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青森市 文化芸術創造活動緊急対策事業「AOMORI ARTS FES」

青森市 文豪始発の街 ―太宰治 寺山修司のいる風景―

地域文化研究 久慈きみ代

1話 太宰治のいる風景

2話 太宰治旧制青森中学校入学時の心象風景

3話 太宰治決意作家になろう、作家になろう

4話 太宰治初恋ー月見草を眺めてゐる少女ー 富士には、月見草がよく似合ふ

5話 寺山修司始動 津島修治から寺山修司へ

6話 寺山修司 文芸改革の先頭を行く北の男の決意


はじめに
今年2020年は、太宰治生誕111年。毎年6月19日、芦野公園で行われる生誕祭は、新型コロナウイルス流行の影響をうけ中止。生誕祭(元・桜桃忌)は、年々拡大され、全国のゆかりの地でにぎやかに催されている。しかし、太宰文学の始発の地である青森市は最近静かである。太宰自身が『津軽』「序編」に、青森県立青森中学校(旧制青森中学校)時代を「その四箇年は、私の生涯において、たいへん重要な時期であったようである。」と書いている。青森市は、太宰文学にとりこの四年間はもちろん、その生涯において重要な意味を持つ街であった。この静かさは寂しくないだろうか。 
 
 
 
この山脈(奥羽山脈の支脈の梵珠山脈)は、全国有数の扁柏の産地である。その古い伝統を誇ってよい津軽の産物は、扁柏である。林檎なんかじゃないんだ。林檎なんてのは、明治初年にアメリカ人から種をもらって試植し、それから明治二十年代に到ってフランスの宣教師からフランス流の剪定法を教わって、俄然、成績を挙げ、それから地方の人たちもこの林檎栽培にむきになりはじめて、青森名産として全国に知られたのは、大正にはいってからのことで、まさか、東京の雷おこし、桑名の焼きはまぐりほど軽薄な「産物」でもないが、紀州の蜜柑などに較べると、はるかに歴史は浅いのである。関東、関西の人たちは、津軽と言えばすぐに林檎を思い出し、そうしてこの扁柏林に就いては、あまり知らないように見受けられる。「本編二蟹田」『津軽』より
 
 
 
「津軽」は、林檎が有名であるが、扁柏を忘れてもらっては困るという勇気ある強がりの発言だが、これに倣っていえば、「太宰治」といえば、関東、関西の人たちは、金木、弘前を思い出す。が、青森市を忘れてもらっては困る。県庁所在地にして要港として栄えていた風土が太宰文学を育む一翼を担った、と青森市の人は誇ってよい。昭和24年6月、第一回桜桃忌(現在の生誕祭)は、青森市寺町(現・新町)にある蓮華寺で、太宰治の才を理解し、愛してやまない市民によりとり行われた。
 
寺山修司についても太宰治と同様に青森市は静かである。寺山の青森市の足跡や資料は、故郷ならではのものである。これらを大切に収集保存し、次世代に伝え、寺山修司の偉業を顕彰する市民の流れがほしい。
例えば、現在、青森市松原町に寺山修司が中高時代に生活した家が残っている。築70年以上経ち傷みがひどい。冬になると雪の重みで今にも崩れそうである。若い寺山修司が希望と不安の中で、日々俳句や短歌に向き合い、表現者になる夢を育んだ空間である。
寺山の家のすぐ東を、堤川がゆったりと流れている。「隅田川に似た川である」と太宰治も登下校時に心を寄せた特別な川だ。春になると高校のボート部が練習を開始する。遠景には、八甲田山が四季折々、凛とした姿を見せる。現在、家の所有者は不明で、空き家になっている。なんとか知恵を出し合い保存できないものだろうか。
 
 
 
 

 資料1 東奥日報新聞朝刊(2017.10.26)久慈きみ代

寺山修司が中・高時代に住んだ家が、青森市に残っているそうです。その重要性を訴えたのが、東奥日報新聞朝刊(2017.10.26)久慈きみ代氏「青森に寺山修司の家・思い出のお盆カレー」です。ぜひ記事を探して読んでみてください。

   (笠間書院 ツイッター)

建築後、70年近く経っているので、かなり傷んでいます。住む人も所有者も不明で、寺山修司の魂は帰る所がありません。(青森太郎)



 
§太宰治、寺山修司の文芸活動の始動  
1.太宰治が中高時代に発行した同人誌。
旧制青森中学3年時、芥川龍之介に憧れ太宰治は、堤川に架かる旭橋の欄干をゆすりながら「作家になろう、作家になろう」と決意。作品創作や同人誌の発行を開始する。その様子は『思ひ出』に詳しい。
 
