学園長コラム

介護や認知症について理解を深められる、学園長のコラムをご紹介します。
介護や認知症について理解を深められる、学園長のコラムをご紹介します。

2022.11.04  介護を必要とする高齢者の高い知的能力に光を

 世界アルツハイマーデーの9月21日、相模原市のデイサービスで出張模擬授業を行いました。当日の利用者10名は大半が認知症の方です。午前に『源氏物語』、午後は神社暦で各1時間の授業という長丁場でも長さを感じさせません。源氏物語は原文で講義し、その時代背景を知るためのサブテキストに「後宮職員令」を使用します。午後の神社暦は前橋八幡宮様の暦がテキストで、その楽しみ方を解説しました。午前午後の計2時間、誰ひとり席を立つことなく講義に集中し目を輝かせ、いつもでしたら頻繁にトイレを利用する方もその必要がなく、漏らした形跡もありません。神社暦の講義では最高齢102歳の女性が繰り返し「わからない」と呟いていたのが印象的です。わからないけれども一生懸命考え、脳を活発に働かせています。皆さんどの程度理解しているかは不明ですが、能力に応じて理解し楽しむことができます。介護を必要とする高齢者、その方が仮に認知症であったとしても学習意欲は失われず、向上心が満たされた笑顔でした。介護を必要とする高齢者であっても知的能力が非常に高く、その能力に応じた介護でなければ高齢者の尊厳は守れません。

2022.10.06  介護保険法改正に備える

 年内に閣議決定され、令和5年1月に召集される通常国会に提出、成立の見込みといった情報があります。施行は2025年問題を控えた令和6年でしょうか。改正の照準が社会保障費の逼迫する2025年にあることは言うまでもありません。その大きな柱は以下の3点に集約できそうです。
1 人員配置基準の緩和(現行3:1から4:1へ)
2 介護報酬の実質引き下げ(要介護1、2の総合事業への移行)
3 介護事業所の集約、大規模化(薄利でも維持できる体制)
 1と2はセットですから、介護報酬引き下げに伴う減収は人員の削減によって補ってください、というメッセージです。3は中小事業所の場合、効率化によって人員の削減ができなければ廃業、または大規模事業所への統合を促すものです。
 移動を伴うデイサービスや訪問看護・介護事業は、移動時間という物理的制約があり、大規模化に馴染みません。特にデイは、小学校のように通学圏があり、送迎時間が1時間以内でなければ何らかの障害がある高齢者の身体的、精神的負担に耐えられません。移動の制約があるデイや訪問系の事業は営業圏が限られ、大規模化できない宿命を背負った事業ということになります。

 こうした制約の中で改正介護保険法の趣旨を反映させ、事業の継続を図るためには、この改正を好機と捉え、現行のサービス体制を大きく転換しなければなりません。
1 人員配置基準の緩和によって利用者を増やす、あるいは施設を拡張、増設することが可能になり増収が図れます。
2 介護報酬の引き下げは減益に直結しますが、増収によってそれをカバーし、高齢者の急増という波に乗ることで、多店舗化によるさらなる増収と増益が可能になります。
3 移動を伴う介護事業は大規模化ができませんので、法改正の影響が直撃します。より一層、法の趣旨を反映した事業展開が急務で残された時間はわずかです。

 そこで提案したいのが学校形式の導入です。
1 人員配置基準の緩和に対しては、現行の3:1基準であっても当こぐれ学園では、1の人員で運営しています。現在は定員10名ですが、改正法では、現行人員で定員を12乃至13名まで増やせるということですから、2乃至3名分がそのまま増益になります。
2 介護報酬引き下げは上記1の増益分で補填し、収支には影響しません。
3 人員配置基準の緩和が好機となり、収支に影響がないとなれば大規模化の必要がなく、中小事業所として継続が可能です。中小事業所であっても大量の介護を必要とする高齢者が押し寄せますから逆に、多店舗化の要請に迫られ、事業拡大の好機到来です。

 学校形式の仕組みにつきましては、他の「学園長コラム」をお読みください。無料出張模擬授業を承っておりますので、是非お申し付けください。なぜ学校形式で改正介護保険法の趣旨が満たせるのか、目から鱗が腑に落ちること、ここにお約束させていただきます。

2022.10.01 敬老の意味を問う

 江戸幕府の役職に大老や老中があり、老人の「老」は、知識と経験を積み重ねた高齢者に対する敬称でした。王朝の貴族社会を舞台にした『源氏物語』(帚木の巻「雨夜の品定め」の段)で紫式部は、貴族に必要な資質を各専門知識に加え、人間関係を円滑にする処世術であると説いています。振り返って現代の高齢者は、社会の進歩に取り残され、居場所といえば高齢者施設ですが、実際は江戸時代同様、知恵の宝庫であることに変わりありません。現役社会人としての最新専門知識には疎いかもしれませんが、紫式部が喝破したようにもう一つの能力、処世術に長けています。核家族化で男女を問わず若者が孤立しているのは、身近に相談できる処世術に長けたおじいちゃんやおばあちゃんがいないからです。性別年齢を問わず人間関係の悩みは共通です。女性であればそこに子育てや家事の悩みが加わり、それを誰に相談すべきか。知恵の宝庫、高齢者を措いてありません。高齢者施設は謂わば宝の山です。若者こそ高齢者施設にせっせと足を運び、老人に教えを乞うたらいかがでしょう。
敬老の日は老人に対する尊敬の念を新たにする日です。

2022.09.29 認知症の方が介護施設を利用するタイミング

 ご家族の方が認知症と診断されると例外なくパニックになります。認知症が人をダメにする病気という先入観が強過ぎるからです。認知症は漫才のネタになるくらい昔からよく知られていました。おじいちゃんが「メシはまだか」と若いお嫁さんにボケると「さっき食べたでしょう」とツッコむ定番ネタです。もうひとつ、昔のことはよく覚えていて同じ話を何度も聞かされる家族は毎回イラっとするという、これもよくある光景です。
 前者はついさっきの事も忘れる短期記憶の障害であり、後者は昔の記憶である長期記憶が健全であることを示しています。認知症のこの二つの傾向を知れば対処は比較的簡単です。短期記憶障害に対しては決して否定せず、ツッコまずに肯定していれば本人が言ったことを忘れトラブル回避できます。昔話は是非聞いてあげてください。そうしていると内容がより具体的に詳しくなり、脳が活性化します。このような対処ができていれば施設の利用はまだ必要ありません。昼間でもボーっとし、昼寝が長くなって夜間に俳諧するようであれば、認知症の進行で自己管理ができない状態ですので、施設の利用を考えるタイミングです。

2022.08.17 それぞれの8月5日

 運営しているデイサービスの8月5日の恒例行事は、戦前生まれの男女3名が語り合う前橋大空襲の体験談を聞くとはなしに拝聴することです。全員認知症ですが、前橋大空襲の記憶はもちろん若いころや現役時代の記憶は鮮明に残っていらっしゃいます。
 3名の年齢は若干ずれており、最年長の女性が当時高校生、次の男性が同じく小学校高学年、最年少の男性は幼稚園児です。高校生だった女性は、田中町(現表町)で被災しましたが、焼夷弾が住居に直撃せずに火災を免れました。小学校高学年の男性は、立川町という中心市街に居住し、直撃を受けて家族ばらばらに逃げ延び全員ご無事でした。逃げる途中では防火用水の水を全身に浴び、県庁西側の断崖に設置された防空壕に辿り着きましたが、満員で入れてもらえず、その場を離れたことが幸いして助かりました。防空壕に逃げた方はひとり残らず焼死されたそうです。最年少の幼稚園児の方は、才川町(現若宮町)で被災されましたが、延焼を免れました。近くにある小学校の校庭に不発弾が突き刺さって林立し、鉄屑として拾ってきたためにご両親に叱られたそうです。

2022.08.01 ジェロントロジー(老年)学科の新設を願う

 去る7月18日、トルコの大学のジェロントロジー学科で教鞭を執っている日本人の先生が弊社デイサービスに来訪されました。ジェロントロジー学科は高齢化問題を学際的に研究する学科で、トルコではすでに30大学に開設されていますが、日本では皆無です。トルコには戦後のベビーブームがなく、日本の団塊の世代層が存在しません。それでも少子高齢化が急速に進行しており、その対策立案のための学科です。
 日本の少子高齢化対策は、医療介護といった福祉分野に片寄っており、専門分野の枠を超えた学際的な研究に立ち遅れています。法整備には法律の専門家、高齢者が住みやすい街創りには都市工学や交通インフラの専門家、文学や哲学、心理学や社会学といった人文科学にとどまらず、美術や音楽等の芸術分野の各専門家が英知を結集し、社会福祉分野の研究者と共同して解決に取り組まなければ、団塊の世代が全員後期高齢者となる2025年問題は克服できません。その司令塔がジェロントロジー学科で、各専門家が一堂に会し、少子高齢化克服のために英知を結集する学科です。

