青森市 文化芸術創造活動緊急対策事業「AOMORI ARTS FES」

青森市 文豪始発の街 ―太宰治 寺山修司のいる風景―

地域文化研究 久慈きみ代

ニュース
動画近日UP予定


はじめに
今年2020年は、太宰治生誕111年。毎年6月19日、芦野公園で行われる生誕祭は、新型コロナウイルス流行の影響をうけ中止。生誕祭(元・桜桃忌)は、年々拡大され、全国のゆかりの地でにぎやかに催されている。しかし、太宰文学の始発の地である青森市は最近静かである。太宰自身が『津軽』「序編」に、青森県立青森中学校(旧制青森中学校)時代を「その四箇年は、私の生涯において、たいへん重要な時期であったようである。」と書いている。青森市は、太宰文学にとりこの四年間はもちろん、その生涯において重要な意味を持つ街であった。この静かさは寂しくないだろうか。 
 
 
 
この山脈(奥羽山脈の支脈の梵珠山脈)は、全国有数の扁柏の産地である。その古い伝統を誇ってよい津軽の産物は、扁柏である。林檎なんかじゃないんだ。林檎なんてのは、明治初年にアメリカ人から種をもらって試植し、それから明治二十年代に到ってフランスの宣教師からフランス流の剪定法を教わって、俄然、成績を挙げ、それから地方の人たちもこの林檎栽培にむきになりはじめて、青森名産として全国に知られたのは、大正にはいってからのことで、まさか、東京の雷おこし、桑名の焼きはまぐりほど軽薄な「産物」でもないが、紀州の蜜柑などに較べると、はるかに歴史は浅いのである。関東、関西の人たちは、津軽と言えばすぐに林檎を思い出し、そうしてこの扁柏林に就いては、あまり知らないように見受けられる。「本編二蟹田」『津軽』
 
 
 
「津軽」は、林檎が有名であるが、扁柏を忘れてもらっては困るという勇気ある強がりの発言だが、これに倣っていえば、「太宰治」といえば、関東、関西の人たちは、金木、弘前を思い出す。が、青森市を忘れてもらっては困る。県庁所在地にして要港として栄えていた風土が太宰文学を育む一翼を担った、と青森市の人は誇ってよい。昭和24年6月、第一回桜桃忌(現在の生誕祭)は、青森市寺町(現・新町)にある蓮華寺で、太宰治の才を理解し、愛してやまない市民によりとり行われた。
 
寺山修司についても太宰治と同様に青森市は静かである。寺山の青森市の足跡や資料は、故郷ならではのものである。これらを大切に収集保存し、次世代に伝え、寺山修司の偉業を顕彰する市民の流れがほしい。
例えば、現在、青森市松原町に寺山修司が中高時代に生活した家が残っている。築70年以上経ち傷みがひどい。冬になると雪の重みで今にも崩れそうである。若い寺山修司が希望と不安の中で、日々俳句や短歌に向き合い、表現者になる夢を育んだ空間である。
寺山の家のすぐ東を、堤川がゆったりと流れている。「隅田川に似た川である」と太宰治も登下校時に心を寄せた特別な川だ。春になると高校のボート部が練習を開始する。遠景には、八甲田山が四季折々、凛とした姿を見せる。現在、家の所有者は不明で、空き家になっている。なんとか知恵を出し合い保存できないものだろうか。
 
 
 
 
§太宰治、寺山修司の文芸活動の始動  
1.太宰治が中高時代に発行した同人誌。
旧制青森中学3年時、芥川龍之介に憧れ太宰治は、堤川に架かる旭橋の欄干をゆすりながら「作家になろう、作家になろう」と決意。作品創作や同人誌の発行やを開始する。その様子は『思ひ出』に詳しい。
 