(1)太宰治 旧制青森中学時代
1909(明治42)年6月19日誕生
1925(大正14)年
   3月 県立青森中学校『交友会誌』第34号 最初の創作「最後の太閣」発表。
   10月 回覧同人雑誌『星座』創刊。戯曲、詩、コント、随想など寄稿。
      県立青森中学校『交友会誌』第35号「角力」発表。
   11月 同人雑誌『蜃気楼』創刊。編集兼発行人。
            (昭和2年2月15日1月号まで)
 
1926(大正15・昭和元年)年
   9月 同人雑誌『青んぼ』兄圭司の提案で始めた津島家兄弟の雑誌。
1927(昭和2)年 
   2月 同人雑誌『蜃気楼』最終号。編集兼発行人。全部で12冊発行。
   4月 旧制青森中学校卒業、官立弘前高校文科甲類に入学。
   7月 芥川龍之介の自殺のニュースに衝撃をうける。
 
1928(昭和3)年 官立弘前高等学校時代は、二学年時から本格的な創作活動に入る。
   5月 『細胞文芸』創刊。9月第4号にて廃刊。
      「無間奈落」「股をくゞる」「彼等と其のいとしき母」などを発表。
      
1933(昭和8)年 同人誌『海豹』に太宰治で参加。「魚服記」、「思ひ出」発表。
1948(昭和23)年 玉川上水に山崎富栄と入水。6月19日遺体発見。
 
 
 
  *考証(1)「太宰治は、芥川龍之介の講演、聞いたか聞かなかったか。」
終戦直前の1945年(昭和20)7月28日夜~29日未明の青森大空襲で、青森市は壊滅的な被害を受けた。大正14年に建てられ青森市公会堂は、消失を免れ現在「青森市福祉増進センター(しあわせプラザ)」として使用されている。
この公会堂で昭和2年5月21日、「漱石先生の思い出」という演題で芥川龍之介の講演が急遽行われた。「当時、弘前高校一年の太宰治も講演を聞いた」説が太宰治研究の第一人者である相馬正一氏(故人)から出され「聞いた、聞かなかった」論争が持ちあがった。
伊藤榮一氏(青森ペンクラブ会員)が、青森市の喫茶店第一号「ランデシ(すずらん)」を開いた父親のことを調査する過程で、太宰は講演を「聞いていなかったのではないか」と考え、講演当日「ランデシ」に出入りした講演関係者の聞き取り調査や地元新聞紙上の関係記事から、「聞いていなかった」説に至った。しかし、両者とも自説をゆずらず長く保留になっていた。その後、伊藤氏の綿密な調査に、相馬氏が自説を撤回し、太宰は「聞いていなかった、芥川龍之介に会っていなかった」という結論にいたる。
「青森市福祉増進センター(しあわせプラザ)」の説明版には「当時、官立弘高生であった太宰治が私淑していた芥川龍之介などの講演を聞くために弘前から駆けつけたという」(下線は筆者付す)とある。太宰治が心酔していた芥川龍之介の講演は、芥川龍之介の自殺の二か月前に行われた。太宰の衝撃は強く弘前高校(現・弘前大学)時代「地鉱」(自然科学・地理)学習ノートに書きつらねた「芥川龍之介」の落書きからもそのことがよくわかる。後の「芥川賞ほしい」と川端康成に訴える事件に影響しているのだろうか。尊敬し芥川龍之介を目指した太宰には何とも不運な二度の体験である。川端の弟子である三島由紀夫は太宰嫌いで知られているが、まさかこれが三島の心証を悪くしたわけでもないだろうが…。
伊藤氏の研究の労に報いるためにも、「青森市福祉増進センター(しあわせプラザ)」の解説もそろそろ書き換えてもよいのではないだろうか。
 
 
2.寺山修司 中学高校時代の作品掲載や発行した同人誌等。
  寺山修司の中高時代の文芸活動は、以下に示すように凄まじい。作品を創作し、編集、雑誌製本の労を惜しまず発行。完成すれば、友人を集めて合評会を開く。
なぜこれほど、熱中するのか。寺山の少年時代は、戦中、戦後の動乱の時代であった。父は、寺山が五歳の時出征し、昭和二十年九月、九歳の時、戦病死している。父方の実家がある三沢市に母子で身をよせるが、母は三沢基地のベースキャンプで働き、その後中学生の寺山を一人残し、福岡県芦屋のベースキャンプに勤めにでる。複雑で孤独な境遇の寺山が背負った心の傷は、仲間を集め文芸活動にのめり込むことで癒されたのであろう。この過激な文芸活動で培った力が後の「前衛芸術家寺山修司」を誕生させる糧になった。実は、寺山修司の中学校時代の履歴は*考証(2)で述べるが不明な点が多い。
 
