水戸部哲也

TETSUYA MITOBE

私、水戸部哲也が1996年
今から24年前当時インターネットも人脈も全くない状態から
プロ野球のトレーナーになるまでのお話や
プロ野球トレーナーとして8年間仕事をしていた時のお話も記載してみます。

これから

トレーナーになりたいと目指している方や
すでにトレーナー活動をしている方にも
何かのお役に立てたら幸いです。

その後プロ野球チームを退団してからの若手トレーナー育成事業やパーソナルトレーナーとしての活動なども触れていきます。
また今私が行っている
トレーナーを育成しスポーツの現場でトレーナーとして仕事をしていきたいと
目指す人の力になる為の
事業をどのような思いで立ち上げているのか?
も後半部分で書かせて頂きます。

私の想いを書いてみます。

私は子供の頃
から野球に熱中し高校生まで野球を続ける野球少年でした。

勉強は全く好きではない子供でした・・・

自宅の前の壁を使って

毎日
壁当てをしたり
素振りをしたり
友達と野球をして遊んだり

そんな少年時代を過ごしました。

高校生になった時
仕事の進路を決める時期が来ますよね。


その時は
とにかく勉強をしたり
デスクワークの仕事はしたくない。

スーツを着て仕事をしたくない・・・

職業の中で
特にやりたいと思えるものは何一つなく

生きていくためには
生活をしなければいけない・・・

だから
仕方なく就職をすることに決めました。





ただし
就職してみると
仕事自体全く面白くない・・・・
これ死ぬまでにあと何時間
やらないといけないんだろ・・・・・


こんな状況が3ヶ月ほど続き

結局仕事をすぐに退職

就職の紹介をしてくれた学校や先生
沢山の人に迷惑をかけました。


その時
自分が本当に生きていく中で
やりたい仕事は何か?


と本気で考える時間が沢山ありました。


高校を卒業した時点で
ずっと人生の中で一番時間を使って楽しんできた
取り組んできた野球関係の仕事に就くことをすっかりと
諦めていました。


この時もプロ野球に関わる仕事をしてみたいなー
と漠然と考えてはいましたが。



周りの大人や先輩に
出来ない
無理だよ
そんなの仕事にならないよ
夢見すぎでしょそんなの

どうせ無理だよ・・・・


って言葉を沢山の大人に聞かされてきたので


まあそうだよな。


ってなぜか納得して
楽な方向へ流れて行くことに
仕方ないと割り切り就職していた現実があります。


この考え方がいざ就職してみると
大きな間違いであったことに
あっという間に気づくことになります。



実際に
働いてみると
好きでもない仕事で毎日の大半を
費やすのは苦痛でしかありませんでした。



とにかく苦痛
だったのを今でも思い出します。



この仕事
正直給料がいくらもらえてもやりたくないな・・・


そう感じる毎日でした。


そこで会社を
辞める決断をし



自分が本当にやりたいと思う職業の
プロ野球のトレーナーになりたい
という夢を追いかけてみることにしました。


当時
就職の手配やお手伝いをしてくれた方には
本当に申し訳ない状況でしたし
誰も応援をしてくれる状況ではなかったのは
今でも鮮明に覚えています。



確実に
自分で作り上げた現実なので
ここはただひたすらお詫びするしかない状況
であることは間違いありませんでした。



その後
多くの方に助けて頂き
数多くのサポートのおかげで
今があります。
本当に感謝ですね。



今振り返ってみても

私自身
トレーナーを目指し
自分が思い描いた
なりたい自分に全て
なることが出来ました。



今ももちろん続きがあって
その目標は変化しながら進化して
次々やりたいことや新たな夢や目標は日々進化しています。



私が経験した
事がもし私が若かった頃と
同じ夢や目標を持っている人がいるのなら


少しでも役に立てれば嬉しい


そう思って


今はトレーナー活動の事業や育成する講習などを
開催させてもらっています。



私が皆さんの夢の実現の後押しや
手助けが出来る存在になれたら



これ
以上の喜びはありません。


私の人生教訓は


絶対に諦めない。
まわりがどれだけ無理だ
出来ないと言ってもそれは一切受け入れない。


自分で全てを決める人生にする。
これが今も変わらず大切にしていることです。


そして何より
もし先が見えず不安・・・・
本当にできるのか?


