へ導いてくださいます。人にふさわしい生き方を教えてくださいます。

行動や思いを。その神の霊が教える行動と思いは愛と呼びます。イエスは神の霊のうちに愛に基づいた生き方を示しました。愛することと生きることは神の霊につながっていることがわかります。わたしたちは細胞のかたまりだけではありません。霊的な生き物です。命の息吹につながっています。その命の息吹が、イエスが示したように、わたしたちとともにいて、わたしたちに豊かに生きることを教えてくださいます。それは愛です。命の息吹である神の霊は、愛を教えてくださいます。愛は命の息吹が教えるもので、その愛は神の息吹がわたしたちとともにいるしるしです。

愛を実践する人は命の息吹とともに生きるのです。ご復活の時に命の勝利を祝います。愛を実践することによってその命の息吹にとどまることがわかります。イエスが神の霊が教える愛を実践したようにわたしたちも愛を学んで、愛を実践することができます。愛することは神とともに生きることを表します。真に生きることは愛にとどまることにあります。イエスは命を失うまで愛に従いました。失った命は体の命だけでした。愛のうちに生きていたイエスは、真の命を失いませんでした。生きることは体の細胞を保つのではなく、愛する自分を生かすことだとわかります。つまりイエスの復活を通して、すべてより、生活より、健康より、愛にとどまることが大事だとわかります。愛することは自分で決めるものです。神の息吹とともに生きることを決めることです。イエスは愛をする道を歩みました。神の命の息吹に沿って生きようとしました。それが命と喜びへの道になりました。その道もわたしたちは歩むことができます。

命と喜びになる、愛の道をイエスから学ぶことができます。愛の道は神の息吹に従って生きることです。その息吹はご復活の時に非常に強く吹きました。その後も吹きました。今もわたしたちの日常生活の中に吹いています。その命の息吹を受け入れて、従っていきたいです。命と喜びに向かって。

この世の中に苦労はたくさんあります。そして愛のない行動や思いも。でも闇の中に光のように命が輝きました。イエスと同じように愛に従う人は神の息吹とともに生き、その息吹が教える愛を宿すものになります。ご復活に励ませれ、そういう人でありたい。

四旬節・黙想への手引き

愛を支える節制
皆さんはどう感じますかわかりませんが、私にとって待降節に入ると降誕祭、つまりクリスマスを祝うことを首を長くして待つのに、四旬節になると復活祭を祝うことをそんな期待しません。祝いたくないと言いません。子どもの頃にクリスマスが一番喜ぶ祭日でしたが、信仰を真剣に捉えるようになってから復活祭のほうが一番喜ぶ祭日になりました。とは言え、教会を考えると、待降節と違って、四旬節が大事にされていることがわかります。この時期になると節制、犠牲、努力、と言う言葉が会話の中でよく出てきます。待降節はクリスマスの喜びの準備として受け取られているに対して、四旬節は同じく復活祭の喜びに向かわれているんでしょうか?皆さん何のために節制を行います?確かに節制することには深い意味があります。まず神の息吹に敏感になるためです。いつもの欲望の執着から自由になるために節制します。それで、自分の心に振り返ることできます。正直に自分と向き合って、その自分を神様に委ねていきます。そして節制の意味のもう一つは、イエスの道を力強く歩むためにです。自分にとってイエスの道が本当に大切であることを確認してから、覚悟を持って歩むために、節制が必要になります。必要になると言うより、自然に節制することになります。つまりイエスの道を歩むために節制は欠かせないものになります。そう言ったら、キリスト教は厳しいと思われるかもしれません。それは節制に必要になる努力と忍耐をしか考えないときっとそう思われます。それは節制する前に節制の目標を確かめなければそうなってしまいます。家族を作ることに例えてみたいです。家族になって、夫婦生活と子どもの教育によっていろいろ節制することになります。自分を失うまで犠牲になる時もよくあります。でもある程度やりがいがあります。家族を養うために、子どもが心強く成長できるためとか様々な理由で節制します。節制は我慢と同じ意味です。我慢と同じように、我慢する理由が見えなくなってしまうと、むなしく感じてしまいます。四旬節の節制、さらに信仰生活のこの世に対しての節制も同様です。信仰生活に頑張る理由がなければむなしくなって、逆に失望に落ちいてしまいます。そうならないように喜びをもたらす信仰に入った動機を改めて考える時期が必要です。四旬節はそういう時期です。どうして信仰に入りましたか?イエスの言葉に信頼をおいて生きることができます?節制によって自分の心に語ってくださる神様のいぶきを感じて、信仰を確かめて、力強くイエスにしたがっていくことを決心できるためです。そうすればきっと節制は復活祭の喜びを迎えることになります。イエスは私たちの暗闇を分かち合い、節制と苦労しながら私たちのために神の国の喜びを伝え現してくださいました。イエスとともに歩む人は消えない喜びに向かっています。この約束された喜びが私たちの信仰を支えます。イエスが示した愛は私たちの生きがいです。その愛の力を信じたからイエスを信じるようになりました。その愛と喜びが生活の悩みと忙しさに奪いとらわれないために節制します。私たちの節制は愛と喜びを憎むものではなく、むしろ愛と喜びを備えるものでありますように。                                     

2)黙想するための言葉 ー ヨハネ13、1-9

 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。


「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」
ここに描かれているのは、イエスが「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」ことです。イエスが持っていた愛についてです。

「愛について知りたい、それを読めば愛について学べるかもしれない。」と考える自分に対して、私の信仰心は「答えは必ずあるはずだ」と言います。でも、この箇所を実際にゆっくり読み始めると、その希望はすぐに消えてしまいます。愛はどこにあるのでしょうか。
 しかし、すぐ理解しようとする気持ちを抑え、素直になって、諦めずにゆっくり読んでいくと、あることに気づきました。それはイエスとペトロとが議論しているところにありました。

 イエスがペトロに言う言葉に集中しているうちに、その言葉の裏にあるイエスとペトロとの関係に集中するようになりました。(ちなみに、こういうふうに聖書の意味をいつも深めさせてくださるのは「神の息吹」、つまり聖霊だと信じます)。


 先生であるイエスが弟子たちの足を洗い始めた時、弟子たちはどう感じたのでしょうか。弟子によって違うとは思いますが、ペトロが示した反応は、他の弟子たちも同じように示したと思ってもいいかもしれません。

 自分より上と思っているイエスに足を洗ってもらうことは考えられないことでした。足を洗うのは身分の低い人の仕事です。ペトロはイエスを尊敬するからこそ、それをゆるすことができません。イエスに比べて自分が低いと思っているからです。ペトロは真に素直で謙遜な人です。しかし、イエスが偉いという思いは、イエスとペトロとの関係を邪魔しています。ペトロは自分が正しいと思っていることを優先しています。それは悪いことではありませんが、その結果イエスに反対してしまいます。

 わたしも同じでした。神の道がわからない時に我が道を行ってしまい、神の道とは反対の道に行くことが多かった。ペトロはイエスがなさることを理解せずに、反対してしまいました。

 しかし、イエスが「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言った時にすべてが変わります。何が起きたのでしょうか。ペトロは急に理解したのでしょうか。そうではないと思います。ペトロはイエスが何をしているかまだ理解していません。
 
しかし、理解しなくても、とにかくイエスから離れたくないのです。わたしはそれを理解できます。ほとんどの場合イエスがなさること、言うことはわたしの理解を超えますが、とにかくイエスから離れたくないと言う強い気持ちは深く感じます。

ペトロはイエスと反対していることがわかった途端、大きく変わります。最初はペトロの自我が邪魔になっていましたが、イエスとの絆がその自我を超えました。
きっとペトロはこういうふうに思ったのでしょう。「今イエスが何をしているかわからないが、とにかくイエスから離れたくない。イエスに従おう」と。

 ペトロは素直になって、イエスの愛のしるしを受け入れるようになりました。イエスに足を洗ってもらうのを受け入れるのは、イエスの愛を受け入れることです。その時にはその愛を完全に理解できなかったかもしれませんが、後でわかりました。もしそのまま断っていたとしたら、その愛を受け入れることができなかったでしょう。


 わからないことはたくさんあります。いつかは理解できるかもしれません。しかし、理解することよりも、イエスから離れないことを大事にしたいのです。それはイエスを信じることだと思います。

 ペトロはイエスのもとに喜びを見出し、イエスと一緒にいたいから自分を捨てることができました。喜びに基づいたイエスへの信頼と希望が、生き方を変えるきっかけになります。そしてイエスとの絆が、イエスに従って歩む力を与えます。イエスとの絆は自分を超える絆です。

 主イエスよ、ペトロと同じように、理解できない時でも、あなたを信じ、すべてをゆだねるようになりたいのです。

1)黙想するための言葉 ー 香油を注ぐ女 ルカ7,36−50

36さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
37この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、 38後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
39イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
40そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
41イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
42二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
43シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
44そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
45あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
46あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
47だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
48そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
49同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
50イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

エマニュエルの黙想(その箇所を黙想して、わたしが思ったことだけです)
シモンは悪い人ではありませんが、世間に正しいと思われていることを守っているからと言って、自分が正しいと思い込んでいます。自分にはたりないものがないと思い、心の中に神様の慈しみを求める必要さを感じていません。シモンとその仲間たちは気づいてないが、神様の慈しみを必要としない心は、神様の息吹に心を閉じると同様です。だから女の人に対して厳しく扱うしかできませんでした。人の前で自分がいいと思う人は憐むことができません。包容する愛を示すことができません。だからイエスは「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と言いました。その一方、イエスの足に接吻する女の人は、周りの人に罪深いと言われていて、侮辱されていました。それで心の中でいつも叫んでいる状態でした。慈しみと愛情とを渇望していました。愛してくださるイエスについて聞いた途端、愛を求める心が動かされました。そして周りの人の悪口に気にせず、イエスに会いに行きました。イエスの愛に動かされて、彼女の中にも愛が解放されました。他の男の人に侮辱されていた彼女はイエスのそばに暖かい愛情を見出しました。その愛情が彼女の愛を生かし、ゆるしになりました。罪は愛しないことです。ゆるしは愛することです。

愛は開いた心で生きることだと感じます。シモンとファリサイ派の仲間たちは自分の正しさに縛られています。その正しさを通してすべてを評価します。裁きます。女の人を見る時に、彼女を見ていません。ただ裁きます。他人を受け入れる心を持っていないからです。愛できないからです。

彼女は自分の足りなさがよく知っていて、ゆるしを求めています。イエスは罪から、愛情のない人生から、救われたい彼女の渇望を受け入れます。それで彼女の愛情が溢れるほど解放されます。罪からゆるされました。自分の罪から、さらに周りの人の罪から解放されました。

この箇所の中でイエスは人からどう思われるかについて全く気にしていません。イエスは心の中にあるものを知っているから、その女の人の苦しみと希望しか見ていません。シモンたちと仲間外れされても。そこで他人を受け入れるイエスの愛の力が示されます。そういう時こそイエスを通して神様の慈しむ心がわかります。神様もイエスもわたしを裁きません。わたしを豊かにしたいだけです。周りを無視して、自分をヘリくだって、自分の足りなさをさえ認めれば。

主イエスよ、人の前に偉そうに見せたいわたしを憐んでください。その女の人と同じように、どう思われることを気にせず、あなたを受け入れることができるように。

赤波江豊神父
香里教会へご異動になりました。
2023年イースター後は住吉教会のHPからご覧いただけます.

黙想のヒント 

復活の主日A年 2023年4月9日

「週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」(ヨハネ20:1)

 イエスは、十字架上で亡くなった後、墓に葬られ3日目に復活しました。このことは、信仰宣言の核心ですが、私にはなぜイエスは3日間も墓の中に留まる必要があったのか、なぜすぐにでも、例えば翌日にでも復活しなかったのかという素朴な疑問が以前からありました。この3日間というのは私たちにとって何を意味するのでしょうか。イエスの死と復活のプロセスは日々私たちの中に流れており、困難を経験してこそ、立ち上がることの意味が理解できるのですが、それまで待たなければならないことが多い。この待つことが私たちにとって大きな試練、精神的な墓場であり、それが3日間の意味なのです。
 かつて岡潔という世界的な数学者がいました。私は、この精神的な墓場の意味を彼の言葉から学びました。彼は、かつてある数学の大きな問題にとりかかった時、最初の3か月は全く解決の糸口が見えず、無力感と放心状態に陥ったそうです。その年の夏、友人のすすめで北海道に休暇に行き、そこでも研究を続けたのですが、やはり無力感と放心状態で寝てばかりの生活が続きました。ところが9月になったある日の朝食後、ソファーに座って何気なしに考えているうちに、考えが一つの方向に突然まとまり、数学史に残るような大発見をしたのでした。彼はこう述べています。
 「全く分からないという状態が続いたこと、その後眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだった。種子を土に蒔けば、生えるまでに時間が必要であるように、また結晶作用にも一定の条件で放置することが必要であるように、成熟の準備ができてから、かなりの間おかなければ立派に成熟することはできないのだと思う。だから、もうやり方がなくなったからと言って、やめてはいけないのであって、意識の下層に隠れたものが、徐々に成熟して、表層にあらわれるのを待たなければならない。そして表層に出てきた時は、もう自然に問題は解決している。」
 インドの宗教家で哲学者のクリシュナムルティは、「ものごとは努力によって解決しない」という不思議なことを言いました。しかし、「ものごとは努力によって解決される」というメンタリティーの中で生きてきた私たちには、この言葉の意味が分からず、ただ結果の方ばかりに目が行きすぎて、ただ待つことに耐えられない、それは場合によったら一種の罪悪感ですらあるのです。しかし、何をしてもうまくいかず、一種の無力感や放心状態にあるときというのは、実は意識の深層下で何かが熟成、発酵しているときなのですね。何ごとも努力は必要です。しかし懸命に努力した後の熟成期間も必要なのです。解決策というものは根本的にやってくるもの、与えられるものだからです。聖書はこれを聖霊の働きと呼んでいます。
 イエスの死後、弟子たちも自分たちが何をしていいのか分からず、無力感と放心状態にあったことでしょう。実は、弟子たちもまた精神的な墓場にいたのでした。弟子たちは復活したイエスと出会うために、実は何の努力もしませんでした。反対に、復活したイエスの方が会いに来てくれて、弟子たちの信仰もまた復活したのです。イエスは死後墓に3日間留まりました。私たちもまた努力が実らず、墓に留まらなけなければならない3日間というものがあります。それは努力した後、何の実りも見えない試練の期間ですが、実はそこで既に何かが熟成、発酵しているときなのですね。大事なのは、頑張ったけど何の実りもなかったからといって、すぐ投げやりになってはいけないのであって、そういうときにこそ大きなチャンスが目の前に迫っているのです。

黙想のヒント 

受難の主日A年 2023年4月2日

「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27:54)

 マタイ福音書は、他の福音書でも同様ですが、イエスの宣教活動を淡々と述べた後、受難物語になると刻一刻と苦しみが迫ってくるように、まるで舞台劇の台本のように詳細に述べています。通常、福音書は司祭が代表して朗読しますが、今日全世界の教会は、この受難物語を司祭は信徒全員と分担して朗読します。このように全員で朗読することによって、イエスを十字架につけたのは当時のユダヤ人だけではなく、今も私たちは罪によって、イエスの手に釘を打ち続けていることを実感するためなのです。
 完全な敗北と思われたイエスの受難と死の最後に、百人隊長らは「本当に、この人は神の子だった」と言いますが、この一言はマタイ福音のクライマックスであり、この一言を言わせるために長い受難物語があるのです。イエスの真の強さである復活は、この完全な敗北と思われた弱さの中から生まれました。
 私たちも同様で、私たちの強さは、自分の弱さを受け入れ認めるところから育つのです。普通私たちは、強くなろうと思えば思うほど、自分の弱さが気になり、それを隠そうとして却ってよくない結果を残してしまいます。そうではなく、自分の弱さを受け入れ認めることによって、強くあらねばならないという強迫観念は消えるのです。そうでないと、弱さを隠しながら強そうに、かつ怯えながら振る舞い、やがていつか倒れてしまうことになります。強い人になるためには、強い人のまねをするのではなく、自分の弱さを受け入れ認めることによって、自分が弱いと思っていたところが、実は自分の真の強さであることに気付くのです。
 イエスはその生涯の全てを、受難と死において完全燃焼しました。しかし、そこからこそ復活によって新しい力が生まれました。力というものは、そして愛というものも、完全に出し尽くさないと増えないのです。出し惜しみしては減る一方なのです。かつて神戸製鋼ラグビー部に、平尾誠二さんという監督がいましたが、彼は伏見工業高校時代、当時の山口先生からよくこう言われたそうです。「人間の力は全部出し切らないと増えない。だから余すところなく使わなければならないのだ。今10ある力を全部出し切ったら、次には10,001くらいになる。次の試合でその10,001を全部使い切ったら、次には10,002くらいに増える。出し切らずため込んだら、逆に減ってしまうのだ。」そして、最後の締めくくりはいつも、「それがお金と違うところだ」と。
 「人間の力は全部出し切らないと増えない」とは体力のことだけではなく、心にこそ当てはまるのです。私たちも神からいただいた大切な心、日々人のために使い切りましょう。決してなくなることはありません。却って私たちは、誰か人のために生きようと決意したとき、自分の限界を乗り超えることができるのです。

黙想のヒント 

四旬節第五主日A年 2023年3月26日

「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)

人は死んだらどうなるのか。人の魂はどのように残るのか。これは古代から現代に至るまで、万人が共通していだいている関心事です。古代の人々は自分たちが生まれ、死んでいく世界、自分たちを取り巻く自然に対して畏敬の念をいだき、そこに創造主である神の存在を直観していました。そして同時に、疑うことのできない魂の存在を知り、畏れ敬うようになりました。
 自然科学が人間の精神性に与えた影響は確かに絶大です。しかし、やがて人間は科学で解明できないことは何もない。科学で解明できないことがあれば、それは即ち存在しないことであるという科学信仰者も現れるようになりました。科学を少し勉強しただけなら人は無神論者になるでしょう。しかし科学を極め、その分野で大きな業績を残した人の中には、神の存在は否定できないという結論に至り、深い神への信仰者になる人も多いのです。
 しかし中にはトーマス・エジソンのように、この世のあらゆる発明研究を超えて、魂の研究にまで没頭した人もいます。彼は独特な死生観を持ち、「肉体は魂の宿り木であり、肉体が滅びた後魂は次の宿り木に移る」と信じ、それを証明するために実験さえ繰り返していたと言われ、死の概念すら超えて更なる野心を燃やし続けていたようです。確かに彼の情熱は、超自然的な現象に対する素朴な好奇心から出発したとは思いますが、実際は、彼は魂の研究を通して何かの真理に触れたかったのではないでしょうか。
 しかし科学で立証され五感で感じられる「事実」と、人間の第六感(心)でとらえられる「真理」とは異なります。そもそも魂や超自然的な現象は科学的研究の対象外であり、科学で立証される必要はないのです。要は、超自然的な現象それ自体に意味があるのではなく、そのような現象を通して受ける啓示、あるいは導き出される理念と真理こそが本質なのです。私たちの中には、あらゆることを科学で解明して五感で感じ取りたいという自分と、目に見えない神の存在や、亡くなった家族などの魂がいつも共にいて自分を見守ってくれていることを第六感で感じる自分が、矛盾することなく共存しているようです。そう感じながら、確かに人間にはあらゆることを知る力があるが、魂の問題に関して今は分からない、心で感じることしかできないと謙虚に神に向き合っていく姿勢が大事かと思われます。
 ラザロは一度死に、イエスによって再び命を得ました。しかしそのラザロもまたいつか病気か高齢で死んだことでしょう。ですからラザロが生き返ったことは、彼は単にこの世の寿命を少し延ばしてもらったにすぎないのです。しかしその出来事の中に、五感で感じることのできない、心でしか感じられない大事なしるしがあるのです。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とイエスは言いました。人は死によって人生の旅が終わるのではありません。人生の旅というものは、肉体の死後も心でしか感じられない姿で永遠に続くのではないでしょうか。            

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四旬節第四主日A年 2023年3月19日

「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)

人間には視覚、聴覚、触覚、臭覚、味覚の五感があります。この五感で自分を表現し、人とコミュニケーションをとります。しかし人間には五感を超えるもので、理屈では説明しがたい、鋭くものごとの本質をつかむ心の感覚があります。それを聖書は「心で見る」と表現しています。この心で見ることを一般には第六感とか、インスピレーションと言います。しかし、この第六感と言われる心の目は決して超能力ではなく、誰にでも与えられており、実はこの心の目で一度に見る、聴く、感じることさえできるのです。
 私たちは五感を頼りに生きていますが、実際目で見て、耳で聴いたものが必ずしも真実なものではないということも時々経験します。このことはフェイクニュースという言葉で代表されますが、情報そのものは必ずどこかで操作されたものなのです。ですから、ものごとの背後には、何か特別なものがあるのではないか、何か隠されているのではないかと時々思ったり、疑問を感じたりすることも必要なのです。第六感に関しては、自身や家族に生命の危険などを感じる「虫の知らせ」などがこれに当たります。動物でも第六感があるのでしょうか、例えば渡り鳥は毎年大変な距離を地図なしで移動します。研究者によると、渡り鳥には地球の磁気を感じ取る能力があり、これをコンパスのように使って方位を正しく把握するそうですが、やはり人の目には不思議です。また身近な四季の移り変わりなど、理屈では分かっていても不思議です。また人と接しているとき、相手の言葉や表情を通して、その背後にある大切なものを直観することもよくあります。このように目に見えない大切なもの、例えば自然を支配している偉大な力や、人の魂や心を見るのがこの第六感と言われる心の感覚なのです。
 この世界で最も素晴らしいもの、美しいものは目で見たり、手で触れたりすることはできません。それは心で感じなければならないのです。そして心で感じた大切なものは、決して移ろい行くものではなく、それこそが永遠なものなのです。この心の感覚は決して超能力のようなものではなく、本来誰にでも与えられていますが、人間として成熟して生きる上で、お互い思いやりをもって生きるために、日々トレーニングしなければならず、そうでないとこの素晴らしい感覚も鈍ってしまい、人とのコミュニケーションも難しくなり、目が見えるのに本当のものが見えない状態になってしまいます。
 そのトレーニングとは、心のアンテナを張りめぐらしながら、イエスのように人の喜び悲しみなどを自分のことのように感じる繊細さ、常に人に「与える」ことに主眼を置いて行動し、何事も感謝の心を忘れず、先入観でものごとを判断しない柔軟な発想、できないことより、できることに着目する前向きな思考が必要なのです。そして、このトレーニングを努力ではなく、次第に習慣化することにより、やがて「全てのものは光にさらされて、明らかにされます。」(エフェソ5:13)            

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四旬節第三主日A年 2023年3月12日

「私が与える水を飲む者は決して渇かない」(ヨハネ4:14)

「私が与える水」とは何でしょうか。水は人間の生存に必要不可欠です。同じように、人間が精神的に充実して生きるために必要不可欠な水があります。そのヒントは第二朗読ローマの教会への手紙の「希望は私たちを欺くことがありません。」(ローマ5:5)という言葉に見出すことができます。私たちが生きるに必要とする精神的な水、それは希望です。それでは希望とは何でしょうか。それは大切な何かを行動によって実現しようとする思いです。確かに幸せは遠い世界ではなく、私たちの足もとにあります。でもそれで満足しきってしまうのではなく、頭を上げて周りを見渡したとき、自分にはまだ欠けている何かがある、或いはもっと何かできることがあるのではないかと気づきます。その大切な何かを行動によって実現しようとする思い、これが希望です。ですから希望はただ何かを待つだけではなく、絶えず私たちの人生に行動と変化を求めているのです。
 しかし希望と言っても、それが思い通りに行かないのが普通です。例えば職業に関して、希望した仕事に就くことができれば、それは確かにいいことです。しかし希望した仕事に就くことと、今その仕事に生きがいをもっているかは別のようです。例えば、生きがいをもって今の仕事に就いている人というのは、子どもの頃の希望を実現した人より、むしろ子どもの頃の希望が様々な理由で実現できなかったり、あるいは希望通りの仕事に就いたものの、当初自分が思っていた道ではなかったりして、何度かその希望を軌道修正しながら今の職業に就いている人の方が多いと聞いたことがあります。即ち、挫折や失敗などを経験し、乗り越えてきたという思いをもつ人ほど、現在の仕事に希望をもって取り組んでいるようです。最初の希望がかなわなくても、それを軌道修正しながら生きることによって、自分にふさわしい大切なものと生きがいに出会えるのではないでしょうか。この軌道修正のことを、一般に試行錯誤と言います。
 人生いろいろなことがあったし、失敗も繰り返してきた。でも今振り返れば、全ては生きるために役立った。人生無駄なことは何一つない。このような確信を持つ人は何歳になっても若々しく、希望をもっていつも何かに取り組んでいるようです。このような人は、サマリアの女に「水を飲ませてください」(ヨハネ4:7)と言われたイエスの渇きに後押しされているかのようです。反対に、無駄と失敗を恐れて生きる人は、何かに挑戦する気持ちも弱く、希望も薄らぎ行動範囲も狭くなります。
 また信仰や宗教など、何かしっかりと信じるものがある人ほど、将来に希望をもって生きている傾向が強いと言われます。信仰や宗教は死を乗り越える何かがあることを教えます。ですから希望することは、何かをしっかり信じていることに裏打ちされているのです。この点、日本の若い人たちは欧米などの若い人に比べ、将来に希望をもつ割合が少ないと言われていますが、その理由はここにあるような気がします。日本人の多くは魂の存在を信じていますが、宗教を問われたら、家の宗教を答えても、自分が何を信じているか明確に答えない人が多いのです。しかし、本当にしっかりと希望をもって生きるためには、自分の死生観を託することのできる宗教を見つけることが必要です。そうすれば、「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(ヨハネ4:42)という福音の言葉を通して本当の希望に出会えるでしょう。

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四旬節第2主日A年 2023年3月5日

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイ17:2)

 旧約新約聖書を通して登場する神の使いは、どういう訳か皆白い服を着ています。これは人間の想像なのでしょうか、あるいは何か文学的な表現なのでしょうか。今まで何人かの信徒から、病気や事故で意識不明になったときの話を聞いたことがあります。その内容は、彼らはまず夢の中で道を歩いていたら間もなく門が見えた、その門の傍に白い服を着た人が立っていて、その人から「あなたは、まだここに来なくていい」と言われて目が覚め意識を回復したという話です。しかし、このような話は私だけではなく、実は世界で共通して語られているのです。しかも全て共通点があります。それは道を歩いていること、門が見えること、そして必ず白い服を着ている人がいることです。ですから、聖書に登場する神の使いが皆白い服を着ているのは、決して人間の想像でも、文学的な表現でもなく、数千年前から人間の歴史とともにあった人間の「原体験」なのです。ですから夢や幻の中で出会う神の使いが、なぜ白い服を着ているのか、それは神秘なのです。神秘ですが、数千年の昔から人間は見てきたのです。
 同じように人間の存在も神秘なのです。今暦の上では春でも、まだ寒い日が続き私たちは分厚いコートを着ています。しかし、暖かくなって復活祭の頃にはそれまで着ていた分厚いコートを脱ぎ捨てます。死とはこのようなものです。また人間はコンピューターを内蔵した肉体という着ぐるみを身にまとっているような存在にも例えることができます。コンピューターには電源が必要で、その電源が切れたときが死です。死によって肉体という着ぐるみは朽ち果てますが、命の電源が切れても、生涯の活動のメモリーは魂に残るのです。これは、あくまでも一つの譬えに過ぎないのですが、究極的に人間の魂はある種の生命エネルギー体であって、最終的にその本質は理性の力では表現できないのです。
 しかし人間には直観というもう一つの能力があります。信仰とは一種の直観なのです。私たちの誕生、友人、就職、結婚、死など人生の出来事や出会いは、考えてみれば大変な確率の上に生じています。最初は偶然だったと思った出会いも、あれは出会うべくして出会った、必然だったと深く感じることがあります。そうして、人生は学校であって、私たちは人生で何かを学び、深めるためにこの人生という学校に送られたと考えれば、人生におけるあらゆる出来事や出会いは決して偶然ではなく、神が用意してくれたもの、導きであったと考えることができます。そうであれば、私たちは家庭でも、教会でも、皆導かれて意味があって共にいるべくしているのであり、この世の着ぐるみを脱ぎ捨てた後も、私たちは共にいるべくしているのだ。この生の連続性に対する確信が復活信仰なのです。
 逆説的な言い方をすれば、死は私たちに与えられた最大の救いと言えます。死があるからこそ、私たちは人生と名付けられた、このつかの間の歳月を懸命に生きることができるし、また懸命に生きなければならないのです。死を自覚して生きることと、死を恐れることは全く違います。人生の締めくくりであり、完成である死に対して自覚的に生きることは、一人一人に与えられた人生をよりよく生きることにつながるからです。

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四旬節第一主日A年 2023年2月26日

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)

 神によって創造された人間は、楽園で何不自由なく暮らしていましたが、神との約束を破ることによって楽園から追放され、神は「彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。」(創世記3:23)即ち、人間は罪の結果楽園を追い出され「顔に汗を流してパンを得る」(同3:19)ために働かざるを得なかったことになりました。この聖書の箇所を根拠にしているのでしょうか、欧米人の中には労働は罰であるという考えをもつ人がいて、日本人のように労働から人生を学ぶという考え方は、何か嘘っぽく聞こえるという話を聞いたことがあります。しかし楽園追放の話は、人間はアダムの罪に始まり生涯罪を身にまとうことの表現であり、労働が罰であることを意味しません。
 仮にアダムとエバが罪を犯さず楽園にとどまり、神から言われたとおりにしていれば、いつまでも幸せであったかも知れません。しかしそれではその状態を当たり前のこととしてとらえ、何が真の幸福であったか理解することもなかったことでしょう。いつまでも楽な状態にいることを、少なくとも私は幸せとは感じません。幸せは人との関わりの中で、人の幸せが自分の幸せであると感じる生き方が、イエスが望む幸せであると私は思います。しかしそのためには多少の犠牲を払わなければならないことも事実です。何かを得ようと思うなら、何かを犠牲しなければなりませんし、反対に何かを失ったら、必ずそれに見合うものが与えられます。これが神の摂理です。神は罪を犯したアダムとエバを楽園から追放するとき、裸のままではなく「アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(同3:21)からです。
 日本人は、主体と客体、人間と自然を厳然と峻別する欧米の自然観とは異なり、人間は自然と一体となって関連性を保ち、自然は支配する対象ではなく、むしろ自然の原理に従って自然と共生することを願ってきました。従って労働も自然との共生のサイクルで考え、そこに価値を置いてきました。労働は神聖なものですが、それを理解するためには、しばしば人間は大きな決断と犠牲を払わなければならない。しかも大きな決断は自分でしなければなりません。しかし、決断は人間の成長を促進する大きな原動力となるものです。人間は大きな決断を人生の中に持ち込まない限り、成長することはできません。人間は何か大きな決断をしたとき、目の前に様々な困難が待ち構えていることを知るでしょう。しかし誘惑や試練などに裏書された試行錯誤は、私たちが新しい生き方を身につけるための必須のプロセスで、人間の生き方の基本ルールでもあるのです。
 アコヤ貝は中に入った異物(核)を、あの美しい真珠に変える力があります。私たちも人生を飾る美しい真珠を生み出すためには、試行錯誤という異物が必要なのです。イエス自身荒れ野で誘惑と試練の試行錯誤を経て、大きな決断の後宣教活動に入りました。「人間というものは生涯にせめて一度『鬼の口』に飛び込む思いをしなければならない。そういう機会をもたずに死ぬのは恥ずかしいことだ。」と言った人もいます。まさにイエスは荒れ野で『鬼の口』に飛び込み、そこからイエスの真価が問われる生涯が始まりました。イエスの生涯は一種の賭けでした。そして人生の最後の土壇場で、もう誰の目にも勝ち目はないと思われた最後の瞬間、イエスが放ったシュートは敵(死)の間をくぐり抜け、ついに復活のゴールに入ったのでした。つまりイエスは苦しみの異物を復活の真珠に変え、勝利をもたらしたのでした。今でも天国ではイエスの勝利の余韻に浸っています。昨年のサッカーワールドカップのドーハの歓喜のように!