太宰治が山崎冨栄と衝撃的な心中により命を絶つのは、昭和23年6月である。寺山修司、中学1年の夏である。当時、寺山は三沢市にいたのか、それとも青森市にもどっていたのか、寺山自身が太宰のこのニュースを知っていたのか、わからない。しかし、二人の不思議な縁を感じる。寺山修司の文芸活動は、太宰没年の昭和23年夏から始まるのである。
 
(1)文芸活動開始 「古間木中学校・現三沢市立第一中学校」。
1935(昭和10)年12月10日誕生、戸籍上は1936(昭和11)年1月10日誕生。
 ・「週刊古中№2(昭和23年9月25日)、№3(昭和23年10月9日)」発行。作品創作、編集、ガリ切り、印刷、発行、広報のすべてをたった一人でする。
 
(2)青森市立野脇中学時代 (中学2年次春転校説を採る。)
1949(昭和24)年~1951(昭和26)年3月
・手書き回覧文芸誌「二故郷」(発行年月日不明)
・2年9組学級雑誌「黎明」(昭和25年4月10日発行)
・3年6組学級雑誌「はまべ」(昭和26年3月19日発行)
・文芸部作品集「若潮」(昭和25年春か、調査中?)
・文芸雑誌「白鳥」(昭和25年8月20日 野脇中学校文芸部発行)
  *上記の文芸雑誌の主要な編集メンバーとして活躍。と同時に主要な作品創作者であった。カットも担当。
・学級新聞2年9組  (昭和24年9月20日発行)
 ・学級新聞3年6組  (昭和25年7月5日発行)
   *ここまでの雑誌は、ガリ版刷りの手作業で作製。
・野脇中学校新聞 2号、3号、4号、5号、6号に作品掲載。
  *学校の編集による印刷版
・『咲耶姫』殉情歌集 (昭和26年5月26日発行)(自筆ペン書き手作り歌集、中学時代の習作短歌をまとめる。)
☆その他新聞の読者文芸投稿欄にも作品が掲載される。
 
(3)青森県立青森高校時代 この3年間は、俳句、俳句の3年間であった。
➀「青高新聞」(青森県立青森高校発行・昭和26年7月~昭和30年10月まで。)
「青高新聞」の文芸欄は、ほぼ寺山修司に任せられていた。
俳句、短歌、詩、小説、評論(文芸、映画)なんでもたちどころにこなした。
第17号、第18号、第19号)、(第20号、第21号、ともに紛失か欠番)
第22号、第23号(紛失か欠番)
第24号、第25号、第26号
第27号、第28号、第29号 第36号(卒業後。)
 
➁『青森県立青森高校生徒会誌』(昭和27年度版、昭和28年度版)
  ・俳句、詩、小説、文芸評論が掲載される。
➂発行雑誌
  『べにがに』寺山修司自選句集-(昭和27年4月1日発行)単独発行。
『山彦』、昭和27年4月創刊~4号(7月)まで。
『青い森』(「山彦」を改称)5号10月発行、6号12月発行、
昭和28年8号・9号(合併号)3月発行、10号6月発行、11号8月発行。
『麦唱』(文化部文化祭記念号・昭和27年10月発行、昭和28年10月発行)
  『魚類の薔薇』昭和28年12月 1号、2号 
 『牧羊神』昭和29年2月から発行で10号まで。(高校卒業間際)
 
④投稿俳句雑誌、投稿俳句誌
『寂光』(昭和26年9月~昭和30年夏まで参加。)
『暖鳥』(昭和26年9月~昭和30年夏まで参加。)、昭和34年4月散文「僕の断片」
『青年俳句』昭和29年3月創刊から投句、俳句評論、座談会等で参加。
創刊号(昭和29年3月~2号、3号、4号、5号、6号。19号・20号(昭和31年12月)の合併号にて、「俳句絶縁宣言」をする。「新しき血」(百四十六句)を発表。
「チエホフ祭」で第二回『短歌研究』五十首応募作品特選(後に新人賞)受賞を機に、歌人としての活躍期に入る。
➄投稿新聞、
   ・東奥日報新聞 中学時代(詩、俳句、短歌)
高校時代(俳句を投稿に熱中。ペンネームを使用し、別人になりすまし投稿した例もある。
・青森よみうり文芸・埼玉よみうり文芸
  ・青森毎日俳壇
  ・その他、中央や地方の俳句同人雑誌等に投句「七曜」「氷海」「万緑」「断崖」「天狼」「俳句苑」「辛夷花」「学燈」「蛍雪時代」「三つ葉」など。
 