色々と考えて動けない人は一度連絡をくださいね。
色々アドバイスが出来と思っています。

絶対にプロ野球のトレーナーになると決めた
柔道整復の資格を取得するまでの学生時代


私は
1996年長野県の
高校を卒業後


3ヶ月間就職し
退職


その後
専門学校に入学するための費用を
捻出するために
アルバイトに明け暮れます。



私の家は
母子家庭であったので



とにかく
お金がない・・・・・



学費を捻出するために
アルバイトをすることに集中し
足りない部分は国の融資を
受けるといった感じでした。


ここでもお金がない・・・・
なんてことは諦める理由には一ミリもならないそんな感じでしたね。
今もそうですが何かやってみたいと思うことを諦めるほどの最大の苦痛はないと思っています。






当時
私の母校にはトレーナーをしていただいていた
三島先生がおられましたので
三島先生に色々教えて頂き



スポーツトレーナーになりたい
のなら国家資格を取りなさいと教えて頂き



自分もよく怪我をした際
通院する機会もあった整骨院の資格
柔道整復師の資格を取得することに決めました。



しかし
1997年当時は
柔道整復師の学校が日本全国に
14校しかない激戦の職種の専門学校でした。


東京や大阪の学校は
倍率にして30倍の学校があったり
とても高卒の
私の学力で入れる学校ではないレベルのところ
が多く



何年間か浪人覚悟で
学校に入るまでに
長期間を要する可能性があるとも考えていました。



初めて受験をした
97年当時全国すべての学校に電話で倍率を確認し



北海道
仙台
石川
の学校の倍率が全国的に見れば低い数字
8倍から6倍程度であったと記憶しています。



アルバイトで貯めた資金で学校まで受験に行き宿泊交通費を
捻出するのはかなりの痛手でしたが



ダメもとで
仙台と石川県の学校を受験することになりました。



受験結果として石川県の学校に奇跡的に合格
することができました。



その後
石川県に引越しをし金沢市の専門学校に通うことになります。



この時
絶対にプロ野球のトレーナーになると心に決め
決断していたのでこの三年間のスタートが切れる

ことが本当に嬉しかったのを

今でも思い出します。


合格後すぐに
石川県の金沢市に引越しすることになります。



金沢での
三年間は非常に大きな経験をする機会を頂き
今でも本当に感謝しています。


たくさんの方にお世話になり
育てて頂いた場所が金沢です。

金沢の柔道整復師学校の学生時代


金沢に引越しをし
学生生活がスタートしますが


私は
夜間のクラスを選択していました。


夜間のクラスには
すでに社会人として仕事をしながら
学びに来るケースが多く



当時は
昼間は整骨院で見習い研修のような形で
施術の補助的な業務を行うアルバイトをしている


生徒が学生の大半でした。


私も
学生時代研修やアルバイトで
研修させて頂いた
整骨院が複数あります。



当時は
睡眠時間が毎日4時間くらいの中での
仕事と学校の両立になり



2年生の時に一度
潰瘍性大腸炎と言われる
国の難病指定の大腸炎になってしまった経験もあります。


睡眠不足や疲労の蓄積が大きな原因だったと
感じます。


睡眠時間を確保できないのは致命的ですよね。
今はしっかりと確保するようにしています笑


学生時代研修させて頂いた


あぞう接骨院
では


右も左も分からない
私に院長の東先生は


とても丁寧に親切に指導していただき


ここでの経験が
その後の
人生でとても大きな財産になっています。


色々な面で
サポートしていただき大変感謝していますし


大きな出会いになったと思っています。


3年生になり学生時代
が終盤に差し掛かると


就職活動をすることになります。


三年間でしっかりと実力をつけ
就職する時には


確実に
プロ野球のチームトレーナーに近づける
場所に就職をする



これは
3年経っても変化がありませんでしたので


プロのチームに入れる確率が高い就職先をとにかく探す行動を起こします。


当時インターネットもなく
雑誌の求人や人からの紹介が大半を占める中で


どこがいちばんの選択肢になるのか?
非常に難しかったのですが



金沢で大変お世話になった
接骨院の先生から



トレナーになりたいならここに行くといいよ。
と紹介していただいたのが


グローバルスポーツ医学研究所
というスポーツの業界
プロ野球やオリンピックの
ナショナルチームにトレーナーを派遣する企業でした。


当時
従業員数が全国で
数百人程度もいる大企業で
業界最大手と言われている企業でした

トレーナーとしての第一歩を踏み出す


2000年の3月から
東京の職場で仕事を開始しますが


当時の職場には


オリンピックのメダリスト
プロ野球選手
芸能関係
宝塚歌劇団
劇団四季
政治家
大企業の社長
ハリウッドスター


など
誰もが知っているような
著名人やトップアスリートも
来店する店舗に配属されました。



先輩の
トレーナーもかなりのハイレベルな
人材が当然揃っています。


私に