(1)太宰治 旧制青森中学時代
1909(明治42)年6月19日誕生
1925(大正14)年
3月 県立青森中学校『交友会誌』第34号 
最初の創作「最後の太閣」発表。
   10月 回覧同人雑誌『星座』創刊。戯曲、詩、コント、随想など寄稿。
      県立青森中学校『交友会誌』第35号「角力」発表。
   11月 同人雑誌『蜃気楼』創刊。編集兼発行人。
            (昭和2年2月15日1月号まで)
 
1926(大正15・昭和元年)年
   9月 同人雑誌『青んぼ』兄圭司の提案で始めた津島家兄弟の雑誌。
1927(昭和2)年 
2月 同人雑誌『蜃気楼』最終号。編集兼発行人。全部で12冊発行。
4月 旧制青森中学校卒業、官立弘前高校文科甲類に入学。
   7月 芥川龍之介の自殺のニュースに衝撃をうける。
 
1928(昭和3)年 官立弘前高等学校時代は、二学年時から本格的な創作活動に入る。
   5月 『細胞文芸』創刊。9月第4号にて廃刊。
      「無間奈落」「股をくゞる」「彼等と其のいとしき母」などを発表。
      
  1933(昭和8)年 同人誌『海豹』に太宰治で参加。「魚服記」、「思ひ出」発表。
  1948(昭和23)年 玉川上水に山崎富栄と入水。6月19日遺体発見。
 
 
 
  *考証(1)「太宰治は、芥川龍之介の講演、聞いたか聞かなかったか。」
終戦直前の1945年(昭和20)7月28日夜~29日未明の青森大空襲で、青森市は壊滅的な被害を受けた。大正14年に建てられ青森市公会堂は、消失を免れ現在「青森市福祉増進センター(しあわせプラザ)」として使用されている。
この公会堂で昭和2年5月21日、「漱石先生の思い出」という演題で芥川龍之介の講演が急遽行われた。「当時、弘前高校一年の太宰治も講演を聞いた」説が太宰治研究の第一人者である相馬正一氏(故人)から出され「聞いた、聞かなかった」論争が持ちあがった。
伊藤榮一氏(青森ペンクラブ会員)が、青森市の喫茶店第一号「ランデシ(すずらん)」を開いた父親のことを調査する過程で、太宰は講演を「聞いていなかったのではないか」と考え、講演当日「ランデシ」出入りした講演関係者の聞き取り調査や地元新聞紙上の関係記事から、「聞いていなかった」説に至った。しかし、両者とも自説をゆずらず長く保留になっていた。その後、伊藤氏の綿密な調査に、相馬氏が自説を撤回し、太宰は「聞いていなかった、芥川龍之介に会っていなかった」と結論付けられた。
「青森市福祉増進センター(しあわせプラザ)」の説明版には「当時、官立弘高生であった太宰治が私淑していた芥川龍之介などの講演を聞くために弘前から駆けつけたという」(・は筆者付す)とある。太宰治が心酔していた芥川龍之介の講演は、芥川龍之介の自殺の二か月前に行われた。太宰の衝撃は強く弘前高校(現・弘前大学)時代「地鉱」(自然科学・地理)学習ノートに書きつらねた「芥川龍之介」の落書きからもそのことがよくわかる。後の「芥川賞ほしい」と川端康成に訴える事件に影響しているのだろうか。尊敬し芥川龍之介を目指した太宰には何とも不運な二度の体験である。川端の弟子である三島由紀夫は太宰嫌いで知られているが、まさかこれが三島の心証を悪くしたわけでもないだろうが…。
伊藤氏の研究の労に報いるためにも、「青森市福祉増進センター(しあわせプラザ)」の解説もそろそろ書き換えてもよいのではないだろうか。
 