➅ 俳句大会の企画、運営
   ・校内俳句大会(文化祭記念、高校一年昭和26年10月)
   ・県下高校性俳句大会(文化祭記念大会、高校二年生昭和27年10月)
   ・全日本学生俳句コンクール(高校三年生昭和28年10月)
   ・「やまびこ」俳句会設立。句会、「青い森」発行。
 
1983(昭和58)年5月4日、肝硬変と腹膜炎のために敗血症を併発し、東京・杉並の河北総合病院にて死去。享年47歳
 
 
 
* 考証(2) 寺山修司の転校はいつか。二つの誕生日、出生地について。
寺山が三沢市古間木中学校から青森市野脇中学校に転校した時期について。
➀中学一年の秋説、中学一年の二学期説。
・(高取英『寺山修司論―創造の魔神―』(思潮社・1992・7)。
 その他の高取英の寺山年譜も同様で以下のように記す。
 「古間木小学校を卒業し古間木中学校に入学。秋、青森の母方の大叔父夫婦宅に引取られ、扶養される。坂本氏は映画館歌舞伎座を経営、その裏に居宅があった。歌舞伎座にはときどきドサまわりの一座がきた。母が、九州芦屋のベースキャンプに勤めに出たため、母と別居。青森市野脇中学校に転校。」 
・杉山正樹『寺山修司・遊戯の人』(新潮社2000年11月/河出文庫2006年7月)
・長尾三郎『虚構地獄寺山修司』(講談社1997年8月)
  中学一年秋説の、出どころかは、高取年譜らしい。
 
②中学二年、二年の夏休み明けの頃説。
・親友の京武久美氏や古間木時代の友人。
・田澤拓也『虚人寺山修司伝』(文藝春秋1996年5月)
・小川太郎『寺山修司その知られざる青春(三一書房1997年1月)
  ・寺山修司青春歌集(角川文庫1072年)の年譜。
   「青森市歌舞伎座にひきとられ、扶養される。楽屋はスクリーンの裏にあり、ときどきドサまわりの一座と起居をともにすることあり。母、九州の炭鉱町へ移る。美空ひばりの「角兵衛獅子」愛唱する。(寺山本人作成)
・寺山修司「三沢の中学校に一年までいて、二年から野脇中です。それで青森高校」
   木瀬公二「死の前のインタビュー」/「あおもり草子」追悼特集『心象寺山修司』(企画集団ぷりずむ1983年12月)で本人が答えている。
  ・守安敏久『寺山修司論‐バロックの大世界劇場』(国書刊行会2017年2月)
   春とも夏休み明けとも指摘はない。
 

「記録」と「記憶」調査の難しさ
中学校二年夏休み明け説の出どころは、親友の京武久美氏や古間木中学時代の友人の記憶である。つまり語り、聞き取り調査である。
 ところが、公式記録としては、青森市立野脇中学校2年9組の通信表に、4月19日に転入、6月19日に田中B式知能検査とある。

 
物事の事実を確かめる場合に、人は記録と記憶を頼りにする。記録は事実であり、一般的に信頼がおけるものとして扱われる。が、作成時の背景の事情により、正しく記されないこともある。また調査する側の読み解きが影響し、その解釈に幅が生ずる場合もあり、一概に正しいとも言えない。人の記憶に至っては、記憶者の思い違いも生まれやすく、調査者側の心情の影響を「記録」より、受けやすく正誤の判断は難しくなる。判断がつきかねるときは、特殊な事情がみられない限りという但し書き付きであるが、公式記録である「青森市立野脇中学校2年9組の通信表、4月19日に転入、6月19日に田中B式知能検査」が優先されることになるだろう。筆者は、この立場に立つ。
最近、相馬信吉(「寺山修司の足跡」)氏が青森市の寺山修司の足跡や転校問題を調査し、ネット上でも公開している。寺山の友人たちからの聞き取りと同時に、資料の裏付けによる客観性のある研究である。この転校問題もそう遠くない日に結果がでるであろうと期待している。
 