2022.07.21 介護事業の経常利益を2倍3倍にする仕組み―デイ・特養・介護付き―

 介護人材不足によって多くの介護事業者が割高な派遣社員や外国人労働者を受け入れています。もしこうした割高な人材を削減できる仕組みがあったとしたら、浮いた外注費や労務費はそのまま経常利益に反映します。その多寡によって経常利益が2倍3倍に跳ね上がる可能性が出てまいります。
 「学校形式」という仕組みを導入することによって設置基準以上の介護人員は原則不要になります。学校形式のアクティビティは全て専門講師による授業です。新たに授業を担当する講師を雇用しなければなりませんが、この講師は介護員として雇用しますので介護人員に算定でき、基準人員を満たす一助にもなります。
 学校形式の授業は1コマ1時間で、1日3時間あるいは4時間設定します。この3時間あるいは4時間は、講師という介護員が授業というアクティビティで利用者全員を授業の間ひとりで見守る仕組みです。
 講師ひとりが利用者全員を見守っている間に貴重な人材である介護員は、見守りやアクティビティから解放されて入浴介助やトイレ介助に集中することができます。あるいは昼食やおやつの準備、書類の作成や整理に時間が割けます。介護人員の負担軽減にもなり定着率の向上にも寄与することでしょう。
 最大の課題は授業を受け持つ時間講師の確保です。1日1時間のために来てもらえるのかどうかということです。ご心配は無用です。介護人材確保では考えられないくらい先生確保の苦労は皆無です。背景には少子化があります。学校の統廃合が進み、塾も減少していることから教師としての職場がどんどん狭くなっています。このような状況では定年退職後に再就職できるとも限りません。運よく就職できたとしても再々就職は絶望的です。もっと悲惨なのが音大や美大を出た芸術分野の先生方です。教える場がそもそもなく、自宅で音楽教室や美術教室を開くのが関の山です。どのような分野であれ先生方は巷に溢れていますので、入れ食い状態とはこのことをいうのでしょう。確保に苦労することはありません。
 弊社では講師の時給を2,000円に設定しています。時間単価は高くてもこの単価で1日3~4時間ひとりで見守ってもらえるとしたら、経費は6,000円から8,000円に過ぎず、社会保険料も不要となれば介護員に比べても、派遣社員であるならばさらに割安です。
 「学校形式」などとお高くとまって、肝心の利用者、認知症の方を含む高齢者が勉強なんて無理でしょう、と当然考えます。ここでもご心配は無用です。高齢者は伊達に長生きしていません。認知症の方を含め知識と経験が豊富ですから、知的能力が非常に高く、知的欲求に飢えています。逆に現状のアクティビティである子供だましに辟易し、内心ではバカにされていると間違いなく思っています。いつでも手弁当で模擬授業に伺いますので、遠慮なくお申し付けください。授業の1時間、手の空いている介護員にも参加いただければ、その参加人数こそが削減可能な介護人材ということが一目瞭然です。
 介護員は基準以上に満たしているが、手が回らずに利用者の定員が満たせないでいる場合にも「学校形式」は効果てきめんです。介護員の労働負荷が低減し、余裕が生まれますので定員を埋めることができます。売上は向上しても労務費はそのままですから増収増益です。
 定員も満たし介護員の確保にも困っていない事業者の方は、事業規模を拡大することができます。「学校形式」の導入で現状の介護員を削減し、新たな施設に振り向けることができるからです。労務費そのままに規模が拡大できる、やはり増収増益モデルになります。

2022.07.20 トルコのアクデニズ大学ジェロントロジー(老年)学科の村上先生が見学に来園、千葉大学に留学している教え子3名も同行

 一昨日(7/18)トルコのアクデニズ大学ジェロントロジー(老年)学科に在職されている村上育子先生が弊社学校形式のデイサービス「こぐれ学園」に夏休みの一時帰国を利用して教え子3名と来園いただきました。10:00~16:00までじっくりと見学いただき、先生には約30分、認知症の方を前に模擬授業も体験いただきました。昼食も利用者と同じ献立を召し上がっていただき、午後は授業(音楽と体育)を見学しながら教え子の皆さんを交え意見交換をさせていただきました。
 最大の収穫は、ジェロントロジー学科の開設を知り得たことです。アグデニズ大学が国内での開設第一号で、現在では30大学に学科として設置されています。振り返ってわが日本はといえば、学部のレベルでは一校もありません。ジェロントロジー(老年学)講座を開設している程度です。急激に進行する高齢化社会に立ち向かうには医療、介護の福祉分野に加え、文学や哲学、心理学や社会学といった社会科学にとどまらず、さらに音楽や美術等の芸術分野、法整備も喫緊の課題ですから法律家、都市工学や交通インフラ等の各専門家の英知を結集しなければなりません。日本でもそれぞれの分野で高齢化問題に着手していますが、それぞれの分野間で横のつながりが果たして強固に築かれているのか、はなはだ疑問です。現状は司令塔無き高齢化問題研究に閉塞している感が拭えません。独立したジェロントロジー(老年)学科開設が急がれる所以です。
 トルコでは第二次世界大戦に参戦しなかった時の政府の好判断で、大戦後のベビーブームがなく、日本のような団塊の世代が存在しません。トルコでは、平和と繁栄、医療の発達と衛生環境の充実によって日本同様に少子高齢化が進行していますが、大きな違いは団塊の世代層がなく、日本に比べれば高齢者の割合は低いものの、急激に高齢化が進んでいる国の一つです。にもかかわらずトルコ政府は少子高齢化に危機感を抱き、多くの大学にジェロントロジー学科を設置し各分野の専門家の英知を結集して社会福祉政策を推進しています。
 トルコの介護施設も日本のそれと似たり寄ったりです。認知症の方も当然たくさんいらっしゃり、皆さんうつむき加減で精気がなく、お仕着せのレクリエーションにうんざりされているのは洋の東西を問いません。こぐれ学園の認知症の方を含む高齢者は全員が生き生きとしていて認知症とそうでない方の判別が全くできず、普通の高齢者そのものですから、来訪いただいた皆さんも目を疑ったに違いありません。午後の意見交換では驚きと感動のご意見をたくさんいただきました。
 なぜ認知症の方が『源氏物語』を原文で講義する授業を理解できて楽しめるのか、といった疑問が当然出ます。この「学園長コラム」をお読みの方はお分かりのことと思いますが、こぐれ学園は認知症に対する理解が既存の医療、介護の世界の常識と180度異なり、その説明と質疑応答に午後の大半の時間を要しました。知ってしまえばまさにコロンブスの卵で、その斬新さにも称賛をいただきました。
 たくさんいただいたご意見の中に、トルコの介護を必要とする高齢者は、どちらかといえば受け身で、政府や自治体への期待が高い、という事情があるとのこと。すなわち日本に比べ、向学心がある高齢者はまだ一部だということです。また現在の高齢者層では、日本に比べ識字率が低く本格的な授業は無理ではないか、というご意見です。トルコは幸いなことに地域コミュニティがまだしっかり根付いています。介護が必要になってもまず、地域コミュニティが支えることができます。それでも支えきれない高齢者に対し、介護施設に集まってもらい、認知症の方であれば学校という万人共通の長期記憶を授業によって刺激し、脳の活性化を図ることができます。当然授業を拒否する不登校の学生のような高齢者も出ますが、授業を拒否する判断力があるということでもあり、拒否という行為そのものが脳の活動している証です。そのような方はそのような方同士集まって、授業の悪口とか思い出や自慢話に花を咲かせていれば全く問題なく、授業で受け身になるよりもはるかにこのおしゃべり、コミュニケーションの方が脳の活性化には有効です。学校形式に限らずどのような形式であれ高齢者同士でコミュニケーションが活発にとれていればその施設は大成功です。さて、恐らく子供のころ学校に行けなかったのでしょう。字が読めない高齢者に学校形式は通用するのか、ということです。そもそも万人に共通しているはずの学校の記憶がないではないか、というご指摘です。心配ご無用。学校に行きたかった、という学校への憧れをお持ちだろうと考えられます。そのような高齢者には文字を読み、書く授業から始めればご本人も学校に通う夢がかなった、と大喜びしている姿が目に浮かびます。
 まだまだたくさんの貴重なご意見を3名の若い学生の皆さんから頂戴しました。引率の村上先生は通訳が忙しく、先生のお考えを拝聴する機会を逸してしまったような印象です。これから随時、いただいたご意見をアップする予定でいますが、村上先生に感謝申し上げたいのは、高齢化問題の研究者で最初に注目いただいたのが村上先生でいらっしゃる、ということです。先生は国内外に研究者ならではのネットワークをお持ちです。そのネットワークを通じて専門家の方々に「学校形式のデイサービスこぐれ学園」の仕組みが拡散し、実際に取り入れ、広く普及することを願っています。日本よりも早く親日国のトルコで普及する可能性が出てまいりました。いち早くトルコで普及し、日本に逆輸入される日を夢見ています。
 村上先生始めトルコの若い研究者の皆さんに敬意を表すとともにご来訪に心より感謝申し上げます。

