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武州村山太鼓むつき會 会長の部屋

皆さん初めまして。武州村山太鼓むつき會」会長を務めさせてもらっている田中 浩之です。今 新型ウイルスの関係でなかなか公共の活動は出来ない形ですので私たちの会はどんな会なのかを皆さんに聞いてもらいたいと思います。
これから、会の成り立ち、曲の由来などを話したいと思いますので宜しくお願い致します。ちなみに不定期ね。

武州村山太鼓むつき會 第一回
       むつき會 発足

昭和53年、仕事の怪我で休んでいた先代会長 田中政行のもとに、職方の一人が訪ねてきた。「棟梁、あそこのアパートの2階に(太鼓教えます)というカンバンがでてるぜ。」(先代)「ヘェー面白そうだな。ちょっと行って見るか。」当時から先代は祭り好きの大工で知られていた。そのアパートには日産村山工場に勤めていた井上という若い男性が住んでいた。(先代)「ところであんたはどんな太鼓を教えるのよ?」(井上)「盆踊りの太鼓です。」(先代)「そうか、なら会員と太鼓はおれが揃えるから盆太鼓を教えてくれ。」これが むつき會のはじまりでした。1月の発足なので「睦月會」です。会員を揃えるといっても、ほとんどが自分の職方、土建屋、ペンキ屋、水道屋、サッシ屋などなど。それと当時中学生だった私とその友達、総勢10人ほど。練習は自宅の座敷。雨戸を締め切っておもちゃの太鼓でレコードの音頭に合わせて皆で打っていました。8帖の座敷に10人前後集まっての練習は春先まではよいが夏が近づいて来ると暑くてとてもやってられない。と言うことで我が家では初めてエアコンを取り付けました。もちろん職方の電気屋さんに頼んで。そうこうしているうちに夏の盆踊りシーズン到来。1尺5寸の太鼓も2台揃えて、いよいよ本番。武蔵村山市 民謡連盟の盆踊り大会。
次回はむつき會 初陣です。

武州村山太鼓むつき會 第二回
       むつき會 初陣

昭和54年 7月 長久保運動場(現在は住宅になっていますが、村山一中の東に運動広場がありました。)に立派な やぐら が立ちました。武蔵村山市 民謡連盟盆踊り大会(現在は総合体育館内で行われています。)当時は現在とは比べ物にならないくらい踊り手、見物人は多く出店なども出てとても賑やかでした。むつき會は、やぐらの上と下に太鼓を置き習った曲は2人で合わせて打っていました。しかし1月から6カ月練習したとはいえ、もともと音楽などあまりやらない人ばかりの会なのでなかなか合わない。踊り手からは「おーい太鼓合ってないヨ」などと言われたものです。井上氏の教えてくれた打ち方は少し特殊で一般的な4拍子とは違っていたのも一つの原因かと思います。それでも1シーズン6~8か所回り出番がない時も音頭が聞こえると1升瓶片手に会場に赴き「1曲打たせてくれ」などと言ってたたかせてもらっていました。現在では盆踊りの依頼は年3か所ぐらい。盆踊り大会自体も風前の灯で寂しい限りです。そんな盆踊り大会には休憩時間が2~30分あり、その間に主催者から「お前ら太鼓チームなら何かやってくれ」などと言われるようになりました。これが 武州村山太鼓むつき會 はじまりのキッカケです。
次回 武州村山太鼓むつき會 改名です。