二つの誕生日
寺山修司には、出生年月日についても二説あり、着地点が見いだせずにいる。
昭和10年12月10日説と戸籍上の昭和11年1月10日説である。
 
・昭和10年12月10日説。
 母親寺山はつ、元妻九條今日子、寺山修司。
 【母談】父の仕事が多忙と、母はつの産後の保養のため、出性届が遅れたために、一か月遅れの1月10日誕生として出生届を提出。
 
・昭和11年1月10日説
 従兄弟寺山孝四郎、寺山親子と同じ弘前市紺屋町にある二軒長屋に住んでいた蝦川定蔵氏(警察官)の「寺山は、十一年一月に生れたはずだ」による。
 
寺山の戸籍上の誕生日は、事実であるべき記録に事情があり操作された例と言える。しかし、実際の誕生日と言われる昭和10年12月10日説も母の記憶によるもので、客観的な証拠があるわけではない。嘘とは言わないが、さりとて、そうですかと認めがたい思いもあり、結局保留になっている。私も寺山孝四郎さんから直接蝦川定蔵氏の話を聞く機会があったので、昭和11年1月10日説に与する立場である。これが、客観性のない調査者の心情の影響をうけた読み解き例であろう。「記録」や「記憶」をたよりに行う調査における難しさである。
 
なぜ、誕生日二説を問題にするか。
 「作りかえのきかない過去なんかない」、「自叙伝なんかはいくらでも書き直し(消し直し)ができる。」という寺山の言葉が頭をよぎるからである。彼が意図的に二つの誕生日を操作しながら使った。つまり寺山流の手法で誕生日を作り変えたのではないだろうか。とすれば、そうする彼の心情や意図(目的)は、寺山修司論の要になる。考察されなければならない問題である。例えば、朝日新聞全国版で「新人国記」という連載をするために、アンケートをした際の回答用紙には、
   ・「氏名 寺山修司 昭和10年12月10日」
   ・「出生地 青森県五所川原市」と書かれていたという。(木瀬公二朝日新聞青森支局記者 昭和58年3月17日インタビュー記事より)。
 生前、寺山は書籍等の履歴は、出生地を青森県三沢市、大三沢市、青森県としている。
小作品や対談等では、弘前生れであると話しているが、五所川原とは、なぜまたと意外
である。前述した「寺山修司青春歌集(角川文庫1072年)の年譜」も虚構のにおいがす
る。誕生日、出生地、転校時について、ほぼ不明な点(問題点)が出そろったところで
さらなる考察が必要であろう。
*小菅麻起子「寺山修司「年譜」をめぐる問題点」『寺山修司研究VOL・1』、『初期寺山修司研究』(翰林書房2013年3月30日)に詳しい。


月見草を眺めている少女―『思ひ出』から『富嶽百景』へ―


§1 なぜ、『思ひ出』の地、青森市を忘れてもらっては困るのか。

幼少年期の自叙伝私小説『思ひ出』(昭和8年「海豹4、6、7月発表」)について、太宰〈私〉は、上京後の苦しい十年間を綴った『東京八景(苦難の或人に贈る)』(「文學界」昭和16年1月)で、以下のように言う。


「Hは、何事も無かったように元気になっていた。けれども私は、少しずつ、どうやら阿呆から眼ざめていた。遺書を綴った。「思ひ出」百枚である。今では、この「思ひ出」が私の処女作という事になっている。自分の幼児からの悪を、飾らずに書いて置きたいと思ったのである。二十四歳の秋のことである。(略)小さい遺書のつもりで、こんな穢い子供もいましたという幼年及び少年時代の私の告白を、書き綴ったのであるが、その遺書が、逆に猛烈に気がかりになって、私の虚無に幽かな燭燈がともった。死に切れなかった。その「思ひ出」一篇だけでは、なんとしても、不満になって来たのである。どうせ、ここまで書いたのだ。全部を書いて置きたい。きょう迄の生活の全部をぶちまけてみたい。」


実質的な処女作に該当する『思ひ出』は、非合法革命運動(青森検事局に出頭し、左翼運動との絶縁を誓約)の脱落を経て、作家として再出発しようする中で書かれた。二十四歳の太宰が「作家になろう、作家になろう」と決意した少年期の時空を書くことにより、自身の内的時間を掘り下げ、その決意に、独自の意義を見出し、彼の創作活動の糧となった作品とみえる。遺書のつもりで刊行した第一創作集『晩年』に三年後には収録。上に引用したように、昭和十六年には『東京八景』で、『思ひ出』創作の経緯や意図を解説。さらにその三年後、『津軽』「序編」(昭和19年11月小山書店刊)に『思ひ出』からかなりの量を引用。三十五歳になった太宰は、中学生時代の〈私〉を堤川の流れに擬え「私の青春も川から海へ流れ込む直前であつたのであらう。」とあらためて捉え返しながら、青森市の歴史や人口、地名などの情報を加筆し、風土記風小説の序編の体裁を整えていく。このように、作家として進んでゆく道々で、何度も立ち返り、拠り所となる作品が自叙伝私小説『思ひ出』である。『津軽』「序篇」に『思ひ出』(青森市)について直接言及した二箇所を引用してみたい。


