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青森市 文化芸術創造活動緊急対策事業「AOMORI ARTS FES」
青森市 文豪始発の街 ―太宰治 寺山修司のいる風景―
地域文化研究 久慈きみ代
資料1 東奥日報新聞朝刊(2017.10.26)久慈きみ代
寺山修司が中・高時代に住んだ家が、青森市に残っているそうです。その重要性を訴えたのが、東奥日報新聞朝刊(2017.10.26)久慈きみ代氏「青森に寺山修司の家・思い出のお盆カレー」です。ぜひ記事を探して読んでみてください。
(笠間書院 ツイッター)
建築後、70年近く経っているので、かなり傷んでいます。住む人も所有者も不明で、寺山修司の魂は帰る所がありません。(青森太郎)
「記録」と「記憶」調査の難しさ
中学校二年夏休み明け説の出どころは、親友の京武久美氏や古間木中学時代の友人の記憶である。つまり語り、聞き取り調査である。
ところが、公式記録としては、青森市立野脇中学校2年9組の通信表に、4月19日に転入、6月19日に田中B式知能検査とある。
月見草を眺めている少女―『思ひ出』から『富嶽百景』へ―
§1 なぜ、『思ひ出』の地、青森市を忘れてもらっては困るのか。
幼少年期の自叙伝私小説『思ひ出』(昭和8年「海豹4、6、7月発表」)について、太宰〈私〉は、上京後の苦しい十年間を綴った『東京八景(苦難の或人に贈る)』(「文學界」昭和16年1月)で、以下のように言う。
「Hは、何事も無かったように元気になっていた。けれども私は、少しずつ、どうやら阿呆から眼ざめていた。遺書を綴った。「思ひ出」百枚である。今では、この「思ひ出」が私の処女作という事になっている。自分の幼児からの悪を、飾らずに書いて置きたいと思ったのである。二十四歳の秋のことである。(略)小さい遺書のつもりで、こんな穢い子供もいましたという幼年及び少年時代の私の告白を、書き綴ったのであるが、その遺書が、逆に猛烈に気がかりになって、私の虚無に幽かな燭燈がともった。死に切れなかった。その「思ひ出」一篇だけでは、なんとしても、不満になって来たのである。どうせ、ここまで書いたのだ。全部を書いて置きたい。きょう迄の生活の全部をぶちまけてみたい。」
実質的な処女作に該当する『思ひ出』は、非合法革命運動(青森検事局に出頭し、左翼運動との絶縁を誓約)の脱落を経て、作家として再出発しようする中で書かれた。二十四歳の太宰が「作家になろう、作家になろう」と決意した少年期の時空を書くことにより、自身の内的時間を掘り下げ、その決意に、独自の意義を見出し、彼の創作活動の糧となった作品とみえる。遺書のつもりで刊行した第一創作集『晩年』に三年後には収録。上に引用したように、昭和十六年には『東京八景』で、『思ひ出』創作の経緯や意図を解説。さらにその三年後、『津軽』「序編」(昭和19年11月小山書店刊)に『思ひ出』からかなりの量を引用。三十五歳になった太宰は、中学生時代の〈私〉を堤川の流れに擬え「私の青春も川から海へ流れ込む直前であつたのであらう。」とあらためて捉え返しながら、青森市の歴史や人口、地名などの情報を加筆し、風土記風小説の序編の体裁を整えていく。このように、作家として進んでゆく道々で、何度も立ち返り、拠り所となる作品が自叙伝私小説『思ひ出』である。『津軽』「序篇」に『思ひ出』(青森市)について直接言及した二箇所を引用してみたい。
*1『津軽』「序篇」導入部に書かれた青森市の説明に続き「けれども、私は、この青森市に四年ゐた。さうして、その四箇年は、私の生涯に於いて、たいへん重大な時期でもあつたやうである。その頃の私の生活に就いては、「思ひ出」といふ私の初期の小説にかなり克明に書かれてある。」
*2「作家になろう」と放心して、旭橋(当時弁慶橋)の上から堤川を眺めた中学三年時の経験については、「川といふものは、海に流れ込む直前の一箇所で、奇妙に躊躇して逆流するかのやうに流れが鈍くなるものである。私はその鈍い流れを眺めて放心した。きざな譬へ方をすれば、私の青春も川から海へ流れ込む直前であつたのであらう。青森に於ける四年間は、その故に、私にとつて忘れがたい期間であつたとも言へるであらう。青森に就いての思ひ出は、だいたいそんなものだが、この青森市から三里ほど東の浅虫といふ海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。やはりその「思ひ出」といふ小説の中に次のような一節がある。」と振り返り解説をする。
ここには、自分の文学の始発は、まぎれもなく、青森市であるという認識がみえる。太宰治の重要なトポスの一つとして、青森市を忘れてもらっては困る所以である。因みに『津軽』は、昭和十九年十一月、太宰35歳、書き下ろし長編として、小山書店より出版された。