武州村山太鼓むつき會 第三回
     武州村山太鼓むつき會 改名

盆踊り大会の休み時間に「なにかパフォーマンスをやってくれ」という依頼が多くなってきたのを見て井上氏は当時の中学生3人に簡単な組太鼓を打たせました。この曲は現在の本陣迎え打ちのベースになった曲です。そうこうしているうちに本格的な組太鼓を始めてはどうかという話が持ち上がり井上氏に曲の制作を依頼しました。しかし、もろもろの事情により彼がむつき會を去る事となり、会員自ら曲をつくらなければならなくなりました。武蔵村山市の会なので村山にちなんだ曲が良いのではないかと言うことになりこの辺りの歴史を調べていると「村山党」の話が良さそうなので現在の村山太鼓本曲のベースになる曲ができました。また一曲では心もとないので村山の名産、大島紬の機織りの音をモチーフに紬打ちも作りました。そして組太鼓曲の完成を機に武州村山太鼓むつき會と改名しました。このころになると、仲間の二人も会をやめ、高校生になった私はしばらく会を離れていました。ただ盆太鼓だけは打つ人がいなかったので夏の間だけかりだされていました。そして発足から10年が経とうとしていました。
次回 武州村山太鼓むつき會 十周年前夜

武州村山太鼓むつき會 第四回
        十周年前夜

むつき會発足から10年が経とうとしていました。このころには、私も復帰していて会の中では一番若い会員でした。会員の職業も当初は職人がほとんどだったのが、学校の先生、ナース、役人、などなど多種多様の方々が集まって来ました。会の一年間のスケジュールもほぼ決まってきて1月は元旦祭、春は花見、夏になると各地の夏祭り、秋は例大祭、産業祭などで、その間に結婚式、記念式などに呼ばれていました。中でも花見は狭山湖にまで太鼓を運び出して演奏し、周りの花見客にも大盛況でした。現在は車の規制が厳しくなり近くの雷塚公園で行っています。さて発足10年と言うことで10周年記念演奏会をやろうという話が持ち上がりました。先代は、「どうせやるなら大ホールだ」と言い出し「会長、小ホールで十分だよ」と言う会員の声を聞こうとしません。このころの会のレパートリーは、本曲、紬打ち、桜打ち、迎え打ちでとても 大ホール単独演奏会 など出来ないというのが大方の考えでした。とりあえず曲を増やさないとダメ と言うことで秩父屋台囃子をモチーフにした むつき囃子、八丈太鼓もどき、村々ずくし、村山音頭(盆太鼓)などを始めました。練習場所も色々な所でやりました。旧公民館、地区会館、荻野武久氏のプレハブ倉庫をお借りしていた時期もありました。印象深いのは、大南公園、野山北公園などの野外での練習です。許可もなにもなくいきなり太鼓。「何か言われたら止めればいいさ」と言うのりでした。昔から「むつき會」は機動力抜群で現在もゲリラライブを画策中。会場問題も大ホール使用でまとまり、いよいよ演奏会の幕開けです。
次回 武州村山太鼓むつき會 創立10周年記念演奏会

 武州村山太鼓むつき會 第五回
     創立10周年記念演奏会

私「おやじ、(村々づくし)覚えた?」先代「覚えられなかったな」私「じゃあどうすんのよ」先代「なんとかなるだろう」これが演奏会当日朝の会話です。会場到着後、皆が演奏会の準備をする中私は一人楽屋でカンニングペーパーを作っていました。
当日のプログラムは、
1むつき囃子 2来賓あいさつ 3村山音頭 4紬打ち 5村々づくし 6八丈太鼓もどき 7岸囃子連(友情出演) 8奇面戯打 9入り天神太鼓保存会 (友情出演) 10狭山桜打ち 11本陣迎え打ち 12村山太鼓本曲でした。
6八丈太鼓もどきは、高い台の上に太鼓を置いての両面打ちなのでその太鼓の裏にカンニングペーパーを貼り先代一人では不安なので私も歌いました。予想通り後でビデオを見たら私の声しか聞こえませんでした。このエピソードが強烈で他はあまり印象に残っていませんが大きな失敗もなくプログラムをこなしたと思います。当時の市長 渡辺 禮一氏 、江戸里神楽 土師流 四代目家元 松本 源之助氏、指田医院 院長 指田 和明氏にご来場頂きお祝いの言葉も頂きました。指田先生はこの時から現在まで後援会長を務めてもらっています。それから、当日の朝、会員の一人が「ビデオ撮らないの」と言ってきたので「撮らないよ」と言ったら「自分の知り合いに撮る人がいるから頼んでやるよ」と当時趣味でビデオ撮影をしていた小原さんと言う方が当日にもかかわらず受けてくれました。小原さんも、この日から長い間會の記録を撮り続けてくれました。オープニングのむつき囃子は緞帳が上がる前からスモークを焚いていたので寒かったのを覚えています。当時10人ほどの会でしたが神輿の榎睦会をはじめたくさんの知り合いの御協力により大盛況のうちに終わることが出来ました。ちなみに私の感じでは来場者500人くらいだったんじゃあないかな。この演奏会のあと会員もどんどん増えて非常に充実した会になっていきます。次回からは20周年までの印象に残っているエピソードを話していきたいと思います。