*1『津軽』「序篇」導入部に書かれた青森市の説明に続き「けれども、私は、この青森市に四年ゐた。さうして、その四箇年は、私の生涯に於いて、たいへん重大な時期でもあつたやうである。その頃の私の生活に就いては、「思ひ出」といふ私の初期の小説にかなり克明に書かれてある。」

*2「作家になろう」と放心して、旭橋(当時弁慶橋)の上から堤川を眺めた中学三年時の経験については、「川といふものは、海に流れ込む直前の一箇所で、奇妙に躊躇して逆流するかのやうに流れが鈍くなるものである。私はその鈍い流れを眺めて放心した。きざな譬へ方をすれば、私の青春も川から海へ流れ込む直前であつたのであらう。青森に於ける四年間は、その故に、私にとつて忘れがたい期間であつたとも言へるであらう。青森に就いての思ひ出は、だいたいそんなものだが、この青森市から三里ほど東の浅虫といふ海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。やはりその「思ひ出」といふ小説の中に次のような一節がある。」と振り返り解説をする。

ここには、自分の文学の始発は、まぎれもなく、青森市であるという認識がみえる。太宰治の重要なトポスの一つとして、青森市を忘れてもらっては困る所以である。因みに『津軽』は、昭和十九年十一月、太宰35歳、書き下ろし長編として、小山書店より出版された。

 

§2 「赤い糸」の話―月見草を眺めている少女―

『思ひ出』と『富嶽百景』を並べて読むと、直接の言挙げはないが、『思ひ出』に描かれた「初恋」の記憶が、無意識の内に太宰の中で鳴り響き、〈私〉に結婚を即決させたとうかがえる節がみえる。そのことを少し考えてみたい。〈私〉の初恋は、『思ひ出』第二章後半から第三章で回想される。それは、弟と交わす「赤い糸」の話から始まる。『津軽』「序篇」から該当箇所を引用してみたい。


「秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の棧橋へ出て、海峽を渡つてくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い絲について話合つた。それはいつか學校の國語の教師が授業中に生徒へ語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い絲がむすばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐるのである、ふたりがどんなに離れてゐてもその絲は切れない、どんなに近づいても、たとひ往來で逢つても、その絲はこんぐらかることがない、さうして私たちはその女の子を嫁にもらふことにきまつてゐるのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ歸つてからもすぐ弟に物語つてやつたほどであつた。私たちはその夜も、波の音や、かもめの聲に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は棧橋のらんかんを二三度兩手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり惡げに言つた。大きい庭下駄をはいて、團扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、いかにも弟と似つかはしく思はれた。私のを語る番であつたが、私は眞暗い海に眼をやつたまま、赤い帶しめての、とだけ言つて口を噤んだ。海峽を渡つて來る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。

この弟は、それから二、三年後に死んだが、当時、私たちは、この桟橋に行く事を好んだ。冬、雪の降る夜も、傘をさして弟と二人でこの桟橋に行つた。深い港の海に、雪がひそひそ降つてゐるのはいいものだ。最近は青森港も船舶輻湊して、この桟橋も船で埋つて景色どころではない。それから、隅田川に似た広い川といふのは、青森市の東部を流れる堤川の事である。すぐに青森湾に注ぐ。」


☆1 上記引用文の考察

なぜか、〈私〉は、自分の語る番になり、口をつぐんだ。理由は、最近生家に来た使用人の「みよ」を好いていたからである。―「そのころから私はみよを意識しだした。赤い絲と言えば、みよのすがたが胸に浮んだ。」-この思いは、弟にも「みよ」にもなかなか告白できず、ぎこちない日々が過ぎていく。二人でぶどう狩りなどの体験後、いよいよプロポーズをという矢先、「みよ」は、家との間で不都合が生じ、突然家から去る。初恋は終わる。

弟が将来のワイフについて語る箇所を検討してみたい。


「(ア)庭あるいてる、(イ)ときまり惡げに言つた。(ウ)大きい庭下駄をはいて、團扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、(エ)いかにも弟と似つかはしく思はれた。」