§2 「赤い糸」の話―月見草を眺めている少女―
『思ひ出』と『富嶽百景』を並べて読むと、直接の言挙げはないが、『思ひ出』に描かれた「初恋」の記憶が、無意識の内に太宰の中で鳴り響き、〈私〉に結婚を即決させたとうかがえる節がみえる。そのことを少し考えてみたい。〈私〉の初恋は、『思ひ出』第二章後半から第三章で回想される。それは、弟と交わす「赤い糸」の話から始まる。『津軽』「序篇」から該当箇所を引用してみたい。
「秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の棧橋へ出て、海峽を渡つてくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い絲について話合つた。それはいつか學校の國語の教師が授業中に生徒へ語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い絲がむすばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐるのである、ふたりがどんなに離れてゐてもその絲は切れない、どんなに近づいても、たとひ往來で逢つても、その絲はこんぐらかることがない、さうして私たちはその女の子を嫁にもらふことにきまつてゐるのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ歸つてからもすぐ弟に物語つてやつたほどであつた。私たちはその夜も、波の音や、かもめの聲に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は棧橋のらんかんを二三度兩手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり惡げに言つた。大きい庭下駄をはいて、團扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、いかにも弟と似つかはしく思はれた。私のを語る番であつたが、私は眞暗い海に眼をやつたまま、赤い帶しめての、とだけ言つて口を噤んだ。海峽を渡つて來る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。
この弟は、それから二、三年後に死んだが、当時、私たちは、この桟橋に行く事を好んだ。冬、雪の降る夜も、傘をさして弟と二人でこの桟橋に行つた。深い港の海に、雪がひそひそ降つてゐるのはいいものだ。最近は青森港も船舶輻湊して、この桟橋も船で埋つて景色どころではない。それから、隅田川に似た広い川といふのは、青森市の東部を流れる堤川の事である。すぐに青森湾に注ぐ。」
☆1 上記引用文の考察
なぜか、〈私〉は、自分の語る番になり、口をつぐんだ。理由は、最近生家に来た使用人の「みよ」を好いていたからである。―「そのころから私はみよを意識しだした。赤い絲と言えば、みよのすがたが胸に浮んだ。」-この思いは、弟にも「みよ」にもなかなか告白できず、ぎこちない日々が過ぎていく。二人でぶどう狩りなどの体験後、いよいよプロポーズをという矢先、「みよ」は、家との間で不都合が生じ、突然家から去る。初恋は終わる。
弟が将来のワイフについて語る箇所を検討してみたい。
「(ア)庭あるいてる、(イ)ときまり惡げに言つた。(ウ)大きい庭下駄をはいて、團扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、(エ)いかにも弟と似つかはしく思はれた。」
ここの読みは、注意が必要であるようだ。
(ア)「庭あるいている」は、(イ)「言った」とあるから弟の発言である。それでは、(ウ)の月見草を眺めてゐる少女は」弟の発言なのか、それとも(ア)の発言を受けた〈私〉の想像した造形なのか。(エ)の「いかにも弟に似つかわしく思はれた。」という〈私〉の感想が続くために〈私〉が想像した少女とも読める。〈私〉の想像とすれば、少女は、〈私〉の胸に棲み始めた「赤い糸」の「みよ」を念頭にして生まれた像であろう。弟が将来のワイフ像を語るなかで、すでに、現在進行中である「みよ」が重ねられたことになる。はっとして言いよどむ。太宰は、読者が「月見草を眺めてゐる少女」を「弟のワイフ像」であると一義化しないために、表現に配慮を加え、どちらにも読み取れる微妙なものとする。うまいなと思う。
また『思ひ出』の最終部は、「みよ」の去った生家で、「一枚の写真」を兄弟で仲良く見る場面である。写真は、母がソファに座りその後ろに叔母とみよが、薔薇の咲き乱れる花園を背景に写したものである。