仕事をゼロから教えてくれた先輩は
当時オリンピック金メダリストの
清水宏保選手から
絶大な信頼を得ていた先生でした。



他には
全日本柔道で何度もオリンピックを経験し
選手からも信頼を得ている日本代表のトレーナー



スピードスケートの世界で
オリンピックを経験し選手からも
施術レベルの高さが評価されている先輩



などなど
当時の自分では
雲の上の存在と言えるような方に
囲まれて仕事ができる環境した。




ここから確実に
目標としている
プロ野球のトレーナーになってみせる。



ライバルの数はおよそ
100名程度はいたと思います。




ここでも目標をブラさず
取り組むことを決めて仕事をスタートさせました。




当時会社では
社会人野球
ダイエーホークス(現在のソフトバンク)のキャンプトレーナー
など野球に関われる場所もあり




ここに自分が食い込むためには
まず自分が店舗でしっかりと




来店される方に対応する
能力を上げ


喜んでもらえる結果を提供し
常に頼られる存在になる。


当時
60分 8000円の施術で
自分が出勤するときの予約票を
常にマックスにまで引き上げることを
目指して仕事に取り組みました。



勤務し始めて
まもない1年目




10年以上のキャリアを持つ
先輩との技術力の差を埋めることができず
非常にストレスを感じながら
仕事をしていました。



俺センスないなって・・・
いつも感じながら仕事をしていました。



体重が軽く当時60キロ程度の体重だったので
競輪選手や格闘技系の選手の施術をするとき



完璧に
当たり負けをするのを感じていました。



これを解決するために
当時ウエイトトレーニングを
週に4回ほどしっかりと行い
体重を73キロまで増量し
絶対にどのアスリートにも当たり負けしない
体を作りました。





結局この増量で
自分の指への負担が増加し
指の故障で自分自身が苦しむことになるのですが




これも良い経験でした。




施術レベルが上がってくると
体重が多くても少なくても
あまり関係ないことを徐々に知っていきます。




筋肉に対する施術の角度や



手の当て方使い方



指の侵入角度で
体重が無くても
ここはなんとでもなる

問題だと後から気がつきました・・・




実際に私の先輩で女性トレーナーで




数多くの競輪選手を担当していたトレーナーは

50キロの体重もないような体格で
とても華奢で細い女性でした。

技術が上がれば体重も関係ないということを
ここで痛感しました。



ここは
スポーツの分野にも共通することがあるかと感じています。




パワーや体重筋力ばかりを追いかけて
故障をする選手は多くいます。




治療家も同じだと私は考えています。
ちょっと特殊な世界かもしれないですが。


2年目
3年目となると



自分の手が思うように
動くようになりだしました。



捉えられなかったポイントを他の誰よりも
捉えられるようになる感覚
もこの頃から少しづつですが出始めます。



この会社で
トップレベルのトレーナー

になれなければ



この先道は開かない




ここを強く意識し
誰にも負けないような施術を身につけ
結果を出すことに集中していました。




私たちの役目は
お客様
患者さん
選手たちの望む結果を提供することが仕事です。



自分の技術を究極レベルまで引き上げて
痛みに困っている人を救い出せる人間
誰からも頼りにされる存在になりたい
そんな一心で仕事をしていました。




3年目になってくると
アーテイストの
ライブ全国ツアー帯同トレーナー



オリンピックでも
メダルを取るクラスの選手
を担当させていただく機会も増えていきました。




徐々に自分が担当する
お客様や
選手で予約が埋まり
信頼度も上昇してきていると感じるのが
3年目でしたね。



この頃
やっていけると
ようやく手応えを感じ始めます。

仕事を始めて4年目になると
アスリートでもトップクラスの選手達の
施術担当やトレーナーとしての仕事が増えていきました。



3年間自分自身が納得のいく
レベルになっていなかった為
色々試行錯誤し
先輩や同僚にも教えてもらったり相談したりで



ようやく
少しづつ自分の技術に手応えを感じ始めると同時に


選手や
お客様からの反応もそれに比例してよくなっていきます。


一つのことを覚えるのに最低でも3年はかかる
石の上にも三年と言われる理由がなんとなくわかった気がします。



もちろんまだまだ未熟で先輩と比較すると物足りない感覚は
ありありの状態です。



あくまでもただの
最低レベルの段階にたどり着いた
かなといった感覚です。





この当時
野球に関わる機会はまだありません。


主に関わっていたのが
競輪選手
柔道選手
が多く担当させていただく競技
でした。



担当させてもらっていた
選手が競輪のチームスプリントで
銀メダルを獲得する
事も出てきたり




4年目になると徐々に施術もレベルが自分の中でも上がり始め
仕事が面白くなり
サポートさせて頂く選手やお客さんに対して
良い結果を提供出来る様になってきていました。



