あのとき
届けたかった手紙

手紙コンテスト
第1回は

今はもう居ない大事な方へ
伝えきれなかった想いを
綴っていただきました

沢山の素敵なお手紙を本当にありがとうございました

6月にお世話させていただいた
あるお家のご葬儀の
ご家族が書いておられたお手紙が

手紙コンテストを行うきっかけとなりました。

 

あたたかい言葉で送られるご家族の絆と想いが

言霊となって故人様を包んでいるようで

それはまるで宝物のように輝いて見えたのです。

心からの言葉を手紙として形にすると

口に出すのは照れ臭いけど

ずっと持っている相手への想いが溢れるものなんだと感じました。


大事な方にお声がけが出来なかった方も大勢いらっしゃると思います

伝えきれなかった心に残る想いがきっと沢山あるはず・・・

 

コンテストといっても優劣をつけるのが目的ではありません。

伝えられなかったままの想いを

ただ、どこかで語っていただける場所をつくりたかったのです。


第1回手紙コンテスト
受賞者


小松崎まりあ 様

小野田 潤 様
(到着順)
 山田 佳苗   様
 れあ      様
 あやか     様
 越ケ浜のY.F.  様
※当初入選数は二枠でしたが
素敵な手紙が多く

もう二枠増やしました
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受賞作品

金賞 小松崎 まりあ 様

母さんへ。

母さんが亡くなったのは私が六歳の時だったね。
母さんの入院中は本当に寂しかった。
運動会、授業参観、親子レク。その場に母さんが来ることはなかった。

担任の先生が握ってくれたおむすび。
父さんが買ってきたコンビニ弁当。
それらを頬張ってもどこかお腹は空いていた。
美味しい弁当なんかなくても母さんがいたらきっと心は満たされた。

二年間の闘病生活。母さんは次第に筋肉が動かなくなって、ベッドから起き上がれなくなった。
手も足も動かなくなって最後は呂律も回らなくなった。
そんな姿を見ながら私たちは何もできなかった。
母さんを苦しめたALSが今も憎くて仕方ない。
それでも母さんはいつも私のことを心配していた。学校のこと。勉強のこと。友達のこと。
「大丈夫だよ。心配しないで」
と言いたかったけれど言った瞬間に母さんがいなくなってしまいそうでやめた。

思い出すのは最後のしりとり。
私が「こま」と言ったら母さんはうっすら涙を浮かべてこう言った。
「ま、り、あ」
その表情を見て私は何も言えなかった。
何も言えず、何もできずに、母さんを看取った。

あの時の悔しさや切なさは今も胸の中にある。
母さんは最期まで私の名前を呼んでくれた。
身体中が動かなくなっても心までは動かなくならなかった。

母さんの死後、どれだけ泣いたかわからない。
手の届かない所に行ってしまった母さんに手を合わす日々は今も続く。
母さんを思い出さない日はないし、遺影を見て泣かない日もない。

だけど母さんは残してくれた。
この尊い命と、素晴らしい名前と、深い愛情を。
だから思う。切なさや感謝と共に強く。あの最後のしりとりの続きは
「ありがとう」しかないって。

銀賞 小野田 潤   様

母さんへ

てんかんを持って生まれた僕に何度も謝った母さん。

忘れもしない、あれは六年生の修学旅行。
僕が観光中に発作で倒れると、母さんは沖縄まで駆けつけてくれました。
嬉しかった。
本当に。
言葉が出ないほど。
だけどあなたは言いました。

「こんな身体に生んでごめんね」

その涙を不思議な気持ちで見つめました。
僕は生まれて来なければ良かったのでしょうか。
てんかんのせいで僕は今も運転はできません。

去年も勤務中に発作を起こし、三度も救急車で搬送されました。
どれだけ会社の人に頭を下げたかわかりません。
「すみません」や「申し訳ありません」を言うたび悔しくて情けない気持ちになります。
周囲の目。周囲の反応。
今も気になって仕方がありません。

だけどあるとき上司が言ったんです。
「ごめんなんて言うなよ。ありがとう、でいいだろ」って。
その言葉が耳ではなく心に響きました。

僕に向けられていたのは、冷たい視線ではなく、温かい支援でした。
そのときはじめて生きているのも悪くないなあと思ったんです。

母さん、今も発作のたびに空から侘びているのでしょうか。
涙を流し自分を責めているのでしょうか。
こんな身体に生んで申し訳なかったと。

でも僕は今、幸せです。
母さんが思っている以上に幸せ。
だから僕の誕生日。
お願いだから天国から謝るのはやめてください。
むしろ僕から言わせて下さい。
僕を生んでくれてありがとう、と。

入選 山田 佳苗   様

おじいちゃんへ


体調が悪いとは聞いていたけど、あんなことになるなら無理にでも会っておけばよかった。
まだまだ長生きしてくれると思ってたから油断してたよ。
おじいちゃん、いつも会いたかったんだよ。
本当に、本当に、会いたかったんだよ。

ある時からぱたりと連絡が途絶えて、家にもあげてくれないし、電話にも出てくれなくなったね。
私はおじいちゃんに嫌われてるのかと思って悩んでました。
ちゃんとした社会人になれなかったから失望してるのかなって。
病気のせいだなんて知らなかった。
体の具合が悪いと聞いたのは随分後のことで、1人で全部抱え込むおじいちゃんがどんなものと闘ってるのかも私は知らないままでした。

伝えたいことがたくさんあったんだ。転職を考えてること、よく頑張ってるって褒めてくれるのがいつも嬉しかったこと。またママのお墓参りをまた一緒にしようって言いたかった。

おじいちゃん、間に合わなかった孫のこと、許してくれますか?
せめて今は痛いところがないといいな。
ママもおじいちゃんも天国に行くのが早すぎるよ。
私がそっちへ行くのは60年後くらいかな、それまで待っててくれますか?