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年間第7主日A年 2023年2月19日

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)

 皆さんは日常生活の中で、「愛する」という言葉をどれくらい使いますか。でも実際はあまり使わないのではないでしょうか。非常に大事な言葉ですが、実際はあまり使わない非日常的な言葉ではないでしょうか。愛するなんて照れくさくて言えないという人は多いでしょう。口に出して言えば何かわざとらしい。でも本当は心のどこかでこの言葉に憧れている。それが愛ではないでしょうか。
 インドで救護所に運び込まれた男性をマザーテレサが世話をしていた時の話です。彼女は、男性の膿んだ傷口にわいているウジを見つけては、すぐに指でつまんで取っていくのです。その様子を見て男性は、「他のシスターや看護婦たちは、傷口のウジを見つけても医師を呼んでくるだけで、その医師もピンセットでつまみ上げるだけなのに、どうしてマザーは自分の指で取ってくれるのですか」と尋ねると、彼女は「どうぞ、他の人たちをゆるしてあげてくださいね。あの人たちは、あなたを愛そうとしているだけで、まだ本当に愛せていないのです。でも、今に愛せるようになりますから、それまで待っていただけませんか。」と彼女は答えました。即ち、本当の愛には自意識がないのです。頭の中で愛そうと思っている間は、まだ本当の愛には程遠いのかも知れません。愛そうとする意識は全くなく、ただ目の前で人が衰弱し、その傷口にわくウジが見えたとき、とっさに手が出て指でつまみだす行為に中に、イエスが私たちに望む姿があるのですね。私はこの愛という言葉を、よく絆という言葉に置き換えます。というのは、私たちは同じ魂を共有しているからこそ、お互いに人間としての絆を感じるのです。だから愛するという意識以前に、同じ人間としての絆を感じるからこそ、目の前に傷ついた人がいれば動かざるを得ないのです。
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)神の愛には自意識がない。私たちもこの神に近づき、「あの人悪人、この人善人」と区別する目を捨てなければならない。それは愛するという意識さえも超えた、日本的に言えば「無私無我の心」という言葉で表現できるのではないでしょうか。
 マザーテレサとは全く肌違いの人生を歩んだ日本人の言葉も参考になります。元巨人軍監督の川上哲治は、努力ということについてこう言いました。「王とか長嶋は確かに素質もあったし、天才といってもいい。しかし、天才といっても努力しなければただの人だ。天才とは『努力する能力のある人』だと思う。人は皆努力していると思うし、人一倍努力しているとも思っている。しかし私に言わせればそれは嘘だ。努力に際限などないし、努力していると思っている間は、本当の努力はしていない。努力しているという意識が消え、ただ一心になって初めて努力していると言えるのだ。」
 天国を極めたマザーテレサの「愛」、野球を極めた川上哲治の「努力」、この二人は別の方向から同じことを言っているように思えます。

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年間第6主日A年 2023年2月12日

 「人間の前には、生と死が置かれている。望んで選んだ道が、彼に与えられる。」(シラ書15章17節)

 実に単純な、そして真実な教えです。望んで選んだ方が自分のものになるのです。生と死というと、天国と地獄を連想される方もいるかも知れません。最終的にはそうかも知れませんが、要するに自分を生かす道と自分を滅ぼす道、それは一人一人の選択にかかっているということです。単純に言えば、喜び感謝で生きても、不平不満で生きても同じ一日。同じ一日を生きるならどちらを選ぶかということです。そして選んだ方が自分のものになるのです。
 イエスはこのことを、空の鳥のように一日一日を神に信頼して生きるように教えました(マタイ6:25~34)が、実は他の宗教でも同じように教えているのです。例えば、禅には「日々是(これ)好日」という教えがあります。今日の一日は独立した一日であって、将来に連続しているのではない。毎日毎日が独立して最良の日だというのですね。今日一日の人生を楽しむのであって、将来に何か報いを期待して生きるのではない。もし将来に何かを期待して懸命に生きているのなら、その先が来ないと納得できない。しかし今日一日素晴らしい日を送ったら、その日の報いは今日いただく。だから将来に貸しは残さないわけです。仮に明日が来なかったとしても、今日が最良の日ならそれで十分で思い残すことはない。だから死というものは一日一日の中にある。
 そのため禅にはまた「知足」(足るを知る)という言葉もあります。これは老子の「足るを知る者は富む」という言葉から来ていますが、必要なものは今既に与えられているという意味です。だから幸せとは将来に何かを願うことではない。将来に幸せを願えば、今が幸せでないことになり、却って毎日ストレスを生む結果となります。幸せとは今を肯定して味わって生きることであり、自分がどのような境遇に生まれようとも、何か事故に遭遇しようとも、それは何か意味があってのことだから過不足はないと捉えることもできます。というのは、人生は学校であって、全てのことは自分が何かを学び、深めるために与えられたからです。
 大事なことは、今日一日の出来事に一喜一憂せず、それをじっくり味わう心の余裕です。そうなるとネガティブ感情も生まれにくく、そのような心の余裕をもつ人は他者の幸せを意識した行動に向かう傾向があり、また人間関係もより豊かになり、反対に意図的に幸せになろうとするとストレスがたまり、幸福感の重要性を感じ、幸福感を得たい意識が高まれば高まるほど、却って孤独感を感じやすいという調査報告もあります。
 精神医学者で哲学者のヴィクトール・フランクルは「幸せは決して目標ではないし、目標であってはならない。また目標であることもできない。それは結果にすぎないのである。」と言いました。幸福とは求めて得られるものではなく、結果として与えられるにすぎないと言うのです。生き方や習慣は意志によって獲得することはできますが、幸福はそうはいかない。それは、あくまでも心の状態を言うのであって、それも一時的な快楽状態ではなく、もっと持続した心の平和がその本質なのです。そのためには、一見して単純に見える毎日の生活をじっくり味わう心の余裕が必要です。マイナスな出来事も、一日をより良く味わうためのスパイスととらえましょう。食事を美味しく味わうためには多少のスパイスも必要です。同じように「ストレスは人パイスである。」(ハンス・セリエ)このように、一日一日の出来事をじっくり味わう心の余裕があれば、幸せは後からついてきます。

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年間第5主日A年 2023年2月5日

「あなたがたは地の塩…世の光である。」(マタイ5:13、14)

 人間の生活に塩は欠かせないものです。塩は食物に味をつけるだけではなく、食物の腐敗を防ぎ発酵を促します。その私たちにイエスは地の塩、世の光となることを求められます。即ち、神と人に奉仕し、社会を明るく照らす使命を受けているのですが、その使命に生きるためには、自分の心に塩を持って自分をコントロールし、心をいつも光で照らしておかなければならないのです。
 人間には欲望というものがあります。欲望は人間の本能です。多くの富が欲しい、高い地位と名声を手に入れたい、その他様々な欲望を持っています。確かに、そのような欲望がエネルギーとなって科学技術の進歩、高度な文明を築いてきたことは否めませんが、同時に人間の欲望によって戦争が繰り返され、自然環境が破壊されてきたことも事実です。ドイツの哲学者ショーペンハウエルは、「富は海水に似ている。飲めば飲むほど渇く。名声についても同じことが当てはまる。」と言っています。
 しかし、神は私たち人間に真逆な本能を与えてくれました。それは同情、お互いへの思いやり、利他の心です。心ある人であれば誰しも人のために何かしたい、親切にしたい、優しく接したいという本能をもっており、この本能が欲望と共に人間の社会を発展、進化させてきた大きなエネルギーなのです。このことは、日本で地震を始め、多くの災害が起こった時、無数の人がボランティアとして奉仕していることからも理解できます。それはお互いの魂に絆を感じていることの証拠で、人の悲しみは自分の悲しみ、人の喜びは自分の喜びであり、これこそ神が人間に与えてくれた本能なのです。
 宮澤賢治の「雨ニモマケズ」という詩があります。教科書にも載るくらいよく知られた詩ですが、この詩は自我を抑え、人のために何かしたいという日本人の心情をよく表しており、今なお多くの人の魂を揺さぶる詩でもあります。皆さんもよくご存じかと思いますが、今あえて現代文で引用します。

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち
欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分の勘定に入れずに
良く見聞きして分かり そして忘れず
野原の松の林の陰の 小さな萱葺の小屋にいて
東に病気の子どもがあれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人があれば 行ってこわがらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくの坊と呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものに 私はなりたい

 自分の心に塩をもって自我を抑え、心の光に照らされて人のために何かしたいという思いがこの詩によく表されています。宮澤賢治は日蓮宗の熱心な信徒でしたが、イエス・キリストがこの詩を詠んだとしても、私には何の違和感もありません。

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年間第4主日A年 2023年1月29日

「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)

人はなぜ正しく生きなければならないのでしょうか。なぜ、人を傷つけたり、嘘を言ってはならないのでしょうか。子どもの頃、このような素朴な疑問をいだかれた方もいることでしょう。正しく偽りなく生きなければならないことは、家庭や学校、教会で教えられたからでもありますが、それ以前に人が本能的に感じる直観であって、これを良心の尊厳と言います。このことは、昔から日本でも悪いことをした子供に親は、「お天道様が見ておられる」(神様がいつも見ているのだから、決して悪いことをしてはならない)という言葉を使って注意し、また「正直の頭(こうべ)に神宿る」ということわざもあって、神は誠実な心をもって正直に生きる者を守っており、必ずそのご加護があると信じてきました。
 人間には、なぜこの良心があるのか。その存在は科学的に証明されたものではありませんし、また全て科学的に立証されない限り真実ではない、存在しないということにはなりません。実際、科学的に立証されたものでなければ信じない、という科学信仰者でも、また人は死んだら何も残らないと公言する人でも、この良心という直観、即ち心の法に従って行動し、人が困っていたら気になりますし、自分がしてほしくないことは、人にもしてはいけないと思います。そして人が、複雑な人間関係の中で、この良心の声が聞き取りにくくなったり、心に余裕がなくなったりして、時々この良心の声に逆らって行動し、後で後悔するのは、この良心の尊厳が絶対的な法として人間の心を支配しているからであり、この中に人間は神の導きを見るのです。即ち、良心の声に逆らう者に後悔はつきものですが、後悔する自分の背後に、神のいつくしみを感じるようにすればいいのです。
 「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。」とイエスは言いました。しかしイエスは、決して私たちに完全無欠な清さを要求しているのではなく、弱さ、もろさを身に帯びながらも、「良心の声に従って、正しく生きることを願う人は、心の内に神を見る。」という意味にとらえたらいいと思うのです。そうして、可能な限りこの良心という道標に従って生きることが、私たちの人生を実り豊かで意味深いものにするのです。
 「人間は、心の奥底に法を見いだす。この法は、人間が自らに課したものではなく、人間が従わなければならないものである。この法の声は、常に善を愛して行い、悪を避けるように勧め、必要に応じて『これを行え、あれを避けよと』心の耳に告げる。つまり、人間は自分の心の中に神から刻まれた法をもっており、それに従うことが人間の尊厳であり、また人間はそれによって裁かれる。良心は人間のもっとも秘められた中心であり聖所であって、そこで人間は独り神とともにあり、神の声が人間の内奥で響く。」(第二バチカン公会議・現代世界憲章第16項)
 時々、自分の子どもに、あるいは他の誰かに、かつて様々な理由で十分愛することができなかったことを悔やむ人がいますが、その心の優しさが大事なのであり、いつまでもその後悔に留まるのではなく、その後悔を別のエネルギーに変えて、今度は同じ助けを必要とする他の人に、その愛を注ぎ続ける「心の広がり」をイエスは私たちに求めているのです。

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年間第3主日A年 2023年1月22日

「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)

1月18日から25日までキリスト教一致祈禱週間です。キリスト教は最初の1000年間は、諸所に個別的な分裂があったとはいえ、一致していました。しかし11世紀に入ると、主に政治上、文化上の対立から、ローマを中心とする西方教会と、コンスタンティノープル(今のイスタンブール)を中心とする東方教会に別れ、さらに16世紀には宗教改革によってプロテスタント教会が生まれましたが、一度分裂した教会は、更に分裂を繰り返して多数のプロテスタント教会が出来上がってしまいました。従って第2の1000年期は分裂の時代でした。聖ヨハネ・パウロ二世は21世紀から始まった第3の1000年期を、再び一致の時代にしなければならないと言われました。今になって、過去の分裂の責任がどちらにあったかを議論することは意味がありません。確かに双方に責任があったに違いありません。しかし大事なことは、過去の過ちをそれぞれの教会や教団の罪にしないことです。現代の世界状況においては、キリスト者たちを分離させる点より、彼らを結ぶ絆を大切にして、イエスが本来何を目指していたのか、原初に立ち返らなければなりません。
 この点、第二朗読のパウロの言葉は、このキリスト教一致祈祷週間に対する大きなメッセージです。「兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。みな、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(1コリント10:10)インドの哲学者で元大統領サーヴェパリ・ラーダクリシュナンは、「私たちに必要なのは、イエス・キリストのごとく神を生きている人間であって、キリストの教派ではない。」と警告し、またマザーテレサも「キリストに近づこうとしている人にとって、キリスト信者たちが最悪の障害物になっていることがあります。言葉でだけきれいなことを言って、自分は実行していないことがよくあるからです。人々がキリスト教を信じようとしない理由がそこにあります。」と厳しい言葉を残しています。
 キリスト教を始めとして他の宗教でも、それが弟子たちによって記録され、組織化されるようになって、創始者の本来の意図からずれていく傾向があります。そうして組織化された宗教は、やがて他の宗教や教団に対して、非寛容かつ排他的な態度をとるようになりがちで、ときに血で血を洗うような抗争を繰り広げてきたことは歴史が証明しています。イエスは、「悔い改めよ。天の国(神の国)は近づいた」と宣言しましたが、現実に到来したものは本当にイエスが意図していたものか、反省する必要があります。
 ヴェーダという古代インドの宗教文書の中に「唯一の真理は聖者たちによって多くの名で語られる」という格言があります。真理を特定の宗教や教団の独占物にするのではなく、他の宗教、教団にも真理の萌芽はあり、またそれぞれ過ちに陥る危険性は、常に潜んでいることを忘れてはなりません。

                        

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年間第2主日 2023年1月15日

「わたしは、”霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1:32)

 ヨハネの目に、「”霊”が鳩のように天から降る」とはどのように映ったのでしょうか。これは単なる文学的表現なのでしょうか。今ほど科学技術が進歩していなかった当時、人々の霊感は今の私たちよりはるかに鋭かったという人もいます。昔から世界各地で聖母出現の話は多くあります。その真偽は別として、3歳くらいまでの子どもには霊的能力というか、「見えない世界」が見えるとよく耳にします。実際、ある家族で小さな子どもが、亡くなったはずのおじいちゃんやおばあちゃんが見えたとか、いないはずの動物が見えたとかという話は時々聞きます。大抵、家族の人は笑いながら話すのですが、私も何度もそのような話をうかがいながら、実際心の純粋な小さな子どもには、「見えない世界」が見えるのだろうと思います。ですから私は、世界各地で聞く小さな子どもたちや、迫害の極限状態にある人への聖母出現の話しも無下に否定はしません。もしかしたら私たちにも、幼少の頃聖母マリアや天使が現れてくれたのかも知れませんね。ただ覚えていないだけです。残念ながら、人は成長するにつれそのような霊的能力は、外的な環境から多くの知識や情報によって上書きされますので、本来感じるはずの至福が感じにくくなるのです。反対に、年配の方の中には、若い時には気が付かなかった、「見えない世界」の存在を感じ始める方もいます。
 よくパワースポットという言葉を耳にします。何かの理由で、強いエネルギーを感じる場所を、同じくエネルギーの強い人が探し当てることを言います。しかし誰もが同じように感じる訳ではありません。感じる人だけが、感じるのです。ある人は、会社で仕事を終えてバス停まで歩く10分の道が、一日の内一番祈れる時だと話していました。その人にとって、その10分の道がパワースポットなのです。私にもパワースポットがあります。それは大きな川の土手です。兵庫県なら、瀬戸内海に注ぐ加古川や武庫川、また日本海に注ぐ円山川などです。不思議と川の土手を歩き出すと心は神に向かい、感謝の心が溢れるのです。歩くこと則祈りとなるのです。川は私に霊的指導をしてくれる、第二の聖堂なのです。特に川上に向かって歩くのが好きです。川は山から流れてきますので、彼方に大きな山脈(やまなみ)が見えます。この山脈が祭壇で、降り注ぐ太陽は祭壇を照らすローソク。風にそよぐ木々は指揮者で、鳥のさえずりは聖歌隊。川面の水鳥は奉納係で、河川敷でサッカーや野球に興じる子どもたちは侍者。頬をくすぐるそよ風は香のかおり。そうやって、青草の重厚なカーペットの上を山脈に向かって歩くと、山脈の向こうでキリストが待っている。このように感じながら森羅万象に頭を垂れれば、悩んでいる自分が何だかずいぶん小さく見えます。
 皆さんも、どこか自分にとって清々しく感じられる、第二の聖堂を探してください。そこで感謝を伝えるだけ、それだけで良いのです。感性を研ぎ澄ましながら、この世界で自分が生かされていること、「見えない世界」を感じ取る。そうやって素直な心でありのままを見ましょう。                        

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主の公現 2023年1月8日

「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」((マタイ2:11)

 1929年10月24日木曜日(後に暗黒の木曜日と呼ばれます)、アメリカのウォール街の株大暴落をきっかけに、世界大恐慌が始まりました。それまで誰もが株を持ち、株は必ず上がるとの幻想は一瞬のうちに崩壊し、株は紙くず同然となったのでした。1930年代にはニューヨークでも餓死者が出たくらいで、その寒い冬実際にあった話です。
 あるおばあさんがパン屋からパンを一斤盗みました。大恐慌の時代、そのパン屋は度々パンが盗まれる被害にあっていたのでしょう。パン屋の主人は、おばあさんを裁判に訴えるというのです。おばあさんには病弱な娘が一人いて、その夫は逃げてしまい、今どこにいるのか分からない。孫は毎日おなかをすかせている。おばあさんは懇願して赦しを願うのですが、主人は頑として聞きいれず、こういう人間を野放しにするのだから、いつまでたっても社会はよくならない、見せしめに裁判に訴えてやると言うのです。
 ヴィクトール・ユゴーの小説「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・バルジャンは、一斤のパンを盗んで19年間投獄されました。さて、この一斤のパンを盗んだ女性ジャン・バルジャンにどんな判決が下されるのかと噂になり、裁判所には大勢の傍聴人がやってきました。おばあさんは裁判官に、自分のつらい身の上を切々と語りました。裁判官はその話を聞いて、悩んだ挙句こう判決を下しました。
 「残念ですが、おばあさんは法に従ってもらわなければなりません。例外を設けるわけにはいきません。おばあさんは罰金として10ドルを払ってください。それができなければ10日間の禁固刑になります。」おばあさんは思わず床に泣き崩れました。ところが裁判官は次のように続けました。「私は裁判官として、皆さんにも罰金を命じるものであります。」皆びっくりして、「自分たちは何も悪いことはしていないぞ」と言わんばかりに顔を挙げました。裁判官は続けて、「というのは、このおばあさんが娘と孫のためにパンを盗まざるを得なかった、この街に住んでいるという罪によって一人に50セントの罰金を命じます。」と言って、裁判官自身は背広のポケットから10ドル紙幣を取り出して帽子に入れ、裁判所の若い職員にこの帽子を皆に回すように命じました。やがておばあさんはその日57ドル50セントを手にして、感謝の内に裁判所を後にしたのでした。
 この裁判官はおばあさんに対して、刑を免除はしませんでした。確かにパンを盗むのは良くない。そこで法に従って判決を下しました。おばあさんは刑に従って罰金を払いましたが、実は、その罰金10ドルは、裁判官自身が自分の罰金として出したお金です。そして、「このおばあさんがパンを盗まざるを得なかった、この街の住人であることの罪」と言う法律は、裁判官が勝手に作った法律で、要するに、おばあさんがパンを盗まざるを得なかったのは、みんなの責任だと言う、アメリカ人らしい機知とユーモアに富んだ判断でした。日本の官僚にも、もう少しこのような機知とユーモアが必要だと思います。ところで、あのジャン・バルジャンは、善良なミリエル司教との出会いによって救われました。この裁判官にはあのミリエル司教の姿を彷彿とさせるものがありますね。
 さて、裁判官が法廷を退席するとき、ちょうどウクライナのゼレンスキー大統領がアメリカの国会を訪問したとき、議員たちから総立ちになって拍手で迎えられたように、傍聴人たちは総立ちになって、この名判断を下した裁判官に拍手喝采したのでした。
 新年が始まりました。この1年、何が私たちを待っているのでしょう。多くの困難が待ちうけているのは確かでしょう。しかし、一見世の中悪いことばかりのように見えても、社会がちゃんと動いているのは、あの裁判官のような無数の善意の人が動いているからで、世の中悪いことよりも、良いことの方が多いことに気付いてください。
 今日は主の公現の主日です。東方の学者たちは、幼子イエスをひれ伏して黄金、乳香、没薬をささげました。でも実際は、イエスご自身が私たち一人一人の尊い命の前にひれ伏して、私たちが生きるに必要な全てのものを備えてくれているのですね。神は、あの裁判官のように、時々試練を命じることがあっても、神ご自身がその試練を乗り越える力も備えてくれているのです。(1コリント10:13参照)
 皆さん、安心してこの1年の旅を続けてください。

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神の母聖マリア 2023年1月1日

「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(ルカ2:19)

マリアは神の母であると同時に、私たちと同じ人間です。私たちが人生において不可解なこと、理不尽なことに直面するのと同じように、マリアも私たちと同じ試練に直面しました。そのマリアの生涯を象徴する言葉が、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」ことでした。「これらの出来事」とはイエスの生涯に関することです。カトリック教会には、伝統的なロザリオの信心があります。ロザリオとはマリアを称賛する祈りではなく、マリアと共にイエスの生涯を黙想する祈りです。そうであれば、常にイエスのことを思い巡らしていた、マリアの生涯そのものがロザリオであったと言えるでしょう。
 ある日、神殿でシメオン老人が幼子を祝福した後、マリアに「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2:34~35)と言いました。マリアはこの言葉をこそ思い巡らしていたことでしょう。やがて、この言葉はイエスの十字架の死によって、現実のものとなってしまいました。しかし、永遠に輝くマリアの真の優しさは、生来というより、むしろこの大きな悲しみと試練の中から生まれました。
 愛する妻と子どもに先立たれたある男性は、このマリアの思いを、次の言葉で代言しています。「愛する者を一人ひとり失うたびに、私はたくさんの涙を流してきました。残される者は辛いですね。しかし、たくさん涙を流した分、天国が近づいてきました。愛する者を一人ずつ見送るたびに、天国が近づいてくるのですよ。これは、多く愛する者を失ってきた人の特権です。涙の分だけ自分の死を見つめやすくなりました。今の私にとって、天国はたいへん身近な存在です。」
 苦労をして優しくなる人と、同じ苦労でも、そのことで人間性が歪む人がいます。同じ苦労であっても、向き合い方によって、生き方も変わります。苦労の責任を人に押し付けながら、生涯不平不満で生きるのか、あるいは苦労の中に意味を見出し、そこから愛と感謝、思いやりを育み、円熟した人生を送るかは私たちの選択次第です。
 私自身、今までたくさんの人と接して、深い感銘を受けることがあります。柔和で優しい笑みを浮かべることのできる人ほど、実は、多くの試練と喪失体験をもっておられることに気付かされるのです。そのような人は、決して過去の苦悩を悔やまず、それをスッテプとして、そこに人生を生きる意味と価値を見出してきました。そして、そのような人は同時に、深い感謝と満足感をもって、自分の人生の旅路を終える業をも知っているのです。
 海援隊の「贈る言葉」という歌に次の一節があります。
  ♪「悲しみこらえて微笑むよりも 涙かれるまで泣く方がいい
   人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから」♪    

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主の降誕 2022年12月24日

「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ2:11)

 クリスマスおめでとうございます。クリスマスはいいものですね。クリスマスは嬉しそうにお菓子をもった男の子や、大事そうに人形を抱いた女の子とともに、私たち大人を子ども心に帰らせ、楽しかった子ども時代に思いを馳せる、不思議な喜びのときです。だからクリスマスには子どもがいなければならないのです。
 でも聖書が救い主の降誕について記しているのは、ごくわずかなことだけなのです。クリスマスに関する多くの事柄は、後の時代に人々が降誕について思いを馳せて考えてきたことなのです。例えば、教会は12月24日の夜、救い主の降誕を記念してミサをささげますが、聖書には救い主が真夜中に生まれたとは書いてありません。ただ夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いのもとへ天使が現れ、救い主の誕生を告げた(ルカ2:8~11)と書いてあるだけです。そこから、きっと救い主は夜のしじまの中に生まれたのだろうと、思いを馳せたのです。
 また救い主は貧しい馬小屋で生まれたと語られてきましたが、聖書にそのような記述はありません。聖書は救い主が生まれた後、飼い葉桶に寝かされた(ルカ2:7)と伝えているだけです。普通飼い葉桶があるのは人間の家ではなく、家畜の小屋です。そこから、救い主はきっと馬小屋で生まれたのだろうと、思いを馳せてきたのです。
 さらに、救い主を礼拝に来た東方の博士たちが3人いたとも聖書には書かれていません。聖書は博士たちがそれぞれ黄金、乳香、没薬をささげた(マタイ2:11)と伝えているだけです。そこから、きっと博士は3人いて、それぞれ黄金、乳香、没薬をささげたのだろうと、これもまた思いを馳せたのです。ちなみに、伝説ですがこの3人の博士たちにはそれぞれ、カスパル、メルキオール、バルタザールという名前がついています。
 クリスマスには教会に馬小屋が飾られ、子どもたちだけではなく、普段は人形に関心のない大人でも、馬小屋の幼子イエスを嬉しそうに見つめています。皆さんどんな思いで見つめているのでしょうか。
 ある日私は電車に乗っていました。私の前には初老の少し疲れたような男性が座っていました。ふと気が付いたらその男性が笑っているのです。この人何か思い出し笑いでもしているのだろうか、気持ち悪いなあと思って、ふとその男性の視線の先をみると、そこには母親に抱かれ笑っている赤ん坊の姿があったのです。彼はその赤ん坊の笑顔を見て、一緒に微笑んでいたのです。その二人の姿はまるで、赤ん坊の中にいる神と、男性の中にいる神がお互い挨拶を交わしているかのようでした。これは普通によく見られる日常生活のひとコマです。でも普段仕事で疲れた男性に、その日ほんの一瞬でも、ささやかな幸せを与えたのはこの赤ん坊でした。私にとっても何か、小さなクリスマスを味わったかのような一日でした。

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待降節第4主日A年 2022年12月18日

「夫ヨセフは正しい人であった」(マタイ1:19)

 正しい人とは、どのような人のことでしょうか。正直な人、嘘をつかない人、社会規範を守る人など、人によって様々なイメージがあると思います。それではマタイが伝える「夫ヨセフは正しい人であった」という言葉は何を意味するのでしょうか。もしヨセフが当時の社会規範であり、最高の掟とされた律法を遵守する意味での正しい人であったならば、結婚前に聖霊によって身ごもっているマリアに姦通を疑い、マリアを罪の女として告訴したことでしょう。しかしヨセフは正しい人であったが故に、マリアのことを表ざたにするのを望みませんでした。もしマリアのことが表ざたになったならば、マリアには律法によって石殺しの刑が課せられるからです。従ってヨセフの正しさは、決して当時の最高の掟であった律法を遵守する正しさではなく、弱い立場の人を守る意味での正しい人であったのです。このヨセフを教会は伝統的に「義人ヨセフ」と呼んできました。
 さて、イエスは宣教活動に出る前ナザレで約30年間、私たちと同じように両親の後姿を見ながら成長してきました。福音書におけるイエスの姿には、このヨセフの影響を感じさせる箇所があります。例えば、律法学者やファリサイ派の人たちが、姦通の現場で取り押さえられた女をイエスの前に立たせ、律法によるとこのような女は石殺しに当たるが、あなたはどう思うかとイエスと論争して、イエスを訴える口実を求めようとします。しかし、イエスは論争には加わらず、かがみ込んで指で地面に何か書き始めます。もしイエスがこのとき論争の罠にはまって彼らと議論したならば、恥ずかしさと恐怖で蒼ざめる女性の顔を見ることになります。そうなると、ますますこの女性を苦しめることになります。しつこく問い続ける人々に対してイエスは身を起こして、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言って再びかがみ込みます。やがて一人二人と去り、誰もいなくなった後、イエスは身を起こして女性の顔を見て非常に単純な対話します。「『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、「『主よ、だれも』と言うとイエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」(ヨハネ8:1~11)私にはこのイエスの背後に、結婚前聖霊によって身ごもっていたマリアに、恥ずかしい思いをさせようとしなかった、義人ヨセフの姿が見え隠れするのです。イエスは弱い立場の人を守るとき、しばしば愛をもって当時の掟を破りました。どんな掟よりも大事なのは、人間一人一人だからです。
 19世紀に登場した聖人で、ヴィアンネーという司祭がいます。ある日、彼が司牧するアルスの村で、一人の人が橋から川に身を投げて自ら命を絶ちました。当時の教会は非常に厳しく、このような人は教会で葬式ができませんでした。しかしヴィアンネーはその人のために葬儀ミサをすると言うのです。「教会では自殺した人の葬儀ミサはできないのに、なぜあなたはそれをするのか」と抗議する信徒に対して、「それでは、その橋から川まで何メートルあるのか」と彼は信徒に問い返します。その信徒がその長さを答えたところ彼は、「その人は橋から身を投げて川に落ちるまでの間に回心したかもしれない。だから私は彼のために葬儀ミサをします。」と答えたのでした。何とこの聖人は、教会がもっとも厳しかった時代に教会の掟を破ったのでした。でも彼は神の掟を守りました。神の掟とは、全ての人の救いを望んでおられる神に、私たちも協力するということです。人間や社会の掟は時代に応じてよく変わります。しかし神の掟は決して変わることがないのです。来週は降誕祭です。救い主の誕生を祝うと同時に、一人一人の小さな命、特に中絶等によって誕生前の小さな命が失われることは、決して神のみ心ではないという、永遠に変わることのない真理を心に刻みながら、義人ヨセフとともに降誕祭を迎えましょう。

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待降節第3主日A年 2022年12月11日

「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ   砂漠よ、喜び、花を咲かせよ    野ばらの花を一面に咲かせよ。」(イザヤ35:1)

 伝統的に待降節第3主日は「喜びの主日」と言われています。主の降誕が近い、救いが近づいているという喜びをこの日典礼で祝います。クリスマスは主の降誕を祝うだけではなく、私たち一人一人に命が与えられたことを祝う日でもあります。普段、人形などには全く関心のない大人でも、クリスマスには馬小屋の幼子イエスを嬉しそうにのぞき込む光景がよく見られます。即ちクリスマスは、私たち大人を子ども心に帰らせてくれる、喜びのときなのです。だからクリスマスには、子どもがいなければならないのです。そして「尊い実り」(ヤコブ5:7)とは、今私たちが生きていることなのです。
 しかしクリスマスを準備しながらも、同世代の友人知人が亡くなり、自分もあと何年生きられるのだろうか。これが最後のクリスマスなのだろうか。来年は桜が見られるのだろうか、などと不安が頭を横切る高齢の方も多いのではないでしょうか。人間年を重ねるとよく出てくる病があります。それは人間不信と自己嫌悪です。この病は被害妄想的なところがあります。家族のために必死で働いてきたのに、高齢になった途端邪魔扱いされる。鏡を見ると自分の老いた姿が映っていて、もう自分は家族のお荷物になっているのではないかと思うなど、まじめに明るく生きようと思いながらも、この二つの被害妄想に悩まされている人もいるかも知れません。
 この被害妄想を乗り越えるためには、昔の楽しかった記憶に戻ることも大切なのです。高齢者になっても前向きに生きよ、それが元気の秘訣だという意見もあります。それも大切ですが、一方で昔の楽しかった記憶をなぞっていく方が、心理的な癒しの効果も高いと言われています。私たちは無数の記憶の中で生きています。その「記憶の引き出し」の中から楽しい、嬉しかった思い出だけを、例えば子どもの頃の楽しかった行事、クリスマスや正月などを取り出してみましょう。それらを思い出すときには臨場感あふれるように、ストーブやこたつのぬくもり、ケーキや温かい鍋料理の味、親の手の温もりまでも詳細に思い出してください。そうやって様々な楽しい記憶を咀嚼していくうちに、自分の人生まんざら捨てたものでもないと、次第に肯定的な気持ちになるでしょう。そのようなことを習慣化していくうちに、最終的に人間とは面白い、愛すべき存在なのだという温かい気持ちになるでしょう。もちろん生きていく上で辛いことは山ほどありますが、そのような記憶は引き出しの中にしまったままにしておけばいいでしょう。落ち込んでいるときには、案外普段のユーモラスな話しの方が力になったり、また偉人や賢人の格言より、日常生活のささいな思い出の方が自分を癒してくれることも多いのです。人間とは、面白い愛すべき存在なのです。
 このことを大正時代の童謡詩人金子みすゞが詩っています。

遊ぼうっていえば 遊ぼうっていう
馬鹿っていえば 馬鹿っていう
もう遊ばないっていえば もう遊ばないっていう
そして、あとでさみしくなって
ごめんねっていえば ごめんねっていう
こだまでしょうか、いいえ誰でも

(こだま)

 こだまというのは山から投げかけた言葉が、そのまま返ってくる響きです。それは大自然の懐につつまれたような安心感を生み出し、私たちの心を優しくしてくれるのです。そしてこれは、良いことも悪いことも、投げかけられた思いや言葉に反応する万人の心なのです。一人一人のことを自分のこととして感じさせ、安心感を生み出し私たちの心を優しくしてくれる響きがこの詩にはあります。人間とは、面白い愛すべき存在なのです。

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待降節第2主日A年 2022年12月4日

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。」(イザヤ11:1~2)

 3年前の今日12月4日、アフガニスタンで中村哲医師がイスラム原理主義者の凶弾に倒れました。アフガニスタンは、今なお茨の道です。この国を根底から揺るがしたのは、内戦や外国からの干渉ばかりではありません。最も大きな原因は、地球温暖化によって2000年以来激化した大干ばつです。アフガニスタンは、かつては完全な食料自給を果たし、なおかつ豊かな農産物を輸出して富を得ていました。それが農地の急激な砂漠化で多くの人が村を去り、食料自給率も半減したのでした。中村医師は、この国で医療活動に従事していましたが、彼が働く診療所の地方も大変な干ばつに襲われ、不毛の砂漠と化してしまいました。住民たちは一斉に村を去り、栄養失調と脱水で倒れる子どもが急増し、赤痢で死亡する人が後を絶ちませんでした。飢えや渇きを薬で治すことはできません。それは医療以前の問題だったのです。飢えは食料でしか癒せません。食料生産のためには農業用水を必要とします。彼は、「100の診療所より、1本の用水路を」と唱え、自身は医師で土木技術はなかったのに、独学で土木を学び、7年間現場に張りついて指揮をとり、ついに2009年2月ガンベリ砂漠を横断する全長25キロのマルワリード用水路が完成し、あの不毛と化した砂漠を緑の大地に変えたのでした。彼はその後も砂嵐や洪水と戦いながら砂漠開拓を進めていましたが、2019年12月4日、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)ことを証しするように亡くなりました。その生き方には多くの人が心打たたれ、日本の教科書でも取り上げられました。
 冒頭の「エッサイの株」とは、一度断絶したダビデ王朝のことで、エッサイはダビデの父親です。株は一度切り倒された木の名残で、一見死んだかのように見えますが、生命力の強い木は切り倒されても、その切株から芽を出させます。同じように、一度断絶して死んだかのように見えたダビデ王朝の末裔から、新しい救い主が生まれることを意味しています。中村医師も一度凶弾に倒れ、木のように切り倒されましたが、その魂は絶えることなく、彼の株から多くの希望の芽が出ているのを感じます。中村医師はプロテスタントの信徒でした。
 彼は他の川から用水路を引くことによって、砂漠を緑の大地に変えました。私たちも心の流れを変えましょう。憎しみや愛のエネルギーは同じ心の底から放出されます。大事なことは悪の経路を愛の経路に変えていくことです。神が私たちの心の水源池の流れをちょっと変えてくれるだけで、悪い流れは良い流れに変わるのです。そうして不毛な心を緑豊かな心に変えていきましょう。この待降節の間、神が私たちの心の水源池の流れを変えてくださるよう祈るとともに、中村医師が私たちの心の水路作りに天国から協力してくださるよう祈りましょう。                          

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待降節第1主日A年 2022年11月27日

「あなたがたも用意していなさい」(マタイ24:44)

 11月死者の月も間もなく終えようとしています。今月墓参に行かれた方も多いでしょう。墓地で一人一人の墓碑を見ていると、不思議と人への嫉妬や不相応な欲望が消えていくのを感じます。死ほど人間が平等であることを感じさせるものはありません。だからと言って、人間どのように生きても、結局は皆同じだというわけではありません。私たちには一人一人、人生の使命を全うするための大切な指針が必要です。それは自分の人生の終わりを思い描くということです。そこで自分にとって本当に大切なことを見極め、そこから今の生き方を決定することです。人生の終わりを思い描くことから、人生について考えるということは、目的地を明確にしてから第一歩を踏み出すことです。目的地が分かれば、今自分がどこにいるか分かります。そのことで、正しい方向性も自ずと見えてくるでしょう。
 私たちは仕事に追われ、活動の罠にいとも簡単にはまりやすいのです。成功への梯子を登り続けているつもりでも、頂上に到達して初めて、その梯子が間違った壁に掛けられていたこともあります。成功のためにと思って犠牲にしたことが、実は成功よりもはるかに大切なものであったことに、ある日突然気づかされます。しかし、自分にとって本当に大切なものを見出し、その指針に従って日々生活していれば、私たちの人生は大きく変わるでしょう。考えを変えるということは、人生を変えることです。そのため、私たちの人生の終わりを思い描くことから始めてこそ、本当に大切なものを見極めることができるのです。ロヨラのイグナチオも自分の臨終の姿を想起せよ、そこで本当に満足して死ぬことができるか、それを人生の行動の指針とせよと命じています。
 今、ある葬儀ミサの光景を思い浮かべてください。あなたは今その教会に向かって急いでいます。そして棺の中の亡くなった方に最後の挨拶をしようとします。ところが、何とその人は自分自身だったのです。周囲では親戚や知人があなたの思い出話をしています。そしてミサの最後に友人の一人があなたの弔辞を述べようとしています。思い浮かべていただきたい光景はここまでです。さてあなたはこの友人に、自分のことについてどんな弔辞を述べてほしいか、真剣に考えてみてください。それがあなたの心の奥底にある真実な価値観ではないでしょうか。そして、その弔辞の内容をこれからの行動の指針としてください。それは今まで自分が描いていた道とは違っているかも知れません。しかし、終わりを思い描くことによって、もしあなたが今間違った壁に梯子を掛けようとしていたのなら、それを正しい壁に掛け直すことによって、人生の本当の価値を知ることができるでしょう。だからこそイエスは「あなたがたも用意していなさい」と言いました。
 「思いの種を蒔き、行動を刈り取る。行動の種を蒔き、習慣を刈り取る。習慣の種を蒔き、人格を刈り取る。人格の種を蒔き、運命を刈り取る」という格言もあります。

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王であるキリストC年(世界青年の日) 2022年11月20日

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)