技術力もコミュニケーションの能力も
アップし自信がつき始めた段階ですね。



ちょうどその頃
私は実力も自分なりに着いてきたので
高校野球のトレーナーとしてでも
野球に関われる場所がないか?




色々検討し始めます。



長野県で開業し
母校の長野県の長野商業のトレーナーとして活動する事も視野に入れ
物件探しにも着手していました。





この段階でも野球に関わりたい気持ちに
変化は全くなく
そのための経験として捉えて全ての行動を
行ってきました。





プロ野球の再編問題が持ち上がっていました。
ホリエモンが参戦して
ライブドアがチームを作る?



現在楽天野球団のオーナーナーの三木谷さんも

参戦し




どちらかのチームが
仙台を本拠地にチームを作るという
状況どんなとに徐々になっていきます。



私はその状況をただテレビのニュースや
スポーツ新聞で見る感じでした。



当時は担当していた競輪選手の結果をチエックしたり
野球のニュースなどを見るために毎日スポーツ新聞を買い
色々スポーツの世界のことをチエックしていましたが




まさか
この時点で私がプロ野球で仕事ができるチャンスが来るとは
思ってもいませんでした。




突然のチャンス

チャンスは何事も突然やってくるものです。
その為に長い時間をかけて準備をする


欲しいもの
叶えたい夢
なりたい自分
理想の生活


みんな欲しいものがあるはず


私にとっては当時
プロ野球でのトレーナーの仕事は
何が何でも実現したい夢
でした。

男にとって
仕事に費やす時間は人生の大半であり
仕事=人生といっても
過言ではないと18歳の頃から感じていました。


やりたい事をやり尽くして
生活する人生に憧れを持っていました。


18歳の頃高卒で就職して
自分の中で楽しさを見出せない仕事は
ただの苦痛で地獄でしかないと体験していたので
この経験は本当に大きな経験でした。
今でもそれは確実に私の頭の中心に残っています。


当時
長野県で整骨院開業のための物件探し
で長野県に滞在している時


会社から
携帯に電話が入ります。


私の事を育ててくれて
数多くのスポーツの現場や芸能関係の仕事
などを担当させてくれた
出張担当の部署の部長からの電話です。


プロ野球で仕事ができるチャンスがある
可能性が出てきたけど


行ってみるか?


会社には
開業する可能性も伝えていたのですが
私に連絡を頂く事になり


どうする?
行ってみる?

それとも
そのまま開業に向けて準備する?
会社に残る?


選択肢は
色々有りましたが

そこで迷いはありませんでした。


即答して


プロに行けるなら
是非行ってみたいです。
そう返答し


次の日の早朝には
東京から沖縄の久米島 に即移動して



東北楽天イーグルスの
キャンプにトレーナーのサポート役として



チームに参加させて
いただく事になりました。


この時
プロ野球再編問題では
楽天がライブドアとの競合の結果
参入が決定し沖縄の久米島
でキャンプがスタートしたばかりの頃でした。

プロ野球の世界での体験

久米島に合流し
トレーナーとしてキャンプからオープン戦に帯同
させて頂く機会をもらう事になり

当時
夢であった世界での仕事が実現します。

毎日が
とにかく楽しくて新鮮



朝の選手のケアから
始まりグランドでの練習
夕方から夜遅くまでの選手へのケア



オープン戦で試合が始まり
各地域の球場を転戦していく事



何もかもが
楽しく
最高の瞬間だったと記憶しています。



ここに
辿り着くまでに
どれだけの方に助けて頂き



何もわかっていない若造に
色々と教えて頂いたり
感謝しても仕切れないほど
沢山の方に助けて頂きました。

今度は
私と同じ目標を持つ若いトレーナー達の
力になるのが私の今の夢であり目標でもあります。


正式にプロ野球のトレーナーとして契約



キャンプからオープン戦の時は
臨時トレーナーとして契約になっていた為



これから先
シーズンで仕事が出来るかどうか?