頑張って生きます、二人が見ててくれると思うから。
胸張ってこんな風に生きたよ!
って言えるように、毎日生きるね。またね。

入選   れあ   様

おばさんへ

たまにおばさんちに行くと、いまだに、おばさんがいないのがなんだか不思議な感じがします。

「こんにちは」って言うと、おばさんが家の奥から出てきてくれるのが、まだ当たり前みたいです。

きっと私はこれからもこんな小さな違和感を重ねて、まわりの人を見送っていくのだろうなと思います。

もしかしたら自分の番が先にくるかもしれないけど、年の順でいったら、あとのほうだからね。

 

おばさん、覚えてますか?

昔、私がまだ幼い子供だったころは、よくおばさんちに遊びに行きましたね。

おばさんちは自然豊かなところにあって、虫や動物を捕まえるのが楽しかったのを思い出します。

あるとき私が木を触って、手に棘が刺さったことがありました。

結構深く刺さって私が痛みに驚いて家に駆けこむと、おばさんはおもむろに五円玉を取り出しましたよね。

そして私の手に五円玉を押し当てて、棘を抜いてくれました。

あの日のおばさんの手にある五円玉を、私はたまに思い返すのです。

ただの五円玉がおばさんの手にかかれば治療道具になるのかって、とても感動したのですよ。

おばさんはそんな生活の知恵に明るい人でした。

今では、もっといろいろなことを教わっておけばよかったなと後悔しています。

 

おばさんが亡くなってずいぶん経ちました。

私も、おばさんの子供たちも、もうとうに大人になってしまいました。

懐かしい環境が失われること、時間が流れてしまうことは、寂しいことです。

でもそれは希望でもあります。

新しい子供たちがやってくる希望です。

おばさんが可愛がっていたあの子は、もう二児のお母さんです。

変化は寂しさだけでなく、そんな希望も運んでくるんだなと感じています。

 

私はあのときのおばさんみたいに、子供たちにとっていいおばさんでいられるでしょうか。

少し不安に思います。

だけどおばさんがそうしてくれたように大切に愛情をもって接してあげて、子供たちにとってのいいおばさんになれたらと思うのです。

私の奮闘をそちらで見ていてください。

そしていつか、また会いましょう。

それじゃあ、また。

 

れあより


入選   あやか   様

みーちゃんへ

みーちゃん、あなたが火事で亡くなってから二十年以上が経つね。

あの頃私たちは小学校の入学を翌年に控えて、おしゃまな年頃だったよね。
前の年から一緒に習い始めたピアノ教室では、初めての発表会が年明けに予定されていて楽しみだったよね。

待ちきれなくて公園で発表会ごっこしたのを覚えてる? 
ベンチをピアノに見立ててさ、曲を口ずさみながら、交代で演奏するふりをしあったよね。
みーちゃんがいなくなってから世の中は色々な変化があって、たとえば少し前にはエアギターなんていうものが流行ったんだよ。
楽器もないのにギターを弾くふりをするの。
幼児の私たちが遊んだ公園のエアピアノは時代を先取りしていたのかもね。

二人で通った週一回のお稽古の日のことはなぜかあんまり思い出せないの。
あの後も私は高校卒業までピアノを習い続けたからかな。

あの冬の日に火事があったってこと、私はしばらく知りませんでした。
母が新聞記者の人に取材を申し込まれたりもしたんだよ(断ったけど)。

洋裁の得意な母は発表会に向けて、みーちゃんと私に色違いのドレスを作っていたんだよ。
私は大好きだったピンク色。
水色の小さなドレスは、みーちゃんのお父さんにお願いして棺に入れてもらったって後から聞いた。
みーちゃんがお母さんと二人で逝ってしまってから、お父さんは別の街へ移ったらしいけど、今もきっとみーちゃんのことを大事に思っているはず。

私はね、みーちゃんの分も、と思ってピアニストになろうと夢見たこともあったけど、今ではごく平凡な大人になりました。
だけど今でもピアノはよく弾いているよ。
難しい曲も演奏できるようになったけど、ピンクと水色のドレスに胸をときめかせたあの頃の私の先に、今の私がいるんだよ。

そう思うと、ピアノの音の中にみーちゃんの声が混ざっているような気持になるの。
この音色を、人生初めての親友、みーちゃんに捧げます。

入選 越ケ浜のY.F.   様

素直になれなかった自分
母が亡くなって18年、そして6年前に父が亡くなった。

母が亡くなってから父が亡くなるまでの12年間は
自分と自分の子供の面倒を見てくれた父。

自分が離婚してたばっかりに父に全部負担を掛けていた。

毎日毎日、子供の事でケンカをしていたが「ごめんネ、ありがとう」が言えない自分がいた。
自分のせいで父に迷惑を掛け、ガンで入院しても面倒を見る事が出きず
父に寂しい思いをさせてしまった。

自分が早く仕事に行き、その後は子供の学校、そして夕食、全部、父まかせだった。

自分がしっかりとしないといけなかったのに
亡くなる前、病院から連絡が有り
すぐに来てくださいと連絡があった。

父を見ると母が迎えにきてるかの様に
腕を上にあげて何かを合図している様な仕草をしていた。
でも最後を見とれずに亡くなった。

最後の最後まで親父に

「ごめんネ、ありがとう」

が言えなかった。

手紙コンテストについて

2020年9月10日 第1回手紙コンテスト『あのとき届けたかった手紙』コンテスト締め切り
2020年9月29日 第1回手紙コンテスト受賞者発表
2020年11月 第2回手紙コンテスト開催予定
2021年1月 第3回手紙コンテスト開催予定
2021年3月 第4回手紙コンテスト開催予定
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