 十字架上のイエスは「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と議員たちから笑われ、兵士たちからも侮辱されます。しかし、このときイエスが自分の身を守ったら、イエスは救い主ではなくなったでしょう。イエスは救い主だからこそ、自分の身を守らないのです。イエスは多くの奇跡を行いましたが、自分のためには何一つ奇跡を行いませんでした。自分のために奇跡を行ったら、それはもはや奇跡ではありません。イエスの生涯も、奇跡も、全て人のため、人の心に信仰、希望、愛をもたらすためだったのです。そのために命をささげました。
 今日は世界青年の日です。ギリシャの哲学者プラトンは、当時の老人たちに対して、「若者たちが、運動や、舞踏や遊戯をしている所へ出かけて行って、自分になくなった肉体のしなやかさや、美しさを若者の中に見て喜び、自分の若い頃の美しさや愛らしさを思い出しなさい。」そして更に、「それらの娯楽において、多くの老人を楽しませた若者を讃えなさい。」と語りました。しかし、青年たちの特徴は、大きなエネルギーと希望、しかし同時に未来への不安、そこから生まれる葛藤なのです。
 それを乗り越える一つの道は旅に出ることです。「知らない世界に出かけてみれば、知らない自分が見えてくる」という言葉があります。これは必ずしも遠くに旅行に出るという意味ではありません。見方を変えてみるという意味です。才能は誰の中にも無限に眠っていて、花開く瞬間を待っています。自分が何に向いているかは、ぶつかってみないと分からない。人生どこに道標があるか分からないのです。そのためには、まず読書をすることです。私たちが生涯で直接経験できることは、ほんの僅かなことで、その自分が経験できないことを、読書を通して学ぶのです。ですから、読書は知らない世界へ出かける、一種の旅なのです。
 「私が遠くを見ることができたのは、巨人たちの肩に乗っていたからだ。」と12世紀の哲学者シャルトルのベルナールは言いました。ベルナールはプラトンの哲学や思想を研鑽し、発展させました。彼は古典やその著者たちを巨人にたとえ、今を生きる者はその巨人たちの肩に乗ること、即ち古典やその著者たちを学ぶことでより多くのもの、より遠くの世界を見ることができると言ったのです。それは信仰の世界も同じです。私たちは過去の偉大な信仰者たちの肩に乗っています。私たちは彼らが大事にした聖書を始め、教会の伝統と教えをしっかり学ぶことで、より遠くのもの、今まで知らなかった遠くの世界に触れることができるのです。そして、神に命をささげたほどの信仰者の姿に触れ、自分にも命をかけて生きる道が備えられていることを知るのです。「殉教者の血は信仰の種である」(テルトリアヌス)
 また多くの人との出会いが必要です。端的に言って、人生とは出会いです。知識は、この情報社会にあって、あらゆるところから瞬時に取り込むことができます。しかし、人生を生きる真の知恵は、直接多くの人に触れなければ得ることができないものなのです。それは一人一人かけがえのない生き方として、人の中に息づくものだからです。決してネット上では得ることのできないものなのです。
 イエスはことごとく人のために生きて、自らの命をささげました。人は誰かのために生きようと思ったとき、それまで考えていた自分の限界を超えることができます。今まで考えもしなかったようなエネルギーが、自分の内から湧いてくるのを感じます。人のために生きるエネルギーは枯渇することがないのです。反対に、人は自分が何かしたくないと思ったとき、自分で自分の限界を設けようとするのです。
 青年たち、知らない世界に出かけてください。そして、知らなかった自分の素晴らしさ、自分の「楽園」(ルカ23:43)に気づいてください。

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年間第33主日C年 2022年11月13日

「わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。」(マラキの預言3:20)

 古代の人は太陽を神として崇めました。次に科学の時代が来て、人々は、太陽は神ではないと言いました。やがて神秘の時代が来て、アシジのフランシスコは太陽を友と呼びました。
 この地球にエネルギーを与えてくれる最大の熱源は太陽です。太陽がなかったら人間は生存できません。太陽はこの地球にエネルギーを与えてくれるだけではなく、人間の心にも希望を与えてくれます。夜中に目を覚まして、何かのことで不安を感じたり、気が重くなったりすることがありますが、朝になって太陽が昇ると、不思議と夜中に不安を感じていたことが、まるで何もなかったかのように消えてしまう。太陽によって周囲が明るくなれば、不思議と心も明るくなる。まるで優しく語りかける友のように、太陽は私たちに生きる希望を与えてくれているのです。
 この地球の歴史が始まって以来、太陽が昇らなかった日はありません。毎朝太陽が昇って、新しい朝を迎えることが出来ることの意味は、「昨日の傷は、今日自ら癒してくれる」、「昨日の涙は、今日自ら拭ってくれる」、「昨日失敗しても、今日は再びやり直すチャンスが与えられる」、ということです。
 同じように、私たちの共同体や社会に、太陽のようなエネルギーを与えてくれるもの、それは前向きな姿勢、ポジティブな態度、楽観主義です。前向きで、ポジティブな人はそれだけで既に社会貢献をしているのです。反対に、人をダメにするのは簡単です。それは人を不安にさせることです。だから、サタンは私たちを不安にさせるよういつも仕向けるのです。イエスは言いました。「惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。」(ルカ21:8~9)
 聖書には次のように記されています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして、光があった。」(創世記1:1~3)実は、私たちもこの天地創造を再現することができるのです。即ち、闇の心に一言「光あれ」と宣言すれば、光である希望を生み出すことができるのです。「あなたの信仰が、あなたを救った」(マタイ9:22等)と病気の人に宣言したイエスは、同じように私たちに信じる力、自己実現能力を与えてくれているのです。人間は自分が信じた通りになります。福音書の結びでイエスは、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:19)と言いました。しかし私は次のように読み替えてもいいと思うのです。
 「希望によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

   

黙想のヒント 

年間第32主日C年 2022年11月6日

「すべての人は神によって生きている」

 今日は、普段とは違った角度から話します。今から138億年前、物凄い高温高圧の素粒子の塊が大爆発を起こして宇宙が作られました。これを「ビッグバン理論」と言います。地球の誕生は46億年前で、地球に生命が誕生したのは40億年前です。最初海に誕生した生命は、やがて陸へ進出しました。もともと地球に酸素はなかったのですが、植物が生まれ光合成によって酸素を作ることで、人を含めた動物が暮らせる環境が生まれました。やがて人は進化して、他の動物とは違った高度な理性と魂を持つようになり、人は死んでも魂の永遠、即ち「神が再び立ち上がらせてくださるという希望」(マカバイ記7:14)を願うようになりました。そのため、神を信じ、争いを避け平和に暮らすことを願うようになりましたが、パウロが言うように「全ての人に信仰があるわけではないのです。」(テサロニケ3:5)
 ロシアがウクライナに侵攻している状況は、第二次世界大戦と全く同じであり、人間は歴史から何も学んでいないことを示しています。私はこのような紛争が起こるたびに、実は人類社会は進化していないのではないかと思うのです。科学技術は進化しているように見えながら、心は進化しておらず、その進化していない心で技術を進歩させようと思うので、科学技術も間違った方向に陥ってしまいます。だからいつの時代でも、私たちは神を必要としているのです。「すべての人は神によって生きている」からこそ、正しいものは正しい、間違っているものは間違っていると判断し、神を知らずに道を外れて生きている人には、それを正して神に立ち返るよう促す使命があるのです。そして、第一朗読マカバイ記のように、苦しみの中でも神を信じて世を去る人に永遠の生命が約束されていることを伝え、そのような人の信仰が後に続く人々の魂を支え、進化させるのです。
 死があるからこそ、生命のエネルギー、即ち魂は不滅なのです。一人一人、顔も違えば性格や個性も違うように、与えられた寿命にもそれぞれ違いがあります。重要なのは単に長く生きるかどうかではなく、どれだけ満たされた人生であったかどうかです。16歳の少女を看取ったある医師は、その子が神や両親に感謝し、医師や看護師にも感謝の言葉を述べて、静かに命の灯を消した最後の様子を見て、自分に与えられた命を全うした素晴らしい死だと、深い感動を込めて語っていました。この少女の命は死によって表面的に消えたかに見えましたが、その生命のエネルギーである魂は新たな生命として生き続け、彼女に関わった人たちの魂を進化させたのです。
 どのように生きるかということは、思想や文学で答えを見出せても、どのように生涯を終えるかということは、やはり宗教の助けが必要になります。宗教は、にわか勉強では難しいのです。ですから、死ぬ前ではなく、若いうちから「人生と名付けられた、この束の間の歳月」についてしっかり考え、自分の死生観を託することのできる宗教を見つけなければならないのです。       

黙想のヒント 

年間第31主日C年 2022年10月30日

「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」(ルカ19:6)

今日の福音書の情景を想像してみましょう。ザアカイは徴税人で、単に興味本位でイエスを見に行っただけでした。彼はそのイエスに呼びかけられ、桑の木から降りて来て、喜んでイエスを迎えました。ここで質問です。なぜザアカイは喜んでイエスを迎えたのでしょうか。
 彼は当時罪人とされていた徴税人の頭で、おまけに金持ちでした。どうして徴税人が罪人扱いされていたかというと、当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあって、人々は自分たちを支配していた敵国ローマ帝国に税金を払わなければならず、その税金を集める徴税人を「ローマの犬」と呼んで軽蔑していたのです。しかし実際、余分に取り立てたり、横領着服をする者も少なくはなかったと言われています。このような状況ですから、彼らはいつも人々から白い目で見られ、彼らに微笑みかける人もいなかったのでしょう。ザアカイにとっても同じで、人々から軽蔑され、白い目で見られ、微笑みかける人がいないのは当たり前のこととして毎日を送っていたのでしょう。
 しかし今日は違います。桑の木の下からイエスは突然ザアカイに呼びかけます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい。」そう呼びかけたイエスの表情は、きっと彼が今まで受けたことのない優しい眼差しだったのでしょう。だからその優しい眼差しを受けて、ザアカイも喜んでイエスを迎えたのです。ですから、ザアカイの喜んだ表情はイエスの優しい眼差しの鏡だったのです。ザアカイの回心のためには長い祈りも苦行も必要ではありませんでした。イエスの優しい眼差しと、愛情のこもった一言だけで十分でした。
 人間関係は鏡のようなものです。私たちは鏡に向かって微笑めば、鏡の自分も微笑むし、鏡に向かって嫌な顔をすれば、鏡の自分も嫌な顔をします。同じように誰かに向かって、「この人嫌いだ」という思いで接すると、それは必ず表情に表れ、相手もそのことを察知して同じ顔をします。反対に「この人好きだ」という思いで接すれば、相手もそう感じて同じ顔を返してくれます。話している時の相手の顔は、実は自分の肖像画なのです。私たちは生まれた時からこのことを経験してきました。生まれたばかりの赤ん坊はまだ話すことはできません。しかし親の顔をしっかり見ています。そして、「この親は僕のことを本当に愛してくれているのだろうか」問い続けています。その証拠に、親が笑えば赤ん坊も笑うし、親が怖い顔をすれば赤ん坊も泣きます。実に、赤ん坊の笑顔は親の笑顔の鏡なのです。そうして子どもは親から笑顔をもらって、次第に自分が幸せだと感じ、自分がこの世に生まれたことはいいことなのだ、と感謝するようになるのです。
 心の思いは必ず表情に表れます。私たちは決して自分を偽って生きることはできないのです。私たちもイエスに従って生きたいのなら、非常に単純な言い方ですが、偽りのない心と善良さ、人を尊敬しいたわる心、これ以外にありません。

黙想のヒント 

年間第30主日C年 2022年10月23日

「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:14)

今日の黙想のヒントは柔道の話です。私が好きだった柔道家で、昨年53歳で癌で亡くなられた古賀稔彦さんがいました。常に一本を取りに行く姿勢、小柄ながらも切れ味鋭い技、豪快な一本背負い投げを得意とし、「平成の三四郎」と言われました。しかし、金メダルを期待されて初出場したソウル五輪では3回戦敗退でした。それまでマスコミで散々取り上げられ、「頑張れ、頑張れ」と声援を受けていたのですが、帰国後は「古賀は世界で通用しない」、「古賀の柔道はもう終わった」などと中傷され、彼の周りからは潮が引くように誰もいなくなったのです。彼もひどく落ち込み、人間不信になってしまいました。
 そんなある日のこと、何気なしにテレビのオリンピック総集編で、たまたま自分の試合を見ていた時、彼の目が画面にくぎ付けになりました。そこには彼の両親の姿も映し出されていたのですが、彼が負けた直後、日本から応援に駆けつけてくれた人たちに向かって、何と両親が期待に応えられなかった彼に代わり、深々と頭を下げていたのです。その姿に彼は大きなショックを受け、自分を恥ずかしく思ったのでした。それまで、「自分が練習して、自分が強くなって、自分がオリンピックに行って、自分が負けて、自分が一番悔しい」と思い、応援されることも当たり前だと思っていたのですが、実は戦っていたのは自分一人ではなく、両親を始め、彼をサポート、応援してくれた多くの人が一緒に戦ってくれていたことに初めて気づいたのでした。彼にとってまさに、目からウロコが落ちる思いでした。自分の背後ではこんなにも大勢の人が一緒に戦ってくれている。もう両親に頭を下げさせるわけにはいかない。応援してくれた人たちのためにも、次の五輪で必ず金メダルを取って恩返ししよう。その思いが原動力となって次のバルセロナ五輪で、怪我に苦しみながらも金メダルを取ったのでした。
 「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」この言葉の意味は、人間高ぶっている時は、心の目が閉ざされて自分の世界しか見えず、周りの本当の姿が分からないのです。反対に、へりくだって自分を支えてくれる周囲の人に感謝したとき、ものごとの本当の姿が見えてきて、それが本当の生きる力の源になるのです。それを感謝力と言います。しかし、それは場合によったら古賀稔彦さんのように、一度挫折や失敗を経験して初めて、心の目が開かれることも多いのです。
 私たちは一人で生きているのではありません。私たちの背後では多くの人が私たちのために生き、私たちを応援しています。しかし、このことは言葉としては分かりますが、一度壁にぶち当たらないとしないと実感しにくいものなのです。しかし、挫折や失敗によって多くの人の支えや愛を知ったならば、それはもはや過去の挫折や失敗ではなく、今を生かす「貴重な経験」となるのです。

黙想のヒント 

年間第29主日C年 2022年10月16日

「絶えず祈らなければならない」(ルカ18:1)

教会は伝統的に「絶えず祈る」ということを推奨してきました。祈りは呼吸のようなものであり、意識の深層において、絶えず神とともにあるということです。私たちは絶えず無意識の内に呼吸しています。人間の意識には、五感で感じることのできる意識(顕在意識)の下に、五感で感じることのできない無意識の部分、即ち潜在意識があります。祈りとは、この潜在意識の中にいる神とともにいることを意味します。人間の体は無数の細胞から成り、それが調和を保って生きています。同様に、人間の心も本来調和を保っていなければなりません。調和という言葉は、しばしば平和という言葉に置き換えられます。そのため、カトリック教会では呼吸のリズムに合わせたロザリオなど、単純な祈りの繰り返しによって、潜在意識の中にいる神に呼びかけ、神と一体化して心に平和を保つことを願ってきました。同じ伝統が東方教会には「イエスのみ名の祈り」という形で残っています。
 見える自分を変えたいのであれば、まず自分の見えない部分から変えましょう。私たちは、この意識の深層部である潜在意識のうちにいる神に、絶えず正しく美しく単純な言葉で語り続けることによって心は静寂を保ち、善悪の判断、罪からの解放、神に向かう創造的生き方ができるよう心の声を求めるのです。この声を神の声と呼びますが、この心の声が偉大な音楽家たちに与えた影響も大きく、例えばモーツァルトは、自分は「作曲家」ではないと公言して、「音楽が私のところにやってくるのだ。私はそれを書き写しているにすぎない。」と言い、ベートーヴェンも「満ち足りた、豊かさを感じられる瞬間に、音楽が私の心の耳に届けられる。」と言いました。彼らにとって音楽とは、自分が作ったものではなく、深い静寂さの中で訪れる心の声に耳を澄まし、そうして与えられるものだったのです。
 ところで、人間の細胞は11か月ごとに新しくなると言われています。身体的に見れば、人間の体は生後11か月そこそこなのです。この大切な体を恐れ、怒り、妬みなどのストレスで自らの細胞を破壊させるか、前向きな思考と美しく愛に満ちた言葉で(一般的な言い方をすれば、快楽ホルモンと言われるドーパミンやセロトニンを放出し)、心に平和をもたらすかは私たち次第なのです。人生の大切なことは、全て単純に、前向きに、創造的に決められなければならないのです。アイルランドのある農家の主人はいつも陽気で、歌って、ユーモアたっぷりでした。ある人がその秘訣を尋ねたところ「幸せなのは私の習慣だからだ。私は毎朝起きた時と寝る前に、家族と作物と家畜と神様を祝福することにしている。それから、たくさんの収穫をありがとうと、いつも神様に感謝するのだ。」と答えました。彼はこの習慣を40年以上守っていました。彼によって日々繰り返された祝福と感謝の単純な言葉は潜在意識の神に浸透し、それが習慣となって幸福をもたらしたのです。実に、幸福とは習慣であり、絶えず祈るとは、絶えず感謝することに他ならないのです。

黙想のヒント 

年間第28主日C年 2022年10月9日

「この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」(ルカ17:18)

10人の重い皮膚病を患った人たちが「私たちを憐れんでくださいと」イエスに叫び、彼らは癒されましたが、そのイエスに感謝するために戻って来たのは1人のサマリア人だけでした。10人が祈り求めて癒され、そのうち1人だけが感謝、このことは私たちにも何か心当たりがないでしょうか。私たちも日々イエスに「助けてください」「守ってください」と祈っていますが、もしかしたら、10の祈りの内、感謝の祈りは1だけかも知れません。確かに、イエスにとっても信頼して祈ってくれることは嬉しいことでしょう。でも、「助けてください」「守ってください」だけではイエスも物足りなさを感じていると思います。
 例えば、皆さんに誰か親しい友人がいていつも「助けてください」「守ってください」とか言い続ける人がいるとします。信頼してくれることは嬉しいのですが、やはり「ありがとう」の一言を忘れてほしくないものです。イエスも私たちと同じ気持ちでしょう。しかし大事なことは、願いがかなってから感謝するのではなく、感謝をこめて願いをささげることなのです。そのことはパウロが強調しています。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6~7)
 しかし、この感謝ということは、言葉として意味は分かっても、実感がわかないという人は多いのです。あるいは、年を重ねて次第に感謝ということが実感できるようになった、という人も多いでしょう。この感謝を実感するために、多少の訓練と時間を要することがありますが、感謝の心はまず、人に対してへりくだる気持ちがないと出てこないものなのです。まずこれを学ばなければなりません。さらに大事なのは感謝の心をふくらませていくためには、心の中で感謝するだけではなく、実際口に出して表現しなければならないのです。「ありがとう」は口に出して初めて「ありがとう」になるのです。心の中で感謝しても、それは感謝にはなりません。中には、習慣的にありがとうと言ってもあまり意味がない、という人もいるかも知れません。しかしこの習慣が人格を形成するのです。習慣は第二の天性です。教会は伝統的に、亡くなる前に永遠の旅路の糧として、聖体などの秘跡を受けるよう勧めてきました。しかし私は、亡くなる前にこの秘跡と同時に、お世話になった人たちへの「ありがとう」を忘れてほしくないと思います。秘跡とともに命の与え主である神と、周囲の人へ心をこめて「ありがとう」と言うならば、ご聖体はその輝きを増すでしょう。私たちの人生最後の舞台を締めくくるためにも、日ごろからのご聖体と、「ありがとう」を周囲の人にささげ続けましょう。最後にもう一度言います。習慣は第二の天性です。

黙想のヒント 

年間第27主日C年 2022年10月2日

「私どもの信仰を増してください」(ルカ17:5)

 「私どもの信仰を増してください」と言った使徒たちに、イエスは「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(ルカ17:6)と言いました。それならば私たちは、「からし種一粒ほどの信仰でいいから、それを私たちにください。そうすれば私たちにできないことは何もありません」と答えましょう。
 福音書は神の全能についていくつか述べています。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」(マタイ19:26)「神にできないことは何一つない。」(ルカ1:37)この言葉の意味は、人間神とともにあれば何でもできる。反対に神がともにいてくれなければ何もできないという、人間の偉大さと不毛さを表す言葉です。
 信仰という言葉は、一般社会では信念、信条、あるいは生き方とも表現されます。強い信念で不可能と思われたことを実現した人は数多くいますが、それは科学技術の面だけではなく、体に大きな障がいを持ちながらも、大きな勇気と希望を持って自己実現し、多くの人に希望と勇気を与えた人たちもまた多いのです。そのことは昨年の東京パラリンピックを観戦して、人間は勇気と希望さえあればできないことは何一つないと痛感しました。見えない、聞こえない、話せない、という三重苦を乗り越えて、教育、福祉、世界平和に貢献し、「奇跡の人」と言われたヘレン・ケラー(1880~1968)は、「私は自分の障がいを神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見出すことができたのも、この障がいを通してだったからです。」と言い、また「私たちにとっての敵とは、『ためらい』です。自分でこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間にしかなれないのです。」とも言いました。
 そのヘレン・ケラーに大きな影響を与えた塙保己一(はなわほきいち1746~1821)という日本人がいます。彼女が子供の頃、両親から「あなたが目標とすべき人物がいる。塙保己一という日本人で、目が見えなくても偉業を成し遂げた人なのだよ。」と彼女に語っていたほどで、実際彼女が人生の手本にしていました。彼女が1937年初来日したとき、塙保己一ゆかりの地を訪れ、彼が使った質素な机と優しそうに首をかしげた彼の像に触れながら、「私は子どもの頃、両親から保己一先生をお手本にしなさいと励まされて育ちました。今日は日本に来て最も嬉しい日です。」と語りました。
 塙保己一は7歳にして失明、12歳で母親を失い、15歳の時江戸の盲人一座に入りました。当時の江戸では目が見えない人たちは、盲人一座に入って琴や按摩や鍼を習うことが一般だったのですが、保己一は何をやっても上達しませんでした。保己一は失望し、一時は命を絶つことも考えたようですが、「学問の道に進みたい」と師匠に申し出、師匠のはからいで彼は賀茂真淵のもとに入門し、幅広い学問を習得しました。盲人一座では落ちこぼれだった彼は、耳だけを頼りに猛勉強し、後に「日本に古くからある貴重な書物を集めて、次の世代に伝えていきたい」と志を立て、41年かけて過去約1000年の間に書かれた文献を17244枚の版木にまとめ上げ編集、刊行したのが「群書類従」でした。彼は16歳の正月に「怒らぬ誓い」を自分の人生の指針として立て、「人間は小さなことで感情的に怒るようでは大業は成就しない。年の初めに誓い、生涯にわたって実行したい。」と誓ったのでした。この「怒らぬ誓い」が、やがて周囲の人への感謝と誠意を尽くす心へと発展したのでした。
 その保己一の誠実な人柄と熱心に取り組む姿勢に多くの人が共感し、経済的に協力してくれる人も現れ、また「自分は貧しくて金銭的には助けられないが、幸い目は見える。いつでも本は読んであげられるから、遠慮なく本はもってくるように。」と声をかけてくれる人も多かったのでした。点字もなかった当時、彼は多くの人に本を読んでもらった内容をその場で覚え、その知識は生涯忘れなかったと言われます。彼は生涯目が見えず、自ら本を読むこともできなかったからこそ、支えてくれる人への感謝と謙虚さを忘れず、毎日を真剣に生きたのでした。
 人間は信念をもって貫けば、できないことは何もありません。しかし、その信念は恨みや、怒り虚栄心に裏打ちされた歪んだ怨念や敵意であってはなりません。確かにそのような恨みや怒りによって引き起こされた行動は一時的なパワーとはなりますが、途中で必ず折れてしまいます。人間は、感謝、謙虚、誠実さなどの正しい良心をもって、神とともに生きたとき、あらゆることが可能になることをパウロは次の言葉で伝えています。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を私たちにくださったのです。…キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって…あなたにゆだねられている良いものを、私たちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(第二朗読テモテへの手紙1:7,13~14)

黙想のヒント 

年間第26主日 2022年9月25日

「この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れていかれた。」(ルカ16:22)

 今日の福音のテーマは富への誘惑に対する警告です。今日の福音に限らず、イエスはしばしば福音書全体を通して、富への誘惑について述べています。(マタイ19:16~24、ルカ12:13~21など)しかし、イエス自身金持ちと付き合い、食事も共にしました。富やお金は決して悪いものではなく、むしろ大切なものです。教会も常にその恩恵に浴しています。また利益を求める心は事業や人間活動の原動力となるものです。しかし今日の福音が警告するように、富は独占するものではなく分かち合うものなのです。ドイツの政治学者で社会学者のマックス・ウェーバーによると、資本主義の担い手はもともと敬虔なプロテスタントで、彼らはイエスが説く隣人愛を実践するため厳しい倫理規範を守り、労働を尊びながら、その利益は社会の発展のため活かすことを信念としていました。
 かつてアメリカにアンドリュー・カーネギー(1835~1919)という人がいました。彼はスコットランドの貧しい家庭に生まれ、両親とともにアメリカに移住した後、豊かな生活を求めて職を転々としながら、やがて頭角を現し、これからは鉄鋼の時代が来ることを予測して鉄鋼会社を興し、やがて巨万の富を手にして世界の鉄鋼王と呼ばれるまでになりました。しかし彼は「金持ちのまま死ぬのは、恥ずべきことだ」という言葉を残し、人生の後半その財産の全てを使って、特に慈善事業、世界平和、教育、学術振興などに貢献したのでした。特に、貧しさ故に独学で学んだ彼は、図書館のおかげで勉強することができたことを感謝し、アメリカ全土だけではなく、世界中に約3000の図書館を寄贈しました。今でもカーネギー協会は学術振興や慈善事業などに尽くした人を毎年表彰しています。
 最近、京セラの名誉会長稲盛和夫氏(1932~2022)が亡くなられましたが、彼は仏教に深く帰依された人で、27歳で京セラを立ち上げた頃は経営の素人でした。悩んだ挙句彼は経営方針として、とにかく人間として正しいことは正しいままに貫くことを決心しました。会社が大きくなってからも人から経営のコツや秘訣を聞かれると、「感謝の心を忘れるな、嘘をついてはならない、人に迷惑をかけるな、正直であれ、欲張るな、自分のことより人のことを考えよ」…とか。しかしこれを聞いた人は皆一様に怪訝そうな顔をするのでした。「そんな単純なことで経営が成り立つのか。そんな単純なことは子どもの頃、親や先生から聞いてきた。」というような表情で。しかしこの誰でも知っているはずのこの「単純な原理原則」が実践されていないから、一時的に利益を上げて成功しても、やがて破綻する会社が多いのです。利益追求は決して悪いことではない。しかし、その方法は人の道に沿ったものでなければならない。手段を選ばず儲けに走ってはならならず、利益を得るにしても人間として正しい道を踏まなくてはならない。そうして人の幸せを願う利他の精神が、めぐりめぐって自分にも利をもたらし、またその利を大きく広げもする、というのが彼の持論でした。
 稲盛氏は仏教の利他の精神に生き、またアンドリュー・カーネギーの「個人の富は社会の利益のために使われるべきだ」という精神にならい、彼自身の莫大な財産を拠出して稲盛財団を作って1985年に日本初の国際賞である京都賞を創設し、学術分野で素晴らしい業績をあげ貢献した人たちを毎年表彰しています。
 しかし注意すべきは、自分の利益のみを追求する「利己」と人の幸せを求める「利他」はいつも表裏一体の関係にあるということです。ここにイエスの警告の核心があると言えます。人のためにと言いながら、気が付いたら自分のことだけ考えたり、あるいは自分の家庭や会社の利益のみを優先する誘惑は絶えず付きまといます。そのような誘惑に陥らない秘訣は、仏教やキリスト教などの宗教が共通して説き、多くの賢人たちが実践してきた「単純な原理原則」、即ち、絶えず周囲に感謝の心を忘れず、偽りなく真実を語り、自己の利をむさぼらず、人の幸せを願うことなど、これ以外に道はないと私は思います。

黙想のヒント 

年間第25主日C年 2022年9月18日

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」(ルカ16:10)

 今日のみ言葉「小さな事への忠実さ」、それを習慣と言い換えることができます。人生とは習慣です。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは「習慣とは繰り返された運動である」と言いました。即ち、習慣が性格や人格を形成するのですね。「何事も努力ではなく習慣にせよ」とよく言われます。習慣は日々の積み重ねですから、それを習い性にすれば、その後はつらいとも面倒とも感じなくなります。ですから、大事なことはよい習慣を早くから身につけることです。よい習慣に早くから身につけた人は人生の実りも大きく、反対によい習慣を軽視して生きている人は、人生そのものを軽視して生きているようにも思えます。
 鳥は生まれついた飛び方を変えることはできません。動物も生まれついた這い方や、走り方を変えることはできません。しかし、人間だけが生き方を変えることができるのです。人間だけが自分の命の限界を意識しながら、その限りある命をどう生きようかと生き方を変えることができるのです。それは人間だけに与えられた特権であり、その特権は小さな習慣の積み重ねによって成し遂げられるのです。「リンゴに芯があるように、人間は生まれながらに『死の種』を宿している」と詩人リルケは言いました。しかし、同時に「人間は死に向かって成長し続ける存在である」とも精神分析学者エリクソンは言いました。
 天才とか才能とかという言葉がありますが、それは決して一瞬のひらめきではなく、毎日の積み重ねが自然にできることを言うのですね。普段からどれだけ小さな事に忠実に打ち込んできたかということが大事であり、スポーツ選手などもよく「勝負の神は試合の時だけではなく、普段の生活を全て見ておられる」と言います。即ち、「勝負の神は細部に宿る」と。毎日の小さなことへの忠実さが勝負を分ける。これは何もスポーツに限ったことではなく、私たちの人生の勝負にかかわることであり、同様のことは教会の偉大な聖人たちも口をそろえて言ってきました。
 「ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」とイエスは警告しました。人は自分が与えたものを受け取ることになります。永遠の生命の入り口には『人は自分が蒔いたものを刈り取ることになる』という言葉が鮮やかな文字で刻まれています。

黙想のヒント 

年間第24主日C年 2022年9月11日

「悔い改める一人の罪人については、大きな喜びが天にある」(ルカ15:7))

星野富弘という画家で詩人がいます。美しく繊細な花の絵に詩を添えた彼の詩画は多くの人に感動と勇気を与えています。しかし、かつて体育の教師であった彼は、クラブ活動で宙返りの模範演技中あやまって頭から転落し、首から下の自由をすべて失ってしました。1970年6月17日。24歳の時でした。彼にとって失ったものはあまりにも大きかったのでした。しかし神は人間から何かを奪うとき、必ずそれと同等か、それ以上のものを与えてくださいます。神は私たちの過去の扉を閉じたとき、必ず同時に新しい未来への扉を開いてくださっているのです。
 今日の福音でイエスは、失われた一匹の羊、失われた一枚の銀貨の譬えを述べています。普通、私たちは何かを失った時、失くしたものと同じものを返してほしいと神に願います。しかし、神は別の形で、場合によったらそれは逆境とか、あるいは一見して不遇のような形で、より豊かに返してくれるのですが、私たちはそれに気づかないことが多いのです。神の恵みは姿を変えてやってくることが多いのです。
 彼もまた、ベッドの上に横たわり、寝返りをうつこともできず、ただ天井を見上げるだけの毎日でした。そのような中で自暴自棄になり、毎日食事をスプーンで彼の口に入れてくれていた母親の手がある日震えて、彼の顔の上にスープがこぼれてしまいました。このわずかなことで毎日のイライラが積もり積もっていた彼は、口の中のご飯粒を母親に向かって吐きだし、「チクショウ。もう食わねえ、くそばばあ。おれなんかどうなったていいんだ、産んでくれなきゃよかったんだ」と思わず叫んでしまいました。母親は黙って泣いていましたが、しばらくして、母親が彼の顔の上に止まった蠅を払ったおうとしたとき、その手が思わず彼の顔に触れたのです。その時の母親の湿った手の温もり、ざらついてはいたが柔らかな手の感触、この時初めて彼は母親の愛を知ったのでした。
 そんなある日のこと、同じ病室の少年が彼に寄せ書きを頼みにきたのです。彼が首から下が不随であることを知っていたのか、いなかったのか、少年は一生懸命頼み続けたのです。彼はついに決心しました。口にペンをくわえて字を書くという決心を。彼はわずかに首を持ち上げ、長い時間をかけて、ついに色紙の上に小さな黒い点を打つことができました。これが詩人で画家星野富弘のスタートでした。その2年後、同級生で牧師になった友人の影響で、1974年彼は病室で洗礼を受けました。
 彼が入院するまでの母親は、昼間は畑で四つんばいになって土をかきまわし、夜はうす暗い電灯の下で金がないと泣き言を言いながら内職をする、彼にとってはあまり魅力のない母親であったようです。しかし、彼が怪我で首から下が不随になることがなければ、一生この母親の愛に気づくことのない、高慢で不幸な人間になっていたであろうと、彼自身語っています。
 その星野富弘の詩をいくつか紹介します。
 「神様がたった一度だけ
 この腕を動かしてくださるとしたら
 母の肩をたたかせてもらおう
 ぺんぺん草の実を見ていたら
 そんな日が本当に来るような気がした」

 「いのちが一番だと
 思っていたころ
 生きるのが苦しかった
 いのちより大切なものがあると知った日
 生きているのが嬉しかった」

 「この道は茨(いばら)の道
 しかし茨にも
 ほのかにかおる花が咲く
 あの花が好きだから
 この道を行こう」

「わたしは傷をもっている
 でもその傷のところから
 あなたのやさしさがしみてくる」

黙想のヒント 

年間第23主日C年 2022年9月4日

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ私の弟子ではありえない」(ルカ14:27)

 厳しい今日の福音の言葉ですね。誰でも、大なり小なり、見えても見えなくても、それぞれ何らかの十字架を持っています。私も私なりの十字架がありますが、イエスに反論するわけではないのですが、私は十字架を背負って生きたくはないです。私は十字架に意味を見出したいのです。そうして、十字架を十字架とは思わず、そこに生きる大きなヒントを見出したいのです。十字架を乗り越える大きなヒント、それは十字架に意味を見出すことです。
 あのアウシュビッツを経験したユダヤ人の哲学者で、精神医学者のヴィクトール・フランクルは、当時収容されていたある青年について述べています。彼には生き別れた母親がいたのですが、彼女は今どこにいるのか分かりませんでした。しかし彼は神に、「もし自分がここで死ぬようなことがあったら、本来自分が生きるはずの年月を、今どこにいるのか分からない母親にあげてほしい」と毎日祈って、今の自分の苦しみに意味を見出し、そのことによって彼は収容所で生き延び、ついにそこから解放されることができたのでした。
 生前のヴィクトール・フランクルに会ったことのある日本人は、彼からこう伝えられました。「人間誰でも心にアウシュビッツ(十字架)を持っている。あなたが人生に失望しても、人生はあなたに失望していない。あなたを待っている誰かや、何かがある限り、あなたは生き延びることができるし、自己実現ができる。」
 「昨日の敵は今日の友」という諺があります。それは何も人だけのことを言うのではありません。過去の敵であった苦しみ、十字架に意味を見出し、そのことによって人生を生きる意味を見出したなら、かつての敵であった十字架は今、友として私たちに寄り添ってくれるでしょう。

黙想のヒント 

年間第21主日 2022年8月21日

「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後のなる者もある。」(ルカ13:30)

 今日の福音の結びの言葉を聞くと、まるで、うかうかしていると人に追い越されてしまうというような、ウサギとカメの話を連想する人もいるかも知れません。しかし、後の人が先になり、先の人が後になる話はそのような競争原理について論じているのではなく、大きく変化する時代の中で、それまでの考え方を変えるヒントを示しているように思えます。
 ある実業家が印象深いことを語っていました。彼は今まで経営について様々な決断を迫られてきましたが、彼が言うには、正しかった決断は全てマイナスの決断、即ち捨てる決断でした。反対に間違った決断は全てプラスの決断、即ち捨てずに加える決断でした。捨てる決断とは今まで積み重ねてきたもの、それは今までの努力や苦労です。だからそれを捨てる時大きな痛みが計算できる。しかしそれを捨てて何が得られるかと言うと、それは計算できない未来のもの。計算できる今までの痛みを捨てて、計算できない未来のものを得ようとするのだから、当然周囲から反対もされる。
 新しいものを取り入れるためには、古いものを捨てなければならない。まず、古いものを捨てて、場所を空けなければ新しいものは入ってこない。だから順調な時には捨てられないから、ためこんで保守的になり進歩がなく、やがてダメになる。しかし、失敗して今までの努力や苦労を捨てざるを得なくなれば、もう失うものは何もない。だから新しいことを始めようという気になって、場合によったらそれは成功へとつながる。
 これは、あくまでも実業家の話ですが、聖書を振り返ったとき、このような「狭い戸口から入る」(ルカ13:24)逆説が生きていることに気づかされます。一粒の麦が死ななければ多くの実は結ばない(ヨハネ12:24参照)、貧しさの中に豊かさがある(マタイ5:3参照)、弱さの中に強さがある(コリントの信徒への第2の手紙12:10参照)、など。結局、新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなければならない(ルカ5:38参照)、即ち、新しい考えを受け入れるためには、古い心を捨てて新しい心を用意しなければならないのですね。古代中国の思想家荘子も「坐忘」(ざぼう)という言葉で、新しいものを取り入れるためには、まず古いものを捨てよと教えています。
 教会も人間の体と同様生きた細胞から成っています。人間の体に新しい細胞が生まれるためには、古い細胞は死ななければなりません。教会には多くの修道会、団体、運動体がありますが、時代の変化とともに、このような組織が解散、消滅することも時々あります。しかし教会の細胞(それぞれの時代によりよく生きたいという希望)が生きている以上、何かがなくなれば、必ず新しい祈りや活動のグループが生まれてくるのです。ですから、過ぎ去っていくものに固執するのではなく、新しく生まれるものを大事にすることが求められているのですね。イエスの警告を思い出しましょう。「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいぶどう酒を欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」(ルカ5:39)
 長引くコロナやウクライナ問題で時代が大きく変化しようとしている今こそ、教会もそれまで大事だと思っていた何かを捨てる決断が求められているのではないでしょうか。それは捨てること自体が目的ではなく、新しいものを受け入れ育てるためにです。