  武州村山太鼓むつき會 第六回
      三尺大太鼓 その一

「オヤジ腹へったな、次のサービスエリア入るか?」「イヤとりあえず店まで行こう。周りにコンビニか何かあるだろう。」平成七年夏、私と先代はトラックで東北自動車道を北上していました。宮城県鳴子の中澤太鼓店に三尺大太鼓を取りに行くためです。2時ごろ村山を出て6時前には店につきました。ところが周りにはコンビニはおろか民家もないような所、しかたなく店の前に車を止め仮眠していました。しばらくすると店の主人が「何時についたの?声をかければ良かったのに」と出てきました。私たちは朝食を頂き会の話などをしていたのですが、私にはなにを話しているのかサッパリ解りません。しかたがないので「ちょっと周りを見てくる」と言って外に出て、前回話をしたビデオの小原さんからたくされたホームビデオで店や周りの様子を撮影していました。後で先代に聞くと「オレもほとんど解らなかったな」と言っていました。「イヤ~宮城弁強烈」。ところでなんで「宮城の店なの」と言うことですが、たまたま先代が旅行にいった道中に太鼓店を見つけ話をしたところ意気投合して購入ということになったようです。ちなみに「この三尺大太鼓いくらしたの?」という話ですが、秘密です。店の主人には「安く出しすぎたので台はかんべんしてくれ、金額も内緒な」と言われました。と言うことで太鼓もトラックに積み込み帰路につきました。次回は、帰りの高速道の話や入魂式の話をしましょう。

武州村山太鼓むつき會 第七回
三尺大太鼓 その二

中澤太鼓店で太鼓を積み込み帰路についた私たちは、東北道を南下していました。しばらく走っているとハンドルが左に取られるようになったので「ちょつと車がおかしいからS.A.に入るな」とスタンドに入り給油中にタイヤを見るとナント釘が刺さっていました。「お客さん、早く気が付いてよかったヨ。このまま走っていたらバーストしていたよ。」と言われましたが、パンク修理をしてもらい無事帰宅することが出来ました。
これだけ大きな太鼓だから、入魂式をやろうということになり、当時の市長(志々田浩太郎氏)をはじめさまざまな方にお集まり頂き神明社でお祓いをしてもらいました。神事では玉串奉奠(たまぐしほうてん)の時、先代の後が市長の番だったのですがナゼか玉串をクルクル回していました。なにをやっていたのかと思い後で見てみると先代が幹と枝先を逆に納めていました。(親父のヤツ慣れているはずなのに何やつてんだ?)市長にはほんとうに失礼しました。さて自慢の三尺大太鼓なのですが提げて動かすだけなら男手2人でも出来ますが台の上に上げるには少なくても4人はいないと無理です。なので普段でも年間1、2回しか出して打てません。まして令和2年はコロナの影響でイベントがことごとく中止になり1回も出すことが出来ませんでした。今年は皆様に三尺大太鼓の響きを届けたい気持ちでいっぱいです。(たまには出さないとカビがはえるぜ)こうして大きい太鼓も手に入り太鼓の数だけは立派になりましたが、かんじんの会員数が増えません。ということで次回は初心者講習会の話、現在打っているオリジナル曲の作製秘話をしましょう。