ここは
まだ確定していない状況でした。


3月のオープン戦が終了する前に
今年1年正式に契約をしたいと
球団からの要請を頂き
そこで正式契約に至りました。



プロ野球のトレーナーは
1年契約でそこから更新
していく契約形態です。



ここで
キャリア一年目を
スタートする事になります。


当時自宅は東京だったので
引越しをして
仙台での生活もスタートする事になります。

スポーツトレーナーとして
仕事をして行きたいと考えているのなら
地球のどこに行ってでも仕事をすると決めていたので

東京から仙台はとても近くて
全く違和感がない感じでしたね。


ここで一つアドバイスですが
トレーナーになりたいのなら地球のどこにでも
飛んでいくフットワークの軽さが大切です。


今私の運営しているトレーナーの育成教育機関のActには
元日本代表の選手の岡崎選手のトレーナーや
日本トップレベルのプロテニス選手のトレーナーも
在籍していますが彼らは本当にフットワークが軽い。

自分の地域や近くでの仕事は求めていません。
どこにでも移動していくフットワークの軽さを持っています。
プロ野球トレーナー1年目



当時
楽天イーグルスには
各チームでキャリアを積み上げて
過去の実績が素晴らしい選手達がピークを過ぎ
それでも現役続行したい。
と行った選手達が多く所属していました。



誰もが知っている有名選手が沢山いるわけです。
数年前のオールスター選手の集合チーム
のようなチーム編成です。



年齢的にも30歳オーバーの選手が多く
体のケアやメンテナンスを行う頻度がとても高く


ここでも
グローバルスポーツ時代に身につけた
施術の技術は
私の最大のアピールポイントになりました。


選手達から高い評価を
得る事も出来ましたし


自分がこの世界で長く行きていくための
最大の武器でもありました。


メデイカルトレーナーとしての契約だったので
選手に対して施術を提供
することがメインの仕事になります。


マッサージ
ストレッチ
などで疲労を回復してもらう



肩周りの筋肉の過緊張を取り除いていく
股関節の可動域を上昇させる施術を行う



野球選手
特有の施術方法も当然ありましたが
過去身につけた施術技術の応用
で徐々にプロ野球選手に対応できる
技術を身につけることができました。



施術の技術は
プロ野球のトレーナーだけでなく
野球やスポーツに関わる治療家は
必ず身につけて欲しい技術です。

鍼灸師・柔道整復師
理学療法士の方には
必須のスキルだと思います。


理学療法士は現場で
施術が出来る様にしておく事が
重要と感じます。
リハビリ的なことを行うケースは
プロ以外ではあまりなく


日々の疲労回復や
可動域上昇の施術や
筋肉のトリガーポイントを
取り除く施術が出来れば


本来のリハビリプラスアルファの
能力を持つことになり
現場でとても重宝される
トレーナーになります。

1軍担当からファーム担当へ



プロ野球トレーナーの仕事も
5年目に突入します。



2005年入団直後から
3年間1軍を担当し
1軍での仕事を行なっている中で



2軍や3軍での仕事って
どんなことをするんだろう?
若手の選手の育成に関わってみたい


そんな気持ちが出てきました。
2008年からは1軍ではなく2軍で仕事がしたい
と会社に伝え希望が通り


2008年から2軍での仕事が
私の職場になります。



1軍の選手と2軍の選手の違いをここで
まじまじと見ることになります。


1軍の選手はプロ野球選手
2軍はプロ野球選手ではないと
よく言われますが



意識レベルや
野球に対する取り組む姿勢
が全く違う世界であると痛感します。


特に高卒で入団してくる選手たちの頭の中身は
まだまだ学生でありプロではないなと感じる選手が
多くいます。

2007年入団の
田中将大選手の様に入団時から意識が高く
負けん気が強く
この世界で成功してやろう
自分のやるべきことはしっかりやろう
コンデイションにも気を配ろう

といった選手は意外といないな・・・
というのが本音です。


余談ですが

田中将大選手は
入団し初登板の開幕3戦目のソフトバンク戦
ノックアウトされた際にベンチで号泣しているのを私は横で見ていました。悔しいと思える気持ちが何よりも大事。プロ野球の世界は淡々と過ぎていく場所でもあるのでこんな気持ちを持っている選手を見るのは楽しみでもありました。気持ちと身体能力が合わさった時本当の超一流が出来る。そう思わせてくれる選手ですね。



1軍から
2軍の担当に変わった時ギャップに驚きました。


2軍の担当になった時
立てた目標は
ファームにいる(2軍のことをプロの世界ではファームと言います。)
の選手たちにどれだけしっかりと教育して
1軍で活躍できる選手を作るサポートができるか?