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年間第20主日C年 2022年8月14日

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない、言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ12:51)

何と恐ろしいイエスの言葉でしょうか。この平和旬間、平和について考え、祈っている私たちにまるで挑発するかのような言葉です。他方、イエスご自身「平和をもたらす人は幸いである」(マタイ5:9)と確かに言いました。イエスの言葉には矛盾があるのでしょうか。このためには、当時の時代背景を見る必要があります。
 イエスの時代、ローマ帝国には「パックス・ロマーナ(Pax Romana)」、即ちローマの平和という言葉がありました。紀元前27年の皇帝アウグストゥスの即位から紀元180年の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの死去までの約200年間、帝国に戦争はなく繁栄していました。このことを人々はローマの平和と呼んでいました。しかし、この繁栄の背景には、多くの奴隷の犠牲、一部の特権階級による富の独占、モラルの低下があったのです。当時の記録や遺跡、壁画などから、当時の人々の贅沢と快楽の生活をうかがい知ることができます。人々は飽きることなく世界中から美食を求め、同性婚は普通に行われ、残虐な行為を見世物として楽しんでいました。例えば、剣闘士とは殺し合いをさせられる奴隷のことだったのです。このような状況を人々は平和と呼んでいたのです。従って、当時ローマ帝国の支配下にあったイスラエルにもこの影響は少なからずあったのです。イスラエルでも一部の権力者階級が富を独占し、大多数の人々は貧しさにあえぎ、罪人とされた人たちは人間的な扱いも受けられませんでした。
 このような時代の人々に対してイエスは、「あなた方は、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない、言っておくが、むしろ分裂だ」と警告したのです。  どんな掟や法律、儀式、制度よりも大事なのは人間一人一人であり、イエスのようにその一人一人に対して純粋に無条件に愛をもって接するなら、周囲の人、家族からさえも誤解受け、更には分裂さえも避けることはできない。イエスは自分の道が十字架の道であることを知っていました。しかし、それは自分だけの道ではなく、自分に従う全ての人の道であることも教えたのです。
 このイエスに倣ったアンティオキアの司教イグナチオの殉教は、当時の世相を鋭く反映しています。現在ローマ観光のシンボルといえば円形競技場のコロッセオですが、当時はスポーツ競技だけではなく、残虐な行為も行われていたのです。例えば、当時禁止迫害されていたキリスト者を捕らえて、コロッセオに入れ、そこに飢えたライオンなどの猛獣を放ち、その猛獣がキリスト者を追い回して食べる有様を、数千人の観衆が拍手喝采しながら娯楽として楽しんでいたのです。司教イグナチオもそのようにして殉教したのでした。彼は亡くなる前、ローマのキリスト者に手紙を残しています。
 「私は獣を通ってこそ、神に到達することができるのです。私は神の穀物であり、キリストの潔きパンとなるため、獣の歯で挽かれるのです。世が私の体をも見なくなるとき、そのとき私は本当にイエス・キリストの弟子となるでしょう。こういう道具(獣)よって私が神への犠牲とされるよう、私のためキリストに願ってください。火でも十字架でも獣との戦いでも、何でも私の身に降りかかるのがよいのです。私の願いはただ、イエス・キリストの御許に到達することだけなのです。」(イグナチオのローマのキリスト者への手紙4~5章)
 この司教イグナチオは迫害されている当時の教会に、「キリスト教が世に憎まれるとき、なすべき業は説得ではなく、偉大さを示すことなのです。」(同3章)と伝えています。この言葉は、今年に入って大きく混迷している世界情勢の中で、戦後77年間戦争を経験せず、平和だと思い込んでいた日本と日本の教会への大きなメッセージでもあるのです。

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年間第19主日C年 2022年8月7日

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ人への手紙11:1)

8月6日から15日まで平和旬間です。現在ウクライナ問題で世界は緊迫していますが、ウクライナだけではなく、1989年ベルリンの壁崩壊によって独立した旧ソ連邦の国々も再び大きな危機に直面しています。例えば、バルト海沿岸のエストニア、ラトビア、リトアニアの三国は「バルト三国」と呼ばれていますが、この三国がたどった歴史は、国境を接する大国ロシアからの侵略の繰り返しでした。近代から現代に至っても、バルト三国はソ連に突如占領され、民族の独立どころか、思想言論の自由は否定され、知識人や独立論者はことごとく粛清されたのでした。そうした中で、1989年8月23日バルト三国の人々は、自由、民主主義、民族自決を求め、「自分たちの民族の未来は、自分たちの手の中にしかない」と叫んで、バルト三国がそれぞれ600キロの国境を越えて、タリン、リガ、ビリニュスと200万の人々がお互い手を取り合って史上最大の「人間の鎖」を築いた出来事は、「バルトの道」と呼ばれ、現在ユネスコの世界記憶遺産に登録され、現代史の重要な一部となっています。
 そのバルト三国の一つ、リトアニアには世界無形文化遺産「十字架の丘」があります。その起源はポーランド人とリトアニア人が占領国ロシアに対して蜂起した(1831年の11月蜂起、及び1863年の1月蜂起)ことに始まります。しかしこの蜂起はロシアによって制圧され、処刑された反乱者やシベリアへ流刑された人たちを悼んだ人たちが、一つ一つ十字架を持ち寄って祈ったことに始まります。その後リトアニアはドイツ帝国の崩壊により1918年独立し、「十字架の丘」は平和や独立戦争で亡くなった人のため祈りをささげる場所となりましたが、1940年ソ連の侵攻を受け再び苦難がはじまりました。
 杉原千畝がリトアニアの領事として命のビザによって2139人のユダヤ人を救ったのもこの頃です。1940年7月18日の早朝、閉鎖間際だったリトアニアの日本領事館前に、ヒトラーの迫害を逃れた多くのユダヤ難民が殺到して、日本経由で第三国へ出国する通過ビザを求めてきました。杉原領事が日本政府に問い合わせたところ、「条件を満たさない者にビザを発給してはならない」という返事でした。日本政府に従うべきか、ユダヤ人の命を救うべきか苦悩の末、彼は一か月間にわたって日本の通過ビザを発給し、2139人のユダヤ人を救ったのでした。しかもそのビザは全て彼の手書きだったのでした。しかし彼は帰国後、外交官として政府に無断でビザを発給した責任を問われて外交官を免職となりました。彼の行動が再評価されたのは、1968年8月、イスラエル大使館から彼のもとに電話があり、やがてニシュリと言う名のユダヤが彼のもとを訪れて、ボロボロになったパスポートを見せ、「あなたのおかげで私たちは救われた」と告げたことに始まります。実は、杉原千畝に助けられた多くのユダヤ人が、感謝を伝えるため彼の所在を探していたのですが、なかなか見つけることができなかったのでした。実に命のパスポート発給から28年後のことでした。
 さてリトアニアは1944年、リトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連邦の支配下に入りました。1990年にソ連邦の崩壊とともに独立を果たすまで、リトアニア人たちは、この丘に行き十字架をささげ祈ることで、非暴力による抵抗を示していたのでした。その間、ソ連政府は3度にわたってブルドーザーでこの十字架の丘を破壊しようとしましたが、リトアニア人の信仰まで破壊することはできなかったのでした。1993年教皇ヨハネ・パウロ二世はこの十字架の丘を訪れ、ここが希望と平和、愛、そして犠牲者のために祈る場所であることを世界に告げました。現在、この十字架の丘はリトアニア最大の巡礼地であり、今も多くの人が平和を願ってここで祈りをささげています。
 今日私たちは、このウクライナの隣国リトアニアの苦難の歴史を思いながら、今日のヘブライ書を次のように読んで、ウクライナの人々のために祈りましょう。
 「信仰とは、望んでいる事柄(ウクライナの平和)を確信し、見えない事実(ウクライナの完全独立と国の再興)を確認することです。」

黙想のヒント 

年間第18主日C年 2022年7月31日

「何という空しさ、全ては空しい。」(コヘレトの言葉1:2)

皆さん、今日の第一朗読コヘレトの言葉、どう思いますか。今日も頑張って生きようと思っているのに、何か水を差されたように感じる方もいるのではないでしょうか。しかし、コヘレトは厭世主義について述べているのではありません。確かに、全てのものは過ぎ去っていく。だからこそ、決して無くならないもの、真に価値あるものだけを追い求めて行かなければならないことを述べているのですね。
 そのために、今彫刻のイメージを描いてみましょう。皆さんの前に、木の丸太があるとして、今からキリスト像を彫るとします。まず、頭の中にあるのはキリストの姿です。その姿を思い浮かべながら、手に大きめのノミを持って周りを粗削りします。大体の輪郭が出来たら、今度は少し小さいノミに変えて輪郭を整えていきます。そうして、いよいよ最終段階に来たら、細かいノミを使って、特に一番大事な顔の部分や指先を丁寧に慎重に彫っていきます。そうして、ついに自分の頭の中でイメージしていたキリスト像が出来上がります。つまり、この像が完成するために周りの不要な部分を削り続けて、最後に本当に大事なものだけが残るのです。しかし、実際にキリスト像を彫るためには、キリストへの愛と祈りが必ず必要で、像にはその思いがにじみ出るのです。ある彫刻家が、「隣人へのいたわりや優しさのない人間が創る芸術は、全て嘘だと言ってよい。」と語っていました。私もこの言葉は真実だと思います。
 それでは、私たちが最終的に天に持っていけるものは何でしょう。それは心だけです。それ以外のものを持って行くことはできません。しかし、豊かな心を形作るために、様々なものが必要なのです。それは生きる糧、人との出会い、大自然の恵みと美しさなど、それらは決して空しいものではありません。但し、条件があります。それは、支えてくれる周囲の人への感謝と思いやりがある限りです。これがなければ全ては空虚となるでしょう。
 時は一見過ぎゆくものですが、実際は、心に積もり続けていくものなのです。そうして人生の千秋楽の日、感謝と思いやりで積もり続け、満たされた心一つで神のもとへ帰りましょう。

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年間第17主日C年 2022年7月24日

「求めなさい。そうすれば、与えられる。」(ルカ11:9)

あまりにも有名なこのイエスの言葉、大切な言葉ですが、「現実の生活は大変なのだから、そう簡単に言わないでほしい。人生思い通りに行かないのだから。」と反論したくなる人も多いでしょう。特に、今日年間第17主日は教皇フランシスコが制定した、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」です。日本でも平均寿命が大幅に伸びた今、多くの人が求めているもの、特に病気の快復、健康への憧れについて考えてみましょう。全てが原始的だった太古の時代から、医学や科学技術が進歩した現代に至るまで人間は、「病気が治りますように」「いつまでも健康でいられますように」と願い続けてきました。人間は、心と体のバランスが崩れたり、思考が歪んでしまったときなど、病という形で体に警告が発せられることがあります。イエスの奇跡物語の中でも、大多数を占めるのは病人の癒しです。しかし、現代医学を信じる多くの人にとって、聖書の奇跡物語はつまずきとなっており、病気のことは医者に任せておけばいい、と断言する人も少なくありません。確かにイエスは、病人に手を触れたり、あるいは単なる一言で病気を癒した例もありますが、また「あなたの信仰があなたを救った」と病人に告げることによっても癒されました。(マタイ9:22、マルコ10:52等)人間には本来自己治癒力という偉大な力が与えられているのです。即ち、人間は自分で自分の身に奇跡を行う力があるのです。イエスに癒された人は、イエスとの出会いにより、その自己治癒力が最大限に引き出され癒されたと言えます。
 医師は病気に対する有効な手段を講じる技術をもっていますが、医師ができるのは症状を軽くしたり、抑えたりすることだけで、病気の真の原因に迫り、それを根本的に治すのは、実は、人それぞれに備わった自己治癒力なのです。従って医師の役割は、現代的な医療技術を駆使しながらも、希望を与えながら患者の生きる力、生命力を引き出すことにあり、患者自身にそのような自己治癒力があることを伝え、健康になれると言う信念を与えることです。シュバイツァーはそのことを、「どの患者も自分自身の医者(自己治癒力)をもっている」と口癖のように言っていました。1912年にノーベル医学賞を受賞したアレクシス・カレルは、祈りによって治る見込みのない患者が完治した例を挙げて、人間には誰でも素晴らしい自己治癒力があることを述べています。
 天国や地獄など、この世離れしたものには興味がないが、人間の内にある驚異的な生命力、場合によったら神がかりとも言える自己治癒力を認める人は多くいます。しかし、私は宗教も医学も同じ方向を目指しているように思えるのです。宗教とは、どこかの宗教家が授けるようなものではなく、人間の中に既に現存する神をその人と共に探求し、その力を最大限に発揮していくことにあるのです。人間には元々自己治癒力が備わっているのと同じように、神的力が備わっており、これを最大限に引き出すことが宗教の最大の務めなのです。
 「過去30年間に、私は世界のあらゆる文明国の人々から診察を求められ、数百人にものぼる患者を治療した。人生の後半を迎えた患者たち、即ち35歳以上の人々は、一人の例外もなく、宗教的人生観に最終的な救いを求めた。彼らはあらゆる時代の生きた宗教が、その信徒に与えたものを見失ったがために病気に冒されたと言っても過言ではない。同時に宗教的人生観を取り戻していない人々は、本当の意味で癒されたとは言えないのである。」(カール・ユング)
 健康であることを願う多くの皆さん、本当の健康とは、健康食品やサプリメントにあるのではなく、心が穏やかで平和に満ちた状態を言うのです。怒りや憎しみを足元に置いて、常に周囲の人に感謝しながら、何事も愛を持って接している状態を言うのです。このような心の状態であれば、体に病や痛みがあったとしても、その人は健康です。そのような状態であれば、本来人間に与えられている自己治癒力と神的力を最大限に引き出して、皆さんは病や痛みを乗り越え、それを力強い希望に変えることができるでしょう。
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。」

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年間第16主日C年 2022年7月17日

「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」(ルカ10:42)

今日のルカ福音書におけるマルタとマリアの話は、別に奇跡物語ではなく、律法学者などとの論争でもなく、私たちの家庭にもよく見られる日常生活の一コマです。特に女性で二人姉妹の方なら、昔家庭でこのような経験があり、今日の福音にも共感をおぼえると思います。おそらく姉と思われるマルタは、イエスをもてなそうとしてせわしく立ち働いていましたが、気が付いたら妹と思われるマリアの方は、イエスの足もとに座って話を聞いているだけで何もしようとしない。それで、いささか苛立ちをおぼえて、「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようおっしゃってください。」この言葉は、今でもどこかの家庭から聞こえてきそうな声ですね。それに対してイエスはまず、「マルタ、マルタ」と優しく繰り返した後、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と諭します。

しかし、この最後のイエスの言葉に納得がいかない方は多いのではないでしょうか。「マリアは良い方を選んだ」のなら、マルタがしたことは良くなかったのか、という疑問がわいてきます。客をもてなそうとするマルタの態度は言うまでもなく大切です。しかし、マルタとマリアが二人とももてなしのためにせわしく立ち働いていたのなら、イエス一人をポツンと寂しい状態に置くことになります。日本人は「おもてなし」という言葉が好きです。この言葉は、かつて東京オリンピック開催が決定される前のプレゼンテーション時、滝川クリステルさんが指で「お・も・て・な・し」と表現し、その映像をなつかしく覚えている方も多いと思います。もてなしとは、単に料理などを提供するだけではなく、客に寂しい思いをさせず、話し相手になることもまた大切なもてなしなのです。実は私も経験がありまして、以前何度か家庭集会などで第一部の祈りや分かち合いの後、さて第二部のお茶の時間に移ろうとした時、全員が台所に行って賑やかなおもてなしの準備の声が聞こえてくるのですが、私の方はというと、応接間に一人ポツンと取り残されたという経験があります…。

これはさておき、今日の福音書でマリアがイエスの話を聞くことができたのは、マルタの働きがあってのことであり、マリアの姿はもてなしとは何かということを教えてくれます。この話は、どちらが正しくて、どちらが間違っているというような、優劣の問題ではなく、どちらも必要なのです。私たちにはマリアとマルタが必要なのです。マリアのように神の言葉に耳を傾け、マルタのようにそれを実行に移す姿勢です。人間が二つの肺で呼吸しながら二本の足で歩き、二つの手を合わせて祈るように、私たちにはマリアとマルタが必要であり、この二人を切り離して考えることはできないのです。今日の福音書には書かれていませんが、イエスはきっとマルタにもこう言ったと思います。

「マルタ、あなたも良い方を選んだ。」          

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年間第15主日C年 2022年7月10日

「わたしの隣人とは誰ですか」(ルカ10:29)

今日の福音で、「わたしの隣人とは誰ですか」と律法の専門家はイエスに問いかけました。しかし彼は、自分を中心に円を描いて、その円の中に入る人、例えば友人、家族、同胞のイスラエル人などが自分の隣人であると考えていたのです。しかし、イエスは善きサマリア人の例えを用いて、自分を中心にして円を描くのではなく、自分の助けを必要とする全ての人の隣人にあなたがなるようにと諭されました。
 今日はこのことを、少し趣向を変えて科学の面からアプローチしてみましょう。紀元前4世紀のアリストテレスの時代から中世まで、世界では地球を中心に太陽が回っているという天動説(地球中心説)が一般でした。しかし16世紀にコペルニクスが、そうではなく地球が太陽の周りを回っているのだという地動説(太陽中心説)を唱えました。しかし、当時この考えは受け入れられず、それを継承したガリレオガリレイは宗教裁判で有罪の判決を受けて、一度地動説は退けられたものの、現在地動説に異を唱える人はいません。教会も1960年代、実にガリレオガリレイの死後350年後、彼の有罪判決を取り消して、彼を無罪としました。
 人は誰でも、生来自分を中心として物事を見たり考えたりする個人主義的傾向を持っています。特に、子どもの時は誰でも、自分が世界の中心であるかのような天動説的傾向を持っているのです。しかし、それを教育、習慣、秩序、祈りなどによって、他の人の立場に立って考え、行動する地動説のような考えに移行していくのです。自分たちの地球が宇宙の中心だという考えに固執していた間、人間には宇宙の本当のことが分からなかったのと同じように、自分を中心に物事を見て考えている間は、社会との協調とか、自分が多くの人から支えと援助を受けて生きていることなど、世の中の正しい動きも分からないのです。
 自分の助けを必要とする人の隣人になるとはどういうことでしょう。人生とは、私たちに与えられた持ち時間のことです。人生の重みは時の重みです。時間の使い方は命の使い方です。自分のために時間を使うことは大切です。しかし、人間として更に成長していくためには、人のためにどれだけ自分の時間を使うことができるか、ということによるのです。
 「コペルニクス的転回」(哲学者カントが、自分の哲学のとらえ方を逆転させたことを、コペルニクスが天動説を捨てて、地動説を唱えたことを例えた)とは、発想を根本的に変えることによって、ものごとの新しい局面が開かれる例えとして用いられますが、今まで自分のためにだけ時間を使ってきたと思ったのなら、今コペルニクス的転回で、他の人を中心として、人のために時間を使いましょう。
 人生とは、私たちに与えられた持ち時間のことです。人生の重みは時の重みです。時間の使い方は命の使い方です。命とは感じ取るもので、目には見えないものです。自分の助けを必要とする隣人のため、自分の命である時間をささげましょう。 

黙想のヒント 

年間第14主日 2022年7月3日

「あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)

 イエスは弟子たちを派遣するにあたり、それは「狼の群れに子羊を送り込むようなものだ」ルカ10:3)と警告しながらも、「あなた方に害を加えるものは何一つない」(ルカ10:19)と保証し、そして最後に「あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と弟子たちを励ましました。パウロはそのことを、「私はイエスの焼き印を身に受けている」(ガラテヤ6:17)と表現しています。
 私たちも洗礼によってイエスの弟子となり、名前が教会の洗礼台帳に書き記されましたが、同時に、イエスは私たちの名前を天国台帳にも書き記してくださった。嬉しいことです。そのとき、イエスは私たちのためにポイントカードを作ってくれたと思うのですね。私たちの身近にポイント制というのがあります。何か買い物をしたり、施設を利用したりするとポイントカードにポイントをつけてくれて、それがある程度貯まると、それで買い物ができたり、施設を無料で利用できる制度です。しかし、ポイントは忘れてしまっていることが多く、時々店員さんから、「お客様ポイントが貯まっていますよ」と声をかけられて気が付くことが多いのですね。
 確かに私たちは知らず知らずのうちに罪を重ねます。でも同時に知らず知らずのうちに善いこともしているのですね。困った人にそっと差し伸べた手、悲しむ人と共に流した一滴の涙、落ち込んだ人にかけた小さな励ましの言葉など。でも、このようなことは多くの場合、当然のことをしただけで、善いことをしたという意識はないし、次に日には忘れてしまっていることが多いのですね。だいたい、善には自意識というものがないのです。反対に、自分で善いことをしたと思ったら、どこか自己満足があるのではないでしょうか。でも神は私たちが忘れてしまった小さな愛の数々にこそしっかり目を留め、忘れずに天国にポイントをつけてくださっているのです。確かに、私たちは今まで多くの罪を重ね、赦しの秘跡でも忘れてしまった罪の赦しを願います。しかし、もし神が私たちの罪にばかり目を留めているのなら、それは私たちの神ではありません。愛である神(ヨハネの第一の手紙4:7~8)はご自分の似姿として私たち人間を創造されました(創世記1:27)。それならば、その神ご自身が私たちの善いところに目を留めてくださらないはずがないでしょう。
 イエスは十字架上で亡くなる前、ご自分を苦しめた人たちの赦しを父なる神に願って、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:24)と祈りました。でも、同時に私たちのためにも、「父よ、彼らを見捨てないでください。彼らは、自分たちがしている小さな愛の業の偉大さを知らないのです」と父なる神に永遠に祈り続けていると思います。そして、いつか私たちがこの世の務めを終えた時、天国の店員である天使から「君、ずいぶん愛のポイントが貯まっているよ」と言われ、皆さんの顔が思わずほほえみに満ちあふれることを願っています。       

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年間第13主日 2022年6月26日

「わたしに従いなさい」(ルカ9:59)

 今日の福音書の中で、イエスから呼びかけられる前から、熱烈に従う意思を表明する人もいれば、「わたしに従いなさい」というイエスの呼びかけに対して、条件をつけて尻込みをする人もいます。確かに、イエスの呼びかけに対して、尻込みせず、無条件に従うことは大事です。しかし、イエスのため、教会のため、人々のため頑張りたいと思う時、しばらく立ち止まって、何が「霊の導き」(ガラテヤ5:16)であるのか、自分を振り返ることも必要です。
 あるプロゴルファーが「奇跡の方程式」という言葉を残しています。それは「奇跡=才能×努力×感謝力」だというのです。彼は阪神淡路大震災で多くのものを失いました。その結果、大切なのはお金でも地位でも名誉でもなく、人の愛と優しさ、思いやりと感謝と前向きな心だということが分かりました。震災までは、どんな状況でも不屈の精神で頑張れる人が、真の勇者だと考えていたのですが、震災後は、真の勇者とは頑張れることに感謝できる人だということが分かりました。人生何がピンチで、何がチャンスかその時点では分からない。でも、どんな時でも正直に悔いなく、感謝の心を持って生きると大きなパワーが生まれて奇跡を起こしてくれる。それは誰が起こしてくれるのか。それは自分ではなく、周りの人だと言うのです。自分の力で奇跡は起きないと言うのですね。感謝の心は人を大きくし、美しく、そして強くします。いくらゴルフが強くてもプロにはなれない。強い人がプロになるのだ。そして強い人はいつも周りの人に感謝している。だからますます強くなる。いろいろなプロの人を見てそう思うと、彼は語っていました。
 彼はプロゴルファーとして話したのですが、この「感謝力」という言葉は宣教活動にも当てはまります。情熱、熱心、一途という言葉は魅力的ですが、そこには大きな落とし穴もあります。それは周りが見えなくなるということです。時々立ち止まって、今自分がしていることは本当に正しいのかと、振り返ってみる必要があります。特に自分は決して間違っていないと確信する時にこそ、振り返りは必要です。場合によったら自分中心に物事を考えていることもあり、周りの忠告も受け入れず、やがて迷走状態に陥ることがあります。そのような時何か大切なものが欠けてないでしょうか。信仰生活においても、人生においても大きな実りをもたらす大法則、それは神と周囲の人への感謝の心です。そして、それこそが「霊の導き」です。感謝は心を広げます。感謝は感謝を呼び覚まします。そして大切なことは、何か願いがかなってから感謝するのではなく、「感謝を込めて祈りと願いをささげる」(パウロのフィリピの教会への手紙4:6)ということです。感謝のあるところ、既に実りあり。宣教だけではなく、仕事でも勉強でも努力を重ねながらも、プラス「感謝力」でパワーアップしましょう。

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キリストの聖体C年 2022年6月19日

「すべての人が食べて満腹した」(ルカ9:17)

 満腹という言葉は幸せを表す言葉の一つです。しかし、満腹は心が満たされてこそ言える言葉です。腹という言葉は胃袋だけではなく、心も含みます。食事をして幸せを感じるのは、どういう時でしょうか。食事をするときの心の状態は、体にも大きな影響を与えます。良くない心の状態での「やけ食い」は、時々体調不良をもたらします。仮にご馳走を前にしても、夫婦喧嘩をしていれば子どもは食べようとはしません。反対に、一見質素に見える食事でも、家族が皆で笑いながら食べるならばそれは本当のご馳走です。美味しく食べるあなたの喜びが私の喜びとなり、私の笑顔があなたの笑顔となる。食事を楽しく分かち合う時、同時に心も分かち合っているのです。本当のご馳走は素材によるのではなく、そこに喜びと平和があるか否かによります。
 今日のパンの奇跡の場面を私は次のように想像しています。そこには疲れた大勢の人々を思いやるイエスの愛が満ち溢れており、弟子たちは先ずお年寄りや子どもを優先してパンを配り、次に一般の人、そして最後に弟子たちとイエスがパンを食べたと。そこには、嬉しそうにパンを食べる一人の子どもを、同じように嬉しそうに見つめるイエスのまなざしがあった。イエスは尋ねた。「美味しいか」子どもは答えた。「うん、美味しい」と。群衆はパンを食べながら、同時にイエスの愛に心が満たされた。愛があったから胃袋も満たされた。これが本当の満腹です。
 このパンの奇跡の話は、家庭や教会で時々再現されます。教会や家庭でパーティーを催したところ、予想に反して大勢の人が来た。これは困ったなと思いながらも、楽しく会話しながら食べていたら皆満足して、結果的に食事も残ってしまったという経験があると思います。少ない食事で皆満腹し、しかもなぜ残ったのか。そこには喜びがあったからです。
 「足りないものを嘆くのではなく、今あるものを大いに喜ぶ。それが真の賢者である。」と古代ギリシアの哲学者エピクテトスは言いました。孔子も「足るを知る」との教えを説きました。今与えられたもの、そして与えられた家族に感謝し、そこに喜びを見出すこと、これは宗教を越えた人間の幸福のスタートラインです。
 今日の黙想のヒント:私たちが満たされたいのは胃袋ではなく、心である。愛と喜びがあれば、わずかなものでも充分である。

黙想のヒント 

三位一体の主日C年 2022年6月12日

「私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。」(ローマの教会への手紙5:3~5)

 苦難は苦難で終わらない。必ず希望を生みだしてくれる。嬉しい言葉で、私自身聖書の中の好きな言葉の一つです。でも、何もしなくても苦難が希望になるわけではありません。それなりの、意識化や訓練、努力が必要です。苦難の中にも、神の導きやチャンスを見出してそれを希望へと変容させるためには、冷静な心と判断力が必要です。それを一般に、ぶれない心とか不動心とかと言います。そのために教会は、規則正しい生活が霊的生活の出発点であることを伝統的に説いてきました。規則正しさ生活の指針にして不動心を保つことは、教会だけではなく、社会の指導的な立場の人たちの中にも、あるいは世界的なアスリートの中にも見ることができます。
 例えば野球のイチロー選手は「普段の自分でいることが僕の支え」だと言いました。ヒットが出たから好調、出ないから不調というのは周囲の評価であって、ヒットが出ない日が続いても、バッティング感覚さえ失わなければ心配はないと言うのです。いけないのは、何打席もヒットが出ないことを焦り、それを次の打席までもっていくこと。そうならないためには、常に平静心、つまり「普段の自分」であることが必要なのですね。
 驚くのは彼の所作です。全ての所作がいつも同じでした。例えば、試合開始で守備につく時、ベンチから飛び出した彼は、必ず19歩から20歩でファールラインを越える。そして自分の守備位置のライト方向へ走りますが、いつも40歩で走りを緩め、15歩くらいで定位置につく。打撃でもバッターボックスに入って構えたときの姿はあまりにも有名でした。彼はいつも同じ行動をとることで、自分なりのリズムを保ち続けていたのですね。そのような彼の態度には何か修行僧や修道者の趣がありました。
 またイチローは本拠地シアトルで試合がある日の朝食は、必ず奥さんが作ったカレーライス、他の球場で試合があるときはチーズピザだったそうです。いくら好きでも飽きるのではないかと思いますが、彼は試合中の異変を食事のせいにしたくなかったからだそうです。こうやって徹底的に自分をコントロールしながら、「普段の自分」を保ち続けることによってあの大記録に到達したわけです。
 彼は自分の目標に関して、「目標は高く持たなければならないが、あまりにも高すぎると途中で挫折してしまう。だから小さくても自分で設定した目標を一つ一つクリアする。それを積み重ねていけば、いつかは夢のような境地に到達する。」と語っていました。今の自分からかけ遠く離れた目標ではなく、努力すれば手の届く小さな目標を設定してそれをやり通し、自分との約束を果たす。そのような達成感を積み重ねた彼は、「小さなことを重ねることが、とんでもないところへ行くただ一つの道だ」とも言いました。このことはイエスを始め、幼きイエスのテレジアやマザーテレサやヘレンケラーなど、教会の聖人や偉人達も、表現は異なりますが、皆同様に言い続けてきたことです。
 「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」(ルカ16:10)
 「日々の小さな奉仕の一つ一つに愛をもってささげることが天国の頂きへの道です。」(幼子イエスのテレジア)
 「私たちは偉大な事をする必要はありません。しかし小さな事に偉大な愛をもってささげることはできます。」(マザーテレサ)
 「人々への思いやりがあれば、小さな善意を大きな貢献に変えることができます。」(ヘレンケラー)
 平凡なことを完成させるのは非凡な業です。
 苦難を忍耐に、忍耐を練達に、練達を希望に変えることは、自分をコントロールしながら常に「普段の自分」を保ち続け、日々の小さな目標を、愛をもってささげながら、同時に支えてくれる周囲への感謝を決して忘れないことです。
 最後に、「何か素晴らしいことを達成するための努力は、決して無駄にならないことを覚えていなさい。」(ヘレンケラー)希望は私たちを欺くことがありません。

黙想のヒント 

聖霊降臨の主日C年 2022年6月5日

「聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。」(聖霊の続唱・典礼聖歌352)

復活したイエスは天に昇り、やがて弟子たちの上に聖霊を送られました。この聖霊降臨によって、あれほど弱かった弟子たちの人間性は180度変わり、力強い宣教者となって世界中に出かけていきました。このように聖霊の働きは私たちを前進させ、若返らせることです。聖霊は、御子イエスや御父のように私たちが祈る対象というよりは、むしろ私たちの心を訪れて希望を注いで祈らせて、私たちを御子イエスへと、御父へと向かわせてくださるお方です。ですから、聖霊に対する祈りはただ一つ、それは「聖霊来てください」なのです。この祈りは今日聖霊の続唱でささげられます。この祈りは、何も日本で作られたものではなく、Veni, Sancte Spiritusとして教会で昔からささげられてきた祈りなのです。この歌は「聖霊来てください。あなたの光の輝きで私たちを照らしてください」で始まりますが、この歌詞の内容は光、水、風のイメージを用いながら私たちに、そして教会に若さと希望をもたらすもので、「教会の青春賛歌」と言っても過言ではないでしょう。青春というと、自分にはもはや関係ないと、一笑に付す年配の方もいるかもしれません。しかし青春とは年齢で推し量れるものではないのです。
「青春」というサミュエル・ウルマンの詩があります。この詩はマッカーサーの座右の銘で、戦後彼の執務室に掲げてあったものをある人が見て感動して翻訳し、やがてそれが松下幸之助の目にとまって紹介され、それ以来多くの日本人の心をつかんできました。この詩を聖霊の続唱と重ねて読んでみてください。

「青春とは 人生のある時期を言うのではなく 心の持ち方を言うのだ
揺るがない意志 豊かな想像力 燃えるような情熱
臆することを斥ける果敢な勇気 安易を拒む飽くなき冒険心
こういう心の持ち方を青春と言うのだ
年を重ねるだけでは人は老いない
理想を失う時に初めて老いが訪れる
歳月は皮膚のしわを刻むだけだが 情熱を失う時に精神は萎む
思い煩い 疑惑 自信の喪失 恐怖 失望
このようなものこそ 意気を萎えさせ
精神を塵芥と朽ちさせる長い年月のようなものだ
70歳であろうと 16歳であろうと 人は持ち得るのだ
それは 驚異への素朴な愛慕心 夜空の星
その輝きにも似た 美しい出来事に対する憧憬
事態に直面した時の毅然とした挑戦 
未知なるものへの少年のような好奇心 人生への歓喜と興味
人は信念とともに若く 疑惑とともに老いる
自信とともに若く 恐怖とともに老いる
希望を見つめる限り若く 失望とともに老いて行く
大自然から 人から 創造主から語りかけられる美と喜悦 勇気と壮大さと力
このような声に耳を傾けている限り 人の若さは失われない
こうしたささやきが全て聞こえなくなり 心の奥まで悲嘆の雪が吹き込み
冷たい皮肉で凍てついてしまった時
初めて人は全く老い込んでしまうのだ」
 この詩はウルマンが70歳の時の作です。皆さん、頭を上げましょう。

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主の昇天C年 2022年5月29日

「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」(使徒言行録1:9)

 今日は主の昇天の主日です。主の昇天とはイエスが目に見えない姿となって決定的に御父のもとに帰ったことを意味します。伝統的なイエスの昇天を描いた絵画、例えばイタリアの画家ガロファロの「主の昇天」では、聖書の文学的な表現に従ってイエスが大空に浮かび、弟子たちや人々が驚嘆して見上げる様子が描くことによって、イエスが人々から離れ、御父のもとへ帰る姿が強調されています。来週は聖霊降臨の主日ですが、弟子たちはイエスが目に見えない姿となった後、聖霊の働きを受け、初めて生前のイエスの言葉と行いの意味を理解し、その後力強い宣教者となって世界中に福音を宣べ伝えて行きました。同じように、子どもが親のことを本当に理解するのは、親が死んで目に見えない姿となったときかも知れません。弟子たちは、イエスが見えない姿となった後、イエスのことを理解して成長していったのであれば、私たちにとってもそれは同じで、少し寂しく感じるかも知れませんが、私たちの人生の道行として、また子どもの成長のためにも、このことをしっかり受け入れましょう。
 ところで、一般社会では人が亡くなることを、「帰らぬ人になる」という言い方をすることがありますが、私たちはこのような寂しい言い方は決してしません。私たちは帰らぬ人になるのではなく、人生の旅路の後、帰るのです。どこへ帰るのかと言いますと、私たちを派遣してくれた天の御父のもと、魂の故郷へ帰るのです。ですから、教会では人が亡くなることを帰天と言います。イエスは御父から遣わされ、御父のもとへ帰りました。私たちもイエスと同じように神からこの世に遣わされました。一般に遣わされた人は、その使命が終わった後、派遣した人のもとに帰ります。もし派遣された人が、その使命を終えても派遣した人のもとに帰らなかったら、場合によったら、それは追放とか、放浪とかと呼ばれます。魚のサケでさえ産卵のため生まれた川に帰ります。それならば私たちこそ御父の家、魂の故郷へ帰らないはずがありません。マラソン走者が42,195キロの長い道のりの中で最も力を入れるときを、ラストスパートと言います。そろそろ人生のラストスパートに来ている方も多いと思います。だからゴールを目指して、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」(ヘブライ人への手紙10:22~23)