 
2.寺山修司 中学高校時代の作品掲載や発行した同人誌等。
  寺山修司の中高時代の文芸活動は、以下に示すように凄まじい。作品を創作し、編集、雑誌製本の労を惜しまず発行。完成すれば、合評会を開く。
なぜこれほど、熱中するのか。寺山の少年時代は、戦中、戦後の動乱の時代であった。父は、寺山が五歳の時出征し、昭和二十年九月、九歳の時、戦病死している。父方の実家がある三沢市に母子で身をよせるが、母は三沢基地のベースキャンプで働き、その後中学生の寺山を一人残し、福岡県芦屋のベースキャンプに勤めにでる。複雑で孤独な境遇の寺山が背負った心の傷は、仲間を集め文芸活動にのめり込むことで癒されたのであろう。この過激な文芸活動で培った力が後の「前衛芸術家寺山修司」を誕生させる糧になった。実は、寺山修司の中学校時代の履歴は*考証(2)で述べるが不明な点が多い。
 
太宰治が山崎冨栄と衝撃的な心中により命を絶つのは、昭和23年6月である。寺山修司、中学1年の夏である。当時、寺山は三沢市にいたのか、それとも青森市にもどっていたのか、寺山自身が太宰のこのニュースを知っていたのか、わからない。しかし、二人の不思議な縁を感じる。寺山修司の文芸活動は、太宰没年の昭和23年夏から始まるのである。
 
(1)文芸活動開始 「古間木中学校・現三沢市立第一中学校」。
1935(昭和10)年12月10日誕生、戸籍上は1936(昭和11)年1月10日
 ・「週刊古中№2(昭和23年9月25日)、№3(昭和23年10月9日)」発行。作品創作、編集、ガリ切り、印刷、発行、広報のすべてをたった一人でする。
 
(2)青森市立野脇中学時代 (中学2年次春転校説を採る。)
1949(昭和24)年~1951(昭和26)年3月
・手書き回覧文芸誌「二故郷」(発行年月日不明)
・2年9組学級雑誌「黎明」(昭和25年4月10日発行)
・3年6組学級雑誌「はまべ」(昭和26年3月19日発行)
・文芸部作品集「若潮」(昭和25年春か、調査中?)
・文芸雑誌「白鳥」(昭和25年8月20日 野脇中学校文芸部発行)
  *上記の文芸雑誌の主要な編集メンバーとして活躍。と同時に主要な作品創作者であった。カットも担当。
・学級新聞2年9組  (昭和24年9月20日発行)
 ・学級新聞3年6組  (昭和25年7月5日発行)
   *ここまでの雑誌は、ガリ版刷りの手作業で作製。
・野脇中学校新聞 2号、3号、4号、5号、6号に作品掲載。
  *学校の編集による印刷版
・『咲耶姫』殉情歌集 (昭和26年5月26日発行)(自筆ペン書き手作り歌集、中学時代の習作短歌をまとめる。)
☆その他新聞の読者文芸投稿欄にも作品が掲載される。
 
(3)青森県立青森高校時代 この3年間は、俳句、俳句の3年間であった。
➀「青高新聞」(青森県立青森高校発行・昭和26年7月~昭和30年10月まで。)
「青高新聞」の文芸欄は、ほぼ寺山修司に任せられていた。
俳句、短歌、詩、小説、評論(文芸、映画)なんでもたちどころにこなした。
第17号、第18号、第19号)、(第20号、第21号、ともに紛失か欠番)
第22号、第23号(紛失か欠番)
第24号、第25号、第26号
第27号、第28号、第29号 第36号(卒業後。)
 
➁『青森県立青森高校生徒会誌』(昭和27年度版、昭和28年度版)
  ・俳句、詩、小説、文芸評論が掲載される。
➂発行雑誌
  『べにがに』寺山修司自選句集-(昭和27年4月1日発行)単独発行。
『山彦』、昭和27年4月創刊~4号(7月)まで。
『青い森』(「山彦」を改称)5号10月発行、6号12月発行、
昭和28年8号・9号(合併号)3月発行、10号6月発行、11号8月発行。
『麦唱』(文化部文化祭記念号・昭和27年10月発行、昭和28年10月発行)
  『魚類の薔薇』昭和28年12月 1号、2号 
 『牧羊神』昭和29年2月から発行で10号まで。(高校卒業間際)
 