「みよは、動いたらしく顏から胸にかけての輪廓がぼつとしてゐた。叔母は兩手を帶の上に組んでまぶしさうにしてゐた。私は、似てゐると思つた。」と〈私〉が写真をみての「みよ」の感想で終わる。
「赤い糸(運命のひと)」の少女、初恋の「みよ」は、「月見草を眺める少女」と造形され、また「一枚の写真」から、母代わりの存在であった叔母に似た少女として〈私〉の胸に、深く刻まれた。真っ暗な海の揺らぎの中に浮かぶ月見草の少女、薔薇の花園を背景に、輪郭がぼっとした写真、どちらも〈私〉の幻影のようでもある。なればこそ、「月見草を眺める少女」は、一層太宰の心に残り続けたであろう。
『富嶽百景』は、昭和十三年の初秋、太宰三十歳。東京での苦しい日々から逃れ、井伏鱒二を頼り、甲州御坂峠の天下茶屋にこもり、再出発を志し、必死に自己をたてなおそうとした九月、十月、十一月十五日までの約三ケ月が語られる。『思ひ出』同様に、再生をかけた自叙伝私小説である。〈私〉が富士との〈対話〉を重ねながら周囲の人々との交流を通して、作家としての自己を取り戻していく過程が描かれる。再生の大きな力は、甲府の娘さんと見合いをして、結婚に至ったことである。
*1見合いの場面をみたい
「甲府で私は、或る娘さんと見合いをすることになっていた。井伏氏に連れられて甲府のまちはずれの、その娘さんのお家へお伺いした。(略)娘さんの家のお庭には、薔薇がたくさん植ゑられてゐた。母堂に迎へられて客間に通され、挨拶して、そのうちに娘さんも出て来て、私は、娘さんの顔を見なかつた。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、
「おや、富士。」と呟いて、私の背後の長押を見あげた。私も、からだを捻ぢ曲げて、うしろの長押を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁にいれられて、かけられてゐた。まつしろい睡蓮の花に似てゐた。私は、それを見とどけ、また、ゆつくりからだを捻ぢ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。きめた。多少の困難があつても、このひとと結婚したいものだと思つた。あの富士は、ありがたかつた。」
⁑2 続いて〈富士には月見草が似合ふ〉という有名な一節がある箇所をみたい。
「お客さん! 起きて見よ!」かん高い声で或る朝、茶店の外で、娘さんが絶叫したので、私は、しぶしぶ起きて、廊下へ出て見た。(略)富士に雪が降つたのだ。山頂が、まつしろに、光りかがやいてゐた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた。(略)私が、かねがね、こんな富士は俗でだめだ、と教へてゐたので、娘さんは、内心しよげてゐたのかも知れない。
「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」もつともらしい顔をして、私は、さう教へなほした。
私は、どてら着て山を歩きまはつて、月見草の種を両の手のひらに一ぱいとつて来て、それを茶店の背戸に播いてやつて、「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちやいけないよ。」娘さんは、うなづいた。
ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合ふと、思ひ込んだ事情があつたからである。(略)
私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥も与へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。
老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。三七七八米の富士の山と、立派に相対峠し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。」
☆2 引用文*1、⁑2からの考察
☆1で、『思ひ出』にみる初恋の「みよ」は、「月見草を眺めている」少女として、〈私〉の胸に刻まれたと読み解いた。それでは、§2の冒頭で想定した、この刻まれた記憶が結婚の即決に影響を与えたらしい、は、はたして正しいといえるだろうか。また「月見草を眺めている少女」は、『富嶽百景』にみる「月見草」と繋がりがあるだろうか、考えてみたい。
*1の引用文に、見合い相手の娘さんの「家のお庭には、薔薇がたくさん植ゑられてゐた」、とある。