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復活節第6主日C年 2022年5月22日

「父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)

 私たちは無数の記憶の中で生きており、無数の記憶によって人格が形成されてきました。記憶は人間の体の一部であり、そして精神性の全てです。あの弱かった弟子たちを立ち上がらせたのは、聖霊によって奮い立たされたイエスの記憶です。私たちは永遠の命については信じ希望を持っていますが、まだおぼろげにしか分からない。しかし確実に言えることがあります。それは、記憶は残るということです。やたらと死んだ後のことを想像しながら生きるのはよくありません。大事なのは自分が死んだ後、どのような記憶を残すかということです。記憶は普段眠っていることが多いのですが、例えば私たちが何か大きな困難に直面したとき、ある記憶、例えば亡くなった親の一言などを思い出し、それによって再び勇気と希望を持って歩むことができた経験があり、反対に突然悲しい記憶がよみがえり落ち込んだ経験もあります。私たちは自分がこの世の生涯を終えた後も、後に続く人を生かすことができるし、また生かさなければならないのです。私たちはイエスのように死んだ後聖霊を送ることはできませんが、よい記憶によって残された人に愛の霊を送ることはできます。よい記憶は人生の道標(みちしるべ)です。「私は平和をあなた方に残し、私の平和を与える」(ヨハネ14:27)とイエスは弟子たちに言いました。私たちもしっかりと残さなければならないものがある。それはよい記憶です。私たちはこの言葉を後に続く人たちのためにこう読み替えて残しましょう。「私はよい記憶をあなた方に残し、私のよい記憶を与える。」後に続く人への最大のプレゼント、それはよい記憶、そしてよき死です。

「人は生きたように死んでいく」とよく言われます。感謝して生きてきた人は感謝しながら亡くなりますし、不平不満で生きてきた人は不平不満で亡くなります。よき死を迎えるためには、よき生を生きなければならないのですが、そこにはかなり個人の主観が入ってきます。あの人にとってはよき生はこうだったとか、ああだったとか、皆違います。あるキリスト教系病院のホスピスの医師の言葉です。「私が2500人近くを看取った中で感じることは、よき生とはやはり前向きな人生ということ、それから周りに感謝できるということ、この二つに集約されるような気がしてならないのです。物事には必ずプラスとマイナスの面がありますが、物事のプラス面をしっかり見た生き方をしてこられた方々、そういう方々の生は、やはり前向きでよき生なのだろうと思うのです。それから感謝はとても重要なキーワードです。家族に対して、周りの人たちに対して、最後に「ありがとう」と言いながら、そして自分も相手からも「ありがとう」と言ってもらいながら生を全うできるのも、よき生だと思うのです。そのような生を全うできる人を、私は人生の実力者と呼んでいるのです。」

よい記憶=プラス思考×感謝の心 これで後に続く人に愛の霊を送りましょう。

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復活節第5主日C年 2022年5月15日

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)

 皆さんは、家庭で「愛する」という言葉をどの程度使いますか。大事な言葉ですが、実際は日常的にほとんど使っていないと思います。そういう意味で、非日常的な言葉だと思います。もちろん、家庭に限らず、周囲の一人一人を大切に思い、それを実践していても、愛するという言葉となると、何かくすぐったいような、照れくさいような、そんな印象を日本人は持っています。

 もともと日本には明治時代まで愛するという動詞はありませんでした。人に対する好意は、それまで「恋し」や「愛し」(いとし)などの心情を表すあいまいな言葉で表現されてきました。また愛しいと書いて、「かなしい」とも一般に読まれてきました。また仏教の伝統の中で「愛」という言葉には、相手に対する執着を表す自己中心的な意味があり、相手の気持ちになって、相手を思いやる心はむしろ「情」(なさけ)という言葉で表現されてきました。従って、日本ではもともと恋愛以外に、広い意味でのLoveを表す言葉がなく、明治になって西洋文学を翻訳するとき、漢語から愛という字を取って、「愛する」という新しい言葉が作られました。しかしそれが本格的に用いられるようになったのは昭和以降です。

 今でも一般に愛するという言葉は恋愛の意味で使われることが多いせいか、口に出して愛するというと、何か軽い印象を与えるかも知れません。しかし、不思議なことに口に出して言えば軽い印象を与えても、本当は心の奥底で憧れている言葉、それが愛です。「愛したい」「愛されたい」と心の奥底で願いながらも、直接には言わず、思いやり、感謝、尊さ、美しさ、など様々な言葉で表現しているのです。日本人は今でも「わび」「さび」を大切にする文化の中で生きており、その角度から福音に近づくことも一つのミッションです。

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」このイエスの掟はしっかりと心の奥底に収めながらも、様々な言葉と表現でこの掟を実践していくのが、日本におけるキリスト教理解に深みを増していくのではないかと思います。

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復活節第4主日C年 2022年5月8日

「わたしは彼らに永遠の命を与える」(ヨハネ10:28)

 永遠の命とは何でしょうか。永遠の命は神秘で、実は、私にもまだよく分かりません。でも、「私は永遠の命を信じます。何故なら、私には永遠なるものへの憧れがあるからです。」(ヘレン・ケラー)この「永遠なるものへの憧れ」は日々の小さな生活の積み重ねの中から生まれてきます。永遠とは時間の長さのことではなく、時の概念を超えたことを言います。この時を超えたもの、それは人間の心です。心は何十年も前のことを呼び覚まし、遠い将来を思い描きます。時は過ぎ去るとよく言います。確かに、時は風のように過ぎ去るように見えながらも、実は心に積もってゆくものなのです。人生は大きな砂時計のようです。砂時計は、時の経過を上部の砂が減ることで表しながら、同時にその砂は音を立てずに下に積もっていきます。この砂時計のように、時は過ぎ去りながらも、心に積もり続けるものなのです。時の流れの中で経験したこと、今日出会った人、今日見た景色、今日感じたこと全てが砂時計の砂のように、しんしんと積もる雪のように、わたしたちの心に積もり続けて人生を織りなしながら、「永遠なるものへの憧れ」を形成していくのです。この心に積もったことは、普段眠っていることが多いのですが、必要なときにはしっかりと目を覚ましてくれるのです。「雪」という三好達治の詩があります。

 太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪ふりつむ

 次郎を眠らせ 次郎の屋根に雪ふりつむ 

 わずか二行の詩ですが、しんしんと雪が降り積もる北国の冬の中にも、何か温もりを感じさせてくれる詩です。太郎と次郎を眠らせたのは誰でしょうか。母親でしょうか。雪は何を意味するのでしょうか。母親の愛情でしょうか。自由に解釈できますが、今の私には、太郎と次郎に表される人間を眠らせたのは神で、雪は時の重みを意味しているように思えるのです。人間が眠っているうちに、即ち知らず知らずの間に、あらゆることを経験させてくれた時の重みは、人間の心に積もり続けてゆく。だからこそ、私は今日のこの一日を自分の一生の全てと思って、この瞬間、瞬間に心を込めて人生をしっかり紡ぎながら、「永遠なるものへの憧れ」を膨らませていきたいと願っているのです。

黙想のヒント 

 復活節第3主日C年 2022年5月1日

「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れていかれる。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」(ヨハネ21:18~19)

皆さんの中には、この福音の言葉に中に、自分の将来の姿を感じ取っている方もいるのではないかと思います。確かに、若いときは自分のしたいことをして、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると今までできていたことができなくなって、子どもの世話になり、場合によったら、行きたくない施設に連れていかれることもあるでしょう。しかしどのような姿であれ、それが本来、自分が望まないものであったとしても、最後まで神の導きを信じて品位と礼節を保ち、そのことによって神の栄光を現していきましょう。

江戸時代、播磨に滝瓢水(ひょうすい)という俳人がいました。生涯無我、無欲の人でした。彼は、「浜までは海女も蓑(みの)きる時雨(しぐれ)かな」という句を残しています。ある日、瓢水の高名を慕って一人の僧が訪ねて来ましたが、あいにく留守で、どうやら風邪をひいて薬を買いに行ったらしい。その僧は「さすがの瓢水もいよいよ命が惜しくなられたか」と、半ばあざけるかのように言い捨てて立ち去りました。家に戻った瓢水はそれを聞いて、この句をその僧に届けたのですが、その句を見た僧は我が身の知恵のなさを恥じ、再び瓢水のもとを訪れ詫びたそうです。決して命が惜しくて薬を買いに行ったわけではなく、どうせ死ぬのだからと命を粗末にするのでもなく、与えられた命を最後まで美しく保ちたいという思いをこめて、「浜までは海女も蓑きる時雨かな」と詠んだのです。浜に行けばどうせ濡れるのだから、雨が降ったからといってどうということはない、そのまま濡れて浜まで行けばよいというのではなく、雨が降ったら我が身をかばって蓑をまとい、海女は女性としての品位を保ちながら浜まで行くというのです。

 この「浜」は、私たちの生涯の最期を示していると言えます。どうせ仕事を辞めたのだから、どうせ老い先短いのだから、と言って投げやりになるのではなく、前向きに生きて、与えられた命を美しく輝かせながら、生涯の最後の日まで「蓑を着て」神への信頼と感謝の内に品位と礼節を保ちながら、「人生の浜」まで歩んで行きましょう。

 いい加減な「どうせ」の判断がいけないのは、お年寄りだけではなく、若い人にも当てはまります。「どうせ」はすべきことから逃れる自分を欺くセリフです。大きな課題に直面したとき、そこから逃げる理由が「どうせ無理」の理論です。どうせ無理ではなく、「それならば、こうしたらできる」と発想を切り替え、勇気と希望を持って最後の最後まで努力することによって、あらゆる人生の可能性が開けることになります。

お年寄りでも、若い人でも、この浅はかな「どうせ」「どうせ無理」の理論が全てを腐らせ、あらゆる可能性を奪うことになります。             (赤波江神父)

黙想のヒント 

 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)C年 2022年4月24日

「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)

復活したイエスは静かです。まるで何事もなかったかのように、受難の苦しみが嘘であったかのように静かに弟子たちのもとを訪れます。しかし受難があったのは厳然たる事実で、受難がなければ復活もなかったのです。十字架の苦しみの絶頂にあったイエスは自分の復活を予知していたのでしょうか。もしそうであったとすればそれは単なる茶番劇であり、真の意味で受難ではなかったでしょう。受難とは誰からも見捨てられて、絶望の淵に立ち、自分が神の子であることも忘れたような状態だったのです。
 苦しみの黙想なしにキリスト教の霊性はあり得ません。しかしキリスト教以外でも、歴史を通して苦しみ、挫折、試練に意味を見出して人生を究めようとした人たちも多かったのです。
 中国の思想家孟子(紀元前372頃-289頃)の「告子章」の中に次のような箇所があります。「舜(しゅん)は田畑を耕す農夫から身を起こして、ついに天子となり、傳説(ふえつ)は道路工事の人夫から挙げられて武丁(ぶてい)の宰相となり、膠膈(こうかく)は魚や塩の商人から文王(ぶんのう)に見出され、管夷吾(かんいご)は獄吏の手に囚われた罪人から救い出されて桓公(かんこう)の宰相となり、孫叔傲(そんしゅくごう)は海辺の貧しい生活から楚(そ)の荘王(そうおう)に取りたてられて令尹(れいいん・楚の宰相)となり、百里渓(ひゃくりけい)は賎しい市民から秦(しん)の穆公(ぼくこう)に挙げ用いられて宰相となった。故に、これら古人の実例を見ても分かるように、天が重大な任務をある人に与えようとするときには、必ずその人の精神を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、その肉体を飢え苦しませ、その行動を失敗ばかりさせて、そのしようとする意図と食い違うようにさせるものだ。これは天がその人の心を発奮させ、性格を辛抱強くさせ、こうして今までにできなかったこともできるようにするための貴い試練である。いったい、人間は多くの場合過失があってこそ、はじめてこれを悔い改めるものであり、心に苦しみ思案に余って悩みぬいてこそ、はじめて発奮して立ち上がり、その煩悶や苦悩が顔色にもあらわれ、呻き声となって出てくるようになってこそ、はじめて解決の仕方を心に悟るものである。国家といえどもまた同様で、内には代々法度(おきて)を守る譜代の家臣や君主を補佐する賢者がなく、外には対抗する国や外国からの脅威がない場合には、しぜん安逸にながれて、ついには必ず滅亡するものである。以上のことを考えてみると、個人にせよ、国家にせよ、憂患(しんぱい)の中にあってこそ、はじめて生き抜くことができ、安楽にふければ必ず死を招くということがよくわかるのである。」
 歴史を通して人間を導く神は、多くの試練を通してこそ人生の意味を人間に教え、やがてその試練を感謝に変えて、人生の道行きの末に、最も完熟した品格を備えて、信頼の内に魂の故郷へ帰ることを望んでおられるのです。         

黙想のヒント 

復活の主日 2022年4月17日

「イエスは死者の中から復活することになっている」(ヨハネ20:9)

復活の信仰は、教会の信仰の中で中核を成すものですが、イエスの他の倫理的な教えと違い、非常に難しいものです。何故ならば、私たちはまだイエスのように死を経験していませんから。死の彼方には何か大いなるものがあるに違いないと信じていますが、まだそれを見ていません。その私たちの今の状態は、ちょうど夜明け前の曙の状態に譬えることができます。曙とは夜の闇が終わり、周りが少しずつ明るくなる状態を言います。間もなく太陽が昇るのは紛れもない事実です。しかし私たちはまだ太陽を見ていない。
 別の角度から考えると、例えばこの宇宙はバランスを保ちながら成長し続けています。宇宙は循環しながら誕生と死を繰り返しています。生命に寿命があるのはそのためです。但し、生命のエネルギーは死によって消えるのではなく、それは宇宙のエネルギーと同化して、再び新たな生命体に宿る準備であり、新たな生命への回帰です。このことを教会では死と復活と呼んでいます。死があるからこそ生命のエネルギーは不滅で永遠なのです。一人一人顔も違えば、性格、個性も違うように、与えられた寿命もそれぞれ違いがあります。問題はどれだけ満たされた人生であるかということです。イエスは33歳で墓に入りました。
 この世界は二元的なものから成っています。闇と光、雄と雌、暑さと寒さ、主観と客観、内面と外面、肯定と否定、入口と出口、そして誕生と死など。そしてこの二元性が人間の本性の基礎になっているのです。アメリカの思想家エマソンは、この世界には「代償の法則」というものがあると言いました。この世界で、自然で、そして人生で何か失ったものがあれば、必ずその代償として、それと同等かそれ以上のものが神から与えられます。また反対に何かを得たのであれば、その代償として他のもの失わなければなりません。神と自然は独占や例外を望まないのです。何事においても発生のみ、消滅のみということはないのです。今までの人生で多くの犠牲を払ってきたと思ったのなら、実はそれ以上の恩恵も受けてきたのです。自分の長所と思っていたことが却って自分を苦しめることがあり、また反対に自分の欠点に救われなかった人もいません。私たちの真の強さは弱さから生い茂ってくるのです。例えば、親しい人の死に接して、それは喪失以外の何ものでもないと、しばらくは絶望の淵に立たされても、やがて亡くなった人の思いでは自分の人生の導き手、道しるべ、守り神であることを知るようになります。それはまず、イエスの弟子たちが経験したことでした。
 一つの幸せの扉が閉じられるとき、神は必ず新たな幸せの扉を開いてくれているのです。しかし多くの場合、私たちは閉じられた扉にばかり目が行き、新しい扉に気づかないことが多いのです。しっかりと目を凝らして見つめましょう。私たちが何かを犠牲にしたのなら、神は必ず、それと同等かそれ以上のものを与えてくださっているのです。大きな希望を持って新しい扉を開きましょう。私たちは復活したイエスと同じように、もう古い墓にはいないのです。                     

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受難の主日(枝の主日)C年 2022年4月10日

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)

 今日のルカによる受難の朗読で、二人の犯罪人が登場しました。伝説によると、イエスをののしった犯罪人の名前はゲスタスで、回心してイエスに最後の望みを託した犯罪人の名前はディスマスだそうです。実は、このディスマスは列聖されて教会の聖人の名簿に名前が挙げられているそうです。列聖式は特定の人に関して、この人は確実に神の栄光に入ったことを宣言することで、通常はローマで教皇が宣言することによって行われますが、歴史上唯一イエスによって列聖されたのが十字架上で回心したディスマスです。というのは、イエスから「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)と宣言されたことが、彼は確実に神の栄光に入ったことを意味するからです。ですから彼は正しくは聖ディスマスです。
 しかし彼はうらやましいですね。亡くなる直前のたった一言で天国に行ったどころか、聖人にまでなったのですから!時々、亡くなる直前に洗礼を受けたり、長い間回心しなかった人が、秘跡にあずかることを天国泥棒と皮肉る人もいますが、ディスマスの回心は天国泥棒のありがたさを述べているのではないのです。それは、人は信じたときに救われるのであり、イエスと出会ったときが恵みのときであることを意味しているのです。ですから、死ぬ前に秘跡にあずかればそれで天国にいけると安易に考えて、怠惰にしているとその秘跡にあずかるチャンスも失うことになります。死ぬ前に死の準備をしても遅いのです。それは元気なうちから準備しなければならないのです。人は20年かけて成人式を迎えます。それならば、死の準備もそれくらいの年月をかけて準備しましょう。なぜならば、死は人生の千秋楽だからです。
 ところで、イエスをののしったゲスタスはどうなったのでしょうか。ディスマスは回心して聖人となった。それでは、イエスをののしったゲスタスは地獄に行った…?しかしこう短絡的に考えてはいけません。教会は列聖式によってある特定の人が確実に神の栄光に入ったことを宣言しても、ある特定の人が確実に地獄に落ちたなどということ宣言したことは一度もないのです。救いは神秘です。神が人をどのような方法で救いに導くかは、神のみぞ知ることで、わたしたちは神の協力者として、最後まで罪人の回心を祈り続けなければならないのです。
 しかし、わたしにはディスマスとゲスタスが、二人の人間というよりも、同じ人間の二つの側面というふうにも見えるのです。わたしたちはゲスタスのように神を呪ったり、ディスマスのように自己を反省して神に立ち返ったり、生涯そのことの繰り返しです。でも生涯の最期にはイエスのように、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言いたいものです。
 最期に再びゲスタスのことについて。彼はディスマスから「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と言い、イエスに最後の望みを託します。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と。そして彼はイエスから楽園を約束してもらったわけですが、その話を横で聞いていたゲスタスはディスマスにたしなめられて反省し、「そうか、確かに俺も悪かった」と言い、彼もイエスに「俺のことも忘れないでくれ」と最後の望みを託します。そして彼もまたイエスによって「あなたもまた今日わたしと一緒に楽園いる」と言ってもらえたと、福音書には書かれていませんが、このように想像しながら福音書を読むことも、全ての人の救いを望む神のみ心にかなっていると思いますよ。

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四旬節第一主日C年 2022年4月3日

「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)

 律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、イエスを試そうとして議論を吹きかけます。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(8:5)このときのイエスノ態度が不可解です。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」(8:6)なぜすぐ議論に応じなかったのでしょうか。なぜかがみ込んだのでしょうか。実は、このかがみ込むという態度に、イエスの深い思いやりが感じられるのです。この女性は恥ずかしさと、殺されるという恐怖に怯え、顔は青ざめ、うつむいていたことでしょう。もしイエスが律法学者たちとすぐ議論すればこの女性の顔を見ることになります。そうなると、この女性にますます恥ずかしい思いをさせることになります。イエスのかがみ込む姿勢は、自分も顔を伏せることで、この女性に恥ずかしい思いをさせないという、イエスの深い思いやりを示しているのです。
 「しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。」(8:7)イエスは人々に向かって言われましたが、まだ女性の顔は見ていません。その証拠にイエスは再びかがみ込みます。イエスの言葉に対して、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、ついに誰もいなくなります。そのとき、「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。』」(8:10)二人きりになったとき、ついにイエスは身を起こして、女性の顔を初めて見たのです。そして女性も初めて口を開きました。しかも、わずか一言、『主よ、だれも』。彼女には、これ以上の言葉を言う力はなかったのでした。しかし同時に、このわずか一言の中に、死の恐怖から解放された女性の安堵感が漂っています。
 実は、私はこのイエスの背後に養父ヨセフに姿が見え隠れするのです。マタイ福音書によると、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」(マタイ1:18~19)ヨセフが当時の「律法で言う正しい人」であったのなら結婚前に身ごもっていたマリアを告訴したはずです。しかしヨセフはマリアに恥ずかしい思いをさせたくなかった。しかし、その後ヨセフは夢に現れた主の天使の命令に従って、マリアを妻として迎え入れました。「ヨセフの正しさ」とは、律法上の正しさではなく、人間の掟を越えて神の掟を守ること、神の掟とは、弱い立場の人を守り抜くことで、ヨセフの後姿を見て育ったイエスは「正しい人」を貫いた結果、十字架の死を受け入れることになったのでした。
 イエスはこの女性の過去は一切問わず、最後にこの女性に対して、そしてわたしたち一人一人に対しても、『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』語りかけています。
 イエスはわたしたちの罪深い過去は一切問わない。出会ったときが恵みのときだから。

黙想のヒント 

四旬節第一主日C年 2022年3月27日

「父親は息子をみつけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)

 今日の放蕩息子の話しは、福音書の中で罪人の回心を描く最も美しい譬えです。話しのタイトルは放蕩息子ですが、主人公はあくまでも父親です。即ち、どれほど罪を重ねても、過ちに陥っても、ただ赦すことだけを考えている神の姿を、父親を通して示しているのです。  
 父親に背いて放蕩の限りを尽くした挙句、自分の惨めさを恥じて、父親のもとに帰る息子を遠くから見つけると、自分の方から走り寄って、首を抱き、接吻し息子のために宴会を開きます。即ち、この父親は息子が回心する前から既に赦すことを願っているのです。この息子の話は分かりやすいのですが、分かりにくいのは兄の姿です。兄自身が言うように、彼は一度も父親に背かず、まじめに働いてきたのに、友人と宴会するために子ヤギ一匹もくれなかったと言って怒り、家に入ろうとしません。そこで父親は出てきて兄をなだめます。
 ところで、兄の言い分は理解できますが、少し矛盾がありますね。弟が父親に自分が受け継ぐはずの財産を要求したとき、父親は弟だけにあげたのではなく、二人の兄弟に分けてあげたのです。即ち、兄は財産を自由に使う権利を既に持っていたのです。そのため、父親は言いました。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」(15:31)更に、兄は大きな過ちを犯しました。弟のことを「あなたのあの息子」という冷たい言い方をします。つまり、一度家を出て行った弟は、彼にとって他人であり、もはや兄弟ではないのです。だから帰ってきても喜ばないのです。実は、この兄弟は二人とも父親から離れたのです。弟はわがままから父親を離れました。兄は弟への妬みから父親を離れました。この二人に対して父親の方から近づくのです。弟に対して「走り寄って」(15:20)迎え、兄に対しては「出て来てなだめた」(15:28)のです。確かにこの兄弟の罪に代表される、わがままと妬み、この二つは罪の根源であり、多くの罪はこの二つの罪から発生します。しかし慈しみ深い神はこの二つの罪に対して自ら近づき、受け入れるのです。
 このたとえ話に対して、自分はわがままなところがあるから弟に当たるとか、自分は少し人を嫉妬するところがあるから兄に当たるとか言うのは簡単で楽しいでしょう。でもそれでこの話が終わったらあまり意味がありません。この話の主人公は弟や兄ではなく、あくまでも父親です。私たちも、いろいろな理由で自分から離れた人に、自分の方から近づいて受け入れることができるか、そこにこの話の大きなテーマがあり、チャレンジが求められているのです。確かにこのことは簡単ではないでしょう。でも信仰はスポーツではないのです。神は結果ではなく、私たちの努力を見ておられます。反対にスポーツは結果が大事であり、結果が全てです。しかし、信仰は結果ではなく、プロセスなのです。いい結果が得られなかったとしても、神が私たちの日々の努力、即ち、様々な理由で私たちから離れた人たちと和解したいという思いを、恵みに変えてくださいますように。日々の小さな努力を信じましょう。 

黙想のヒント 

四旬節第一主日C年 2022年3月20日

「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13:5)

  今日の福音の言葉は、当時起こった事件を譬えに、イエスが厳しい口調で回心を迫る話しです。でも「滅びる」という言葉は厳しい言葉ですが、誰が誰を滅ぼすのでしょうか。そのヒントになるのがパウロの言葉です。「不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました」(1コリント10:10)滅ぼす者とは自分自身のことです。不平は自分自身を滅ぼす恐ろしい罠です。心というものは、それ自身がひそかに抱いているものを引き寄せます。それは、それ自身が本当に愛しているもの、あるいは恐れているものを引き寄せます。心が呼ばなかったものはやってきません。人生で起こるあらゆる出来事は自らの心が引き寄せたものです。心に何を描くのか、どんな思いをもち、どんな姿勢で生きていくのか、それこそが人生を決める最も大切な要素なのです。
 仏教には因果応報という法則があります。即ち、私たちに起こる全ての出来事には、必ずそうなった原因があります。それは日頃の自分の思いや行いであり、それが因となって果を生んでいくのです。私たちが今何かを思い、何かを行えば、それは全て原因となって、必ず何かの結果につながるという法則です。ですから、今の自分というものは、今まで自分が思い、行ってきたことの結果なのです。
 でも、今日私たちは一緒に滅ぼしましょう。何を滅ぼすのでしょうか。それは過去の間違った私たちです。イエスは多くの罪人と出会いましたが、共通することは、一度も彼らの過去を問わなかったことです。あの受難の夜、ご自分を見捨てて逃げ去った弟子たちに対してでさえ、復活したイエスの第一声は、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)で、弟子たちの背信行為には何も触れなかった。これは私たちにとっても嬉しいことです。イエスは私たちの罪深い過去は一切問わない。出会ったときが恵みのときだから。それなら、わたしたちも自分で自分の首を絞めてきた不平という罠を滅ぼしましょう。
 不平という罠を滅ぼさなければならない理由は、モーセが神に名を求めたとき、神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3:13)と答えました。神はこの世界をあらしめる存在そのものです。そのことは創世記が伝えています。「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(1:31)それならば、この世のあらゆる存在のなかに悪ではなく、まず善を見出して、悪があったとしても、それを善に変え発展させること、それが神への協力者として創造された人間の使命だからです。

黙想のヒント 

四旬節第一主日C年 2022年3月13日

「これはわたしの子、選ばれた者」(ルカ9:35)

 今日はこの福音の言葉を、天の御父がイエスに与えた言葉としてだけではなく、イエスご自身が、またわたしたち一人一人にも語りかけてくださる言葉として受け取りましょう。ところで一般社会では「選ばれた者」の背後には、「選ばれなかった者」がいることを意味します。例えば、誰かが社長か市長に選ばれたとします。このことは、他の人は選ばれなかったことを意味します。その理由は、選ばれた人は能力や実績があり、選ばれなかった人はそれが足りなかったからです。このように一般社会では、選ばれた人は、選ばれなかった人より実績、能力、人気があることを意味します。
 しかし神の前における「選ばれた者」は、このような優劣を意味するものではありません。誰かが神から選ばれたことは、同時に自分も、そしてあなたも選ばれたことを意味します。神からの選びは他者を排除するものではなく、他者を受け入れ、他者とともに歩むことを意味するのです。例えば、マリアは救い主の母として特別に神から選ばれました。その選び方は皆さんが誰かの母に、また父になるように神から選ばれたのと全く同じなのです。というのは、わたしたちの人生は決して誰も取って代わることのできない、人間の歴史上、唯一無二の人生であり、そのことは神から「あなたはこの人生を歩みなさい」と委ねられた特別な選びなのです。わたしたちはマリアの人生を歩むことはできません。同時にマリアもわたしたちの人生を歩むことはできないのです。わたしたち一人一人は神から特別な選びを受けているのです。そのことは同時に、自分にしかできない、神の愛を証しする特別な道が備えられていることを意味します。その道を全うした人を教会は聖人と呼びます。聖人とは何も罪を犯さなかった人のことを言うのではありません。罪を犯さなかった人を聖人と呼んだら、誰も聖人にはなれません。
 人間は神の前に弱くもろい、という言い方があります。でも同時に人間は強いのです。特に、自分だけに委ねられている賜物を見出して、それを成長させたとき、人間は精神的にも身体的にも無類の強さを発揮します。このことは昨年夏と、今年冬のパラリンピックを観戦していて強く感じ、そして人間の偉大さに感動しました。彼らの中には、体の不自由さの中に自分だけの特権を見出して、心に潜む神的な声と力に波長を合わせ、それをしっかりと聴きとり、自分の中に無限の力を見出した人も少なくはないと思います。
 イエスは今日も、そして永遠に「これはわたしの子、選ばれた者」とわたしたち一人一人に語りかけています。わたしたち全員神から特別に選ばれた者です。神がわたしたち一人一人だけに与えてくれた、無限の可能性という宝石を発見してください。わたしたちは弱い面もありますが、本当の自分を発見したとき真に強い者となるのです。

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四旬節第一主日C年 2022年3月6日

「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた」(ルカ4:1~2)

 イエスは荒れ野に退きました。荒れ野は何もない所です。あるのは神と自分だけの世界です。そこにイエスは宣教活動に出るまでの40日間、父なる神とともにあり、同時に大きな試練を受けました。四旬節が始まりました。私たちもこの四旬節の間荒れ野に退きましょう。でも実際どこかの荒れ野に行くのではなく、「心の荒れ野」に退きましょう。即ち、心の中の神と自分だけの世界に退いて、今自分が何をなすべきかを黙想しましょう。それは四旬節の間何もしないという意味では決してありません。この四旬節こそ実行の時です。ちょうど激しく回転する発動機の中心部が動いていないのと同様に、より良く活動するため、心の中心部には神とともにある静寂さが必要なのです。
 四旬節は伝統的に断食の時です。イエスはヨルダン川で洗礼を受けられた後、荒れ野で断食しました。断食は旧約時代から大切な宗教行為で、人々は神のみ旨を求めるときや、何か大切なことを決断する前などに断食しました。しかし断食には落とし穴があって、形式主義に陥りやすいということでした。そのことでイエスは律法学者やファリサイ派と対立しました。本来断食は大切な宗教行為ですから、それは神と人への愛に直結したものでなければならないのです。イエスご自身しばしば断食しました。しかし、イエスは一度も弟子たちに断食を命じたことはありませんでした。断食は本来、神と人への愛に直結したものであり、その愛というものは人に命じたり、強制したりするものではないからです。従って教会も四旬節には断食とともに、神と人への愛を証しする活動を推奨してきました。
 今年の四旬節は、ロシアのウクライナ軍事侵攻とともに始まりました。毎日、目を覆うような惨状が報道されています。しかし軍事的に勝利することが、必ずしもその国を支配することにはならないのです。そのことは歴史が証明しています。今、世界のほとんどの国はロシアの軍事侵攻に反対してそれを実行に移し、ウクライナの人々も今までになく一致結束しています。2月24日、南部ヘルソン州のニチェスクという町で、機関銃で装備したロシア兵にウクライナの女性が対峙する光景がネット上で配信されました。女性はロシア兵に「何をしに来たのか」と詰め寄ります。「話しても無意味だ」と答えるロシア兵に「このヒマワリの種をポケットに入れなさい。あなたが死んだらこのヒマワリの花が咲くでしょう」と命がけの皮肉を浴びせます。ヒマワリはウクライナの国花です。それ以来、世界中で繰り広げられている抗議運動には、抵抗のシンボルとして人々はヒマワリの花を手にしています。今、神と人への愛が私たちを駆り立てています。私たちも、それぞれ何らかの方法でウクライナの人々に救いと光がもたらされる道を探し、すぐに実行に移しましょう。ヒマワリの花は今年もウクライナの大地を覆い尽くすでしょう。

黙想のヒント 

年間第8主日C年 2022年2月27日

「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(ルカ6:45)

 今日の第一朗読のシラ書も福音書と同じことを述べています。「心の思いは話を聞けば分かる…言葉こそ人を判断する試金石であるからだ」(シラ書27:6~7)思考は現実化すると言われています。心の思いは必ず言葉に現れます。人間の脳は2割の映像と8割の言葉によって作られると言われています。自分の運命は、誰でもなく、自分自身が発する言葉が決めるのです。言葉は人生の設計図です。もしいい人生を送りたいのなら、いい言葉を使いましょう。言葉は絵画、写真、音楽と同じように芸術でもあります。いい言葉は人を幸せにする力を持っています。そしてその言葉は、それを発した人に返るようになっています。ですから幸せになりたければ、日常的にいい言葉、きれいな言葉を使わなければならないのです。
 料理人は包丁を大切にします。料理の世界では「道具を大切にしない人は、道具から仕返しされる」と言われています。つまり、道具である包丁を大切にしないと怪我をするということです。私たちにとっても、コミュニケーションの大切な道具である言葉をぞんざいに扱うと自分自身を傷つけることになってしまいます。人の心は、自分が欲しいものや興味があるものに目が向くようになっています。つまりその人が見ているものは、その人が必要としているものです。否定的なことばかり言う人は、実は否定的な原因を自分で欲していつも探しまわっているのです。つまり、いつも否定的な「仲間」を集め続けて人を信頼しなくなり、結局自分も人から信頼されなくなるのです。否定的な考えや言葉は時空を超えて他者を傷つける力を持ちます。前向きな考えや言葉は行動と同じく社会に価値ある貢献をします。「仲間」を集めるのなら前向きな言葉、特に感謝という仲間を集めましょう。感謝の念は常に万物の創造主の足元にあり。太陽が地球の全てのものにエネルギーを与えているように、ポジティブで前向きな言葉は太陽のように人と社会にエネルギーを与えます。
 レーシングドライバーは車が壁に衝突しそうになったとき、決して目をつぶったり、壁を見たりするのではなく、危険から抜け出す方向を瞬時に見て、その方向にハンドルを切る訓練をしています。危険が生じそうになったとき、瞬時に回避方向を見ることでハンドルが瞬間的に危険から抜け出す方に向かい、衝突を避けることができるのです。同様に私たちも日常的にポジティブな言葉を使う訓練をすることで、何か状況が悪化したとき、いい言葉というハンドルを切って、その悪い現実を直ちにより良い方向に変えることができるのです。そして本人は気づかないことが多いのですが、そのような言葉は無意識のうちに太陽のように周囲の人にエネルギー与えているのです。
 ある医師は、入院中に同室の人の世話をよくする人は病気が治りやすい、と語っていました。つまり自分が病気であるにもかかわらず、同室の病人の世話をよくする人は、きっと無意識のうちに、いい言葉、励ましの言葉を使い、その言葉がやがて自分に返ってきて、結果的に自分の免疫力を高めるのでしょう。私たちも体の調子が悪いとき、静かに横になっているのもいいですが、思い切って他に具合の悪い人を訪問して、その人の話に耳を傾ければ、かえって自分の調子がよくなることもあるのではないでしょうか。私もそのような経験が何度もあります。
 「本当に幸福になれる者は、人に奉仕する道を探し求め、ついにそれを見出した者である。これが私の確信である」(アルベルト・シュヴァイツァー)

黙想のヒント 

年間第7主日 2022年2月20日

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6:31)

 