④投稿俳句雑誌、投稿俳句誌
『寂光』(昭和26年9月~昭和30年夏まで参加。)
『暖鳥』(昭和26年9月~昭和30年夏まで参加。)、昭和34年4月散文「僕の断片」
『青年俳句』昭和29年3月創刊から投句、俳句評論、座談会等で参加。
創刊号(昭和29年3月~2号、3号、4号、5号、6号。19号・20号(昭和31年12月)の合併号にて、「俳句絶縁宣言」をする。「新しき血」(百四十六句)を発表。
「チエホフ祭」で新人賞受賞を機に、歌人としての活躍期に入る。
➄投稿新聞、
   ・東奥日報新聞 中学時代(詩、俳句、短歌)
高校時代(俳句を投稿に熱中。ペンネームを使用し、別人になりすまし投稿した例もある。
・青森よみうり文芸・埼玉よみうり文芸
  ・青森毎日俳壇
  ・その他、中央や地方の俳句同人雑誌等に投句「七曜」「氷海」「万緑」「断崖」「天狼」「俳句苑」「辛夷花」「学燈」「蛍雪時代」「三つ葉」など。
 
➅ 俳句大会の企画、運営
   ・校内俳句大会(文化祭記念、高校一年昭和26年10月)
   ・県下高校性俳句大会(文化祭記念大会、高校二年生昭和27年10月)
   ・全日本学生俳句コンクール(高校三年生昭和28年10月)
   ・「やまびこ」俳句会設立。句会、「青い森」発行。
 
1983(昭和58)年5月4日、肝硬変と腹膜炎のために敗血症を併発し、東京・杉並の河北総合病院にて死去。享年47歳
 
 
 
* 考証(2) 寺山修司の転校はいつか。二つの誕生日、出生地について。
寺山が三沢市古間木中学校から青森市野脇中学校に転校した時期について。
➀中学一年の秋説、中学一年の二学期説。
・(高取英『寺山修司論―創造の魔神―』(思潮社・1992・7)。
 その他の高取英の寺山年譜も同様で以下のように記す。
 「古間木小学校を卒業し古間木中学校に入学。秋、青森の母方の大叔父夫婦宅に引取られ、扶養される。坂本氏は映画館歌舞伎座を経営、その裏に居宅があった。歌舞伎座にはときどきドサまわりの一座がきた。母が、九州芦屋のベースキャンプに勤めに出たため、母と別居。青森市野脇中学校に転校。」 
・杉山正樹『寺山修司・遊戯の人』(新潮社2000年11月/河出文庫2006年7月)
・長尾三郎『虚構地獄寺山修司』(講談社1997年8月)
  中学一年秋説の、出どころかは、高取年譜らしい。
 
②中学二年、二年の夏休み明けの頃説。
・親友の京武久美氏や古間木時代の友人。
・田澤拓也『虚人寺山修司伝』(文藝春秋1996年5月)
・小川太郎『寺山修司その知られざる青春(三一書房1997年1月)
  ・寺山修司青春歌集(角川文庫1072年)の年譜。
   「青森市歌舞伎座にひきとられ、扶養される。楽屋はスクリーンの裏にあり、ときどきドサまわりの一座と起居をともにすることあり。母、九州の炭鉱町へ移る。美空ひばりの「角兵衛獅子」愛唱する。(寺山本人作成)
・寺山修司「三沢の中学校に一年までいて、二年から野脇中です。それで青森高校」
   木瀬公二「死の前のインタビュー」/「あおもり草子」追悼特集『心象寺山修司』(企画集団ぷりずむ1983年12月)で本人が答えている。
  ・守安敏久『寺山修司論‐バロックの大世界劇場』(国書刊行会2017年2月)
   春とも夏休み明けとも指摘はない。
 
