「住み良い世界になってほしい」
志ららの願いはただそれだけであったはずなのに。
世の中の流れは、どうして思うように運ばないのだろう。
慣れ親しんだガラケーに目を落とし、志ららはため息をついた。
モバイルバッテリー?
ワイファイ?
ライン?
それが無ければ幸せになれないとでも?
そんな馬鹿げた話が、この世にあっていいはずは無い。
向かいの男が滔々と最新機種の利点を並べ立てているようだが、志ららの耳にはひとつも入っては来なかった。


「待てってば!ちょっと志らら!」
志ららが無言で席を立つと、こしらは慌てて引き止めた。
「もうダメなんだって。どんなにお前が望んだって、そのガラケーはもうすぐ使い物にならなくなるんだから」
黙ったままの志ららに、こしらは何度目かも分からない台詞をまた繰り返す。
「お前が使えるように、俺が選んでカスタマイズしてやるから。俺に任せろって。な?」

だめだ。
この男の言うことを信用するわけにはいかない。
うっかりこの男の口車に乗せられて痛い目にあった過去がどれだけあったか。

喋り続けるこしらには目を向けず、志ららは手元のガラケーに語りかけた。
「お前はなにも悪くないのにな。どうして、このままお前と一緒に暮らしていってはいけないんだろう。」

常軌を逸した志ららの様子に、これ以上の説得は無理だ、と悟ったこしらが声の調子を変えた。
「なぁ、志らら。お前の気持ちは分かった。その願いを叶える手段は、実はひとつだけ、ある」


「本当なのか、その話は」
今までと違う言葉に、思わずこしらの顔を見て聞き返した。
「ああ。お前はそのガラケーをずっと使い続けたいんだろ」

そうだ。
それこそが自分の願い。
どこを触っているのかも分からないガラス面じゃなくて、配置されたボタンを押す確かさと、それに呼応してくれる堅実な一体感。
自分の必要を過不足なく補ってくれているこのツール。
それ以上、何が必要なんだ?
「便利なのに」
と、人は言う。
「便利」ってなんだ?
俺は何ひとつ「不便」を感じていないのに。
iPhoneだかアンドロイドだか知らないが、俺には全くスマートに見えないあの無機質な四角い板に、何故罪も無いガラケーが絶滅にまで追いやられなければいけないんだ。

「あるのか。そんな方法が」
こしらの目を見据えて、志ららが尋ねた。
「そうだ。ある。いや…あるには、ある」
言い切った割に歯切れの悪いこしらの口ぶりに、軽い苛立ちを感じつつも志ららは次の言葉を待った。
「基地局を買えばいいんだ」

想定外のこしらの言葉に戸惑った。
「きちきょく?」
「そう。でもそれだけじゃダメだ。無線従事者免許…その中でも最難関の総合無線通信士免許が必要だな」
「は?」
「とりあえず志ららは都内で使えればいいんだろ。じゃあ23区内の主要な区だけでいいよな。だいたいお前の行動エリアだと、千代田区、港区、新宿区…」
「ちょっとちょっと、こしらさん」
ペラペラと喋りの波に乗り始めたこしらを、たまらず遮った。
「なに言ってるの?」
「なにってさ。お前、このガラケーを使いたいんだろ、ずっと。じゃあ基地局ごと電波買い取って自分でやるしかないじゃん」
この男の言っている話の内容はひとつも分からないが、おそろしく荒唐無稽なことだけは確実に理解できた。
「あのさ。それ、いくら掛かるの?」
「うーん。そうだな。ざっと1000億…いや、3Gならそこまでいかないか。俺なら500億で行けると思う。都内だけなら…ま、100億、ってとこか」
自信満々に言い切るこしらの顔に、軽く目眩がした。
「どう?」
「……どう?じゃねーんだよ! なに言ってんのアンタ!馬鹿じゃないの?!」

「ハァ?」
こしらの口元に張り付いていた笑みが消え、表情が一変した。
「馬鹿はお前だろ。いつまでそのポンコツ握りしめてんだ。くだらねえ理屈をいくら捏ねたって、変わってくものは変わってくんだ。それが嫌なら糸電話使ってろっつってんだよ!」
冗談めかした激昂だが、本意は感じ取れた。
沈黙の後、絞り出すような声で志ららが言った。
「……やっぱり、無理なのか」
「無理じゃねーよ。だから500億出したら俺が何とかしてやるって言ってんだろ」
「無理なんだな。そうか……」

掌の愛機を改めて見つめると、これまで共に過ごした蜜月が脳裏に去来し、流れていく。
ボタンを押す度に、律儀に「ピッ」と応えてくれるお前。
バッテリーの劣化をできるだけ少なくするためにギリギリ0%まで使い切り、予備のバッテリーと交換する時の達成感と充実感。
お別れなのか、お前と。
視界がぼやけ、せり上がった嗚咽を飲み込んだ。

「ウソだろ。お前泣いてんの…?」
こしらが半笑いなのはきっと、この状況を洒落のめしてくれるための優しさだろう。
志ららは鼻をひとつ啜り、今度こそ荷物をまとめた。
「こしらさん。俺、分かったよ」
虚空(こくう)に向かって、志ららが言った。
「終わりが来るんだ、ってことは分かった。それなら俺は、最後の日までこいつを使い続ける。そう決めた」
呆れた表情を浮かべているであろう相方に背を向け、志ららはドアを開けて出て行った。

「結局、先延ばししただけじゃねえか。ね、段さん」
こしらが独りごちつつ相槌を求めると、傍らで作業しながら2人の会話を聞いていたゆにおん食堂のマスターは、何も言わずに微笑んだ。
こしらは ふ、と短く息を吐き、マスターに聞き取れないほど小さな声で呟いた。
「ま…あいつらしい、か」

おしまい