この言葉は一般に「黄金律」と呼ばれ、数千年にわたって人間の行動規範とされてきましたが、実はイエス以前から同じようなことは言われてきました。「彼は、自分自身にとって望ましいと思う善を他の人々のために求めた」(紀元前600年頃のエジプトの碑文)「我々は世間が自分に対してやってほしいと望むように、世間に対して振る舞わなければならない」(アリストテレス)など。しかし「黄金律」と呼ばれる今日の福音の言葉は分かりやすい反面、少しニュアンスが変えられて解釈されることも多いのです。
 こんな寓話があります。昔南の島で原始的な生活をしていた部族にある宣教師が「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と説教したところ、それを聴いたその部族の村長はいたく感銘を受けたらしく、後日彼はプレゼントを携えて司祭館を訪れました。そのプレゼントは村長が最も望んでいたものだったのですが、何と彼は6人の妻をその宣教師に贈ろうとしたのでした!これはあくまでも寓話ですが、同じような例は時々見られます。
 例えば、ある人が友人の結婚記念日に非常にきれいな花瓶をプレゼントしたとします。その友人は非常に嬉しそうに感謝してくれました。さてその人は、その年の教会のバザーでその花瓶が出品されているのを見かけました。その時のこの人の気持ちを想像してみましょう。その人はこう考えたかも知れません。「人がせっかくプレゼントした花瓶をバザーに出すとは何事か!あの嬉しそうな顔は嘘だったのか!もうこんな人にプレゼントなんかするものか!」
 実は、この人は自分の好きなものを相手に贈って、相手を束縛しているのですね。この人は無意識の内にこう思っていたかも知れません。「あなたはこの花瓶をいつまでも大切にして、応接間の中央に置いて磨き、いつも綺麗な花を活けて、わたしが来たらいつも感謝しなければならない」などと。しかし友人は元々花瓶には興味がなかったのかも知れない。でも友人は贈ってくれた相手の心を喜んでくれたのですね。
 「賢明な人は、その愛する人からの贈り物より、贈り物をくれる人の愛を重んじる」(トマス・ア・ケンピス、古典的名著『キリストに倣いて』の著者で修道者)ですから何かプレゼントするときには、「何も当てにしないで」(ルカ6:35)それを処分する自由、バザーに出す自由、他の人にあげる自由も同時に与えなければならないのですね。
 今日の福音書は、別に自分の好きなものを相手にプレゼントしなさいと命じているのではなく、相手の望みを相手の立場に立って判断し、相手の目を通して世界を見てくださいということなのですね。そのことで他の人が必要とすることに目が向き、人への思いやりも深まり、そのことがやがて自分の幸せへとつながっていくのです。ですから、中心はいつも自分ではなく、相手でなければならないのです。
 即ち、恵みが欲しければ恵みを蒔くこと、幸せになりたければ人々の幸せを願うことです。

黙想のヒント 

年間第6主日 2022年2月13日

「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は…祝福されよ、主に信頼する人は、主がその人のよりどころとなられる」(エレミヤ17:5,7)

 今日の第二朗読エレミヤの預言は呪いと祝福について述べ、ルカ福音も幸いと不幸について述べています。心が神から離れ人間的な思いで生きる人には呪いと不幸、神に信頼する人には祝福と幸い、このように端的に解釈するのもいいでしょう。でも今日は別の観点から黙想してみましょう。
 私たちの人生という旅の途上には大きな暗黒の森、「祝福と呪い」、「幸いと不幸」が織り合わされた見通しのきかない森が立ちはだかっています。私たちはその森の中を歩まなければならないのですが、大事なことは、自分は今どこを目指して歩んでいるのかです。自分の行き先を知っている人には世界は道を開けてくれます。即ち、人生の目的や希望が確固としていれば必ず目的地にたどり着くことができます。反対に、行き先を知らずにただ歩いているだけなら、即ち、人生に目的や希望がなければ、いつの間にか不安、不満、怒りという道に迷い込んでしまい、ついには自分が道に迷っていることすら気づかず、同じ道をぐるぐると歩き続けているのです。
 自分の行き先を知っていれば、即ち人生の目的と希望が確固としていれば、迷うことがないように必ず道標(みちしるべ)を探します。またすれ違う多くの人からどの道が正しいかとアドバイスを受けます。もし間違った道に入り込んだと気づいたら、必ず元来た道に引き返し、そこからどの道が正しいか考え直します。
 私たちはこのように人生の「祝福と呪い」、「幸いと不幸」の森の中で試行錯誤と葛藤を繰り返しながら、自らの魂に磨きをかけるのです。そして山の中を歩くときよく経験するように、歩き疲れてふとしゃがんだ森の中に小さな川のせせらぎを見つけ、その水を飲んで再び元気を取り戻しながら、大きな川の水源も、実はこんなに小さなせせらぎなのだということを改めて知るのです。そして同時に自分の魂の中にも偉大なる水源があることに気づき、自分の使命はこの魂を生み育んでくれた偉大なる永遠の水源へと戻っていくのだということに気づきたいものです。それこそが、私たちが最終的に願う人生の祝福だからです。
 かつてニューヨークのある病院の壁に書かれた無名の患者の祈りが、世界に大きな反響をもたらしました。

「大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深くあるようにと弱さを授かった
より偉大なことができるようにと、健康を求めたのに
より良きことができるようにと、病弱を与えられた
幸せになろうとして、富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった
世の人々の称賛を得ようとして、権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった
人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと、生命を授かった
求めたものは、一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた
私は、あらゆる人生の中で、もっとも祝福されたのだ」

黙想のヒント 

年間第5主日 2022年2月6日

先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(ルカ5:5)

ペトロにとって昨晩の漁は失敗で、何の収穫もありませんでした。しかしイエスが「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と言ったとき、「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、おことばですから、網を下ろしてみましょう」とペトロは答えましたが、内心は「漁は夜中に行うものだよ。だいたい漁師でもないあんたなんかに言われたくないね」と反発していたかもしれません。ところが、決してありえないはずの大漁にペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」とイエスの前にひれ伏し、イエスを疑っていた自分に恥じ入ります。
 そのペトロの思いはわたしたちの、そして教会の試練です。「今まで努力したけど何の成果もなかった」今までの努力は何だったのか。失敗だった、などと落ち込むこと限りなしです。しかし失敗というものは、実は形を変えた恩恵であることが多いのです。失敗によって新しい可能性とチャンスへの道が開かれ、試行錯誤を繰り返しながら人生の深みに触れるのです。失敗は生き物です。失敗の中には予期せぬチャンスの種子が宿されているのですね。それを見出して芽を出させ、実を結ばせるにはいつも自分の目的をしっかりと意識していることが必要なのです。チャンスは姿を隠してやってきます。これを教会用語で「救いの秘儀」と言ったりもします。夢や希望というものは、当初の考えていた仕方とは別の方法で実現することがよくありますが、これこそがチャンスのトリックなのですね。チャンスはいつも意外なところからやってくるという皮肉な習性があります。それは場合によったら、不運とか一時的な敗北の影に隠れてやってくるのです。だからこのチャンスに気が付かず見逃してしまう人が多いのです。
 あの発明王トーマス・エジソンの人生の最初のつまずきは、子どもの頃学校の先生から両親宛に手紙を持たされ家に帰されたことに始まりました。その手紙には「この子は教育するに値しない子です」と書かれてあったのでした。従ってエジソンは3か月しか学校に行っていないのです。子どもだったエジソンにはショックでしたが、そのことで彼は努力して独学で勉強する習慣を身につけ偉大な発明家になりました。その彼は「天才とは1%のひらめきと、99%の努力である」という名言を残しています。また彼は子どもの頃、列車の中で飴を売って働いていましたが、乱暴な客に飴ごとけ飛ばされ、おまけに耳をひどく引っ張られたのが原因で片方の耳が難聴になりました。後に人から片方の耳が難聴であることは大きなハンディじゃないですかと聞かれたところ、「いいえ、わたしは耳が聞こえないことで大助かりしていますよ。くだらないおしゃべりを聞かなくてもすみますからね。それで内なる声を聴くことができるようになりましたから」と答えました。彼は体の不自由さの中に自分だけの特権を見出して心の中に潜む神秘的な力に波長を合わせ、それを聴きとることができるようになり、自分の心の中に無限の英知を発見したのでした。
 逆境の中にはすべて、それと同等かそれ以上の恩恵の種子が宿っています。
 「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」わたしたちもペトロのようにこう言いたくなった時にこそ、心の中に成長の種子が発芽しかかっていることに気づきましょう。そのわたしたちに今日も「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」とチャレンジを求め続けるイエスの声が静かに響いてきます。

黙想のヒント 

年間第4主日 2022年1月30日

「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(1コリント12:31)

 今日の第二朗読でパウロは「最高の道」として示した生き方である「愛」について、「忍耐強い」から始まる15の愛の特徴を挙げています。しかしそのうちの8つは「ねたまない」自慢しない」というような否定的な表現です。どうして彼は、愛は美しいとか、気高いなどの表現ではなく、このような否定的な表現を多く用いたのでしょうか。私にはこの否定的な表現の背後にパウロ自身の性格が浮かび上がってくるように思えるのですね。
 パウロはコリントの町でずいぶん苦労したようです。そのコリントの町の人々に愛について述べた言葉は、実はパウロの自分への思いが投影されていると思います。彼は非常に優秀な神学者でした。しかし同時に熱血漢、短気でプライドが高かったことはパウロの多くの手紙の中から浮かび上がってきますが、同時にいつもそれを反省していたと思います。愛の特徴の中の8つの否定的な表現「ねたまない」「自慢しない」「高ぶらない」「礼を失しない」「自分の利益を求めない」「いらだたない」「恨みを抱かない」「不義を喜ばない」は常にパウロが自分自身に言い聞かせていたと思うのですね。ということは、優秀で熱血漢だが、短気でプライドが高かったパウロ自身にはこの言葉の裏返しの面があった。即ち、短気で怒りっぽい、高慢になったり、人を恨んだり、でもキリストに従っていくためにはそれはよくないと自省していたからこそ、自分の思いを無意識にコリントの人々に投影していたのです。特に愛は「忍耐強い」から始まって「すべてに耐える」で終わっていますが、これだけ忍耐を強調するパウロは、実は本来よほど短気な人だったと思われます。パウロは異邦人の使徒と言われ、ペトロと並ぶ教会の二大柱の一つですが欠点も多かった。しかし、欠点は長所、同時に長所は欠点です。どの性格が良い悪いのではなく、与えられた性格をどう生かすかです。パウロは神から与えられた性格を十分生かし切りました。
 このパウロの愛の特徴は典礼聖歌381番で愛の賛歌としてよく結婚式の中で歌われます。ベンジャミン・フランクリンは「結婚前は二つの目をしっかり開きなさい。しかし結婚してからは片方の目をつぶりなさい」と言いました。即ち、結婚前は二つの目でお互いをよく見て、本当にこの人でいいのか、しっかり見極めなさい。しかし結婚したら結婚前には見えなかった欠点なども見えてくる。そのような時には、自分が欠点だらけであるのと同じように相手も欠点だらけなのだ。人は悪いのではなく弱いのだ、お互いの弱さを受け入れ合うという意味で、皆さん結婚してからは片方の目をつぶりましょうね。これが、パウロが言う「最高の道」にたどり着くための日々の歩みだからです。

黙想のヒント 

年間第3主日 2022年1月23日

「体は一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分に数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である…それどころか、体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(使徒パウロのコリントの教会への手紙12:12、22)

 パウロは体の譬えを使って、教会に無駄なものはなく、多くの働きが必要とされていることを分かりやすく説明し、更に体の中で弱く見える部分こそが最も大切な部分であることを強調しています。
 ところで、パウロより360年も前に生まれた中国の荘子は、「無用の用」という思想(一見して役に立たないと思われるものが実は一番役に立っている)の中で次のような話を残してパウロの言葉に花を添えています。
 石(せき)という大工の棟梁が斉という国を旅して、曲轅(きょくえん)という地方を通りがかった時のことであった。そこでは巨大なクヌギの木が神木として祭られているのであった。その大きさと言ったら、何千頭もの牛が木陰に憩うことができる大きさであり、幹の太さは百かかえほどもあり、高さは山を見下ろすほど、地上から七、八十尺のところで枝分かれして、枝一本で船が作れるほどの大きさであった。その枝が何十も広がっていたのであった。大勢の人がその木を一目見ようと集まり、石の弟子たちも息を飲む思いでその大木を見上げていた。
 ところが石はまったく気にする様子もなく、その木の前を通り過ぎるのであった。弟子たちは驚いて「私たちはこれほど立派な木を見たことがありませんのに、どうして棟梁は見過ごしてしまうのですか」と尋ねたところ、石は「お前たちはこの木がどうしてこんな大木になったか分かるか。それはこの木が役に立たない木だったからじゃ。この木が役に立つ木であったならば、とっくの昔に切り倒されて何かに役立っていたことであろう。しかしこの木で船をつくれば沈んでしまうし、棺桶をつくればすぐ腐ってしまう。家具にも柱にもならん。まったく何の役にも立たん無用の木だったからじゃ。だからこそ今ではこんな大きくなって、この木の下で多くの動物や人間を憩わせることができる神木になったのじゃ」
 さてその夜、そのクヌギの木が石の夢枕に現れて言った。「この世では人であれ物であれ、みな役に立とうとして自らの命を縮めている。しかしわしは今まで一貫して無用であることを願ってきた。天寿を終えようとする今、ようやく無用の木になることができた。おまえたちには無用であっても、わしにとっては真に有用なのじゃ。(石に向かって)おまえのように有用であろうとして、自らの命を縮めているものこそ、実は無用の人間なのじゃ」
 一見して役に立たないと思えるものが、実は最も役に立って私たちの支えになっている。私たちの周囲をよく注意して見回してみましょう。皆さん、何か心当たりがありませんか。
 今日の黙想のヒントです。

黙想のヒント 

年間第2主日 2022年1月16日

「イエスは最初のしるしをガリラヤのカナでおこなわれた」(ヨハネ2:11)

 イエスの最初の奇跡は、病気の人を癒したのではなく、悪霊を追い出したのでもなく、婚宴と言う家庭生活の始まりである場で、水をぶどう酒の変えた奇跡でした。イエスは突然天から降ってきた人物ではなく、私たちと同じ平凡な家庭で育ちました。イエスが最初の奇跡を家庭生活の始まりである婚宴の場で行われたことは、イエスは何よりも私たちの家庭を祝福してくださったことを意味しているのですね。同じように司祭もまず家庭で育ち、信仰教育を受けます。その意味で「家庭は最初の神学校」と言われています。
 しかし家庭は愛と信仰が育たなければならない大切な場ですが、多くの試練に直面しなければならない場でもあります。その一つが平凡で単調な毎日の連続だということです。たいてい毎日が同じことの繰り返しです。そのような生活の中で倦怠感に襲われ、会話も非常に少なくなることがあります。イエスが婚宴の席で水をぶどう酒に変えたのは大きな意味があります。水は単純平凡さのシンボルです。ぶどう酒は祝福のシンボルです。即ちイエスが水をぶどう酒に変えたのは、一見単純平凡に見える家庭生活を、信仰の目を通して祝福に満ちたものに変えて行かなければならないことを意味しているのですね。今与えられたもの一つ一つに意味と価値と感謝を見出すこと。不平不満は自分を破滅に導く恐ろしい罠であることを知ること。私たちが人間的にも霊的にも成熟を目指す上で第一に心がけるべきことは、今自分に与えられたものに価値を見出し、それを最大限に生かすことです。
 こんな譬えはいかがでしょうか。今の自分の家が狭くて汚い、もっと大きないい家に住みたいと思ったら、まず今の家を楽園に変え大きな家に住む準備をしましょう。部屋をきれいに掃除して床をピカピカに磨き上げ、カーテンも変えてみたり、食事は乏しい食材でも工夫をこらして自分なりのご馳走にしましょう。そうすれば、やがて自分の家もまんざら悪くはないことに気づくでしょう。そんな時間も金もないというのであれば、部屋に「忍耐」というハンマーで、「優しさ」という鋲を打ち込んだ、「ほほえみ」というカーペットを敷き詰めましょう。そうやって、自分が自分の運命の設計者であることが分かれば、世に言う「悪いこと」は、実は姿を変えた「良いこと」に他ならないことが分かるでしょう。 
 単純な毎日を信仰の目で変容させる「単純さの聖化」。その単純さの内真意あり。あなたが今立っている単純な生活の足元には、すでに幸せの花が咲いています。

黙想のヒント 
主の洗礼 2022年1月9日

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3:22))

 今日は主の洗礼の主日ですが、どうしてキリスト教の創始者であるイエスが洗礼を受ける必要があったのかという疑問をお持ちの方も多いと思います。イエスご自身ユダヤ教徒として生まれて、ユダヤ教徒として生活され、その習慣に従って洗礼をお受けになりました。従って洗礼はキリスト教が発明したものではなく、ユダヤ教の時代からありましたが、キリスト教はそれに新しい意味を加えました。それは聖霊が注がれるということで、その結果イエスの洗礼の時と同じように、わたしたちも洗礼によって「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を心で聞くのです。それでは洗礼前は愛されていなかったのかというと、そうではなく愛されていることに気づいていなかったということなのですね。
 洗礼を受けたある女性の信者さんに、「洗礼を受けて何か変わりましたか」と尋ねたことがあります。彼女は「洗礼を受けても別に生活は変わりませんでした。でも、転んだり倒れたりしてもすぐ立ち上がれるようになりました」と嬉しそうに答えてくれました。転んだり、倒れたりすることは弱い人間性につきものです。でもすぐ立ち上がることができる、これが聖霊の働きで、今日の第二朗読でパウロが言う「祝福に満ちた希望」(テトスへの手紙2:13)なのですね。
 今日は成人式のお祝いが行われます。今日新たな人生の岐路に立つ青年たちの上に「祝福に満ちた希望」が注がれますように。彼らはこれからの人生楽しいこと、嬉しいことだけではなく、挫折や失敗も経験しなければならないでしょう。かつて野球でヤクルトや阪神で監督を務めた故野村克也氏は、「失敗と書いて成長と読む」と言いました。何か失敗したとしても、そこから新しいことを学んだら、それはもはや失敗ではなく、大切な貴重な経験となります。だいたい人は成功からではなく、失敗から多くのことを見出し学んで生長するのですね。青年たちがこれから失敗しても挫折しても、そのたびに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というイエスの声を心に感じ取り、すぐに立ち上がって「祝福に満ちた希望」の中を再び歩むことができますように。

黙想のヒント 
主の公現 2022年1月2日

「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(マタイ2:10)

 新年明けましておめでとうございます。2022年の旅が始まりました。昨年はコロナに悩まされた1年でした。今年もコロナはまだ続くのだろうかと、不安を抱えながらまたこの1年を歩んで行かなければならないのでしょうか。多くの人がこの思いの虜になっているかもしれません。
 今日は主の公現の主日です。東方の学者たちが星の導きに従って、長い旅の末に救い主を見出し、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と福音書は記しています。私たちの人生そのものが長い旅です。しかし私たちの人生の旅には常に二つの障害が立ちはだかっています。それは過去の後悔と未来への不安です。人間の多くの悩みはこの二つの要因から引き起こされ、そのため思い悩んで神経をすり減らし、場合によったら病気さえ引き起こします。しかし過去は終わったし、未来はまだ来ていない。そのような過去を後悔し、未来を心配していくうちに、今日という一日が過ぎていく。確実に言えるのは、私たちが今生きているのは今日のこの一日だということです。遠くの不確実なものを見ようとするのではなく、目の前の確実なことだけに目を注ぎましょう。今日の一日を自分の一生の全てと思い、神が今日歩む道のりの足元だけを照らしてくださることだけを信じましょう。そうやって一日ごとに新しい人生を始めましょう。しなければならないことが山ほどあっても、こう自分に言い聞かせましょう。「今ひとつだけしよう」と。そうしていくうちにいつの間にか全てが片付いています。
 「全ては変化する。誰も同じ川に、二度と足を踏み入れることはできない」(古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトス)川の流れは刻々と変化します。人生もまた絶え間なく変化します。唯一確かなものは今日という一日だけです。今日を生きる喜びを過去の後悔と未来への不安で台無しにしないよう気を付けましょう。
 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」しかし私たちが星を見て喜びにあふれるのは遠い将来ではなく、今日一日の旅の中でなければならないのです。「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8:10)  「見よ!この日を  人生のため、人生の本質のため。  
 その短い過程の中に、あなたの存在のすべての真実と現実がある。
 生長の喜び  行動の誇り  美の素晴らしさ
 昨日はただの夢  明日はただの幻
 しかし今日を良く生きることは、すべての昨日を幸せな夢に変え、すべての明日を希望に変える。
 そうだ、見よ!この日を  この言葉を夜明けに捧ぐ」
(「夜明けに捧ぐ言葉」カーリダーサ・5世紀インドの劇作家)

黙想のヒント 聖家族の主日
2021年12月26日

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(ルカ2:49)

 イエスの言葉は時々理解に苦しむことがあります。「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。」(ルカ2:50)とありますが、わたしたちにも分かりません。しかし少年イエスは決して両親を困らせようとしたとか、反抗心を起こしたわけでもありません。イエスは天の御父を選ぶために神殿に留まったのです。しかも少年期と言う人生の始めにイエスは神を選びました。わたしたちも人生で大切な選択を求められることがあります。それは人によって違いますが、場合によっては非常に若い時、幼少期によることもあります。
 少年イエスは神を選ぶ時、両親から一度離れました。それは単なる迷子ではありません。それは両親にも分からなかった「別離の神秘」です。大切な出来事の前に孤独になることが求められる場合があります。孤独になるということは、即ち神とともにいることだけが求められるということです。例えば洗礼者ヨハネの父ザカリアは、年老いた妻エリザベトが男の子を身ごもったことを大天使ガブリエルから告げられた時、それを疑ったためヨハネが生まれるまで口がきけなくなりましたが(ルカ1:5~25参照)、それは決して罰ではなく、子どもが生まれるまで神とともにいることだけが求められたのですね。これが別離の神秘でした。わたしたちも人生のなかでこの別離の神秘を経験しなければならない時があります。
 神がともにいる体験は大切ですが、神不在の体験もまた同じように大切なのです。これは場合によったら非常に辛い体験ですが、この体験を乗り越えてより深く神と一致できるのです。少年イエスは3日間の両親との別離を経験した後「ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ2:51~52)別離の神秘を経験した後、ナザレの生活は一見今までと変わらないように見えながらも、実はイエスの心のなかでメシアとしての意識が徐々に熟成されて行ったのです。

黙想のヒント 待降節第4主日
2021年12月19日

「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」(ルカ1:42)

  私たちが日ごろ唱えているアヴェ・マリアの祈りの前半は福音書からきた祈りです。
 「アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。」これは大天使ガブリエルのマリアへの挨拶の言葉で、福音書では「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1:28)となっています。
 「あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。」は今日の福音書「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」から来ています。
 ですからアヴェ・マリアの祈りの前半はマリアに対する大天使ガブリエルの挨拶の言葉と、エリザベトの称賛の言葉からなっています。
 しかしアヴェ・マリアの祈りには後半部分があります。
 「神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。」
 この言葉は中世期ころできた祈りで、作者は分かりませんがマリアに対する教会の信仰です。この中で特に「今も、死を迎える時も」という言葉が挿入されています。というのは、マリアは、聖書には記されていませんが、確かに夫ヨセフの死を看取り、福音書によると十字架の下で最愛の息子イエスの死に立ち会いました。「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『夫人よ、ご覧なさい。あなたの子です。』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい、あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:26~27)
 それゆえ、教会はアヴェ・マリアの祈りを通して生涯の最後を聖母マリアの保護に委ねて祈ってきました。しかしそのためには、生涯の最後の時だけではなく、普段からマリアとともにいる必要があります。「そのときから、この弟子(ヨハネ)はイエスの母を自分の家に引き取った」ように、この弟子を受け継いだ教会もイエスの母マリアを自分の家に引き取って祈ってきました。間もなく降誕祭です。わたしたちもマリアを心の家に引き取って、マリアとともに幼子イエスを迎えましょう。

黙想のヒント 待降節第3主日
2021年12月12日

「皆さん、主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4:4)

 パウロが手紙の中で非常によく使う言葉、それは「喜び」、「感謝」、「賛美」です。特に「喜び」はその使う頻度からパウロを代表する言葉と言ってもいいでしょう。なぜパウロはこの喜びという言葉を多く使うのでしょうか。パウロは根っから陽気な人だったのでしょうか。私はそうではないと思います。パウロの手紙を読むと、彼が多くの試練、苦難、迫害を受けたことが記されています。彼は誰よりも多くの苦しみを受けました。だからこそ彼が多くの試練を通して受けた喜びは誰よりも大きかった。だから喜びを強調したのですね。
 でも皆さん、喜びと言うとどんなイメージを受けますか。普通、笑顔、無邪気さなどの感情を思い浮かべます。それでは、パウロはいつも笑って過ごしていたのでしょうか。もしもパウロが根っから陽気な人だったら、きっとこれほど喜びという言葉は使わなかったと思います。例えば「私はあなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイ1:24)というパウロの言葉があります。パウロはいじめられて喜んでいたのでしょうか。そうではなく、人のために苦しむことに意味と価値があることを感じていたのですね。実に、パウロはどんなことの中にも、苦しみの中にも大きな意味、即ち生きる価値を見出した。それを彼は喜びと表現した。実際苦しみの中にも意味を見出したら、生き方も前向きになって自然と表情も変わり、穏やかになって笑顔にもなるでしょう。私は「信仰とは何か」と問われたら、それは「人生に意味があることを知ることだ」と答えます。
 毎年待降節第3主日は喜びの主日とされています。この1年の試練の中にも人生を生きる大きな意味と価値があったことを感謝して、喜びのうちに降誕祭を迎えましょう。

黙想のヒント 待降節第2主日
2021年12月5日

「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」(使徒パウロのフィリピの教会への手紙1:9~10)

 ロヨラのイグナチオは、重要なことは嵐の中で決断しないように、嵐が過ぎ去った後に決断するようにと教えました。つまり、何か重要なことを決断するときは決して心が怒り、不安、混乱、パニック状態にあるときにしてはいけないということです。必ず後で後悔します。このことは多くの人やグループが経験してきました。大切な決断は心の嵐が過ぎ去ったの、静寂さの中で決断しなければならないのですね。また、このことはイグナチオだけではなく、歴史に登場した賢人たちも共通して語っています。一見していいと思われることが必ずしも聖霊の働きではないのです。教会でも何か大切なことを決めるとき、怒り、混乱、熱狂、パニックなどの嵐の中では決して決断しないでください。そのような状態で決定されたことは幻想であることが多く、一見いい考えに思えても必ず落とし穴があり、やがて教会に混乱と分裂をもたらします。議論が混乱してきたら思い切って中断し、嵐が過ぎ去るのを根気よく待ち、それから決定してください。何が聖霊の働きであるかは識別が難しいときがありますが、ひとつのしるしがあります。それは、今日の朗読箇所ではありませんが、パウロが聖霊の実り、つまり聖霊の働きのしるしとして挙げている「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテアの教会への手紙5:22~23)です。このように、個人でも、共同体でも、心が愛を始めとする聖霊の九つの実りに満たされた静寂さの状態にあるときにこそ、今日パウロが言うように、「本当に重要なこと」を見分け、決断するようにしてください。

黙想のヒント 待降節第1主日
2021年11月28日

「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々はこの世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」(ルカ21:25~26)

 紀元前585年5月28日、当時の小アジア(今のトルコ)でメディア王国とリディア王国が戦争をしていました。その時、突然太陽が真っ暗になり、両軍の兵士たちは恐怖に怯え、やがて散り散りなって逃げて行き、そのまま戦争が終わったという記録があるそうです。どうやらこれは皆既日食だったらしい。今の私たちだったら喜んで見に行きますが、皆既日食のことを知らなかった当時の人々にとって、これは神の罰かこの世が終わったかのような錯覚に陥ったことでしょう。しかし古代ギリシアの哲学者タレスは既にそのことを予測していたと言われています。皆既日食を見たら人生変わると言う人もいます。確かに地震や戦争、飢餓疫病はいつの時代にも人々を苦しめましたが、それを乗り越えて人々は新しい時代と新しい生活を迎え、お互いの命をつないできたのでした。
 1995年の阪神淡路大震災のとき、私はローマで勉強していましたが、震災の数日後大学であるアフリカ出身の司祭が私に驚いた顔で、(恐らく彼はテレビで被災地神戸の人たちが談笑している光景を見たのでしょう)「どうして神戸の人たちはこんな大変な事態になっているのに笑っているのか。私には信じられない。」と言うのです。日本人は地震災害のときなど、よく笑顔を見せます。それは、「過ぎたことをいつまでも悲しんでも仕方がない。これからはお互い笑顔でこの困難を乗り越えていこう」という思いでお互い笑顔を交わすのですが、外国の人からはこの日本人の笑顔が不気味に思えるらしいです。

「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(ルカ21:27~28)

 解放の訪れに対して私たちの頭を上げる力となってくれるもの、それはまさに災害など困難なときに私たちがお互いに交わす「笑顔で困難を乗り越えよう」という思いなのです。長く続く新型コロナウイルス、その終息を願う気持ちは、イスラエルが何百年も救い主を待ち望んでいた思いとは比べ物にならないかもしれませんが、解放を願う気持ちは同じです。昔坂本九という歌手が「上を向いて歩こう」と歌って当時の国民に勇気と希望を与えてくれたように、「笑顔で困難を乗り越えよう」という思いがいつも私たちも頭を上げ続けてくれますように。

黙想のヒント 年間第33主日
2021年11月14日

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13:31)

 聖書の中で「滅びる」とか「終わる」という言葉が時々出てきます。初代教会の頃、もうすぐこの世が終わるという風潮があったようです。紀元1000年の頃も同じような風潮があったそうです。そして紀元2000年が近づいた頃、やはり同じような風潮がありました。昔書店に行くとよく「ノストラダムスの大予言」という本があって、たしか1999年の7月に人類は滅亡するという内容ではなかったと思います。これは当時公害問題などで将来に不安を感じていた日本人の心を揺さぶって、かつてベストセラーにもなりましたが、内容はオカルトでオカルトブームの先駆にもなりました。でも今なお人類も地球もしっかり存続しています。確かに一般社会では、「滅びる」=「滅亡」=「跡形もなくなる」というイメージがあるかもしれません。しかし決してオカルトのイメージで聖書を読まないでください。
 聖書の視点、出発点は「終わり」や「滅亡」ではなく、常に「新しさ」「誕生」「再生」なのですね。ですから新しいものが生まれるために古いものは過ぎ去らなければならない。新しい時代を迎えるために、古い時代は終わらなければならない。イスラエルは長い間様々な外国の支配下にあって、早くこの悪い時代が過ぎ去って新しい時代と新しい救い主の到来を待ち望んでいました。時は過ぎ去る。それは新しいものが生まれるためにこそ古い時は過ぎ去らなければならないのですね。
 時々雨の日が続いて気が滅入っているとき、ある大切なことをよく忘れます。それは、いくら雨の日が続いても、雲の上には相変わらず太陽の光が燦然と輝き続けており、その雲はいつか風に流されて必ず太陽の光が注がれるということを。同じようにわたしたちを悩ませる心の曇りの背後にはいつも聖霊の光が輝いており、その心の曇りもいつまでも続くものではなく、神が望まれるときその曇りも取り払われて聖霊の光が再び訪れてくれます。確かにいいことも過ぎ去るが、悪いことも必ず過ぎ去る。聖霊の光の訪れを待ち続けましょう。

黙想のヒント 王であるキリストの主日
2021年11月21日

「お前がユダヤ人の王なのか」(ヨハネ18:33)

 

今日は王であるキリストの祝日ですが、普通私たちは王というと黄金の冠をつけて玉座から国民を支配している姿をイメージします。しかしキリストの王としての姿は黄金の冠ではなく、いばらの冠であり、玉座から人々を支配するのではなく、人々から踏みつけられ弟子たちからも裏切られた姿です。でもキリストはそこからこそ愛を芽生えさせ、力による支配ではなく、愛となって人の心を支配する王であるのです。イエスは人々から虐げられ、弟子たちからも裏切られたにも関わらず、今なお王として私たちを支配している状態は、言わば歴史の非常識です。
 例えば、モンゴル帝国のチンギス・ハーンは少年時代に家族親戚から見捨てられ、モンゴルの荒野で一人暮らさなければなりませんでした。そのとき彼はモンゴル人が決して口にしない魚を食べながら命をつないでいました。やがて彼が皇帝の位に就いたとき、かつて自分を裏切った家族親戚を呼び集め、何と全員自分の前で処刑したのでした。裏切者は殺される、これが歴史の常識です。しかしこのようにして築かれた国はやがて滅んで行ったのでした。
 しかしイエスは虐げられても復讐せず、弟子たちから裏切られても愛し続ける。事実、復活したイエスが弟子たちに現れた時の第一声は「あなたがたに平和があるように」でした。イエスは、人は悪いのではなく弱いのであり、弱さのゆえに罪に陥ることをよく知っており、同時にその弱い人間はいつも愛に飢えていることもよく知っていたのでした。その愛の勝利を信じて宣言したのが神の国であり、その神の国は今なお存続し、これからも永遠に存続し続けます。もしイエスが自分を虐げた者たちに復讐し、自分を裏切った弟子たちを厳しく処罰したならば、神の国も教会も生まれなかったでしょう。
 ところでイエスの受難のシンボルであるいばらの冠、あのいばらには花が咲くことをご存じですか。派手さはありませんが、春先には白い可憐な花を咲かせます。いばらは、いばらで終わらない。必ず花を咲かせます。十字架は十字架で終わらない。必ず復活します。私は、あるイエスを題材にした漫画で、イエスの頭にあるいばらの冠に花が咲いている絵を見て感動したことがあります。これはあくまでも漫画の絵ですが、いばらの冠の意味をよく示しています。今まで絵画の歴史の中で無数の画家たちがイエスの受難を描いてきましたが、いばらの冠に花が咲いている絵は一度も見たことがありません。一人の日本人の漫画家によって私はいばらの冠の新しい意味を発見することができたのでした。
 私たちが歩んできた、そして今なお歩み、またこれから歩まなければならないかも知れないいばらの道、でもよく目を凝らして見てください。きっと足元には白い可憐な花が咲いていて、その花がいばらの道の人生に大きな意味を与えていることでしょう。

黙想のヒント 年間第32主日
2021年11月7日

「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた」(マルコ12:43)

賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられるイエスの姿は容易に想像できますね。というのは、私たちもお寺などの境内などで人々が賽銭をいれる様子を時々目にしますから。ところでイエスの目に一人の女性の姿が映ります。その雰囲気からして貧しいやもめであることが分かりました。大勢の金持ちがたくさん入れる中、彼女はレプトン銅貨2枚をいれました。これが彼女の全てでした。その光景を見ていたイエスは、やがてその貧しいやもめの姿のなかに自分の将来の姿を感じ取ったのでしょう。やがて十字架の道を歩まなければならないイエスは当時の権力者たちの目から見れば、イエスの命などレプトン銅貨2枚に過ぎないかも知れません。それでもイエスは人々の救いのために自分の全てをささげます。自分の全てをささげるとはどういうことなのでしょう。
 かつてマザーテレサの修道院で砂糖が尽きたことがありました。それを聞いた近くの小学校の先生が子どもたちに、修道院で砂糖が尽きたことを話しました。一週間後ある小さな男の子が両親とともに修道院を訪れ、マザーテレサにおそるおそる小さなビンを渡しました。そのビンの中には修道院の砂糖が尽きたことを知ったその子が、シスターたちのために節約した自分の一週間分の砂糖が入っていたのでした。これがその子の全てでした。マザーテレサは大いに感動し喜びました。マザーテレサの有名な言葉「わたしたちは偉大なことはできないかもしれません。でも小さなことを偉大な愛をもってささげることはできます。」この言葉はこのような小さな子どもたちから学んだのでしょう。従って、その小さな男の子はマザーテレサに偉大な愛を教えた、偉大な先生となったのでした。

黙想のヒント 年間第31主日
2021年10月31日

「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ14:31)

皆さん、赤ん坊はなぜ笑うか知っていますか。子どもはだいたい1歳2歳の頃から話し出しますが、赤ん坊は生まれて間もなく笑いだします。なぜでしょうか。それは親が笑ってあげるからなのですね。赤ん坊は一見何も分からないようでも親の顔を見ています。そうして沈黙の内に親に尋ねています。この親は本当に自分のことを愛してくれているのだろうかと。親が笑えば赤ん坊は安心して笑います。反対に親が怖い顔をすれば赤ん坊は泣きます。それでは笑顔とは何でしょうか。それは幸せのシンボルです。そうやって赤ん坊は毎日笑顔をもらい、そうして自分でも周囲に笑顔を与えながら、自分は幸せなのだ、自分がこの世に生まれてきたことはいいことなのだと理解するようになります。ですから子どもに幸せになってほしかったら家庭にいつも笑顔がなければならないのですね。「笑顔はミルク」これは私がつくった格言です!
 でも笑顔でいるって時々難しいですね。笑顔を作ったつもりでも、口元だけが笑って目が冷たかったりなど。実は笑顔は作るものではなく、にじみ出るものなのですね。従って心が満たされていないと笑顔はにじみ出ない。それでは心が満たされるとはどういうことなのでしょう。ひとつのトレーニングをしてみましょう。それは常に誰かの笑顔を心に思い浮かべ続けることです。それは家族でも、友人でも、恋人でも誰でもいい。とにかく絶えず誰かの笑顔を心に思い浮かべ続けることです。途中で何か悪い顔が侵入してきたら直ちに削除してください。とにかく誰かの笑顔だけを心に思い浮かべ続けてください。そうすれば次第に心が落ち着いて何か穏やかな幸せな気持ちになり、やがて自分が心に思い浮かべている笑顔と同じ顔になっていきます。人は心にあるものを必ず表に出しますから。時間はかかるかも知れませんが、その気さえあれば必ず実行できます。そして実行出来たらそのトレーニングを一生続けてください。そうやって誰を思い出してもその人の笑顔を思い浮かべることができるようになったとき、「隣人を自分のように愛しなさい」という今日の福音を「隣人の笑顔を自分の心に納め続けなさい」という言葉で実行できるでしょう。