ここの読みは、注意が必要であるようだ。

(ア)「庭あるいている」は、(イ)「言った」とあるから弟の発言である。それでは、(ウ)の月見草を眺めてゐる少女は」弟の発言なのか、それとも(ア)の発言を受けた〈私〉の想像した造形なのか。(エ)の「いかにも弟に似つかわしく思はれた。」という〈私〉の感想が続くために〈私〉が想像した少女とも読める。〈私〉の想像とすれば、少女は、〈私〉の胸に棲み始めた「赤い糸」の「みよ」を念頭にして生まれた像であろう。弟が将来のワイフ像を語るなかで、すでに、現在進行中である「みよ」が重ねられたことになる。はっとして言いよどむ。太宰は、読者が「月見草を眺めてゐる少女」を「弟のワイフ像」であると一義化しないために、表現に配慮を加え、どちらにも読み取れる微妙なものとする。うまいなと思う。


また『思ひ出』の最終部は、「みよ」の去った生家で、「一枚の写真」を兄弟で仲良く見る場面である。写真は、母がソファに座りその後ろに叔母とみよが、薔薇の咲き乱れる花園を背景に写したものである。

「みよは、動いたらしく顏から胸にかけての輪廓がぼつとしてゐた。叔母は兩手を帶の上に組んでまぶしさうにしてゐた。私は、似てゐると思つた。」と〈私〉が写真をみての「みよ」の感想で終わる。

「赤い糸(運命のひと)」の少女、初恋の「みよ」は、「月見草を眺める少女」と造形され、また「一枚の写真」から、母代わりの存在であった叔母に似た少女として〈私〉の胸に、深く刻まれた。真っ暗な海の揺らぎの中に浮かぶ月見草の少女、薔薇の花園を背景に、輪郭がぼっとした写真、どちらも〈私〉の幻影のようでもある。なればこそ、「月見草を眺める少女」は、一層太宰の心に残り続けたであろう。  


『富嶽百景』は、昭和十三年の初秋、太宰三十歳。東京での苦しい日々から逃れ、井伏鱒二を頼り、甲州御坂峠の天下茶屋にこもり、再出発を志し、必死に自己をたてなおそうとした九月、十月、十一月十五日までの約三ケ月が語られる。『思ひ出』同様に、再生をかけた自叙伝私小説である。〈私〉が富士との〈対話〉を重ねながら周囲の人々との交流を通して、作家としての自己を取り戻していく過程が描かれる。再生の大きな力は、甲府の娘さんと見合いをして、結婚に至ったことである。


*1見合いの場面をみたい

「甲府で私は、或る娘さんと見合いをすることになっていた。井伏氏に連れられて甲府のまちはずれの、その娘さんのお家へお伺いした。(略)娘さんの家のお庭には、薔薇がたくさん植ゑられてゐた。母堂に迎へられて客間に通され、挨拶して、そのうちに娘さんも出て来て、私は、娘さんの顔を見なかつた。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、
「おや、富士。」と呟いて、私の背後の長押を見あげた。私も、からだを捻ぢ曲げて、うしろの長押を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁にいれられて、かけられてゐた。まつしろい睡蓮の花に似てゐた。私は、それを見とどけ、また、ゆつくりからだを捻ぢ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。きめた。多少の困難があつても、このひとと結婚したいものだと思つた。あの富士は、ありがたかつた。」

 

⁑2 続いて〈富士には月見草が似合ふ〉という有名な一節がある箇所をみたい。

「お客さん! 起きて見よ!」かん高い声で或る朝、茶店の外で、娘さんが絶叫したので、私は、しぶしぶ起きて、廊下へ出て見た。(略)富士に雪が降つたのだ。山頂が、まつしろに、光りかがやいてゐた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた。(略)私が、かねがね、こんな富士は俗でだめだ、と教へてゐたので、娘さんは、内心しよげてゐたのかも知れない。
「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」もつともらしい顔をして、私は、さう教へなほした。
私は、どてら着て山を歩きまはつて、月見草の種を両の手のひらに一ぱいとつて来て、それを茶店の背戸に播いてやつて、「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちやいけないよ。」娘さんは、うなづいた。
ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合ふと、思ひ込んだ事情があつたからである。(略)

私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥も与へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。
老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。三七七八米の富士の山と、立派に相対峠し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。」


☆2 引用文*1、⁑2からの考察

☆1で、『思ひ出』にみる初恋の「みよ」は、「月見草を眺めている」少女として、〈私〉の胸に刻まれたと読み解いた。それでは、§2の冒頭で想定した、この刻まれた記憶が結婚の即決に影響を与えたらしい、は、はたして正しいといえるだろうか。また「月見草を眺めている少女」は、『富嶽百景』にみる「月見草」と繋がりがあるだろうか、考えてみたい。