2022.05.08 認知症の方に特化した介助プログラム

 手元にある『岩波 国語辞典 第二版』(1976年刊)には「介護」も「介助」も載っていません。46年前の辞書にないということは、考え方そのものがなく、介護や介助を必要とする前に寿命が尽きていたか、あるいは大家族制度の余韻があり家庭内で介護が完結していた、ということでしょうか。
 言葉としての「介護」は『介護保険法』の成立で一般に使用されるようになり、「介助」もおそらく同時期の言葉でしょう。平均寿命が急伸し、核家族化の進行によって高齢者世帯が取り残されてしまいました。老化により高齢世帯も自立が厳しくなり、子供や孫の支援が必要となりますが、子供や孫にもそれぞれ家庭があって、自分の事で精一杯です。さらに加え高齢化が戦後のベビーブームで誕生した団塊の世代に押し寄せます。団塊の世代は良くも悪くもブームの主役です。高度経済成長の主役であり、受験戦争の主役でもありました。その主役が20年前から介護を必要とする高齢者の主役になって社会問題化したことから『介護保険法』の成立に至ったと言えます。
 現在直面している介護問題には二つの側面があります。
 その一つは、介護の歴史が20年と浅く、介護のノウハウが確立できていないことです。老化による身体機能の低下に対しては、多様な介助技術が開発され確立もしていますが、想定されているのが身体介助ですので認知症疾患が重なってしまうと理念では尊厳の保持を謳うものの現実は、「尊厳」の「そ」の字もありません。
 ノウハウが確立していない中、団塊の世代の高齢化が押し寄せます。介護の質も未整備なのにそこへ量の対処が求められ、かつて現出したことのない姥捨て山が高齢者施設として大発生しています。
 さて「介助」という用語には具体性がありますが、果たして「介護」は?「介助」には食事介助、入浴介助、トイレ介助の三大要素があり、それらを総称して身体介助全般を介護と称しているのに過ぎないのではないか、という疑問です。介護度には要介護5から1まであり、さらに軽度の場合には要支援2・1が設定されています。要介護5はほぼ寝たきり状態で、全介助、すなわち食事も入浴もトイレも全て介助を必要とされる重度な方ですが、入院するほどではなく、医療処置である看護を必要としない段階です。以下介助の必要性に応じてとあるものの内実は、介助の三大要素の必要性に応じて要介護度が認定されます。身体介助の必要度合いを基準に要介護度が認定される現行制度は、身体介護に限定すれば合理的であり齟齬は生じません。しかし身体介護を全く必要としない認知症の方も一律に身体介助の枠内で介護認定し、ご本人には全く必要ない介護サービスを提供しようとするから真っ先に現場が混乱します。混乱しないまでも手助け(介助)のしようがく放置せざるを得ません。認知症の方にも身体介助を必要とする方と同様の介助ブログラムが本来設けられるべきですが、認知症の本質を見誤っているがために認知症の方に特化した介助プログラムといった発想がそもそもないのが現実です。
 それでは認知症の方に特化した介助プログラムとは一体どのような介助でしょう。
1.脳の機能を活性化し、認知症の進行を抑制できる介助。
2.認知症によって喪失した脳機能を代替脳の活性化によって回復できる介助。
3.認知症の方に対する対処方法を確立し、ご家族の方もストレスなく認知症に向き合うことのできる介助。
4.認知症の方の人生キャリアを否定することなく、一歩進めてそのキャリアを生かし、自己実現を可能にする介助。
 これらの介助が実現できて初めて認知症の方の尊厳を守ることができます。

2022.05.08 認知症と脳機能

 認知症の諸症状は脳細胞の萎縮によって発症します。萎縮した脳細胞は再生しません。そこが他の細胞と大きく違う点です。脳以外の細胞は新陳代謝によって古い細胞がコピーされ新しい細胞に生まれ変わります。コピーに失敗して癌化する細胞もありますが、免疫細胞が駆逐しますので通常癌細胞が拡大することはありませんが、免疫力の低下が恒常化することで癌が増殖し治療が必要になります。
 脳細胞は再生できない代わりに仮に一部が委縮したとしても代替できる細胞をあらかじめ用意しています。ですから脳細胞を使い尽くすことはできず、ほとんどの脳細胞がその人の寿命とともに使われないまま役目を終えます。
 認知症を発症しても恐れる必要がないのは、萎縮した脳細胞に代わる大量の細胞が控えているからです。しかしそのまま放置していては代替機能が働きません。身体の損傷と同様に機能回復のためにはリハビリが必要になります。脳機能のリハビリは使い続けることに尽きます。身体のリハビリは回復したいという本人の意思が原動力になりますが、認知症の方は認知症の自覚がなく、原動力となるべき意欲がそもそもありません。そのまま放置していると認知症が進行し生きる意欲までもが失われてしまいます。食欲がなくなるのはその典型で、ここまで進行してしまうと生命の危機です。認知症で真に恐れなければならない、警戒しなければならないのは意欲の喪失ではないでしょうか。
 認知症の方のやる気スイッチ(意欲)をオンにすることは、馬を川辺に連れていくことはできても水を飲ませることができないのと同様、極めて困難と言うべきか、絶望的に困難であることが認知症の方の介護に立ち塞がっています。
 健全な脳細胞が大量に残されていながら極一部の萎縮が脳機能を阻害し、生命までも危険に曝す矛盾が長寿の代償として発生しているのが現在です。こうした中でもその対処法は経験的に知られていました。認知症という言葉が発明される前は、痴呆と言われボケとも言われていました。ボケの兆候は、ついさっきの事は忘れるが、昔のことはよく覚えていてそれも飽きもせず繰り返す、といった症状です。認知症克服のカギはこの「昔のこと」にありました。
 「昔のこと」は長期記憶の分野であり、「ついさっきの事」は短期記憶の分野です。認知症は短期記憶障害に顕著に出ますから、このことを理解するだけで認知症の方のケアが格段に楽になります。食事が済んだ直後に「飯はまだか」と言われたら「今用意していますから」と話を合わせさえすれば、「飯はまだか」と言った本人が言ったことを忘れてしまいトラブルは発生しません。漫才は「ボケ」と「ツッコミ」で役割が分かれていて、認知症の方が文字通り「ボケ」であり、対してご家族が「ツッコミ」役になるのですが、ご家族の方は決してツッコんではいけません。「ボケ」に会話を合わせてください。こうした漫才を演じ続けることによって認知症の進行が抑えられ日常生活をご自宅でより長く送ることができます。
 しかし問題は、認知症の進行によって生きる意欲を失いかけ「飯はまだか」とも発することができなくなった重度の認知症の方のケアです。ところがあら不思議、長期記憶を刺激できれば意欲を取り戻し失いかけた食欲も回復します。長期記憶を刺激する方法は様々です。古い写真を見せる、現役のころに流行した音楽を聞かせる等々、視覚や聴覚を刺激することによって長期記憶にアプローチする手法が開発されています。こうしたアプローチは個々人の人生キャリアに埋もれた記憶を発掘して活用することですから、パーソナルな部分であるがために全てオーダーメイドになってしまい一般的ではありません。誰の記憶にもある万人に共通する長期記憶が必要とされる所以です。その長期記憶のひとつが学校です。学校という空間に足を一歩踏み入れただけで長期記憶が刺激され、活動を停止していた脳細胞が動き出します。無表情な表情に笑顔が戻り、失いかけた食欲も当然のことたちまち回復します。
 若年性認知症で苦しまれていた方を3名存じ上げています。そのひとりは男性で1年2カ月、弊社施設「学校形式のデイサービスこぐれ学園」の利用者です。笑顔と食欲が瞬時に戻ったのがこの方です。このお三方に共通しているのが働き盛りに極度の緊張状態に置かれ続けていたのではないか、と言うことです。弊社の利用者は車のセールスマンでした。もうおひと方の男性も別会社ですが同じく車のセールスマンです。三人目の方は女性で看護師をされていました。几帳面でまじめ、仕事に熱心で成績が優秀であればあるほど緊張状態に置かれていたとしても不思議ではありません。
 緊張状態は交感神経が優位になり、戦闘モードを保つために血管が収縮します。血管の収縮で血流も細り、栄養や酸素が十分に行き届きません。脳細胞で血流が細り栄養や酸素不足になると細胞が壊死してしまいます。壊死した脳細胞は再生しませんので、その細胞が司っていた機能が失われ、認知症の症状、すなわち短期記憶障害となって発症します。食欲や生きる意欲といった生命維持に不可欠の機能は長期記憶分野にあり細胞が壊死することはありませんが、短期記憶障害がその機能を閉ざしてしまうようです。
 認知症克服のカギは長期記憶にあります。長期記憶を刺激することにより眠っていた脳細胞が動き出し、短期記憶障害で阻害されていた機能が目覚めます。歯ブラシの使い方が分からない、歯ブラシそのものが認識できない、あるいはトイレの使用方法が分からないといった重度の認知症の方であっても付き添って使い方を教えて差し上げることにより徐々にですがトイレも歯ブラシも使えるようになります。おそらくこれらの機能を司る脳細胞が委縮し、機能そのものを喪失したのでしょうが、残された健全な脳が代替して機能を回復したに違いありません。この方は残念なことにご自宅でトラブルが発生し、精神病棟に強制隔離されてしまいました。その3か月後です息を引き取られたのは。身体が頑健でお元気だっただけに悔やまれてなりません。主治医の診断では、脳の萎縮が相当進行し、ご自宅で過ごされることがそもそも無理なくらい重症化しており、逆に自宅で過ごされていたことに驚いていたようです。残された健全な脳も少ない中、代替機能が働き自立に近い生活ができたのもご本人の意欲のなせる業です。こぐれ学園での生活で長期記憶がスイッチオン、ご自宅でも生きる意欲を保ち続けていました。