〈私〉が最後にみた「みよ」の一枚の写真の背景も「薔薇の咲き乱れる花園」であった。この共通する背景は見逃せないだろう。ふと〈私〉に写真の記憶がよみがえったかもしれない。薔薇のある背景は、「赤い糸」の女性(運命の女性)と出会う場として機能したことになる。娘さんの顔も見られずいた〈私〉が、長押にかけられていた富士山頂の写真をみるついでに、娘さんを、「ちらと見た。きめた。多少の困難があつても、このひとと結婚したいものだと思つた。」と迷いなく即決できた理由は、共通の背景が有効に働き、おぼろげな幻影は、目の前の人影(女性)になったからであろう。あの富士はありがたかったと感謝している。
富士三景の一つに数えられている御坂峠からみる富士を、〈私〉は、「風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。富士なんか、あんな俗な山」と軽蔑していた。ところが、引用⁑2にみるように、雪の富士みて「ばかにできない、いいものだ」と考えを改めた。気分を良くした〈私〉は、山から月見草の種をいっぱいとってきて、茶屋の背戸に播いた。そして「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちやいけないよ。」と娘さんに言い置く。河口村の郵便局から郵便物を受け取り、峠の茶屋に帰るバスの中で〈私〉が「富士には月見草がよく似合ふ」、と思う体験がさせた種播きである。
〈私〉の隣りに、濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆が坐った。この方は、他の観光客とちがい富士には一瞥もせずにいる。その衆に染まらぬしゃんとした姿に〈私〉は共感。老婆に寄り添い一緒に、ぼんやりと崖の方を眺めていると、老婆が「おや、月見草。」と言った。
さつと、バスは過ぎてゆく一瞬、「いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。三七七八米の富士の山と、立派に相対峠し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。」
この「月見草」は、清楚で可憐な植物であると同時に、なにかの比喩でもある。
「(月見草を)ちらとひとめ見た」に対応する表現として、お見合いの席の娘さんを「ちらとみた」が浮かぶ。それ以外にも「額縁に入りかけられた「富士山頂大噴火口の鳥瞰写真」は、「まつしろい睡蓮の花」に似ていた、は、「金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草」に響きあう。どちらも宗教的雰囲気を醸し出す景物で崇高な趣を出している。このように対応する表現からみて、まず娘さんの喩としての月見草が考えられる。娘さん一人ではなさそうだ。巨大な富士に相対峙して、つり合う人物として、娘さんの母親も含まれているようにみえる。見合い後、頓挫していた結婚の説明に伺った〈私〉への母娘の応対は、「俗なものに、みじんも揺るがず立つ月見草」のようであった。〈私〉が生家から、結婚の援助を得られないことを話すと「結構でございます。」母堂は、品よく笑いながら、「私たちも、ごらんのとおりお金持ではございませぬし、ことごとしい式などは、かえって当惑するようなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さえ、お持ちならば、それで私たちは、結構でございます」という返事である。バスの中の老婆の態度に通じる。あるいは、月見草は、当時、文学に立ち向かい強く孤高でありたい、すっくと立派にゆるぎなく立ちたいと頑張っていた太宰〈私〉自身の姿かもしれない。
月見草は、俗なものにおもねることのない高尚な人々、貧しくも毅然と心美しくあるすべての人の喩として太宰〈私〉が愛した僕の花だ。「みよ」も「甲府の娘さん」も月見草であるといえる。
※青森市という枠の中で、『思ひ出』、『津軽』、その関係で『富嶽百景』について考えてみたが、後日場を変えて、これら太宰治の自叙伝私小説について論じてみたい。(2020年12月)
主な参考書籍等
『太宰治と青森のまち』(北の会編・北の街社昭和63年6月)
『新編太宰治と青森のまち』(北の会編・北の街社平成10年4月)
『山内祥史太宰治の年譜』(大修館書店2012年12月)
久慈きみ代『編集少年 寺山修司』(論創社2014年8月)
『駅をでると文豪の街―太宰治『思ひ出』の街検証(久慈きみ代研究室刊2015年10月)
『駅を出ると文豪の街Ⅱ―寺山修司の風景―(久慈きみ代研究室刊2017年3月)
制作協力TruePict、田邊克彦、写真提供 藤巻健二