意識レベル
故障しないコンデイションづくりや
生活のレベルの向上
食事のこと
野球で結果を出すこと


などに対して意識を高めてもらうのか?


これを私は意識して取り組んで来ました。


短い野球人生で悔いなく後悔なく
全てを出しきり
野球人生を全うして欲しい。



そのお手伝いが
できる仕事にとても
やり甲斐を感じていました。
一軍のトレーナーでは絶対に味わえない
経験でした。



現在1軍で先発ピッチャーとして
活躍している辛島選手も
高卒から入団しなかなか結果が出ず
故障の連続でしたが



私の退団後
テレビで活躍している姿を見ると
本当に嬉しく思います。


プロの選手として一軍で活躍するために
必要な事など当時2軍で担当している
時は色々と話す機会も多かった選手で
した。


誰もが認めるほどの能力を持っていましたが
故障続きでなかなか結果が出せず
ストレスを抱えていたと思います。
その壁を自分で乗り越えて成長して
今がありますね。


こんな選手をたくさん育成したいと
当時から考えていました。

2軍のチーフトレーナーに



キャリアも5年目になり
2軍のチーム本隊のチーフトレーナーとして
2010年から仕事をさせてもらう機会を頂きました。



ファームのトレーナー
の役目は
若手選手の育成




一軍から調整や故障で下に降りてきた選手たちのケアと
1日でも早く一軍に戻るための
サポートが主な仕事になります。



1軍のトレーナーとは働き方が全く異なるといってもいいでしょう。



この年
2軍監督には仁村徹監督が就任されます。
ここで野球のトレーナーとしての仕事というもの
の本質を学ぶ事になります。



仁村監督中日時代にレギュラーとして活躍され
その後中日で二軍監督などを歴任され



ドラゴンズの鉄壁の二遊間
井端選手
荒木選手を育てた方で



星野監督時代の
中心選手であり指導者の方です。




仁村監督の野球を見る視点や
選手を細かく分析する視点は
目から鱗のお話ばかりで毎日がとても勉強になりました。




テーピングをしているのが
一目でバレてしまったり。



選手から
チームにこの怪我の報告はしないで欲しい
との相談があり報告しなくても問題なさそうな小さな問題は
報告せずに練習や試合に参加させていた時など
動きを見てすぐに異常を見抜き



的確にトレーナーや選手に聞いてくる。
こんなケースが頻繁にありました。



選手の動きや異常をどこを
どうやって観ているのか?
など



野球の選手の動きや
専門的な知識など



この時たくさん教えて頂き
今の仕事にも大いに役立ち
それを今若手トレーナーにも教えています。



2010年仁村監督 との出会いが
野球のトレーナーとしてのレベルを上げる
ポイントになったことは間違いありません。
楽天を辞めることを決めてスタートした2012年