2022.05.04 「介護保険法」の問題点

 介護保険法では「要介護者」が受けられるサービスについて、入所や通所、医療系や介護系の区別なく、おしなべて、

 入浴、排せつ、食事等の介護その他の日常生活上の世話及び機能訓練

と定められています。よく介護を必要とされる方が「介護の世話にはなりたくない」といって介護を拒否する言葉「世話」そのものが介護保険法で用いられています。「世話」という言葉にはペットの世話とか家畜の世話、子供の世話といったように、手がかかり、そうしないと生きることもおぼつかない対象に用いられる言葉です。「就職の世話」や「嫁さんの世話」といった使い方もありますが、一人では仕事も見つけられない、彼女もできない情けない奴、といった意味が含まれますので、現代では死語になりつつあります。
 ところが介護保険法では所々に「世話」が多用されており、介護保険法が想定する介護を必要とする高齢者の定義が「一人では何もできない手のかかる存在」ではないかと疑わざるを得ません。
 一方、介護保険法の(目的)第一条には、

 これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営む

ことが求められています。介護の基本は介護を受ける方の尊厳を守ることですが、介護保険法に「尊厳」の文字はこの第一条にあるだけで、各論である具体的にサービスを提供するそれぞれの事業には「尊厳」の文字がありません。総論では尊厳を謳っていても各論に出てこないということは、尊厳を守る介護がどのようなものかまだ、介護保険法では具現化されていないのが現状ではないかと想像できます。
 そもそも「尊厳を守る」ことと「世話をすること」は矛盾しており、相容れません。介護保険法で繰り返し説かれる、

 入浴、排せつ、食事等の介護その他の日常生活上の世話及び機能訓練

に尊厳の一語を加え、「入浴、排せつ、食事等の介護その他の日常生活上の(尊厳を伴った)世話及び機能訓練」としてみても、「尊厳」「世話」を同列に並べることに無理があります。
 「日常生活上の世話」という表現にも違和感を覚えます。入浴、排せつ、食事は日常生活の基本です。そして「入浴、排せつ、食事等」の「等」の部分にテレビを見たり昼寝をしたり、散歩したりすること「等」が含まれるのでしょうか。ここに現状の介護施設の姿があります。そして「人としての尊厳」がどこにあるのか、問われても答えられないと思います。
 確かに入浴も排せつも食事も自分ひとりの力ではできないかもしれません。そのことをもって「一人では何もできない人」とレッテルを貼ってよいものなのでしょうか。ここに認知症が加われば、その方は廃人同様の扱いで「尊厳」の「そ」の字もありません。
 介護保険法の対象者である認知症の方を含む介護を必要とする高齢者の定義が間違っているために介護の根本理念である「人としての尊厳」が抜け落ちてしまいました。認知症の方を含む介護を必要とする高齢者の正しい定義は、

 年齢と経験を重ねて培った知識と教養豊かな老人

です。「老人」という言葉を敢えて使うのは「老」には敬称の意が込められているからです。江戸時代の役職「大老」や「老中」が正にそうです。そもそも平均寿命が短かった昔、高齢者はその土地の宝であり、長老として尊敬の対象でした。特に農耕社会では、天変地異や季節、気象の変化に精通した経験豊かな高齢者、長老は現在とは逆になくてはならない存在です。姥捨て山伝説は真っ赤な嘘であり、存在するとすれば現在の介護施設でしょう。
 そのような知識と教養豊かな老人が介護を必要としたとき、その方の尊厳を守るために介護はどうあるべきか。現行の介護保険法で定められた介護でないことは確かです。介護を必要とする高齢者の定義を変えることによってさまざまな介護方法が導き出されるに違いありません。学校形式もその一つです。
 認知症当事者の方が今、声を挙げています。認知症の定義や常識に不満があって、それを打破するうねりです。
 認知症の正しい常識や定義を打ち出さなければなりません。認知症の方には障害があります。しかしその障害は極めて軽微で、容易に克服できます。そのことを理解するならば、必要最小限の介助で家庭生活や社会参加ができます。場合によっては培ったキャリアを生かし、社会復帰も可能です。

2022.03.13 学校形式は認知症の方とご家族の駆け込み寺
The school format is a sanctuary for people with dementia and their families

 3月5日のブロブ「認知症基本法の再検討に向けて①」の中で衆議院議員の鈴木隼人先生は冒頭、
 「認知症になるや社会から切り離され、尊厳を踏みにじられるような言動に傷つき、医療・介護の現場でも場合によっては薬漬けや身体拘束などの酷い目に遭わされている実態はあまり知られることなく、なんとなく『他人ごと』のように問題は置き去りにされています。」
と認知症の方の実態を指摘されています。ご講演された川崎幸クリニック院長の杉山孝博先生もまた、ご講演の最後で「認知症の方に対する理解が浸透しないために介護施設で受け入れを拒否されるケースがみられる」と結んでいました。
 認知症当事者の方が自ら認知症の啓蒙に努め、全国の自治体で認知症カフェが運営され、最初に講演された株式会社DFCパートナーズ代表取締役の徳田雄人社長のように認知症の方が通常の社会生活を営める社会の仕組みを提案されている方もいらっしゃいます。こうした取り組みにもかかわらず認知症の方が疎外され、「尊厳を踏みにじられる」現実があり、「認知症基本法」の成立が喫緊の課題になっています。
 軽度の認知症の方でも社会から取り残され、まして問題行動のある重度の方であれば介護施設の利用を断られるだけでなく、「医療・介護の現場でも場合によっては薬漬けや身体拘束などの酷い目に遭わされている実態」が発生します。介護施設を利用できる軽度の方はまだしも、「薬漬けや身体拘束」に至ってしまう重度の方をまず救済しなければなりません。
 意外に思われるかもしれませんが、学校形式は問題行動のあるような重度の方のケアに実は最適です。「学校=勉強」の先入観にとらわれ、軽度の方であっても認知症の方にはそもそも勉強は無理、と必ず思われてしまいますが、実は真逆です。重度の方は勉強に没入することができてしまうのです。しかし軽度の方は、「今さら勉強でもあるまいし」と判断力が働き、逆に勉強を拒否しがちです。逆説的になりますが、重度の方はその判断力さえも失われている、と言っていいでしょう。判断力のある軽度の認知症の方はまだまだ学校形式は不要です。
 判断力さえも失っている重度の認知症の方がなぜ勉強に没入できるのか、疑問に思われるでしょう。認知症の方に対する先入観がそうさせるのです。脳細胞が委縮し認知症を発症したとしても萎縮した個所は脳細胞のごく一部に過ぎません。大部分の脳細胞が実は健全に機能しています。認知症はその機能に鍵をかけ閉ざしてしまいます。その鍵を開けるキーが健全な脳に蓄積された膨大な長期記憶です。
 長期記憶のひとつに学校があります。万人共通の記憶です。重度の認知症の方でもこの学校の記憶は鮮明に残されており、学校という環境に置かれると長期記憶が活動開始、あら不思議、認知症の症状が消えて表情に精気が戻り、生きる意欲が復活します。まさに健常な高齢者そのものですから自分でできる事は何でもできて介助を必要とするのは極めて限定的で自立し、手厚い介護は全く必要としません。
 学校形式は認知症の方の長期記憶を刺激するアイテムのひとつに過ぎません。しかし万人共通のアイテムですのでその効果は絶大です。