中学校二年夏休み明け説の出どころは、親友の京武久美氏や古間木中学時代の友人の記
憶である。つまり語り、聞き取り調査である。
 ところが、公式記録としては、青森市立野脇中学校2年9組の通信表に、4月19日に転入、6月19日に田中B式知能検査とある。
 
物事の事実を確かめる場合に、人は記録と記憶を頼りにする。記録は事実であり、一般的に信頼がおけるものとして扱われる。が、作成時の背景の事情により、正しく記されないこともある。また調査する側の読み解きが影響し、その解釈に幅が生ずる場合もあり、一概に正しいとも言えない。人の記憶に至っては、記憶者の思い違いも生まれやすく、調査者側の心情の影響を「記録」より、受けやすく正誤の判断は難しくなる。判断がつきかねるときは、特殊な事情がみられない限りという但し書き付きであるが、公式記録である「青森市立野脇中学校2年9組の通信表、4月19日に転入、6月19日に田中B式知能検査」が優先されることになるだろう。筆者は、この立場に立つ。
最近、相馬信吉(「寺山修司の足跡」)氏が青森市の寺山修司の足跡や転校問題を調査し、ネット上でも公開している。寺山の友人たちからの聞き取りと同時に、資料の裏付けによる客観性のある研究である。この転校問題もそう遠くない日に結果がでるであろうと期待している。
 
寺山修司には、出生年月日についても二説あり、着地点が見いだせずにいる。
昭和10年12月10日説と戸籍上の昭和11年1月10日説である。
 
・昭和10年12月10日説。
 母親寺山はつ、元妻九條今日子、寺山修司。
 【母談】父の仕事が多忙と、母はつの産後の保養のため、出性届が遅れたために、一か月遅れの1月10日誕生として出生届を提出。
 
・昭和11年1月10日説
 従兄弟寺山孝四郎、寺山親子と同じ弘前市紺屋町にある二軒長屋に住んでいた蝦川定蔵氏(警察官)の「寺山は、十一年一月に生れたはずだ」による。
 
寺山の戸籍上の誕生日は、事実であるべき記録に事情があり操作された例と言える。しかし、実際の誕生日と言われる昭和10年12月10日説も母の記憶によるもので、客観的な証拠があるわけではない。嘘とは言わないが、さりとて、そうですかと認めがたい思いもあり、結局保留になっている。私も寺山孝四郎さんから直接蝦川定蔵氏の話を聞く機会があったので、昭和11年1月10日説に与する立場である。これが、客観性のない調査者の心情の影響をうけた読み解き例であろう。「記録」や「記憶」をたよりに行う調査における難しさである。
 
なぜ、誕生日二説を問題にするか。
 「作りかえのきかない過去なんかない」、「自叙伝なんかはいくらでも書き直し(消し直し)ができる。」という寺山の言葉が頭をよぎるからである。彼が意図的に二つの誕生日を操作しながら使った。つまり寺山流の手法で誕生日を作り変えたのではないだろうか。とすれば、そうする彼の心情や意図(目的)は、寺山修司論の要になる、考察されなければならない問題である。例えば、朝日新聞全国版で「新人国記」という連載をするために、アンケートをした際の回答用紙には、
   ・「氏名 寺山修司 昭和10年12月10日」
   ・「出生地 青森県五所川原市」と書かれていたという。(木瀬公二朝日新聞青森支局記者 昭和58年3月17日インタビュー記事より)。
 生前、寺山は書籍等の履歴は、出生地を青森県三沢市、大三沢市、青森県としている。
小作品や対談等では、弘前生れであると話しているが、五所川原とは、なぜまたと意外
である。前述した「寺山修司青春歌集(角川文庫1072年)の年譜」も虚構のにおいがす
る。誕生日、出生地、転校時について、ほぼ不明な点(問題点)が出そろったところで
さらなる考察が必要であろう。
*小菅麻起子「寺山修司「年譜」をめぐる問題点」『山修司研究YOL1』、『初期寺山修司研究』(翰林書房2013年3月30日)に詳しい。