楽天での仕事が8年目に
差し掛かった時
私は仕事に対して
多少のマンネリ化を感じていました。


このままいけば
生意気な話
同じような毎日
作業をこなすだけの毎日
淡々と過ぎていく毎日


になっていくのが
一番怖いと感じていた時期です。


人間なれた仕事で
給料が入ってきて
当たり障りなく毎日が過ぎて行き
生活して行く事は悪いことではないかもしれませんが


私自身何か自分自身に目標や
やりがいが見えないと感じている場所にいるのは


周りにも迷惑をかけるし
自分もそれでは全力で仕事が
出来ないと感じていました。


そろそろ
次に移行する時期だなって思う訳ですね。

筋トレも同じメニューを同じ不可で繰り返していれば
筋肉は大きくならない



自分をさらに成長させるために次のステップへ
行きたい


このままの
状況でいる事を変えて行きたいな。
そう感じるようになります。


次のステップにそろそろ進む時
そう感じていた訳です。



トレナーの世界も
40歳を超えて来ると
年俸も上昇し年齢と共に体力の低下
などなどいろいろな問題が出て来るため


40歳を過ぎると
来年も契約があるかどうか?
は全くわからないといった状況になってきます。


当時私は34歳でしたので
セカンドキャリアの
スタート時期に最適だと考えていました。
むしろ少し遅いくらいか・・



2012年の
1月中には今年いっぱいでの退団を決め
自分に何ができるのか?
を模索し始めます。



やるからには
どこかに
就職する形ではなく



自分の経験したことを
自分の思うように
自分がやりたい
仕事をやれる環境を作る


これらが


最大の目標であったので


迷わず独立起業することを
選択します。



その後
2013年に整骨院を開業し現在に至ります。
星野監督から最後の一年で得たもの

最後の一年はトレーナーの退団などで
トレーナーのチーム編成を変更する事になり
1軍で仕事をする事になります。


この時の
監督が星野仙一監督でした。



楽天といえば負けても普通
勝てなくてもしょうがない
自分の事だけやっとけばいいか



どこか
まとまりがなく
諦めることを受け入れる姿勢であったり
練習もとにかく全力ではやらずに手を抜く

といった甘えがあるチームでした。

少なくても私からはそう見えました。



このチームの状況に
星野監督は納得いく筈もなく
就任されてからチームの雰囲気は激変します。



戦う集団に変貌を遂げて行きます。



選手は常に全力を求められる
勝負にこだわる
勝てなくて当たり前なんかあり得ない



今までとは
真逆のチームになって行きます。



当然
トレーナーへの
要求は厳しい物になります。




当時私が
一軍の試合中にベンチ入りしている際
ベンチで何度も怒鳴られた事もあります。



あれほど
ピリピリした空間を
体験したのは人生初でした。



勝負にこだわる
負けたら心の底から悔しがり
次絶対に負けないように準備する



星野監督の姿勢は本当の勝負師

長いシーズンであっても
一日一日を大切に本気で臨んでいる
方でした。


仕事ってこうやって
真剣に本気でやるものなんだな


星野監督から沢山の事を学ばせて頂き
今も私の心の中には残っています。


2012年も終わりが近づき
この頃には
整骨院を開業すると心の準備も整い


退団後
大阪にまず初めの整骨院を
開業する事になります。

楽天を辞めた時
トレーナーとしての仕事は自分はもうやり切った
もう思い残すことは全くない

次は自分の運営する事業の成功を
最大の目標として動き始めました。



まずは
自分の経営する店舗の地盤を固める事に集中
しなければ次のステージややりたい事には進めません。


事業は起業して5年以内に90%が潰れてしまう。
これが一般的な確率


起業して1年目までの綱渡りを乗り越えなければ次のステージに進めない。
ここから新たなチャレンジが私の中で始まりました。


ここを乗り切れたのも
若い頃の経験が大いに役に立っています。


過信かもしれないけど自分なら絶対に出来る
と思う気持ちが
心のど真ん中にあったからこそ1年目の綱渡りを乗り切れたと思っています。



開業後は
トレーナーとして
現場に関わることはほぼなく依頼があっても
受けることはありませんでした。


年に一度だけ
プロ野球選手の自主トレの期間に数日間
大阪の自宅から近くの


京都のわかさスタジアムで
自主トレをしていた
楽天の藤田選手や岡島選手のサポート

を少しさせて頂く程度で
ほぼ現場を離れた状況が続きます。


この時はもう
トレーナーをやりたいという気もなく
ただのお手伝いに行く感覚だったのを覚えています。


2014年には仙台に新たな
店舗マッスルケア仙台も
開業し

もう一度仙台に戻って
立ち上げを行う事になります。

治療院の現場に自分が出ていた当時

私の
運営する店舗にはたくさんの
子供たちがきてくれるようになっていました。

野球・サッカー・テニス・ゴルフ
バドミントン・陸上・水泳
フィギアスケートなどなどあらゆる種目
に関わる子供たちとの関わりの中で


子供の段階でなぜこんなにも
怪我や故障が多いのか?



なぜ?
一週間に
1度か2度しか練習もしていないのに
手術をしなければならないほどの
怪我に至るのか?

などなど


とても疑問に感じることが
度々発生していることを知る事になります。


まずは
指導している指導者が
指導するための技術の専門知識を持っていない。
ボランテイア指導員でプロの指導者ではないケースも多い



特に野球はライセンスなどなく指導しているのは
野球を少し自分が経験した専門知識に乏しい


保護者が行なっているケースも多い


子供たちが活動するスポーツの現場には
医療知識を持った正しくトレーナー活動ができる人が
ほとんどいない。

近隣の医療機関や
整骨院の先生たちがボランテイア活動で
トレーナーを行なっているが



あくまで
ボランテイアレベルとしての活動であり
トレーナー活動とは
言えるレベルではない



こんなことを私は感じました。


子供たちを故障から守るために
トレーナーを育成する必要があると
感じるきっかけになります。



ジュニア世代のトレーナーとして
関わっていきたい!