黙想のヒント 年間第30主日
2021年10月24日

「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコ10:47)

バルティマイという盲人は、イエスがエリコの町を出て行こうとするとき、そばにイエスがいると聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びます。おそらくこのチャンスを逃したら自分は一生癒してもらえないと感じたのでしょう。その叫び声を周囲の人々はよほど耳障りに感じたのか、彼を𠮟りつけますがなおも彼は叫び続け、ついにイエスの癒しを得ます。彼はイエスの癒しを得るために、長い祈りや断食や苦行をしたわけではありません。ただ「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けただけです。初代教会の頃からイエスの名を呼ぶことで力が得られると考えられていて、次第に今日の盲人バルティマイの叫びが一つの信心となりました。カトリック教会には伝統的にアヴェマリアの単純な祈りを繰り返すロザリオの信心があるように、東方教会でも「イエスのみ名の祈り」という伝統的な信心があります。即ちイエスの名を繰り返す信心です。定まった祈り方はありませんが、代表的な祈りはバルティマイの叫びのような、「神の子主イエス・キリスト、罪人のわたしを憐れんでください」という祈りです。ロザリオの祈りは基本的にアヴェマリアの祈りを50回繰り返しますが、イエスのみ名の祈りは50回どころか、何百回も、何千回も、何万回も、つまり絶えず祈り続ける信心です。このイエスの名を呼び続けることにより、魂は清められ、罪は赦され、心は平安に満たされると信じられています。このイエスのみ名の祈りは東方教会だけではなく、今やカトリック、プロテスタントイギリス国教会など世界中のキリスト者に愛された祈りとなっています。典礼上1月3日は任意の記念日ですがイエスのみ名の記念日です。この記念日は聖ヨハネ・パウロ二世教皇によって制定されましたが、ポーランドという地理的に東方教会に近い国の出身の教皇自身も、きっとこのイエスのみ名の祈りを愛してこの記念日を制定されたのでしょう。なおこのイエスのみ名の祈りは「無名の順礼者」という本に物語として描かれています。一読してみてください。

黙想のヒント 年間第29主日
2021年10月17日

(「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」(マルコ10:35)

ゼベダイの子ヤコブとヨハネは漁をしていたとき、イエスから弟子として呼ばれました。ヤコブが兄でヨハネが弟であったと思われます。最初この二人はイエスの弟子として従っていく意味が分かっていなかったのでしょう。そのため二人は進み出てイエスに願います。
 「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。あなた方は自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」というと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」(マルコ:37-39)
 その当時ぶどう酒を作るときには、まずぶどうの実は足で踏みつぶされて発酵しぶどう酒となりました。「わたしが飲む杯」とはイエスが人々から踏みつぶされること、即ち受難を意味し、「わたしが受ける洗礼」とは血の洗礼、即ち死を意味します。ヤコブとヨハネはまだ意味が分からず、「できます」と答えました。
 この兄弟ヤコブとヨハネは非常に対照的です。イエスが、「確かにあなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼をうけることになる。」と予告したとおり、西暦44年の春ヤコブは使徒たちの中で最初にイエスの杯を飲み、イエスの洗礼を受けて殉教しました。このことが使徒言行録12章2節に記されています。ちなみに、聖書の中で使徒の殉教が記されているのはヤコブだけです。その後ヤコブの遺体はスペインに運ばれて埋葬され、現在サンチアゴ・デ・コンポステラという世界的な巡礼地になっています。
 一方ヨハネは12使徒のなかで唯一殉教せず、ギリシャのパトモス島で90歳近くまで生きたと伝えられています。ですからヨハネは殉教者ではなく「証聖者」として祝われています。このヨハネは晩年近く自分の足で歩くことが困難になったので、信者たちは主日のミサのためにヨハネを車に乗せて各教会へ運び、ヨハネはそこでミサをささげていましたが、説教はいつも同じで、「子たちよ、神はあなた方を愛しておられる。あなたがたも互いに愛し合いなさい。」この一言だけでした。それでもいつも多くの信者が集まってきました。ある日一人の信者が、どうしていつも同じことを話すのかと尋ねると、ヨハネは「わたしの先生がいつもそう言っていたから」と答えたそうです。実際ヨハネの福音書や手紙の中ではこの言葉が何度も繰り返されています。「子たちよ、神はあなた方を愛しておられる。あなたがたも互いに愛し合いなさい。」この単純な言葉は弟子として一番若かったヨハネの心にしたたり続け、ちょうど一滴一滴のしずくが長い年月を経て固い岩を割るように、ヨハネの固い人間の殻を破って福音書や手紙の中でイエスの神性をにじみ出しているのです。
 ヤコブとヨハネ、この二人はあまり意味も分からずイエスに従いましたが、二人ともそれぞれの仕方で生涯を全うしました。わたしたちも今、あまり意味が分からないままイエスに従っているかもしれません。でも大事なことは挫折したとしても諦めずに従い続けることです。最後にはイエスがわたしたちを行くべきところに連れて行ってくれるはずですから。

黙想のヒント 年間第28主日
2021年10月10日

(マタイ10:17-27)

 グリム童話に次のような話があります。
 ある貧しい人が死んで天国に来ました。彼が天国の門をくぐろうとするとペトロがやってきて、「ちょっと待ってくれ、今金持ちが死んで天国に来るので彼を先に入れる」というのです。天国は貧しい人たちのものだと教えられていた彼は納得がいきませんでしたが、ペトロに言われたので仕方なく門の外で待っていました。間もなく金持ちがやってきてペトロと一緒に天国の門をくぐって中に入りました。やがて天国から天使たちによる大歓迎の合唱が聞こえてくるではありませんか。外で聞いていた貧しい人は、天国ではこんなに歓迎されるのかと胸をときめかせました。やがて彼の番が来てペトロと一緒に天国に入りましたが、何とそこには何もないのです。天使の姿も合唱の声もない。ただシーンとしているのです。彼は納得がいかずペトロに尋ねました。「天国ではあんなに金持ちを歓迎してくれるのに、どうして私のような貧しい者が天国に来ても歓迎してくれないのですか?」ペトロは少し言いにくそうに答えました。「お前のような貧しい者は毎日のように天国にやってくる。だから貧しい者が天国に来るのは普通のことなのだ。しかし金持ちが天国に来るのは100年に一回しかないのだ。だから天国では金持ちが来ると大きな喜びがあるのだ。」
 この話はあくまでも童話で、今日の福音の一節「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」というイエスの言葉を皮肉って脚色したに過ぎないのですね。でも皆さん今日の福音書を読んで、自分は金持ちではないから、少なくとも金持ちよりは天国に近いと思ったら大間違いですよ。
 確かにこの金持ちに欠けているものは富を分かち合う心でした。しかしイエスは今度私たち一人一人を見つめ慈しんで言っておられます。「あなたに欠けているものが一つある」と。イエスからこう言われたら皆さん何と答えますか。金持ちではなかったとしても、金持ちを妬む心があったり、貧しい人に無関心であったり、お金以外のものに大きな執着があるかも知れません。それは今自分で分かっている場合もあるでしょうし、まだ気づいていないかも知れません。もしかしたら私たちも自分のことを非常に恥ずかしく思い、イエスの言葉に気を落として悲しみながら立ち去った金持ちのように、私たちも悲しくなってこの場から立ち去りたくなるかもしれません。
 最後に、イエスの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ったあの金持ちはその後どうなったか想像してみましょう。私は、彼はその後考え直して財産の全てか、或いは半分を貧しい人に施して、またイエスのところへやって来たと思うのですね。その理由は彼が怒ってではなく、憎んででもなく、「悲しんで立ち去った」ところにあります。悲しみには希望があります。悲しみはいつか喜びに変わります。でも怒りや憎しみからは何もいいものは生まれません。私たちがイエスから「あなたに欠けているものが一つある」と言われて、辛くなって悲しんで立ち去ったとしても、また必ずイエスは私たちを連れ戻してくださることを信じましょう。「悲しむ人は幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5:4)とイエスは言いました。悲しみには希望があります。悲しみはいつか喜びに変わります。

黙想のヒント 年間第27主日
2021年10月3日

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2:18)

神は人間を男と女に造られました。男女は人権の上では同じですが、実際は様々な面で違います。それは体の構造だけではなく、ものの考え方、感じ方、出来事に対する反応の仕方も違うし、究極においては神のとらえ方も違うと言えるのですね。
 ひとつの例として、妻は小さなことを大切にし、夫に対してそれに反応してほしいのですね。例えば心を込めて料理を作ったら、一言美味しいと言ってほしいし、たまにテーブルにきれいな花を飾ったら、きれいだねと言ってほしい、新しい服を買ってきたら、なかなか似合うよと言ってほしい。私は教会でお母さんたちからよく愚痴を聞かされます。「うちの旦那ときたら、せっかく食事をつくっても、うんともすんとも言わずただ黙々と食べるだけなんだから…、新しい服を買ってきても一週間くらいしてやっと、『ああそれ買ってきたのか』としか言わないんです」等々。でも男にも言い分があります。ある心理学者によると夫が妻を愛して心から妻と一体になっているときは、うわの空や鈍感になりやすいそうです。だから妻に対して注意をはらうこと忘れてしまいがちになりやすいのですね。妻はこのことを理解してあげて、夫が黙っているからと言って決して妻に関心がないのだと思わないでください。でもやはり可能な限り、夫は妻がしたことに対して、いいね、美味しいね、きれいだね、と言ってあげてくださいね。ついでに、夫が決して忘れてはならない記念日があります。それは結婚記念日と妻の誕生日です…。
 ところで、夫でも妻でも必ず口に出して言わなければならない言葉、それは「ありがとう」と「ごめんなさい」です。「ありがとう」は口に出して初めて「ありがとう」なのです。心の中で感謝しても、口に出して言わなければありがとうにはならないのですね。ある女性は語ってくれました。「亡くなった私の主人は何をしてありがとうと言う人でした。新聞持っていったら『ありがとう』、灰皿持っていったら『ありがとう』、醬油を持っていったら『ありがとう』などと。」実際その夫婦は本当に仲の良い夫婦でした。また謝るべきときも必ず「ごめんなさい」を忘れないようにしましょう。ただ一言、(笑いながらでも)「ごめんなさい」と言えばいいのに、それがないために喧嘩にする必要がないことまでも喧嘩にしてしまうことがよくあるのですね。ちなみに、いつも「ありがとう」と言う人は「ごめんなさい」も自然に出ます。「ありがとう」や「ごめんなさい」なんて習慣で言ってるだけだ、などと決して考えないでください。習慣が人格を形成するのですから。
 今日はこれくらいにしておきます。このような話をもっと聞きたかったら私の結婚講座に来てください。結婚講座は結婚前のカップルだけではなく、何年も結婚生活を経験した夫婦にこそ必要なのですから。

黙想のヒント 年間第26主日
2021年9月26日

「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。」(マルコ9:43)

今日の福音の言葉恐ろしいですね。もし片方の手や足や目があなたをつまずかせるなら、切ったり、えぐり出したりしなさい……皆さん、絶対こんなことしたらいけませんよ!また間違ってもこんなことを人に言ったらいけませんよ!それでは、どうしてイエスはこのような言い方をするのでしょうか。今日の福音に限らず、イエスの教えの中には時々極端な表現が見られます。イエスの教えの中には字義通り守らなければいけないものと、当時の時代背景を考慮して象徴的に解釈しなければならないものとがありますが、今日の福音は後者の典型です。
 当時のラビ(先生)の弟子に対する教授法は口伝が普通でした。というのは、今と違って当時筆記用具はなく、弟子たちはラビが言ったことを耳でしっかり聞いて暗記するだけでした。だから弟子たちの耳と心にしっかり残るように、ラビたちは大切なことを強調するためによく極端な言い方をしたと言われています。イエスも当時の習慣に従って大切なことを強調するため時々極端な譬えを用いました。その大切なこととは、「正しいものは正しい、間違っているものは間違っている」「Yes is Yes, No is No」であって、信仰に中庸な態度はなく、信じるか信じないか、従うか従わないかのどちらかなのですね。信仰に中庸な態度があるとすれば、それは信じない、従わないことと同じです。
 イエズス会の創立者ロヨラのイグナチオは、時々自分の臨終の姿を想像するように勧め、そして死ぬ前に決して後悔してはいけないと教えました。例えば何か大きな決断をしようとするとき、これを選び取っても死ぬ前に後悔するようなことはない、むしろ安心して死ぬことができると思ったら、勇気をもってそれを選び取りなさい。反対に今これを選び取ったら死ぬ前に後悔するのではないかと迷ったら、それはいさぎよく捨てるようにと教えました。今日の福音の譬えのように、まさに片手片足を切り捨てるような思いで、悪いものは今、後からではなく今捨てるように教えたわけですね。スペインに「死は真実の鏡である」という諺があります。人は死ぬとき、それまでのその人の人生が容赦なく映し出されます。良かったことも、悪かったことも。一回限りの人生、しっかりと襟を正して生きて行きましょう。

黙想のヒント 年間第25主日
2021年9月19日

「何が原因であなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」(使徒ヤコブの手紙4:1)

皆さん、今日は何だかヤコブに叱られたような感じで、少し落ち込みそうな気になりますね。悪いことは自分の心からなかなか無くならない、自分はいつまでたっても変わらないと。でもそれは悪いことから何かを学ぼうとする意志がないからなのですね。悪いことから何か大切なことを学び、そこから知恵を引き出すことができたのなら、それはもはや悪いことではなく貴重な体験となるのですね。光が遮られている状態が闇であるのと同じように、悪とは善が遮られている状態です。悪いことはつかの間の影であり、自ら作り出したもの。大切なのは悪いことを理解して、そこから人生の知恵を学ぶことです。そうすれば悪とは無知に起因する過ちに他ならないことが分かり、単に悪を忌み嫌うのではなく、むしろ罪を犯して苦悩している人に寄り添うことができるでしょう。
 こんな話があります。ある子どもが無力な動物を虐待していたとします。すると、それを見た男性が無力な動物に何をするのかと、その子どもを叩いたとします。続いてそれを見ていた別の男性が、無力な子どもに何をするのかと、その子を叩いた男性を殴ったとします。その子を含め、この3人とも悪いのは相手だと言うでしょう。このように無知と憎しみが不和をもたらすのです。
 人は憎しみや怒り自己愛にとらわれているとき、真実を見る目を失っており、いやでも不正義しか見えないのです。ですから内側で混乱した人生を送っていると、それと同じ状況を外側の見える人生の中に必ず出現させることになります。
 皆さん、決心しましょう。どんな決意ですか。それは過去の過ち、失敗、苦悩から大切なものを学ぶ決意です。決意は人間を進歩させる強力なパワーです。私たちは決意を人生の中に持ち込まない限り進歩を遂げることはできません。しかしその決意とともに歩みだす道はとても険しいものに見えるかも知れません。もしそうだったら、それは本物の道であることの証明です。最初に魅力的に見えるものは、実は幻想や誤りであることが多いのです。

黙想のヒント 年間第24主日
2021年9月12日

「あなたは、メシアです。」(マルコ8:29)

今日の福音でイエスは弟子たちに質問しました。「人々はわたしのことを何者だと言っているか。」それに対して弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに『エリヤ』だと言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えましたが、それは当時彼らが耳にしていた噂に過ぎなかったのですね。次にイエスが尋ねます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」この言葉の意味は、「噂はもういい、それよりわたしは、あなたがた一人一人の信仰について尋ねたい。あなたがたは、わたしをどのように信じているのか」ということです。それに対してペトロが代表して答えます。「あなたは、メシアです。」即ち、「あなたは、救い主です。」「あなたこそ、救い主です。」「あなた以外に救い主はいません。」というペトロの信仰告白なのですね。
 今日の福音は多くの日本人のキリスト教の受けとめ方を示していると思います。日本でキリスト教は割合好意をもって受け止められていると思います。キリスト教系の学校は割合評価され、結婚式は教会でというカップルも多く、最近はキリスト教のお葬式もいいなあという年配の人も多く、またクリスマスは教会に行ってみたいという人も多くいます。でも多くの日本人にとってキリスト教が評価されても、それは一種の文化であって、キリストの言葉と行いそのものに関心があるかは別の問題だと思います。即ち日本におけるキリスト教は、今日の福音が述べる「噂」のレベルをあまり越えていないのではないでしょうか。
 かつて中世期にヨーロッパでペストがまん延し、人口の3分の1が亡くなったと言われていますが、そのペスト後人々の死生観は大きく変化したと言われています。新型コロナウイルス感染症も一種の世界的な疫病です。でも同時に日本ではお寺などに行く人が増えたと聞いています。コロナ終息後日本人の死生観も変化するかもしれません。そのときわたしたちも大きな役割を受けることになるでしょう。

黙想のヒント 年間第23主日
2021年9月5日

「エッファタ」(マルコ7:34)

今日の福音は耳が聞こえず舌の回らない人が癒された話です。イエスの奇跡の多くは病気の人が癒されたもので、実際病気の人が癒されたと同時に、私たちにとってもこのような出来事がどんな意味を示しているのか考えてみる必要があります。例えば目の見えない人が癒された話は、挫折、失敗、孤独などで人生の暗闇に陥った私たちがイエスと出会って光が与えられる。歩けなかった人がイエスによって歩けるようになった話は、誤解や偏見に捉われて人生につまずいていた私たちが、イエスと出会って人生をまっすぐに歩けるようになったなど。それでは今日の福音のように、耳が聞こえず舌の回らない人が癒された話は、どのようなヒントが示されているのでしょうか。実は、この病は私たちが常日頃経験するところです。即ち、「口を閉ざす」という心の病です。喧嘩や争いなど、何か気に入らないことがあったとき私たちはこの病に陥ってしまいます。家庭で、学校で、職場で、そして教会で。しかもこの病は自覚症状がないことが多い。さらに誰かに対して「この人嫌い」という思いをいだくと、その思いは必ず表情に出て、相手もそれを感じとりますます距離を置くようになります。このようなとき、イエスが「エッファタ」(開け)と言ってくれたら私たちの口は開くのです。でもそのためには、私たち自身が癒されることを望まなければならないのですね。癒されたいという願望のないところに、また癒しもない。でも癒されたいと願ったそのとき、もう半分癒されているのです。ではどうしたらこの癒されたいという思いを引き出すことができるでしょうか。復活したイエスが受難の夜ご自分を見捨てた弟子たちに現れた時の第一声が、「あなたがたに平和があるように」でした。この一言で受難の夜イエスを見捨てた弟子たちの心の傷は癒されました。皆さんも今口を閉ざしている人が頭に浮かんできたら、力まず、さらりと一言「あなたの上に平和あれ」と言ってごらんなさい。これ以上のことは何も言わなくていいです。これを繰り返すうちにあなたの心は少しずつ変わり、やがてあなた自身に癒しがもたらされますよ。試してみてください。今日の黙想のヒントです。

黙想のヒント 年間第22主日
2021年8月29日

「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。」(ヤコブ1:21)
「人間の心から悪い思いが出てくる。」(マルコ7:21)

皆さん、人間には良い心と悪い心の二つの心があるのでしょうか。いいえ、心は一つです。良い心と悪い心、愛と憎しみは別の所から生まれるのではなく、同じ心の奥から生まれてくるのです。ですから、神様が私たちの心にちょっと触れてくれるだけで怒りや憎しみが愛と思いやりに変わるわけです。でも油断していると、今までの思いやりが急に怒りに変わったりすることは私たちもしばしば経験するところです。憎しみや愛というエネルギーは同じ心の奥から放出されます。電気やガスなどのエネルギーは効率よく使うように家庭でも社会でも教えています。それなら心のエネルギーも正しく使わなければなりません。大切なことは悪の経路を愛の経路に変えていくことですね。2019年12月4日アフガニスタンで中村哲医師が銃弾に倒れましたが、彼はアフガニスタンの人々のために生涯をささげ、特に砂漠に水路を引いてアフガニスタンの砂漠を緑の大地に変え、食料問題を大きく前進させました。私たちも悪の経路を愛の経路に変えて、不毛な心を緑豊かな心に変えなければなりません。そのためには神様が私たちの心の水源池の流れをちょっと変えてくれるだけで悪い流れは良い流れに変わるのですね。残念ながら今アフガニスタンはタリバンが掌握して、国が混乱状態に陥ってしまいました。でも中村医師の努力は無駄にはなっていません。彼が残した水路は、混乱した政治状況でも静かに流れ続けて、砂漠に豊かな緑を保たせています。中村医師はプロテスタントの信者でした。神様が私たちの心の水源池の流れを正しく保たせてくださるよう祈るとともに、天国の中村医師とともに私たちもアフガニスタン自由と平和のために祈りましょう。

黙想のヒント 年間第21主日
2021年8月22日

「主よ、わたしたちは誰の所へ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネ6:68)

 今日のペトロの言葉は、日本の教会で聖体拝領前の信仰告白として、私たちもミサごとに繰り返しています。ペトロは福音書の中で他の使徒たちに比べて非常に多く登場し、また多く語ります。12使徒の名前が列挙されるときは必ず筆頭に名前があげられ、また今日の福音書のように、イエスの質問に使徒たちを代表して答えるのもペトロで、ご変容やゲッセマネなどイエスの生涯の大切な場にペトロは必ず居合わせます。またペトロは人間味にあふれ、イエスから愛されたが、またよく叱られ、特にイエスの受難の夜3度イエスのことを知らないと否みましたが、その後鶏が鳴き「あなたは鶏が鳴く前にわたしのことを3度否むであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て号泣しました。ちなみに12使徒の中でイエスのために泣いたのもペトロだけです。

 ペトロは後にローマの教会の指導者になりました。ちなみに使徒の頭であるペトロがローマの教会の指導者であったことから、伝統的にローマの司教には特別な権能が委ねられ、後にパパとか教皇とか呼ばれるようになりました。ですからペトロは初代の教皇です。

 ペトロがローマの教会の指導者であったとき大きな迫害が起こりました。言い伝えによれば、ペトロはこの迫害の苦しみに耐えきれず、ある日ローマから逃げ去りました。彼がローマの郊外アッピア街道を歩いていると、正面からみすぼらしい男性が歩いてくるのです。よく見たらそれはイエスでした。ペトロが驚いて”Domine quo vadis?”(ドミネ・クオ・ヴァディス?ラテン語で、主よどこへ行かれるのですかの意味)と尋ねたところイエスは、「私はお前に代わってもう一度ローマで十字架につけられるために、今ローマに向かっているところだ」と答えました。それを聞いたペトロは今更のように自分がしていることを恥ずかしく思い、ローマに引き返して再び宣教活動を続けました。後に捕えられて十字架刑が宣告されたときペトロは、何度もイエスを裏切り悲しませた自分はイエスと同じ十字架にかけられる値打ちはない、自分を逆さまの十字架につけてくれと願い出て、ついにローマのヴァチカンの丘で逆さまの十字架につけられて殉教したと伝えられています。今でもローマの郊外アッピア街道にクオ・ヴァディス教会という小さな聖堂があり、そこの祭壇の壁にペトロが逆さまの十字架にかけられて殉教した姿が描かれています。

 イエスの弟子とはどんな人のことを言うのでしょうか。それは決して自分はイエスの弟子だと確信している人ではなく、ペトロのように弱さもろさを身に帯びながらも、それでもイエスの弟子でありたいと願い続けている人のことです。

 今日もイエスの弟子であらせてくださいと願い続けながら、イエスとともに歩みましょう。

黙想のヒント 

聖母の被昇天 2021年8月15日

「いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」(ルカ1:48)

 今日の福音はマリアのエリサベト訪問の場面です。教会はロザリオの喜びの神秘第二の黙想でマリアのエリサベト訪問を祈ってきました。ですから私たちにはマリアのエリサベト訪問は喜びのイメージがあります。この二人の女性の出会いは、確かに最後は喜びであったと思いますが、最初は喜びではなく不安を抱いた女性の出会いだったと私は思うのですね。

というのは、まだ結婚していなかったマリアは天使ガブリエルから男の子を身ごもったことを告げられ、驚きながらも「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりましように。」(ルカ1:38)と信仰を表明したものの、未婚であったマリアが妊娠していることが発覚すれば、姦通を疑われ当時の律法では石殺しにあわなければなりませんでした。ですからマリアの前には恐ろしい状況が待ち構えていたわけです。このようなマリアが喜んでエリサベトにこのことを伝えに行ったとは考えにくく、むしろこれから自分はどうやって生きて行けばいいのだろうと、非常に不安な気持ちで相談に行ったのでしょう。

一方エリサベトも実は不安を抱えていたと思うのですね。福音書によると天使ガブリエルは夫ザカリアに妻のエリサベトが男の子を身ごもったことを告げたとき、年を取った自分たち夫婦にどうしてそのようなことがあるのかと疑いました。そのときガブリエルから「あなたは口がきけなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(ルカ1:20)と言われ、その時から話すことができなくなりました。その場に居合わせなかったエリサベトにはその理由が分からず、夫ザカリアは一生この状態が続くのではないかと毎日が不安であったと思います。

ですからマリアのエリサベト訪問は将来に不安を抱いた生身の弱さを持った二人の女性の出会いだったと思うのですね。そしてこの二人はこれからお互いどうやって生きて行けばいいのか話し合ったことでしょう。その結果『自分たちに残された道は神の導きを信じることだけだ。お互い不安を乗り越えてしっかり生きて行こう。』と固く誓い合ったことでしょう。そしてエリサベトは「主がおっしゃたことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」(ルカ1:45)とマリアを称賛し、マリアも「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」(ルカ1:48)と宣言しました。その理由は「力ある方がわたしに偉大なことをなさいましたから。」(ルカ1:49)つまり神が自分に困難を乗り越えて生きる力を与えてくれたから、わたしにはこれから恐れるものは何もない、と最初のお互いの不安は喜びへと変えられたのですね。

今日の私の話は福音書には書かれておらず、あくまでも私の想像です。でもイマジネーションを用いて福音書を読むことも非常に有益だと思います。

黙想のヒント 年間第19主日
2021年8月8日

「皆さん、神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」(エフェソ4:30-31)

 「疲れた」という言葉をよく使います。仕事で疲れた、勉強で疲れたなど。でも私たちの疲れの原因は仕事よりむしろ悩みや不安などのストレスが原因になっている場合が多いのですね。特に怒りや憎しみは、実際かなり私たちのエネルギーを消耗しているのです。そのエネルギーの消耗のひどさは場合によったら重労働や病気よりも甚だしいときがあります。私たちが人に怒り憎しみを感じると、むしろ自分自身が相手に支配されることになり、その支配力は私たちの睡眠、健康、幸福にまで及びます。反対に私たちがいくら相手に怒り憎しみを感じても相手は何も傷ついていないばかりか、かえって私たちが日夜地獄の苦しみを味わうことになる。私たちが人への怒り、憎しみに捕らわれているときは目が歪められて真実を見る目を失っており、無意識のうちに悪いことだけを見ているのです。ですから怒り、憎しみの炎が自分の体に入ってきたら直ちに捨てましょう。毎日家庭でゴミを出しているのなら、心のゴミも一緒に出してしまおうではありませんか。

その代わり、いつも正しい美しい考えだけを心に入れましょう。私たちの心は神からいただいた貴重なものだから、価値あるものにだけにエネルギー費やしましょう。自分の思考のエネルギーをいつも正しくコントロールすること。そのためには常に誰かの笑顔を心に思い浮かべ続けましょう。時間がかかるかも知れませんが必ずできます。次に自分の心を過去の幸せな出来事に集中し向け、その出来事を生き生きと思い出し、それを心の中でしっかり体験し直すこと。そのときの気温やそのとき着ていた衣服を肌で感じ取りながら、その情景をはっきり思い浮かべ、そのときの感情を生き生きとよみがえらせましょう。そうやって手にした穏やかな心の良い情態を維持しながら、自分の意識の全てを今自分に不安をもたらしている問題に集中し向けてみましょう。間もなく皆さんは少し前には解決が不可能に見えた問題が驚くほど単純で容易な問題になっていることに気づくでしょう。そのとき皆さんは穏やかな心のみが持つことができる鋭い洞察力と優れた判断力を駆使しているのです。やがて皆さんは次に自分が進むべき最善の道を発見するでしょう。

 「善良な思いとともに第一歩を踏み出し、善良な言葉とともに第二歩を踏み出し、善良な行いとともに第三歩を踏み出すことで私は楽園に入った。」(バーリ)

黙想のヒント 年間第18主日
2021年8月1日

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27)

 「いつまでもなくならないもの」とは何でしょうか。今オリンピックの最中で熱い戦いが繰り広げられ、日本人の選手団の活躍によって私たちも大いに勇気づけられています。オリンピックの最終勝者は一人、あるいは一グループだけで、その他の人は皆涙をのまなければなりませんが、全員に共通して言えることは、皆子どもの頃から自分を信じてここまで来た人たちだということです。夢や希望と言う人生のジャンプ台を通してオリンピックまでたどり着いた人たちです。だいたい具体的な夢や希望をもってあのようにありたい、このようにありたいと願えること自体、それを現実にする潜在的な力が備わっていることの証拠です。通常人は自分に素質や能力がないことをあまりしたいとは思いません。ですから具体的な夢と希望をもって自分の将来の姿を思い描けるということは、その人にとってその実現の可能性が高いということです。今はできないことがあっても、それは今の自分にできないだけであって、将来の自分ならできるという未来進行形で考えることが大切です。自分にはまだ発揮されていない力が眠っていると信じることが大切で、その潜在力をONにするにはプラス発想や積極思考など前向きの精神状態や心の持ち方が大きく作用します。自分の人生を自分の力でしっかりと創造していける人というのは、その基盤として、必ず大きすぎるくらいの夢、身の丈を超えるような願望をいだいています。同時に豊かな将来をつくるという信念は豊かな現在をつくるという信念がなければ価値がありません。だから今日のこの一日こそ常に私たちにとって最上の日でなければなりません。ですから毎朝プラス発想や積極思考で一日を始めましょう。人の将来は今自分が考えていることに非常に左右されます。ですから感謝で目覚め、希望と自信で顔を洗い、愛と豊かな実りのことだけを考えて一日の歩みを始めましょう。

 「いつまでもなくならないもの」それは私にとって夢と希望です。

黙想のヒント 年間第17主日
2021年7月25日

「ここに大麦のパン五つと二匹の魚とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(ヨハネ6:9)

 「何の役にもたたないでしょう」これは時々私たちの頭をよぎる言葉で、また教会の試練でもあります。私たちは効率性、合理性を重んじる社会の中で生きていますから、少ない材料でより良い製品を、少ない努力でより良い成果を上げることが求められています。でも教会の生命力は、一見して無駄と思えるところにどれだけ大きな力を注ぐことができるかにかかっています。テレワーク、リモート会議も増えて便利になりましたが、99匹の羊を野原に残してでも失われた1匹の羊を探し求めて(ルカ15:1~7参照)、一人一人と出会うためには効率の悪い地道な努力が必要です。悩み苦しむ人の思いはリモートではなかなか分かりません。直接相手の表情を見ながら、目と目を合わせながら語り合いましょう。

 「何の役にも立たないでしょう」これはまた、特に祈りの中で受ける試練です。「祈って何の意味があるのだろうか」「祈りって本当に届いているのだろうか」私たちはこのような疑問や空虚感によく襲われます。しかし教会の生命力は、一見して無駄と思えるところにどれだけ大きな力を注ぐことができるかにかかっています。それは日々の祈りにこそ当てはまることです。

「地球上において全ての物体は地球に引き寄せられているだけではなく、この宇宙においてはどこでも全ての物体は互いに引き寄せ合っている」というニュートンの万有引力の法則があります。この法則を認めるのなら「全ての人は神に引き寄せられているだけではなく、全ての人は互いに引き寄せ合っている」という祈りの法則も認めないわけにはいきません。「祈りは人が生み出しうる最も強力なエネルギーである。それは地球の引力と同じ現実的な力である。私は医師として多くの人があらゆる治療で失敗した後、祈りという厳粛な力によって病気から救われた例を目にしてきた」(アレクシス・カレル1912年ノーベル生理学医学賞受賞者)これが祈りの科学的根拠です。

「何の役にも立たないでしょう」祈りながらこのような試練に襲われても、諦めず祈りに没頭しましょう。

黙想のヒント 年間第16主日
2021年7月18日

「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」(エフェソ2:14)

 エフェソの町ではユダヤ人と異邦人の対立がありましたが、パウロは3年間宣教して教会を育てた結果、ユダヤ人と異邦人を隔てていた壁がキリストによって取り払われたことを強調しています。「お互いの違い」は場合によったら誤解対立を生むこともありますが、本当の良さはお互いの違いの中から生まれるのですね。聖書に記されている教会内の最初の対立はヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人の対立でした。しかしその結果、解決策としてステファノをはじめ7人の助祭が任命されて新しい奉仕職が生まれ、教会はますます発展していきました。(使徒言行録6:1~7参照)

ですから「お互いの違い」というものは、家庭でも教会でも社会でも乗り越えなければならない壁ではなく、より良いものが生まれる豊かな土壌であり、出発点であり、喜びでなければならないのですね。

 今日本の社会は多くの外国人労働者によって支えられているのと同じように、日本の教会も外国人信徒によって支えられています。外国人が増えれば問題対立も生じますが、教会の豊かさはこの違いの中から生まれます。確かに日本人受洗者は増えませんが、外国人信徒の増加によって神の民は増えています。外国人信徒数はもうすでに日本人信徒数を越えていると言われています。ですから教会は今大きなチャレンジのときを迎えています。

 「ハイブリッド」という言葉があります。ガソリンで動くモーターと、電気で動くモーターを搭載したハイブリッドカーをすぐ連想しますが、本来は異種のものを組み合わせて生み出されるモノ、あるいは生き物を意味します。それならば教会こそハイブリッドでなければならないのですね。聖霊はわたしたちにいつも新しさを求めます。その新しさに気づかせてくれるのはいつの時代でも「お互いの違い」です。教会という車にはいつも新しいエンジンが必要です。「お互いの違い」という新しいエンジンを搭載して今日も爽快に走りましょう。

黙想のヒント 年間第15主日
2021年7月11日

「何も持たず」(マルコ6:8)

イエスは弟子たちを宣教に遣わすに際して「何も持たず」に行くように命じられました。でも現実的に無理な話ですよね。普通、旅に出かけるには最小限の金銭、食料、衣類が必要だと考えます。でも今日のメッセージは別のところにあるようです。イエスに従って行くために持って行ってはいけないもの、それは自分への執着です。自分には経験能力があると思っても人から見れば取るに足りないものであったり、経験能力があるとの思い込みから人を軽蔑したり、結局そのような思い込みが成長の妨げになることがよくあります。むしろ自分は何も知らないからもっと学ばなければならないという謙虚な姿勢、ギリシャの哲学者ソクラテスも言った「無知の知」が信仰的にも人間的にも成長の秘訣であって、罪深いのは自分が無知であることを知らないことなのですね。

 また、わたしたちがイエスに従って行く際の重荷が二つあります。それは「過去の後悔」と「未来への不安」です。これさえなければと思うのですが、どうしてもついて来る。しかし過去の後悔があるから慎重に行動するし、また同じ失敗をした人への思いやりも生まれてくる。そして未来への不安があるから努力するわけですね。はっきり言って未来への不安が全くなかったら、人間は努力しなくなります。信仰的にも人間的にも「過去の後悔」と「未来への不安」、これを上手に使いこなしましょう。

 ところでイエスは弟子たちが迎え入れられず、耳をかたむけてもらえなかったら、彼らへの証しとして「足の裏の埃を払い落としなさい」(6:11)と命じました。しかし、実際わたしたちが払い落とさなければならない埃、それは、怒り、恨み、妬み、悲観主義などのマイナス思考です。さあ、今日もこのようなマイナス思考という埃を払い落としてイエスについて行きましょう。

黙想のヒント 年間第14主日
2021年7月4日

「皆さん、わたしが思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られたつかいです。この使いについて、離れ去らせてくださるよう、わたしは三度主に願いました。すると主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(使徒パウロのコリントの教会への手紙)