武州村山太鼓むつき會 第八回
初心者講習会

 発足当時から職人主体、子供は基本受け入れないと言う形だったので、若者、女性の入会者はなく主体が組太鼓に変わっていく中、職人の仲間もだんだんすくなくなっていきました。(ただ現在でもイベント等の協力は裏方ではありますが快く引き受けてもらっています。)会員の職業も、学校の先生、看護師、役人など多彩になり、待望の女性会員も2人になりました。(今は女性の方が多く男性陣は小さくなっています。昔からは考えられませんが、当初の硬派な村山太鼓も懐かしく思います。)それでも全体の会員数はいっこうに増えません。市報や地域のコミュニティ紙に募集もかけましたがなかなか。と言うことで講習会を開くことにしました。講習期間は一カ月(5回)最後には習った曲を花見の場で(4月)披露する。曲もぶちあわせ太鼓に決まり参加者を募ると10人以上集まりました。(まだまだ和太鼓を教える場所が少なかった関係でしょう。)花見では(当時は村山貯水池で行っていました。)外で初めての観客の前でしたが皆いきいきと演奏を楽しんでいました。5~6回開催した講習会ですが最後は3人しか集まらず、以後開催していません。教室、クラブなどが多くなってきたからでしょう。ただ和太鼓は大きなホールや発表会で打つだけではなく、お祭りの場で打ってナンボだと思っています。ぜひそんなお祭りの場での和太鼓の演奏をご覧になり、興味がわきましたら私たちと共に活動しましょう。長くなってしまったので曲の制作秘話は次回ネ。

武州村山太鼓むつき會 番外編

今回私は、交通安全協会の班長が回ってきたので小学生の通学路の横断歩道の旗振りを仰せつかりました。私「皆お早う、行ってらっしゃい」子供たち「おはようございます」いい感じじゃねえかと思っていると一人の女の子が「浴衣を着てる人がいる」と言い出しました。私「これは、浴衣じゃないよ。」仕事の前なので印半纏を着ていたのでそう見たのでしょう。しかし法被と浴衣が分からないのは問題だな。女の子「浴衣だよ」私「これは法被だ!!」大人でも「今日はお祭りですか?」と言う人がいます。そもそも半纏は職人の衣装です。なかなか現代は職人も半纏を着る人は少なくなりましたが、日本の風俗文化を教えるのも大切なんだけどな。なんてコロナ禍で思った私でした。

武州村山太鼓むつき會 第九回
オリジナル曲 制作秘話

今回から、私たちのオリジナル曲の制作秘話を話したいと思います。まずはテーマ曲ともいうべき村山太鼓本曲。この曲は、「武蔵七党の内の一党、村山党」をモチーフに騎馬のひずめの音を地打ちにしています。「トコトン、トコトン」ー「パカパ、パカパ」単純なリズムなのですが太鼓が初めての会員は、いちばん苦労しています。「右左右、右左右」と打つので、右手で終わり右手で始まる形が難しいのかな?当初は色々試行錯誤で打ち方も変わっていましたが、最近はほぼ完成形です。本来は蹲踞(そんきょ)で始まる曲なのですが、蹲踞はキツイという会員が増えてきたので最近は立ち待ちです。このように基本は変えませんが状況によっては臨機応変に対応しています。さて次は紬打ちです。これは村山大島紬をモチーフに、織機の音「トントンカラリ トンカラリ」がベースです。変拍子で似たようなリズムが変わっていくので「アレ、次なんだったっけ?」なんてことになり間違いやすく、うちの会では敬遠されがちな曲です。しかし市内のお祭り、イベントでは非常に評判のいい曲でもあります。私も若いころは、どちらかというと優雅なこの曲よりも激しい本曲の方が好きでしたが最近では味のある曲だと思うようになりました。(若造には、わからない曲だな) 次に本陣迎え打ち。この曲は青年会議所の大会で「役員入場の時に何か打ってくれ」と頼まれて急遽作った曲です。急なことだったので前に盆踊りの休憩時間に中学生会員が打っていたものをベースに作り変えました。名前の由来は役員を迎えて打つので迎え打ち。それに戦にちなんで本陣に軍団が凱旋する意味から「本陣迎え打ち」となりました。このように曲を作るときは名前先行型と曲先行型がありますが、うちの会は半々かな。さて次回は曲先行型の「狭山桜打ち」からです。