というトレーナー志望の若手も多くいます。


その若手たちに
しっかりと



プロトレーナーとして自覚を持ち経験を積み
プロアスリートからジュニアアスリートまで
担当できるだけの実力をつけて欲しい



そして
子供たちのスポーツの現場に
超一流のトレーナーを浸透させ
子供たちを故障から未然に防ぎ



スポーツを怪我で止める事なく楽しんで欲しい



そう思い
また自分もスポーツの現場に
トレーナーとして戻ってみたい
若手トレーナーに私の経験を伝え
超一流に育てていきたい。


そう感じるようになっていきます。



一度はもう引退しようと決め
もう戻ることはないと思っていた
スポーツの現場での
トレーナー活動をまた
再開しようと思ったきっかけはこれでした。


将来的には
トレーナーを育成する仕組みを
作って

若い頃自分が描いていた夢と同じ
夢を持っている
若手や


トレーナーとして仕事がしたいけど


全くルートがなく人脈もツテもない
人たちに何か提供できないか?
この頃漠然とこんなことも考えていました。


それが今では形になり

2018年から
行なっている
トレーナーの育成事業のActの
仕事になります。

次のステージへ


店舗の運営も軌道に乗り
徐々に店舗の現場に出る機会が減り始めます。



この頃から
運営や経営の方に自分は集中していくように
意識的に変えていきました。


経営運営に
自分の立場を移行させ


時間を作り
トレーナーとして若手育成や
スポーツの現場にまた関わっていく事に
決め
そのための準備を進めていく事になります。


その
タイミングでちょうど


千葉県の館山市にて
プロ野球選手たちが10名近く集まり
自主トレをしている場所があるけど


トレーナートとして
関われないか?


以前一緒に楽天時代に仕事をしていた
関係者にお話をし


快く受け入れてくれました。


その後
2017年から現在まで
プロ野球選手の自主トレのサポートを3年間


させて
頂く機会を頂いています。



選手の人数も
10名近くの大所帯なので


ここに
トレーナーになりたい希望者や
現在すでにトレーナーとして
活動をしているメンバーに来てもらい


サポート活動をしてもらう
機会も作っていきました。

トレーナー育成を事業として
本格稼働


現在は
トレーナーとしてスポーツの現場で
再び仕事をする

機会も増えてきました。


日本にはトレーナーになりたいと
決めて
資格は取得したけれど



実際に

トレーナーとして仕事ができている
人ってどのくらい居るのだろう?


スポーツの世界に関わりたいと
考えて資格を取得したけど
ほとんどの人はスポーツとは無関係の場所で仕事をしています。


そんな人たちに学べる環境と

実際に活動するための環境を
提供して行きたい。


これが今の
トレーナー活動を本格的に稼働させる
きっかけになった動機です。



若手トレーナーを育成して
実際に本人たちが望む場所で仕事ができる環境を作る
事に2018年5月からスタートしています。


2019年1月の現在のところ

学生・病院や治療院勤務・治療院経営
学校の教員の方など


総勢会員の数は
約80名までになっています。



月に一度
セミナーで学ぶ
常にグループラインやフェイスブックのグループで繋がり
質問ができる環境を作る。



通常
聞くことができないような
セミナーの講師を外部から招く



プロと関わる機会がないような
会員のメンバー
にどんどんプロレベルの
トレーナー活動の場所を提供させて頂き



一緒に現場で必要なスキルを学ぶ経験する。


本に出ていない
経験や知識の提供



トレーナーとしての成功や夢の実現
を提供できる場所を作るため
日々活動しています。


これから先
私に与えられた役割は
若手やトレーナーの質を高め
日本にスポーツトレーナーの仕事を浸透させ


スポーツの世界の底上げ
日本のスポーツのレベルを上げる


スポーツを通じて
多くの方に感動を与え
地域の怪我に苦しむ方を救い出すこと


スポーツ観戦などスポーツを

楽しめる場所をたくさん
提供していきたいと思い活動しています。




是非一緒に活動できる仲間を一人でも多く増やし
成長して行ける環境を作りたいと思い

日々活動をしています。



トレーナーとして活動し
遠征先の宿舎でも施術や動作解析の
勉強会を開催

水戸部哲也への質問・ご連絡先はこちら!

LINE
ID:@vvw7054u
(@もお忘れなく!)

LINE登録後ご質問は
LINEからお願い致します。