2022.03.06 認知症の克服
Overcoming Dementia

 認知症は現在、有効な治療方法がなく、ある意味で家族生活も一変させかねない癌よりも恐ろしい不治の病と言えるかも知れません。しかし救いは、その症状が短期記憶障害に顕著に出て、長期記憶までは侵されないということです。認知症の進行により食べる意欲を失い、排便排尿の自覚がなくなり、生きる意欲があるのかもわからない深刻な症状に到りますが、だからと言って長期記憶が消え失せるわけではありません。長期記憶はしっかり残っていても呼び覚ますきっかけのないのが実際です。
 学校形式のデイサービスはこの長期記憶を刺激することによって成立しています。そもそも学校の記憶は誰にでもある記憶であり、高齢者にとっては長期記憶そのものです。大きな黒板とピアノのあるフロアは教室の作りになっています。教室に一歩足を踏み入れると学校という長期記憶が刺激され、脳が活動を始めます。認知症特有の無表情が消え、豊かな表情と笑顔に一変します。誰が見ても認知症を患っているように見えません。
 極端な事例ですが、55歳で認知症を発症し、65歳で当学園の利用を開始した男性がいます。若年性認知症で10年間、ご本人とご家族が苦しみました。その日は正式利用ではなく、体験初日でした。学園に到着。スタッフと普通にあいさつを交わし、食事も全て召し上がっていただきました。しかし認知症の障害で、水洗トイレの使い方が分からない、食後の歯磨きでも歯ブラシの意味が分からないほどですからやはり重度の認知症でいらっしゃいます。その際は当然介助が必要ですが、それ以外は徘徊することもなく、授業を熱心に受けて、理解できたところがあるのでしょう、笑顔で頷きます。休み時間は他の利用者の会話に耳を傾け、相槌を打ちながら、「えっ」とか「そう」とかの言葉だけですが、会話に加わろうとされます。
 重度の認知症でありながら他の利用者同様に1日を過ごし、ご自宅に送り届けるとすぐに奥様が玄関から飛び出してきました。ご本人は奥様に「ただいま」と笑顔で声を掛けます。すると奥様が急に涙ぐみ、この10年間、笑顔を見せたことがなく、会話を交わすことも、まして笑顔で会話を交わせたことに涙が出るほどうれしかった、とおっしゃいました。聞けば食欲もなくなりつつあり、家でゴロゴロしてばかりなので背中に褥瘡までできかけている、ということです。学校という空間が長期記憶を刺激し、食欲が回復、1カ月もするとトイレもお一人で利用できるようになりました。しかし水の流し方がわからず、座って用を足すこともできないため手は少々かかりますが1カ月前とは雲泥の差です。
 認知症の方の症状は、短期記憶障害に顕著ですからご自宅に帰られると学園での出来事を忘れてしまいます。ご家族が様子を聞いても当然答えられません。それでも1日、長期記憶の刺激により脳が活発に活動することによって認知症の進行を遅らせているように思われます。短期記憶障害にだけご家族も理解を示していただければ日常生活に支障はありませんから、住み慣れたご自宅での生活をより長く続けることができます。

2022.03.06 介護保険で通える大学へ
To a university that can be attended by long-term care insurance

 認知症の方というよりも豊かな経験と知識と教養ある高齢者に相応しい授業にするためにおとなの学校制作の教科書の使用をやめ、オリジナル教科書の作成に取り掛かりました。教材は新聞の社説やコラム、『源氏物語』等の古典、歴史書や郷土史の文献です。そうです、健常者である大人が手に取って読み、楽しめ興味を示す内容であり、古典作品を原文で読むとなれば、文系の大学レベルです。
 しかし限られた介護スタッフではカリキュラム構成が偏り、まして20代、30代の若い介護スタッフでは、豊かな経験と知識と教養ある高齢者が満足するような講義はそもそも無理です。そこで専門の講師を介護員として募集することにしました。その労働条件が週一回、一コマ(1時間)のみ、ただし時給は2,000円という誰も応募しないだろう、という劣悪な条件です。ダメもとで求人を出しましたが、掲載翌日に十数人の応募があり、ほぼ全員を採用して即日募集を締め切りました。その結果カリキュラムが充実し、音楽は週4日、毎回先生が違います。書道と美術のどちらかが毎週あり、英米文学は大学の名誉教授が担当します。英語や古典、自然科学や物理もあります。極めつけは数学です。数学の先生ご自身が認知症を患っていますが、高校で40年以上教壇に立ち続けた昔取った杵柄そのまま、長期記憶が動き出し、堂々とした講義は現役そのもので認知症の片鱗もありません。

2022.03.06 認知症の方がなぜ、大学レベルの授業を楽しめるのか
Why can people with dementia enjoy university-level classes?

 4年前の3月1日、学校形式のデイサービスこぐれ学園の前身「おとなの学校前橋本町校」が開校しました。当初は「おとなの学校」のフランチャイズ事業で、おとなの学校制作の教科書を使用していました。開校から半年経過したある日、利用者の方から「俺たちをバカにするな!」と思ってもみなかったお叱りの言葉を頂戴しました。この一言で認知症の方に対する先入観が一気に崩壊しました。
 おとなの学校もそうですが認知症の方の潜在能力を完全に見誤っていました。おとなの学校制作の教科書は小学校低学年レベルの内容でしたが、その内容に全く違和感がなく、認知症の方の能力をその程度、と考えていました。しかし全くの間違いでした。お叱りを受けるのも当然です。
 冷静に考えれば介護施設を利用される高齢者は65歳以上で、実際には80代、90代が大半です。戦中戦後の混乱期を生き抜き、高度経済成長をけん引し、経験と知識と教養豊富な紳士淑女でいらっしゃいます。実はこの豊かな経験と知識と教養が認知症を患っていてもしっかり長期記憶に温存されていたのです。この長期記憶が刺激され、眠っていた豊かな経験と知識と教養が活動を開始しました。そうなりますと小学校低学年レベルの授業に納得するはずもありませんし、自尊心を深く傷つけ尊厳を無視した結果が「バカにするな!」です。

2022.03.05 認知症基本法の再検討に向けて①
衆議院議員 鈴木隼人先生のブログより転載 https://www.suzukihayato.jp/post/220225-1

超高齢社会を生きる私たちにとって、認知症は将来の「自分ごと」です。

しかし、認知症になるや社会から切り離され、尊厳を踏みにじられるような言動に傷つき、医療・介護の現場でも場合によっては薬漬けや身体拘束などの酷い目に遭わされている実態はあまり知られることなく、なんとなく「他人ごと」のように問題は置き去りにされています。