*1の引用文に、見合い相手の娘さんの「家のお庭には、薔薇がたくさん植ゑられてゐた」、とある。

〈私〉が最後にみた「みよ」の一枚の写真の背景も「薔薇の咲き乱れる花園」であった。この共通する背景は見逃せないだろう。ふと〈私〉に写真の記憶がよみがえったかもしれない。薔薇のある背景は、「赤い糸」の女性(運命の女性)と出会う場として機能したことになる。娘さんの顔も見られずいた〈私〉が、長押にかけられていた富士山頂の写真をみるついでに、娘さんを、「ちらと見た。きめた。多少の困難があつても、このひとと結婚したいものだと思つた。」と迷いなく即決できた理由は、共通の背景が有効に働き、おぼろげな幻影は、目の前の人影(女性)になったからであろう。あの富士はありがたかったと感謝している。


富士三景の一つに数えられている御坂峠からみる富士を、〈私〉は、「風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。富士なんか、あんな俗な山」と軽蔑していた。ところが、引用⁑2にみるように、雪の富士みて「ばかにできない、いいものだ」と考えを改めた。気分を良くした〈私〉は、山から月見草の種をいっぱいとってきて、茶屋の背戸に播いた。そして「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちやいけないよ。」と娘さんに言い置く。河口村の郵便局から郵便物を受け取り、峠の茶屋に帰るバスの中で〈私〉が「富士には月見草がよく似合ふ」、と思う体験がさせた種播きである。


〈私〉の隣りに、濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆が坐った。この方は、他の観光客とちがい富士には一瞥もせずにいる。その衆に染まらぬしゃんとした姿に〈私〉は共感。老婆に寄り添い一緒に、ぼんやりと崖の方を眺めていると、老婆が「おや、月見草。」と言った。

さつと、バスは過ぎてゆく一瞬、「いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。三七七八米の富士の山と、立派に相対峠し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。」


この「月見草」は、清楚で可憐な植物であると同時に、なにかの比喩でもある。

「(月見草を)ちらとひとめ見た」に対応する表現として、お見合いの席の娘さんを「ちらとみた」が浮かぶ。それ以外にも「額縁に入りかけられた「富士山頂大噴火口の鳥瞰写真」は、「まつしろい睡蓮の花」に似ていた、は、「金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草」に響きあう。どちらも宗教的雰囲気を醸し出す景物で崇高な趣を出している。このように対応する表現からみて、まず娘さんの喩としての月見草が考えられる。娘さん一人ではなさそうだ。巨大な富士に相対峙して、つり合う人物として、娘さんの母親も含まれているようにみえる。見合い後、頓挫していた結婚の説明に伺った〈私〉への母娘の応対は、「俗なものに、みじんも揺るがず立つ月見草」のようであった。〈私〉が生家から、結婚の援助を得られないことを話すと「結構でございます。」母堂は、品よく笑いながら、「私たちも、ごらんのとおりお金持ではございませぬし、ことごとしい式などは、かえって当惑するようなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さえ、お持ちならば、それで私たちは、結構でございます」という返事である。バスの中の老婆の態度に通じる。あるいは、月見草は、当時、文学に立ち向かい強く孤高でありたい、すっくと立派にゆるぎなく立ちたいと頑張っていた太宰〈私〉自身の姿かもしれない。

月見草は、俗なものにおもねることのない高尚な人々、貧しくも毅然と心美しくあるすべての人の喩として太宰〈私〉が愛した僕の花だ。「みよ」も「甲府の娘さん」も月見草であるといえる。


※青森市という枠の中で、『思ひ出』、『津軽』、その関係で『富嶽百景』について考えてみたが、後日場を変えて、これら太宰治の自叙伝私小説について論じてみたい。(2020年12月)

主な参考書籍等

『太宰治と青森のまち』(北の会編・北の街社昭和63年6月)

『新編太宰治と青森のまち』(北の会編・北の街社平成10年4月)

『山内祥史太宰治の年譜』(大修館書店2012年12月)


久慈きみ代『編集少年 寺山修司』(論創社2014年8月)

『駅をでると文豪の街―太宰治『思ひ出』の街検証(久慈きみ代研究室刊2015年10月)

『駅を出ると文豪の街Ⅱ―寺山修司の風景―(久慈きみ代研究室刊2017年3月)


制作協力TruePict、田邊克彦、写真提供 藤巻健二