印象深い今日のパウロの言葉です。ところでパウロが言う「とげ」とは何でしょうか。「とげ」は普通ごく小さなものですが、いったん体に刺さると全身が痛く感じるほど厄介なものです。パウロにとってのとげは肉体的なものか精神的なものかは分かりませんが、いずれにしても「これさえなければ」と思われる弱さ、欠点のようなものであったのでしょう。「これさえなければ、もっとうまくやれるのに」とか「何で自分はこんな人間に生まれついたのだろう」とパウロはいつも悩んでいたことでしょう。そして何とかしてこれを取ってほしいと三度主に祈った結果、聞こえてきた答えが「わたしの恵はあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」でした。その意味は「あなたは今のままでいなさい。あなたがわたしを忘れることのないようにわたしはこのとげを与えた。」と言うことだったのでした。

わたしたちもまた時々鏡に映る自分の顔を見ながら、「これさえなければ」と思うような「とげ」即ち弱さ、醜さがあることでしょう。でも自分の弱さ醜さを感じるからこそ祈るのであり、自分の弱さ醜さを感じなかったら、パウロが言うように思い上がって祈ることもないでしょう。普通わたしたちは自分に自信があるとき真剣には祈りません。能力的なものであれ経験的なものであれ自分に自信がないとき、自分の弱さを知ったときこそ真剣に祈ります。弱さ醜さはわたしたちが思い上って暴走しないため神が与えてくださった安全弁であり、神との出会いの場です。

『自分の最も醜いと思われるところ、そこにこそキリストはおられる。』

今日もパウロと一緒にこう祈りましょう。

「神よ、わたしをこんな弱い人間につくってくださってありがとう。わたしはこんな弱い人間だからこそ毎日お祈りできるのです。」

黙想のヒント 年間第13主日
2021年6月27日

「あなたの信仰があなたを救った。」(マルコ5:34)

 今日の福音では二人の女性が登場し、それぞれ12年出血症を患っていた女性は癒され、一度死んだヤイロの幼い娘には再び命が与えられました。人間は古代から現代にいたるまで病気と死に対して戦いを挑んできました。しかし人間は最終的には病気になって死を迎えます。実際、病気と死は人間であることの条件であり、病気と死そのものは決して倫理的な悪ではありません。それでは病気と死に対する戦いの意味は何でしょうか。それはその戦いを通して育まれる命への愛と大いなる不滅への希望です。今日の福音で登場した二人の女性もいずれ病気になって死んだことでしょう。彼女たちは、言わばこの世の寿命を一時的に伸ばしてもらったに過ぎないのです。しかし彼女たちの人生の中で一瞬の閃光のように輝いたこの癒しが、彼女たちの命に美しさと意味を与えました。死があるからこそ命は美しく不滅です。「私は不滅の命を信じます。それは不滅へのあこがれが私にはあるからです。」(ヘレン・ケラー)

 私は何度か次のような経験があります。いつも同じ場所にきれいな花が飾られている。いつまでもきれいだなと思って何気なしに触れてみたらそれは造花でした。これは生きたものではないと思った瞬間からその造花に美しさを感じなくなり、関心もなくなりました。花はいつか萎れるからこそ美しい。人間もいつか死を迎えるからこそ美しい、だからこそより美しく生きなければならない。知恵の書がこのことをより正確に述べています。

 「神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅び喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りになった。世にある造られた物は価値がある。滅びをもたらす毒はその中になく、陰府がこの世を支配することもない。義は不滅である。神は人間を不滅な者として創造し、ご自分の本性の似姿として造られた。」(知恵の書1:13~15、2:23)

黙想のヒント 年間第12主日
2021年6月20日

「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(マルコ4:38)

 弟子たちは嵐にもまれる船の中でイエスに必死に叫びました。でもイエスは船の中で眠っておられました。皆さんも今まで同じような叫びを神に投げかけたことがあるのではないでしょうか。「神よ、わたしが死んでもかまわないのですか」「神よ、わたしがどうなってもかまわないのですか」でも神は何も答えてくれなかった…など。

ところで病気や事故で意識不明の人と対面することがあります。でもこのような時どう対処したらいいかわからない…。話しかけても反応がないから…。皆さんもこのようなことを経験されたのではないでしょうか。でもわたしはこのような意識不明の人に対する語りかけは神への祈りに通じると思うのですね。医師や看護師が共通して言います。「耳は最後まで残る」と。意識不明に見えても実は聞こえているのですね。ある司祭は病気で倒れ病院に運ばれました。その後意識を回復した後に語りました。「病室で皆さんが話したことは全て聞こえていました」と。神への祈りも同じです。神は語りかけても祈っても何も答えてくれない、でも全て聞いている。そして後に何かが示される。

ミサで一番大切な時、それは聖変化です。普通のパンがキリストになる時。同じようにわたしたちにとっても『人生の聖変化』の時があります。それは人生で一番苦しかった時、「神よ、わたしが死んでもかまわないのですか」「神よ、わたしがどうなってもかまわないのですか」と叫んだ時。即ち、一番神を必要とした時。その時わたしたちはキリスト化された。でもそれが分かったのは後になってから。後になって「神は全てを聞いていた」ということが分かった。人生で一番苦しかった時、それが『人生の聖変化』の時。

黙想のヒント 年間第11主日
2021年6月13日

「土はひとりでに実を結ばせる」(マルコ4:28)

 今日の福音のテーマは神の国で、イエスは種蒔きとからし種のたとえを用いています。わたしもからし種を見たことがありますが、あまりにも小さくて本当に生命が宿っているのか疑問に思うくらいです。そしてそのからし種は知らず知らずのうちに生長し、気が付いたら見上げるくらい大きくなっている。わたしたちにとってこのからし種は何を意味するのでしょうか。それは日常生活の単純さ、平凡さを意味します。わたしたちの毎日の生活は大抵同じことの繰り返しです。でもその平凡さの中に偉大な生長の秘訣が隠されています。

 皆さん感謝日記をつけてください。わたしたちの毎日の生活は一見単純平凡に見えても必ず何かいいこと嬉しいことがあるはずです。それを日記に書いてみてください。何でもいいのです。友人との電話、いい散歩や買い物、おいしい食事、いい人との出会いなど。そして一つ嬉しいことを見つけると、不思議なことに必ず二つ三つ四つと出てきます。感謝は感謝を呼び覚まします。そしてその日記を数か月くらいしてから読み返してみてください。きっと「ああ、こんなにたくさん嬉しいことやいいことがあったのだ。自分の人生こんなに幸せに満ちあふれているのだ。どんなことにも『当たり前』のことは何もない。」と思われることでしょう。大事なことは、このような喜ばしいことや楽しいことは必ず記録しなければならないということです。その時は嬉しいと感じても、記録しなければすぐ忘れてしまいます。感謝すべきことはそのつど意識しなければなりません。そうしないと必ず不平不満が先行してしまいます。感謝は決して先送りしないようにしましょう。感謝は感謝を呼び覚ましますが、同時に不平不満も不平不満を呼び覚まします。わたしたちは感謝を選択するのか、不平不満のままでいいのかどちらかです。

 皆さん感謝日記をつけましょう。感謝日記をつけ始めたときから人生のターニングポイントが始まります。感謝の思いは心に刻まれた記念碑だからです。

黙想のヒント キリストの聖体の主日
2021年6月6日

「取りなさい。これはわたしの体である。」(マルコ14:22)

 これはイエスが最後の晩餐の席で語り、やがて歴史を通してミサの中で司祭を通して受け継がれてきた言葉です。そして今日も世界中の教会で、アラスカの木造の教会で、アフリカの土レンガの教会で、そしてローマの大聖堂で約40万人もの司祭によってこの言葉は際限なく繰り返されています。

でもこの言葉は司祭だけではなく、皆さんも毎日のように語っている言葉なのですよ。と言うと皆さんは「えっ?」とお思いになるでしょうね。どういう意味かと言いますと、食事のときお母さん、お父さん、あるいは子どもでも、自分が作ったものを運び、例えば「さあ食べて、わたしが作ったこの料理おいしいよ」と言うとき、この言葉は実は「取りなさい。これはわたしの体である」と同じ意味なのです。というのは、誰かのために愛情をこめて作った料理はもはや料理そのものではなく、作った人の心がこめられたその人そのものなのですから。だから「おいしい」と言うとき、それは料理がおいしい以上に作った人を受け入れることであり、料理を分け合ったり、飲み物をつぎあったりして、おいしく食べる自分の喜びが相手の喜びとなり、相手の喜びが自分の喜びとなるのですね。

しかし「おいしい」と言って相手を喜ばせた経験もあれば、「まずい」と言って相手を悲しませた経験もあります。悲しくて食事がのどを通らなかったことなど、食事の時の様々な経験があります。でもこのような様々な経験がこれから人と触れ合うときの自分の「血となり肉となる」のですね。

さあ皆さん、今日も家族のために心をこめておいしい料理を作ってあげてください。でも決して無言、無表情で出すのではなく、必ず何か愛情のこもった言葉を添えて出してあげてください。そして食べる人もその言葉に同じ愛情をこめて返してあげてくださいね。

黙想のヒント 三位一体の主日
2021年5月30日

「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」 (ローマの教会への手紙8:15)

三位一体の教えとは何でしょうか。神は唯一の神ですが、父と子と聖霊の三つのペルソナ(位格)からなっていると伝統的に教会は教えています。

あの偉大な神学者アウグスチヌスが三位一体の神秘を解明しようと考えながら海辺を歩いていたところ、小さな男の子が砂を掘って貝殻で海の水をさかんに入れようとしているのです。アウグスチヌスはその子に「坊や何をしているの」と尋ねると、その子は「この穴の中に海の水を全部入れるんだ」と答えました。アウグスチヌスは笑いながら「坊やそんなことできやしないよ」と言ったところ、その子は「おじさんがその小さな頭で三位一体の神秘を解明するよりは、僕がこの穴に海の水を全部入れてしまう方がずっと簡単だよ」そう言うなりその子の姿は消えてしまいました。アウグスチヌスはその子は自分に使わされた天使だと悟り、それ以来自分の小さな頭で三位一体を解明しようとすることをやめ、謙虚に三位一体の神を礼拝することにしたのでした。

 三位一体の教えは私もよく分かりません。だから皆さんも分からないのは当然ですと言ったら失礼で黙想のヒントにならないので、わたしも小さな頭でわたしなりのアプローチをしたいと思います。イエスは福音書のなかでいつも「父よ」と呼びかけて祈っていました。わたしたちもまた呼びかけるときは「わたし」という第一人称があり、呼びかける相手「あなた」という第二人称があります。でもこのときわたしでもない、あなたでもない新しい関係が生まれます。それは「わたしたち」という関係です。イエスと御父の絆を強めているのはこのお互い呼びかけ合う「わたしたち」でありそれが聖霊なのです。わたしたちの家庭、わたしたちの教会、わたしたちの信仰、わたしたちの社会、そしてわたしたちの地球。三位一体とはこのわたしたちという考えの原点なのですね。

 主の祈りはまず「天におられるわたしたちの父よ」で始まります。この「わたしたち」の中には家族、友人だけではなく、嫌いな人、敵対する人も含まれているはずです。ですから祈るとき「天におられるわたしとわたしの嫌いな○○さんの父よ」と祈ってみることもいいことだと思います。皆さん一度試してみてください。

黙想のヒント 聖霊降臨の主日
2021年5月23日

「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテアの教会への手紙5:25)

今から20年ほど前日本が不況のどん底の時代がありました。教会での会話といえば失業、リストラの話ばかりで、これからどうなるのだろうかと皆不安でした。そのようなとき、ひとつの歌が流行りました。坂本九の「明日があるさ」です。これは1963年発表された歌で、自分に自信が持てず、意中の女性に恋を打ち明けることができないにもかかわらず、前向きに生きる男子学生をユーモラスに表現した歌で当時大ヒットしました。その後この歌は2000年に缶コーヒーのCMとして歌われましたが、不況のどん底の中でその前向きな内容から再び大ヒットしました。「明日があるさ、明日がある、若い僕には夢がある…明日がある、明日があるさ」この歌は本来恋愛の歌なのですが、その歌詞と明るいメロディーから、日本中を元気づけてくれました。テレビだけではなく、商店街を歩けば店の奥から聞こえてくるし、学校帰りの小学生たちが歌っていたり、とにかくどこに行っても聞こえてきました。もちろん私も今でも大好きな歌です。

 今日は聖霊降臨の主日です。聖霊の命令はただひとつ。前進し続けよ。立ち止まるな。後ろを振り向くな。確かに過ぎた一日は決して帰ってこない。でも明日という日は永遠にわたしたちを訪れてくれる。明日が訪れてくれるということは、今日失敗してもまた明日やり直すチャンスが与えられるし、今日の涙は明日自ら拭ってくれる、今日の傷は明日自ら癒してくれるということです。「明日があるさ」これこそ聖霊のささやきであり、同時に生きるエネルギーを与えてくれます。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(5:22)即ち、この聖霊の9の実りこそはわたしたちを前進させてくれる力であり、わたしたちにいつも若返りを与えてくれます。わたしたちは皆昨日の人ではなく、明日の人ですから。

「明日があるさ、明日がある、若い僕には夢がある」年配の皆さん、この歌詞は自分に関係がないと思ってはいけませんよ。青春とは心の若さのことを言います。「青春とは人生のある時期ではなく心の持ち方を言う。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき始めて老いるのである」(サムエル・ウルマン)

黙想のヒント 主の昇天
2021年5月16日

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1:11)

イエスと弟子たちとの別れです。イエスは弟子たちを愛していました。だからと言っていつまでも弟子たちと一緒にいることは望みませんでした。そうではなく愛するからこそ分かれることを望んだのです。弟子たちはイエスの姿が見えなくなって初めてイエスの言葉と行いの意味が理解できました。そしてイエスが永遠に生きておられることを学びました。

 「弟子たちは出かけて行って、いたるところで宣教した。主は彼らとともに働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マルコ16:20)

確かに分かれって寂しいですね。でも別れるとき寂しいと思うからこそ再会するとき嬉しいのですね。別れが寂しくなかったら再会しても嬉しくないと思います。また誰かと別れるとき、同時にその人を待ち続けている人がいることも忘れないようにしましょう。飛行機が空港を離陸して次第に見えなくなるとき、また船が港を出港して段々小さくなり、そして水平線の彼方に消えていくとき、到着予定地の空港や港ではそれを心待ちにしている人がおり、自分の方に向かってやってくる飛行機や船に向かって大きく手を振り、ついに空港や港で歓喜の握手や抱擁が交わされるのですね。

また親密さには適度な距離が必要なのですね。いつもべったりは誤解や争いを招くことがあります。親しいからと言って相手の心に中にズケズケと入り込むのはやめましょう。また親しいからと言って、必ずしも何もかも話す必要はない。石川啄木にはそのことで苦い思い出がありました。

「打ち明けて 語りて何か損をせし ごとく思ひて友と別れぬ」(一握の砂)

ある種のことは神と自分だけの場として一生心の中に納めておくのもいいかと思います。

黙想のヒント 復活節第6主日
2021年5月9日

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12))

 ヨハネは晩年をギリシャのパトモス島で過ごましたが、そのころ彼は90歳近くになっていて体が弱り、自分では歩くことができない状態でした。それで毎日曜日信徒たちは彼を車で教会まで運びヨハネはミサをささげていましたが、説教はいつも同じことしか話しませんでした。それは「子たちよ、神はあなたがたを愛しておられる。あなたがたも互いに愛し合いなさい」でした。それでも毎回大勢の信徒が彼のミサに参加していました。ある日一人の信徒が、なぜいつも同じことばかり話すのかと尋ねたところ、ヨハネは「わたしの先生がそう言っていたから」と答えたそうです。

この話はあくまでも言い伝えですが、わたしはこの話は真実ではないかと思います。ヨハネは弟子たちの中で一番若く、イエスに呼びかけられたときは恐らく14,5歳くらいの少年ではなかったかと思います。だからあまり意味が分からずついてくるこの少年ヨハネをイエスは可愛がり、分かりやすい言葉で何度も繰り返し「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語りかけていたのでしょう。その言葉は少年ヨハネの心に深く刻まれ、福音書だけではなくヨハネの手紙の中でも、まるで体中を循環する血液のように彼の神髄となっています。

ところで、わたしも晩年のヨハネのように毎日曜日同じ説教で済んだら助かるのですが…ヨハネが羨ましいです。

黙想のヒント 復活節第5主日
2021年5月2日

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)

 イエスのたとえには自然を題材にしたものが多いですね。今日のぶどうの木のたとえの他、種まき(マタイ13:1-9)、一粒の麦(ヨハネ12:24)、からし種の木(マルコ4:30-32)、野の花や空の鳥(マタイ25-34)など。イエスは大工ヨセフの子ですが、大工仕事に関するたとえは少ない(マタイ7:24-29など)。きっと大工仕事は毎日あったわけではなかったのでしょう、ヨセフは一年の多くを農作業をして生計を立てていたと思われます。従ってイエスもヨセフの仕事を手伝っており、その体験から自然を題材にしたたとえ話が生まれたのでしょうね。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(15:1)とイエスは冒頭で語っています。「わたしの父」は天の御父を意味しますが、養父ヨセフもまた実際は農夫であったと思われます。

 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(15:4)

 時々アスファルトの隙間からきれいな花が咲いている光景を目にします。印象に残っているのは、春のすみれと秋のコスモスです。不思議な光景ですね。どうやって咲いているのでしょうか。きっとアスファルトの隙間に落ちた種が、その隙間から必死で細い根を伸ばしアスファルトの下の土までたどり着いて、その土から養分をもらって咲いているのですね。しかもコスモスなど1メートルくらいに生長して大輪の花を咲かせている光景を何度も見たことがあります。

 10年くらい前でしょうか。新聞で「ど根性大根」が話題になりました。とある路上のアスファルトの隙間から大根が芽を出したのですが、それが大根として成長するどころか、何とその大根がアスファルトを持ち上げていたのですね。これには皆驚きました。何という生命力。どっぷりと土に根を下ろしていなくても、場合によったらほとんど栄養のない土で植物として飢餓状態にあるときの方が植物本来の生命力を発揮することもあるようです。

 わたしたちも同じで、平和なときより非常に困難なときの方が人間本来の生命力を発揮するようです。神に100パーセントでなくても、細々とでも、クモの糸くらいでも、とにかく何らかの形でつながっていることが大切なのですね。つながってさえすればそこから神は希望という大輪の花を咲かせてくださいます。人は弱いという言い方があります、でも同時に人は強いのです。私たちには自分でも信じられないような生命力が宿っています。しかし多くの場合それを知らないか、信じていないか、信じようとしないかなのです。

皆さん、神とのつながりによって生まれる一人一人の無類の生命力をもっと信じてください。

黙想のヒント 復活節第4主日
2021年4月25日

「ナザレの人イエス・キリスト…この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。」(使徒言行録4:11)

日本の伝統的な陶器の修復技法に「金継ぎ」があります。通常、陶器は割れてしまったらもう使い物にならないから捨てて新しいものを買うというのが一般ですが、金継ぎは伝統的にものを大事にする日本人の心情から生まれた割れた陶器の修復技法で室町時代に確立されました。当時は茶の湯が盛んで、金継ぎの美しさに魅了された人も多かったようです。金継ぎは割れた陶器を漆で張り合わせて固め、その割れ目に金粉をまぶして完成するわけですが、その美しさは割れる以前の陶器以上に新たな美の世界を生み出す一つの芸術となっています。

 キリストは十字架の死により宣教活動も失敗に終わったかのように見え、「家造りの捨てた石」となりましたが、復活という「金継ぎ」によって新しい命の世界をもたらす「隅の親石」となりました。十字架の傷が新しい美の世界を生み出しました。

 私たちもそれぞれ過去の十字架の傷を負って生きています。割れた心の傷は決して修復できないと思っています。でもその傷を美しいものに変えることができます。それが心の金継ぎです。憎しみを愛に、絶望を希望に、怒りを赦しに。私たちの人生は誰も取って代わることのできない唯一無二のもの、そして心の金継ぎによって生まれる人生の美しさと価値も唯一無二です。しかも自分しかかもし出すことのできない無類の尊さです。それができるのはキリストだけです。

 「イエスの傷とみにくさ、このあらゆる美をはぎ取られた人間の姿の中に秘められた美がある。最も力強い美とは、あらゆるみにくさを包み込み、それを変容させてくれるもの。割れたり欠けたりした陶磁器を漆で密着させ金粉で装飾する金継ぎと呼ばれる修復方法は陶磁器をこれまで以上に美しく変容させる。同様に、十字架へと向かう道のりでも神はイエスの内に人生の中の最もみにくい部分を抱きしめ、うるわしいものにしてくれた。だから我々も自分の生活の中の一番汚い側面や、恥と思うあらゆるものに正面から向き合うことができる。我々は目を見開いてしっかりと自分の姿を見つめ、自分たちも割れたつぼだと悟る。しかし我々は神の恵みという芸術性によって抱擁されており、新しい美を発見できる。」(「救いと希望の道」ティモシー・ラドクリフ著)

「最大の金継ぎ師であるキリスト」が私たちの十字架の傷を、心の金継ぎによって唯一無二の美に変えてくださるよう祈りましょう。

黙想のヒント 復活節第3主日
2021年4月18日

「あなたがたに平和があるように」(ルカ24:36)

 復活したイエスは静かです。まるで何事もなかったかのように、まるで受難の苦しみが嘘であったかのように静かに弟子たちに現れます。しかも現れたときの第一声が「あなたがたに平和があるように」です。なぜでしょうか?受難の苦しみのとき弟子たちはイエスを見捨てて逃げて行ってしまいました。あれほど愛していた弟子たちに見捨てられたのなら、復活したときイエスは弟子たちを叱責してもよさそうなものですが、叱責どころか不平不満も一切なく、ただ「あなたがたに平和があるように」です。

 受難の夜弟子たちはイエスを見捨てました。しかしイエスは弟子たちを愛し続けていました。弟子たちはイエスを探しませんでした。しかしイエスの方が弟子たちを探して会いに来てくれました。弟子たちはイエスを信じていませんでした。しかし見捨てられたイエスの方が弟子たちを信じ続けていました。受難の夜イエスを見捨てたことは弟子たちの人生最大の失敗であり後悔でした。しかしその人生最大の失敗は返ってイエスの最大の愛を知るきっかけになったのでした。「自分たちはイエスを裏切ったのに、イエスは自分たちを愛して信じ続けてくれていた」この体験があれほど弱かった弟子たちを力強い宣教者へと変えたのでした。ここに人を立ち直らせる原点があります。

 宣教期間中イエスは徴税人や罪深い女性など多くの罪人と出会いましたが、一度も彼らの過去を問うことはありませんでした。出会った時が恵の時だから。

復活したときも弟子たちの罪深い過去を問うことはありませんでした。出会った時が恵の時だから。

そして私たちにとっても同じで、イエスは私たちの罪深い過去を一切問わない。出会った時が恵の時だから。

 「あなたがたに平和があるように」イエスのこの言葉の意味は「私はあなたの過去を責めるようなことは一切しない。出会った時が恵の時だから。今日から希望をもってしっかり生きていきなさい。」

 皆さん生きる力が湧いてきましたか。

黙想のヒント 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
2021年4月11日

「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(使徒ヨハネの手紙1、5:4)

 パソコンで「しんこう」という言葉を変換するといろんな漢字が出てきますね。信仰、振興、進行、新興、侵攻、神鋼、親交など。それでは私が「しんこうは、しんこうなり」と言ったら皆さんどんな言葉を連想されますか?私が言いたいのは「信仰は進行なり」なのですね。つまり信仰というものは常に前に進んでいくものでなければならない。私たちを後退させたり、悲観主義に陥らせたりするものは決して信仰とは言えない。悲観主義からは何もいいものは生まれません。プラス思考、前進主義は何事にも、困難の中でも何らかの生きる意味を見出す姿勢を生み出します。ですから信仰とは人生に意味があることを信じることだとも言えるのですね。「世に打ち勝つ勝利」とは何でしょうか。この世に勝利するというより、人生に勝利すること、それは決して何か偉大なことを成し遂げることではなく、自分の人生に意味を見出した人が人生の勝利者なのですね。

でも皆さん、勝利、勝利とあまり力まないでくださいね。神学生のとき指導司祭が講話の中で、私たちは三つの「気」で行きましょうと話してくれたのを覚えています。まず何事も「元気」に行きましょう。でもいつでも元気が出るわけでもない。そういうときは「根気」よくいきましょう。でも根気よくやっても落ち込むことも多い。そういうときは「呑気」にいきましょう。実は吞気さも一つの信仰なのですね。神を信じる者は基本的に呑気である必要があります。でも人の苦しみが分からないような鈍感ではなく、全ては神が必ずよくなるよう導いてくださることを信じる「聖なる呑気さ」でいきましょう。何年後、何十年後の自分がどうなるのか不安な気持ちで生きるのではなく、今日一日歩く道の足元を神が光で照らしてくださることだけを信じながら。

黙想のヒント 復活の主日 2021年4月4日

「イエスは死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」(ヨハネ20:9)

 死者の中からの復活とは何でしょうか。難しいですね。「二人はまだ理解していなかった」どころか、私たちもまだ理解していないですよね。私もまだ理解していません。まだ死んだことがありませんから!でも次のように考えてみるのも復活信仰へのアプローチになるのではないでしょうか。

 弟子たちがイエスの言葉と行いの意味を理解したのはイエスの死と復活と昇天の後、即ち目に見えない姿となった後でした。イエスの言葉と行いは弟子たちの心に強く焼き付けられました。即ち、イエスの「記憶」があれほど弱かった彼らの人生を逆転させ、力強い宣教者へと変貌させたのです。NHKの番組に「逆転人生」というのがありますね!まさに弟子たちの人生のことです。彼らを変えたのはイエスの「記憶」です。

 私たちは復活というと、どうしても自分が死んだ後のことをよく考えます。でも私たちはまだ死を経験していない。確かに死の彼方には何か大いなるものがあるに違いないとは信じているが、まだ見ていない。そこで、まだ見ていないものについて考えてばかりいても仕方がない。大事なことはいかに自分の記憶を次の世代に残すかということではないでしょうか。記憶は人を生かしもし、殺しもする。いい記憶を残された人はその記憶を道標(みちしるべ)にまたしっかりと人生を歩みます。反対に悪い記憶を残されたらその人の人生の歩みが止まってしまうかも知れない。天国も地獄も人の心の中にあり!しかも記憶に残るのはその人の「人柄」だけです。能力や業績はあまり記憶に残りません。優しかったか、誠実であったか、偽りがなかったか、これだけです。この記憶が残された人の道標となり、場合によったら弱かった人たちの人生を逆転、復活させるのです。復活信仰!自分のことより、もっと次の世代のことを考えましょう。

黙想のヒント 受難の主日 2021年3月28日

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)

 福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネから成っていますが、それぞれストーリーも違いますし、食い違っている箇所もあります。マタイの話がヨハネにはなく、ルカの話がマルコにはなかったりなど。でもどれが正しくて、どれが間違いかということではありません。弟子たちはそれぞれ自分たちの信仰の目でイエスを描いたのですね。私たちもまたそれぞれイエスの見方が違います。あるときはイエスの目が厳しく感じられたり、あるときは優しく感じられたりします。福音書は信仰の書です。科学の書でも歴史の書でもありません。十字架上のおけるイエスの最後の言葉も同じです。マルコとマタイは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と言って亡くなり、ルカは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(23:46)で終わり、ヨハネは「成し遂げられた」(19:30)と言って息を引き取っています。これもどれが正しくどれが間違いかという問題ではなく、私たちもまたそれぞれの人生において苦しみの中で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という絶望的な叫びをあげ、もう教会なんかいくものかと自暴自棄になったときもあれば、その人生の闇のなかで「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言ってまた神に立ち返りながらも、生涯の最後はやはり今までの人生の喜びも悲しみも全てをよしとして、今までの自分の人生はこの時のための準備であったのだ、全ては「成し遂げられた」と言って感謝のうちに神のふところに帰りたいものです。

黙想のヒント 四旬節第5主日 2021年3月21日

「キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞きいれられました。そして完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して永遠の救いの源となりました。」(ヘブライ人への手紙5:7-9)

 聖書の中でこれほどイエスの苦しみを生々しく描いている箇所は他にありません。なぜこれほど苦しまれたかというと「すべての人々に対して永遠の救いの源」となるためでした。どういう意味でしょうか。

 この世界には同類の者、同じ性質の者は引き付けあう法則があります。悪いことばかり考えている人には、同じことを考えている人が分かります。正しく生きることを願っている人には、同じように生きることを願っている人が分かります。同じように大きな苦しみを経験した人には、大きな苦しみを経験したが人自然と分かります。その人が多くを語らなくても、黙っていたとしても。そうしてお互い共にいるだけでお互いを癒しあうことができるのです。このことを経験された方も多いと思います。癒しの賜物は何も特殊な人が持つのではなく、大きな苦しみを経験することによって誰もがもつことができるのです。そういう意味で私たちもイエスと同様、大きな苦しみを経験することによって隣人の「救いの源」となることができるのです。

 確かに苦しみは避けて生きたい。でもどうしても避けることができないときもあります。それを等身大で受け止め、それをステップとして更に生きる力としていきましょう。苦しみにこそ大きな意味と価値があります。

 「もしこの世が喜びばかりなら、人は決して勇気と忍耐を学ばないでしょう。個性は安らぎや静けさの中で生まれるものではありません。試練や苦しみを経験することでのみ魂が鍛えられ洞察力が研ぎ澄まされるのです。世の中はつらいことでいっぱいですが、それに打ち勝つことも満ちあふれているのです。人の苦しみをやわらげてあげられるかぎり、生きている意味はあります。」(ヘレン・ケラー)

黙想のヒント 四旬節第4主日 2021年3月14日

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

 皆さん、信じるとはどういうことでしょうか。神様や天国や永遠の命を信じるとか、言葉では分かるがピンとこない。見たことも触れたこともないものをどう信じたらいいのか分からない。でも何かありそうだ、あるに違いない。だから「信じたい」。皆さんこんな思いをもっておられるのではないでしょうか。
 どう信じたらいいのか分からない。でも「信じたい」。これが大事だと思うのですね。実は、「信じたい」という思いが「信じること」なのです。即ち、願ったそのときかなえられているのですね。イエスご自身嬉しいことを語ってくださいました。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。」(マルコ11:24)人を愛したいと願ったとき、既に愛しています。人を赦したいと願ったとき、既に赦しています。癒されたいと願ったとき、癒しは始まっています。しっかりと人生を歩みたいと願ったとき、新しい人生を歩みだしています。
 私の好きな典礼聖歌に「キリストはぶどうの木」があります。なぜ好きかというと、この歌詞がいいのですね。この歌詞はすべて願望で終わっています。
 キリストはぶどうの木 私はその枝のひとつ いつくしみの雨に洗われ つながっていたい いつの日もキリストはいのちの泉 私はほとりにたたずむ みことばの水に満たされ うるおっていたい いつの日もキリストはこの世の光 私のこころを照らす 喜びの光をあびて 輝いていたい いつの日もキリストは父への道 私はその道を歩む 救いのみわざを信じ たどりつきたい いつの日も
 即ち、キリストにつながっていたいと願うことが、既につながっていること。キリストの泉にうるおされていたいと願うことが、既にうるおされていること。キリストの光に輝いていたいと願うことが、既に輝いていること。父への道であるキリストにたどりつきたいと願うことが、既にたどりついていること。
 同じように、キリストの弟子とはどんな人のことを言うのでしょうか。自分はキリストの弟子だと確信したら、もしかしたらそこには少し高慢があるのかも知れません。そうではなく、人間的な弱さ、もろさを身におびながらも、それでもキリストの弟子でありたいと願い続けている人がキリストの弟子ではないでしょうか。
 皆さん、コロナが終息したら大きな声で「キリストはぶどうの木」を歌いましょうね。

タンス神父

キム神父

 クリスマスが近づくと、思い出す話があります。それは「貧しい人の父」と呼ばれて尊敬された、フランス人 司祭 アベ・ピエール神父様の、幼いころのお話です。

 神父様が幼いころ、毎年 待降節の時期になると、神父様のお父さんは、リビングに大きなクリスマスツリーと飼葉桶をかざり、家族全員に それぞれ違う動物の人形をくれたそうです。それから毎晩 家族が集まって、その日に自分がした 良い行いを話し合い、発表された良い行いが家族みんなの 気に入ったら、その子の人形を、飼葉桶に寝かされている幼子イエス様に一歩 近づけるように移動させてくれた、というのです。
 そしてクリスマスの夜までに、幼子イエス様に一番 近づけた子に、お父さんが一番大きなプレゼントをくれたのだそうです。
「あの時 家族みんなが、イエス様に近づこうと、どれだけ がんばったことだろう」と、神父様は、クリスマスの美しい思い出を語っています。
 私はこの姿こそ、クリスマスを準備し、福音を生きていく姿ではないかと思います。

 クリスマスとは何でしょう? イエス様が生まれた頃、今のように、クリスマスツリーもデパートのセールも、デコレーションケーキも、華やかなイルミネーションもありませんでした。いったい、これらはクリスマスとなんの関係があるのでしょう? 

 クリスマスは騒がしいお祭ではありません。静かで、神聖な夜です。騒がしく、あわただしい所では、クリスマスの神秘は見つけられないでしょう。
 クリスマスは もともと、貧しく、みすぼらしいものです。赤ん坊、馬小屋、もっとも貧しい人々、羊飼いたち、そして権力者を避けて逃げること。まさにそれが、神様に関係することです。

 神様が小さくなってくださった。神様が弱くなってくださった。神様が、神様ご自身を私たちにくださったのです、その愛を通して   。 そして、「ついてきなさい」と、私たちを招いてくださいます。勝利と光あふれる栄光の中にではなく、馬小屋の貧しさの中へと   。

 神様は、貧しい馬小屋の私の中にも、貧しい愛の私の中にも、貧しい才能の私の中にも、拒んでいる私の中にも、いてくださいます。
神様がうんと小さくなってくださったのです。神様は、私たちと一緒に歩こうとして くださいます。

「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人には視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

2021プネウマクリスマス号より

小長谷壽子シスター

「受洗と初聖体の秘跡の準備を共にして」
聖マリアの無原罪教育宣教修道会 マリアローザ 小長谷壽子

最近、洗礼あるいは初聖体の秘蹟を受けた方々の心の準備をサポートさせて戴いた中で受けた感動と心の高まりが覚めやらぬうちに、その幾分かをこの紙面を借りて、拙い言葉ですが皆様と分かち合いたいと思います。
 これらの準備は子どもたちとその御家族、ならびに洗礼志願者との和やかな交わりのうちに希望をもって静かに進行しました。
 毎週のクラスの始まりに一連のロザリオを唱えることによって、主祷文とアヴェマリアが空で唱えられるようになり、終盤には皆、自分の言葉で自然にお祈りができるようになりました。
 これはある子どもの受洗が母親よりも先になったケースです。お母様の受洗の準備講座の開始日に、「シスター、お母さんをよろしくお願いします」と子どもから頼まれた時には正直びっくりいたしました。通常、保護者が「子どもをよろしくお願いします」というのと逆のケースでしたから、不思議な感動を覚えましたし、「お母さん、僕が先輩だね」と言うのを聞いて、更に不思議な驚きを感じたのです。
 共にカトリック 要理を学びながら、改めて真理(キリストと共にあること)の豊かさを発見して参りました。
 受洗の日も決まり、その一週間前の五月二日(日)に、洗礼を受ける前の面接をポポン神父様にして頂きました。それはキリスト教生活の導入でもあり、霊的旅路の手引きとも言えるものでしたが、終始聖霊のさわやかな息吹がそよ風のように感じられる一時であり、お話に吸い込まれるように傾聴させて戴きました。
「自己のエゴによらないで流れる雲のように」、「人に見られることを意識していない美しい青空のように」、「誘惑に対しては聖書をもってサタンと闘ったイエスさまのように」生き、「誤って道を踏みはずしたと感じたら、いつでも御父の家に帰るように」。また、「様々な意見の真っ只中にあっては、一歩退いて自分で考えてみるように」というキリスト教生活のガイドでした。
 緊急事態宣言中で、公開ミサの無かった日曜日の朝、私たち二人にとってはもったいない程の霊的糧を戴き、「あれは神父様の悟りなのでしょうか」と感動を分かち合いながら帰途に着きました。神父様を通して戴いた神様のお恵みに心から感謝します。
 今の私の願い、それは洗礼はキリスト者の歩みの出発点ですから、ミサに与って旅路の糧であるご聖体を拝領する毎に、キリストとの一致、家族との一致、仲間の信者たちとの一致を深めながら、共にキリストの背丈に迄成長するお恵みが戴けることです。アメン