これでは、認知症当事者団体から「私たちにも人権があることを知って欲しい」との声が挙がるのも当然です。


この状況を何とかしたいとの思いから、自民・公明両党で『認知症基本法案』を策定し、国会に提出したのが3年前。

当時、社会が大きく前進する期待感に胸を大きくふくらませましたが、残念ながらその後、法案の審議は進んでいません。

進まない理由は、法案を与党だけで提出したからでした。

議員立法を成立させるためには、法案策定プロセスからの、与野党を超えた全会派の理解が欠かせないんですね。

でもこれは重要な法案ですから、棚ざらしのままにしておくわけにはいきません。

何とか打開策はないかと模索しました。

そこで出てきたのが、「全政党が参加する認知症議員連盟を立ち上げ、改めてイチから法案を作り直そう」という動きでした。


ゼロベースで法律案を再検討するとなれば、まずは野党も含めてメンバー全員が課題認識や方向性を共有する必要があります。

そこで、認知症議員連盟(私は事務局長を仰せつかっています)は、昨年の設立以来、各分野の専門家をお招きしての意見交換を行っています。

先日も、株式会社DFCパートナーズ代表取締役の徳田雄人さん、デイサービス『こぐれ学園』代表の小暮康弘さん、川崎幸クリニック院長の杉山孝博さんにご参加いただき、ヒアリングをさせていただきました。


その中で、徳田さんからは、

国の認知症対策は、従来のいわゆる隔離的政策から地域包括ケアへとシフトしてきた。このため現在は認知症の人の半分が在宅で暮らしている。

問題は、この政策的変化に社会が追い付いていないこと。これだけ多くの認知症の人が在宅で暮らすようになっているのに、標識や機械など社会のあらゆるものが健常者を対象に設計されている。このため、駅構内で迷ったり、券売機等の操作ができなかったり、ATMの扱い方がわからなくなったり、というのは認知症の人にとっては日常茶飯事。

こういった課題は、医療や介護などの社会保障政策だけでは解決できない。イギリスでは業界ごとに認知症フレンドリーガイドラインを策定し、それを現場レベルまで落とし込んでいる。このため、例えばバスの運転手さんが目的地に到着したことを知らせてくれたり、銀行のスタッフの方がATMから窓口に誘導してくれたりする。日本も分野横断的視点で社会をアップデートする必要があるのではないか。

といったご意見を頂きました。


小暮さんからは、

学校形式のデイサービスを運営する中で気付いたことがある。それは、教室という環境に身を置き、実際に授業を受けてもらうと、認知症の人の長期記憶が刺激され、脳が活動を始めるということ。一般的に認知症の人は集中が続かないと言われるが、こぐれ学園の利用者は皆さん1時間の授業を集中して受講している。トイレの使い方がわからなかった人が自分で用を足せるようになる。歯ブラシの意味がわからなくなっていた人が歯磨きをできるようになる。

このような状況ゆえ、こぐれ学園では介助が必要な場面が極めて少ない。介護分野の人材不足が言われるが、認知症を正しく理解し、認知症の人の能力を引き出す環境を整えれば、配置基準を緩和しても十分やっていける。こぐれ学園の経験がそれを証明している。

といった革新的な視点をいただきました。


杉山さんからは、

一般的に認知症の人は生活障害を起こしている自らの状態を認めず、医療や介護サービスを受けるのを拒否する傾向がある。また、時々にしか会わない家族に対してはしっかりした言動をするので、認知症の程度が家族に理解されにくい。このため、適切なケアがないままに重度化し、財産管理のトラブルや悪徳商法の被害、徘徊や近隣との軋轢などが生じやすくなる。

また、認知症は暴言・暴力・物盗られ妄想などの周辺症状を伴うため、対応が難しく、医療・介護サービスの利用を断れることもある。結果的に、最も困難と言われる認知症介護を家族に押し付けることになり、いわゆる介護地獄とも言われる状況につながっていく。

しかし、認知症を正しく理解していれば、早期にその兆候に気付いたり、周辺症状に悩まずに穏やかな環境でケアをできたりする。専門職も含め、正しい理解の普及が欠かせない。

といった指摘をいただきました。


今回、3名の方々からいただいたご意見はいずれも極めて重要なもので、今後、認知症対策の方向性を定めていく上で欠かすことのできない要素になっていくと考えています。

お忙しい中ご協力いただいた徳田さん、小暮さん、杉山さんには改めて心から感謝申し上げます。

引き続き、法案策定の準備のため、各分野の専門家の方々との意見交換を精力的に行っていきます。


長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

読んでいただいた方にとって少しでも参考になればとても嬉しいです。

2022.03.05 介護・医療の社会福祉予算の激増に備える。
Preparing for a sharp increase in the budget for social welfare for nursing care and medical care

 認知症であっても自宅での生活を続けながら定期的にデイサービスを利用して、家族の介護負担の軽減を図り、認知症の進行を抑制できるのであれば、家計の負担も軽くなり、可処分所得が増え、おじいちゃんおばあちゃんが邪魔な存在からいつまでも長生きしてほしい存在に評価が一変します。
 高齢化により認知症も進行しますが、認知症の進行よりも肉体的な衰えの方が自宅での生活を困難にします。デイサービスにも通えないほど身体が言うことを聞かなくなれば、施設への入居や入院も止むを得ませんが、高齢者の多くがどんなに身体的に辛くても住み慣れた自宅での生活を選ぶはずです。そのような高齢者が入居や入院をしても余命は長くはありません。動かない体にムチ打ち気力を振り絞って自宅での生活を維持するために必死でデイサービスに通い続けたからです。自宅での生活継続には、訪問診療や看護、介護が欠かせませんが、それらの医療、介護の社会的負担を差し引いても寝たきりの10年以上にも及ぶ長い闘病生活に比べれば社会的負担は軽微です。
 認知症だからと言って自宅での生活を諦めない。認知症だからこそ自宅での生活が必要であり、認知症の進行を遅らせます。認知症が急速に進行するのは、不慣れな施設への入居や入院です。生きる意欲を失うことによって食欲もなくなり、寝たきりの廃人への道一直線です。
 2025年以降、認知症の方が激増し、こぞって施設入居になれば、その先は入院で寝たきりです。世界に冠たる日本の先進的な医療、介護保険もさすがに持ちません。認知症の方本人のためにも、認知症の方を抱える家族の家計のためにも、国家の社会保障維持のためにも明暗は、認知症の方がご自宅で生活できるかどうかにかかっています。

2022.03.01 介護人材不足に備える
Prepare for the shortage of nursing care personnel

 現状の介護人材不足は深刻です。安い、汚い、きつい(YKK)と揶揄されていますが、原因はそこにはなく、介護の専門訓練を受けた介護員と介護現場のミスマッチが介護員の意欲を大きく損なっているのが原因です。
 「介護保険法」に定められた介護の三大要素は食事と排せつと入浴の介助です。介護員はこれらの介助を安全かつ確実に行うために訓練を受けていますので、これらの介助に対する抵抗感は全くなく、介護の世界に飛び込むような若者ですから使命感と情熱に燃えているはずです。しかし現実は裏切られて絶望し、介護の世界には二度と戻らないから人材不足になります。
 利用者のデイサービスでの滞在時間は7~8時間と長く、会社勤めと変わらない長時間拘束されます。この長時間の中で介護の三大要素である食事と排せつ、入浴の介助サービスを提供するのですが、1時間もあればすべての介助サービスが完了してしまい、残された大部分の時間を、不慣れなレクリエーションという名の子供だましでつぶさなければならないことが苦痛になります。たとえ子供だましであっても利用者に受け入れられ尊敬されるのであればまだしも、祖父母の年代の高齢者で、経験、知識、教養のどれをとっても太刀打ちできない相手に不本意な子供だましが通用するはずはありません。利用者の冷たい視線と疎外感から介護現場を去らざるを得ない状況に追い詰められます。
 身体的な障害があり、食事と排せつ、入浴で介助が必要な方に対してのみ専門訓練を受けた介護員が介助サービスを提供し、それ以外の空き時間におけるサービスは、教科を通じて教員経験者や現役教員、音楽や美術、書道の専門家で役割分担ができれば、現状の不足している介護人員であっても介助に支障をきたすことはありません。また1日の授業時間数は、1コマ1時間、3コマで十分です。お昼休みと休憩時間をたっぷりとり、授業の緊張感から解放されることで認知症の方であっても利用者同士の会話がはずみます。
 現実は、介助の必要がない認知症の方に見守りの名を借りた監視と警戒、行動抑制という束縛で貴重な介護人材が消耗され、介助の必要な方に必要な人材が不足し、常態化する悪循環から抜け出せないままです。

2022.01.30 2025年問題、認知症疾患の激増に備える
Prepare for 2025 problem, rapid increase in dementia disease