武州村山太鼓むつき會 第10回
オリジナル曲 制作秘話(2)

 今回は狭山桜打ちからです。
この曲は「狭山湖畔に咲く桜の花。その咲き初めの華やかさ、散り際の潔さを大太鼓と付け太鼓の掛け合いで表しました。」という名目です。制作当時、会の持ち曲は前回話した本曲、紬打ち、迎え打ちの3曲でしたが、どれもリーダーの掛け声で進行する形で、皆のってくると、おのおの声を出してしまい時折進行がとまってしまうことがありました。そこで全て回数を決め、だれがどこで声を出してもOKの曲にしました。当時練習の時いつもズボンの後ろポケットにこの曲の譜面を入れていました。(一番年下だったので、なかなか言い出せません。)すると一人の会員が「何いつも持っているの?なんだ譜面じゃん。作ったの?ならやろうよ。」これが始まり。名前は、テンポのいい明るい曲で最後にスッパッと終わり潔いということで桜打ちになりました。

 次に玉川上水の流れ。

ある時、雑談をしていると「そういえば(~川の流れ)と言う曲はよくあるよね。」と言う話が出ました。「村山にはどんな川があるの?」「残堀川(流れてねぇだろ)」「空堀川(ドブ川だぜ)」「へっぴり川(途中で無くなっちまうじゃねえか)」「じゃあ隣町だけど玉川上水の曲を作ろう。(開削350年だしね。)」これが始まり。
流れが変化する様子、人が集い憩う有様を付け太鼓と大太鼓が夫々の特徴を生かして打っていきます。打ち方自体はそう難しくないのですが長い曲なので覚えるのが大変です。今でも少しずつ変化していて最新のアップデートでは、私の最も苦手な三連符が追加され非常に苦労しています。また曲の中に(村祭り)と言う曲を篠笛で吹く形があったので、篠笛をはじめたのもこのころです。

 さて次は寿太鼓です。
この曲はカラ打ち(太鼓のヘリを打つ)がメインでそれに篠笛が入る曲です。テンポが良く明るいので非常に評判がいいです。これを作った会員は、この他にも色々な曲を作ってくれました。(現在は会を離れていますが)例えば先ほど話した空堀川をモチーフにした(空堀急変)、うどんののし棒の様な長いバチ一本で打つ(一本打ち)、ピアノと3尺大太鼓の曲などなど実際に練習に入ったり、本番で披露した曲もありましたが、今残っているのはこの寿太鼓だけです。ちなみに篠笛の中でチェッカーズ(知らないかな)の曲の一節に似ているという盗作疑惑が会員の間で上がっています。どの曲なのかは、ぜひ私たちの演奏を聞いてみて調べて下さい。

 最後に奇面戯打。
この曲は10周年を行ったころから有ったのですが、現在の形におちついたのは20周年ごろです。おかめ面が楽しそうに太鼓を打っていると、ばか面が出てきて、おかめ面をいびり出してしまいます。しかしそのばか面も次に出てきた般若面に追い払われてしまうという話し。お面や衣装替えがあるので、大きな舞台やイベントでしかなかなか打てず演技力も必要なことから(笑わせる曲が、笑われる曲になってしまう)、ここ10年ほど披露していません。真面目な太鼓の曲のなかでちょっと笑いが入るので一息つけるいい曲です。
さて次回は20周年の話です。