 2025年を機に700万人とも800万人とも言われる認知症の方が世の中に溢れるように増加します。大きな社会問題になることは必至ですが、認知症の方に対する発想の転換が一般的になればこの深刻な事態を克服することはもちろん、団塊の世代が主役の大きな産業に発展し、社会保障費の不安も解消します。
 学校形式のデイサービスではひとりの講師が30人以上の認知症の方を相手に講義ができます。視点を変えれば、ひとりで30人以上の認知症の方を授業の形で1時間の間、見守りをしていることになります。当然、不測の事態に備え2~3人の介護員は待機する必要はありますが、一般的な介護体制の数分の一の人員で賄うことができます。団塊の世代の皆さんはマスプロ教育の申し子でもありますから、多人数に慣れていて逆に安心できる場合もあります。団塊の世代の方にはマスプロ教育ならぬマスプロ介護でなければ激増に応えられません。認知症の方も尊厳を損なうことなく学校形式のデイサービスであれば収容が可能です。
 学校形式では様々な備品が必要になります。これは通常の学校教育と同じです。各教科に応じた教科書はもちろん、芸術分野であれば、音楽ではピアノが、美術や書道では用具が必須です。2040年には小学生の児童数よりも認知症の方が多くなるとも言われています。認知症の方の受け入れには小学校と同程度のキャパシティを確保しなければなりません。統廃合によって使われなくなった校舎がそのまま学校形式のデイサービスとして活用でき、小学校の立地が地域に根差し、徒歩圏内にあることも利用者の利便性を高めます。施設というハードとともに教材用具というソフトが付随します。少子化で低迷している教育産業が息を吹き返すことになるでしょう。人材の供給もそこからなされますから人材不足の心配は全くありません。
 2025年問題は危機ではなく好機、団塊の世代の皆さんが築いた日本の再復活になるのではないでしょうか。

2022.01.29 認知症の方の尊厳を守る
Protecting the dignity of people with dementia

 認知症の方の尊厳を守るには、認知症に対する先入観を捨て去り、全く新しい視点に立たなければなりません。この視点から認知症の世界を見渡せば、夢と希望に満ちた新天地が開けます。
 大風呂敷を広げるな、とお𠮟りを受けそうですが、認知症の特性を冷静に観察し、これまで見落としていた目からウロコの特性に気づくことができれば、大風呂敷でないことがご理解いただけます。
 認知症は脳細胞のごくわずかな萎縮(2%以上)によって発症する障害です。その障害は短期記憶障害に顕著に現れ、「たった今のことも忘れている」が症状の決まり文句になっています。ここで発想の転換です。「脳細胞のごくわずかな萎縮(2%以上)」に目を奪われ、「萎縮していない健全な脳細胞(90%以上)」を完全に見落としています。この健全な脳細胞に着目するならば、「どこに障害があるの」と疑問に思うくらい認知症の方と健常者の判別ができなくなります。
 認知症は短期記憶に障害はあるものの、逆に長期記憶は健全です。短期記憶障害によって発症する諸症状に目をつむり、健全な長期記憶によりもたらされる人格、その人格は健常者と全く同じであり、その人格を認めることこそが人間としての尊厳を守ることになります。
 ただし短期記憶障害により日常生活に支障が出ます。一人暮らしが難しく、家族の見守りがどうしても必要になります。しかし家族の保護を必要とするのは認知症の方に限りません。幼稚園児や小学校低学年の児童も目が離せませんが、幼稚園や学校が保護者の負担を軽減することもこのコロナ禍で再認識されました。認知症の方も児童・生徒同様にご自宅での生活を基本としながら昼間はデイサービスを利用し、家族の負担を軽減しなければなりません。介護施設等への入居は、児童生徒が入寮するようなもので、家計に重くのしかかります。施設への入居は年金をすべて吐き出すことを求められ、孫子に何も残せず、不本意な老後になってしまいます。
 さてデイサービスを利用するようになっても認知症の方の尊厳を守るためには健常な高齢者同様に、経験によって育まれた知識と教養、知恵が豊かに備わった尊敬すべき人格者として接しなければなりません。これを無視すると自尊心が傷つけられ侮辱されたと思い、怒り出すことはもちろん、場合によっては手を挙げ、暴力沙汰になることもあり得ます。認知症の方の場合、「問題行動」として本人の責任にされてしまい、自尊心を傷つけ侮辱していることに考えが及びません。同じ暴力沙汰でも健常者であれば侮辱した側も責任を問われ、情状が酌量されます。そうなるとデイサービスでは、子ども扱いができない、行動の自由も束縛できません。認知症であっても高齢者は、世間の荒波にもまれ、たくましく乗り越えてきた猛者ですから、全員が全員、例外なく紳士淑女でいらっしゃいます。話は通じるし相互にコミュニケーションも取れ、理解力や判断力も健常者と何ら変わりません。
 このような皆さんですから、逆に自尊心をくすぐり、昨日よりも今日、今日よりも明日をよりよく生きたいという向上心に働きかけることができます。学校形式のデイサービスでは、この向上心を満足させるために向学心を利用します。向学心を満たすのも容易ではありません。私自身『源氏物語』を原文で講義していますし、英文学や社会学は現役の大学教授が担当しています。音楽の授業は毎日ありますが、講師は日替わりで毎回違い、当然ピアノが弾ける専門家です。こうして一日、時間割に沿って規則正しい生活を送ると適度な脳と身体の疲労により熟睡することができ、徘徊等の問題行動がぴたりと止みます。
 保護の必要な園児や児童・生徒が幼稚園や小学校に通うように、見守りが必要な認知症高齢者が通う学校形式のデイサービスは、介護保険で学べる大学です。勉学を通して向上心を満たし、自己実現を果たしているとすれば、冒頭申し上げた「夢と希望に満ちた新天地」も決して大風呂敷ではなくなります。

2022.01.13 学校形式のデイサービスに見る、認知症介護のパラダイムシフト
衆議院議員 鈴木隼人先生のブログより転載 https://www.suzukihayato.jp/blog

たった一人の男が認知症介護にパラダイムシフトを起こそうとしている。
群馬県前橋市のデイサービス施設を訪問した私は変革の兆しを強く感じた。
施設の名は『こぐれ学園』。
学校形式のデイサービスという、聞きなれない介護事業を行っている。
施設の内装はまるで学校の教室。
私が訪問した時は「美術」の授業中だった。
4人いた生徒は全員が高齢者であり、うち3人が認知症とのことだった。
皆が教師の言葉に集中し、そして生き生きと絵を描いていた。
和やかに会話をしながら、時折笑顔に花が咲く。
これ本当に介護施設!?
しかもほとんどの人が認知症!?
キツネにつままれたような気になりながら、代表の小暮康弘さんに話を聞いた。
認知症介護のポイントは正しいスイッチを入れるかどうか

『こぐれ学園』の一日は朝礼から始まる。
その後の「時間割」は、授業の合間の15分休憩と昼休みの1時間を除き、各科目1時間ずつの授業で夕方まで埋められている。
認知症の方の集中力は30分も維持できないと言われることもあるが、小暮さん曰く「うちでは1時間で全く問題ない。皆さん集中して授業に臨んでいる」
ではなぜ、『こぐれ学園』では集中力が続くのか?
「一般的に認知症の方は短期記憶に弱い反面、長期記憶はしっかりしている。学校という、長期記憶を刺激する環境と、知的好奇心を満たせる喜びが脳を活性化させているのだろう。間違ったスイッチを押すと周辺症状が出現して大変になるが、正しいスイッチを入れればいい形で脳が働き出すということではないか」
「教える」ことを通じてセカンドライフに充実を

授業のメニューは英米文学、科学、美術、体育、音楽など多様。
簡単な内容だとかえって満足度が下がるので、一定の教養を持ち合わせている事を前提として大人向けの授業をやっている。
教師の多くは元高校教師や元大学教授など既にリタイアした方々で、中には教師自身が認知症、という方もいる。
介護職員を募集してもほとんど反応なかったが、教師を募集したら応募者が殺到した。
「シニアの方々の、もっと役に立ちたい、社会とつながっていたい、というニーズに合致したのだと思う。学校で教えることが生きがいになり、無為に暮らしていた多くのシニアに活力をもたらすことになるのではないか」
介護分野の人手不足を解消する

小暮さんは学校形式のデイサービスを運営しながら、「世間は認知症の人の能力を過小評価しているのではないか」と感じている。
『こぐれ学園』での振る舞いを見る限り、認知症の方であっても皆さん「ごく普通の教養ある高齢者」の姿だからだ。
実際、授業中はみな集中して勉強しているし、休憩時間も自分のことは自分でできるようになるため、介助が必要な場面はまず出てこない。
このため、介護職員は介助以外の仕事を進めることができる。
一般的に認知症介護には人手がかかると言われるが、「このやり方なら、介護分野の人手不足を解消することができるのではないか」と小暮さんは確信している。
劇的な改善を見せる利用者の皆さん

『こぐれ学園』で1日を規則正しく過ごすことによって、頭と体に適度な疲労を与えることになる。
このため、自宅に帰るとぐっすり眠り、徘徊などは起きなくなる。
また、意思疎通の力が戻ってきて、家族との間に会話が生まれる。
その中から家事の分担が始まり、家でボーっとせずにメリハリのついた生活を送ることができるようになる。
利用者の変化は顕著だ。
小暮さんには忘れられない出来事がある。
ある男性利用者を自宅に送り届けた時のこと。
玄関で出迎えた奥さんに対して、その方が笑顔で「ただいま」と声をかけた。
一見、何気ない日常のひとコマだ。
しかしその時ふいに、奥さんの頬を大粒の涙が流れた。
ここ数年、旦那さんの笑顔を見たこともなかったし、旦那さんから声をかけられることもなかった。
その方は、『こぐれ学園』に通う中で、それまでできなかった歯磨きや手洗い、そしてトイレも自分でできるようになった。
また、他人との意思疎通が全くなかった状況から、人に話しかけて積極的にコミュニケーションをとるようにまでなった。
認知症介護を変える戦いはこれから

従来型介護との違いは明らかだ。
数十年後、私たちの子供たちか、あるいはそのまた子供たちは、「昔、全く相手にもされなかった一人の男が、小さなデイサービスから認知症介護の在り方を変えていった」と語り継ぐことだろう。
そして、今を生きる私たちには想像もできないほどに認知症介護の質が抜本的に向上し、介護分野の人手不足が解消し、シニアのセカンドライフが充実という名の光に照らされていることだろう。
いま小暮さんが、そして私たちが人生を賭して戦うのは、そのような将来を自らの手で実現することに希望を見出しているからに他ならない。

2022.01.11 認知症は果たして病気か
Is dementia really a disease?

 結論から言えば、高齢化に伴う脳細胞の萎縮、ということになります。筋肉や歯、視力の衰えと同様に老化ですから、ある意味病気よりもより深刻で、回復は絶望的です。歳を重ね、高齢になるに従い、足腰の筋肉が衰え、起き上がることもままならなくなりますが、このような老化が脳細胞に及ぶと脳の萎縮による認知症が始まり、最後は自分が生きているのかどうかも分からなくなることもあります。これもある意味、死の恐怖から解放されるということになれば、どなたかがおっしゃっていましたが長生きをした方への神様のご褒美と言えるかもしれません。
 認知症の深刻さは、回復が望めないことに加え、10年あるいは20年以上にわたり症状が少しずつ悪化するという、闘病期間の長さにあります。この長さが家計の負担に重くのしかかり、医療、社会福祉費の破たんを招きかねないほど国民生活にも重くのしかかります。暗い未来しか描けませんが、認知症が病気である場合にはまさしく不治の病で、当事者はもちろんのこと、ご家族も国家としても、こと認知症に関しては悲惨な現実が待っています。
 しかしです、認知症の原因である数パーセントの脳細胞脳の萎縮、その部分に関しては医療が対応すべきカテゴリーでしょうが、萎縮していない90%以上の健全な脳細胞のことを見落としていませんか、ということです。筋肉が衰えても視力が落ちても入れ歯になっても高齢者は、無理をせずに筋肉量に応じた行動をし、視力は眼鏡で補い、歯が一本もなくても入れ歯で生活できます。筋肉や視力の衰えは病気でしょうか。歯が抜けるのも病気でしょうか。高齢者の場合、老化です。老化ですから逆に進行は止められません。認知症も同様です。大部分の健全な脳細胞を活用して多少不自由はあるものの、それは筋肉や視力の衰えによる不自由さと同じですから、日常生活は十二分に行うことができます。
 脳の萎縮が老化であるとすれば、医学的に進行を防止することはあまり建設的とは言えません。それよりも健全な脳細胞を生かす工夫、あるいは研究に投資すべきでしょう。現在、認知症の方は、400万人とも500万人とも言われています。目前の2025年には、団塊の世代が全員後期高齢者となり、認知症の方も急増することが予想され、その数は、700万人とも800万人とも言われています。さらに団塊ジュニア世代が後期高齢者になる2040年には一千万人を超え、小学生よりも多くなるという予測です。今でも幼稚園バスやスクールバスを見かける代わりに施設の送迎車両行き交っています。
 多少筋肉や視力が落ちても歯が抜けてしまっても施設への入所や、まして入院するようなことはありませ。認知症も多少脳細胞が委縮したとしても施設への入所は必要なく、入院は論外です。認知症の方の多くが高齢ですから持病の一つ二つはありますが、身体的に健全な方です。介護の三大要素である食事と排せつ、入浴に支障がなく、自分でできます。しかし介護の世界では、身体的に健全な方の認知症が問題になっています。介助の必要がないのはありがたいが、コミュニケーションが取れない、話が通じず言うことを聴いてもらえない、仕舞には勝手な行動をし、統制が取れない等々であり、貴重な介護要員を必要以上に充てなければならず、施設経営に過大な負担を強います。脳の萎縮に起因するできないことばかりを見ているからであり、実際はできることの方が多く、実は何でもできます。身体的に健全な認知症の方くらい介護が楽な介護保険認定者はいません。
 どうしても介護を必要とする方は、介護の三大要素である食事と排せつ、入浴に支障がある方、すなわち身体的に障害のある方であり、貴重な介護人材は介助にこそ割かなければならず、そうしなければ介助負担は軽減されず、いつまでも人材不足のままです。かといって認知症の方を放置できるかと言えば、決してそうではありません。
 家庭内では見守りのできる家族がいなければなりませんし、健全な脳細胞を会話等で刺激して認知症の進行を遅らせることも考えなければならず、家庭内で全てをケアすることは困難です。そこで週に1~2回、デイサービスに通い、仲間とおしゃべりして脳に刺激を与え、規則正しく一日を過ごすことが家族の負担を減らし、認知症の進行を遅らせることになります。認知症の方には必要最小限の介護で十分です。逆に過剰な介護が脳への刺激を阻害し自立を損ない、認知症の進行を早めてしまいます。
 認知症が老化現象で、必要かつ十分な最小限の介護が逆に理想ということになれば、3年後に予想される認知症の方のパンデミックにも最小限の家計と介護、医療負担で乗り切れると確信しています。

2020.03.01 認知症は怖くない
I'm not afraid of dementia.

 同居の実母87歳が認知症を発症しました。
 認知症医療の第一人者である長谷川和夫先生が自らの認知症を公表し、大きな話題となりましたが、その先生が日本に初めて紹介したのが「パーソン・センタード・ケア」です。
 認知症の方の個性を尊重する介護という意味ですが、個性の尊重とはその方の意思とやりたいことを認め、可能な限り束縛しないことです。
 認知症になるとできないことに目が行ってしまいがちですが、実際はできないことは極わずかで、特に長年やり慣れたことは問題なくできます。できないことだけに最小限の支援の手を差し伸べることが認知症の方の介護負担を軽減させるコツです。そしてここが重要ですが、やりたいことができると認知症の進行を抑制することができます。
 母は農作業を生きがいにしており、それを継続することによって認知症の進行が抑えられ、これまで通り平穏な日常生活を送ることができます。
 認知症は高齢化に伴う脳の萎縮が原因です。萎縮により短期記憶に障害が出ますが、長期記憶は健全に機能しています。この仕組みが理解できれば認知症の恐怖が消えます。
 短期記憶はついさっきのことで、それを忘れてしまうのが認知症です。長期記憶は昔のこと。これまでやり慣れていたことで、認知症でも脳にしっかり刻まれています。ついさっきのことを忘れたからといって目くじらを立てず、また同じ話を何度繰り返してもさらっと受け流していれば認知症の方の不安が解消し、それ以上の進行を遅らせることができます。
 新型肺炎が猛威を振るい、その対策は「正しく知り」「正しく怖れる」ことですが、「正しく知れば」怖れる必要の全くないのが認知症です。

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