I am
Yoko
Hiramoto
I am Yoko Hiramoto

♡ 平元陽子  幸せのレシピ ♡

プロフィール

平元 陽子
Yoko Hiramoto
東京都出身
昭和44年生まれのアラフィフ
長所 其の1 何歳になっても素直なところ
長所 其の2 信頼関係を築けること
長所 其の2 信頼関係を築けること
『 幸せのレシピ 』
by
平元 陽子

MY STORYS

■お仕事遍歴■

日系大手証券会社3社
外資系証券会社2社
合計5社にて
27年間証券会社の営業部門に勤務

■社会人としての遍歴■

大学を卒業してから証券業界の道を歩きだす。

バブルが弾けた直後に個人営業に従事し、全国トップ10にも選出される。
入社2年目にして自分のチームを持ちリーダーとして、自身とチームの目標達成に向けて尽力し、毎日新聞にも掲載される。

元来の人好きと好奇心によりお客様と接することが何よりも楽しかった個人営業時代。
この時に培われたお客様目線や目標達成スキルはその後の礎となる。振り返れば私はお客様に育てて頂いたのだとしみじみ思います。

その後1年アメリカボストンへ遊学、Harvard University Extension Schoolで語学を学びつつ、Boston Children’s MuseumのJapan Houseにて日本文化を広めるべくボランティア活動に勤しむ。

帰国後は英語を使って仕事がしたいという思いから、外資系証券会社で派遣社員として働き始める。
当時は女性が再就職するというのは当たり前ではなく、派遣社員としてマイノリティ文化も体験。
正社員になる契約をする前日に会社が合併した際にはアメリカ人上司が派遣社員の私へ破格のボーナス支給という神対応に派遣会社では前代未聞の出来事として記録に残りました。

それからは株を売買するトレーディング部門にて小さな会社が大きく成長する歯車として、また大会社の改革を請われてイギリス人上司と日系の会社に転職し、いかに効率よく業務運営できるか?を問い続け、マネジメントを支える後方部隊に従事。

私自身、金融機関という男性社会に長く属していたため、モデリングとなる先輩女性が職場にいませんでした。
だからこそ後に続く女性達に自らの体験を口伝し若手育成にも注力してきました。

■得意なこと■

売り手と買い手を仲介する証券業で長くマッチング業に携わっていたことより元来の「ピン」とくるアンテナに磨きがかかり、人や企業様のニーズを嗅ぎ分けご縁を繋ぐマッチング力や、必要な人に必要な言葉を伝える言葉にも力があります。

上流から下流へ流れるようなビジネスフローの構築や、無駄を省くシステム開発を得意として多くのプロジェクトの成功に携わりました。

また、多くの人が長時間をかけても乗り越えられない心の壁を軽く乗り越える不思議な力のお陰で、国内外の様々な場でご縁を紡いできました。

会って話をするだけで癒される、勇気を貰えると男女問わず様々な世代の方から信頼を頂いています。

■人間としての遍歴■

東京都武蔵野の大地にて1800グラムの未熟児としてこの世に生まれますが、生まれて暫くは保育器で育ち、退院後は粉ミルクでスクスクと育ちます。

この時に一緒の保育器にいた男の子が亡くなり、子供の頃にそれは自分のせいだと責められる夢を見て「自分責め」の念が芽生える。

2つ上の兄は親族の中で初内孫、地元では珍しいほどIQが高く勉強もスポーツも難なくこなす出来る子でした。

そもそも私は12月生まれの未熟児だから同学年の4月生まれの子と比べると明らかに「スロー」でした。

しかし、そんな自分の個性も知らず誰かと比べては「出来ない私は価値がない」を強化し、兄と比べ「私は愛されない」も強化して、ついには愛されない、私は生きている価値がないと思い込みますが、本当はただかまって欲しかった幼少期でした。

中学校の時は大好きだった彼に本当に思っていることを恥ずかしくて言えず苦しい想いを友達に伝えたら、先回りして彼に友達がその話をして、逆に彼から別れを告げられる。
「本当はまだ好きなの」と友達に話したら、また別ルートから女子グループに呼び出され、「もう○○くんはxxちゃんと付き合っているのだから!」と円陣を組まれボコボコに言葉の暴力を受け15歳にして「男が絡むと女はめんどくさい!」と女子高—女子大へ進学を決意しました。

舞台女優を目指したり、アンチJapan時代があったり、夜のバイトをしてみたりと、好奇心は人一倍。
「知りたい!」をアンテナにいろんな事をした学生時代。

黄金のハリウッド時代の映画が大好きだった影響で英語を勉強し学生時代後半は東京American Clubでバイトに明け暮れ、そこで出会った4歳年上のイギリス人駐在員と21歳で恋に落ち、27歳の時にHarvard大学院でMBAを取る彼に合流するために「結婚します!」と寿退社し、親戚からご祝儀を頂き遠距離恋愛の末に渡米。

が…1年で破局し帰国。

頂いたご祝儀を親戚に返しにいく両親を心苦しく思いながら貯金も仕事も男も全てなくなった28歳。

悲しくて、苦しくて気づいたら頭の皮が一枚むけて、この気持ちは誰にもわかってもらえないと心に鍵をかけました。

でもこれも本当は悲劇のヒロインになりたかっただけでした(笑)

そこから一生懸命がむしゃらに働きました。
幸い良きご縁に恵まれ、着実に評価もお給料も上がりました。
朝から晩まで一人で頑張って働いていたある夜、身体に異変を感じました。

それは「耳鳴り」でした。

私の母は耳が悪く、私に遺伝する事をとても恐れていたので、その時、私は母に言えませんでした。
同時に自分の耳が悪くなる事を運命のように淡々と受け止めている私もいました。

それでもなんとか数年は仕事に支障は無かったのですが、だんだん聞こえない場面が増え不安が募り、ついに母に打ち明けて病院に行き検査をしてみると、私の難聴は母からの遺伝ではありませんでした。

最初に耳鳴りがあった時に病院に行っていたら治ったかもしれないと先生に言われました。
なんという思い込み、なんという自分放棄だったのだろうと後悔しました。

「事実確認」は本当に大切な初動だと痛感しました。

そしてこんな思いをして続ける仕事はどこにもないと業界を去ろうと決意したら、かつてのイギリス人の上司がもう一度日本に戻るから一緒に仕事をやらないか?との電話がありました。
これまで仕事をしてこられたのもこの上司との出会いがあったからと思い、「あと1年だけ!恩返しのために一緒に働こう」と転職しました。

転職してみるとこれまでにない程会議に出る必要が生じ、私が課されたミッションを遂行するには余りにも聞こえなさすぎました。

「聞こえないで質問に答えられないのと、分からないから答えられないのは違う!」と思い、初めて「補聴器」を手にしました。
実際利用してみるとこれまでたくさんの音を聞き逃していたのだと気づき、会議でも発言することができるようになり人生は再び豊かになりました。

「私が私を諦めなくて」本当に良かったと思う瞬間でした。

補聴器を利用して生活が楽になる反面、私は補聴器を使っている事を誰にも言えなくなってしまいました。
耳鼻科の先生は「視力が悪い人がメガネをかけるように、聴力が悪い人が補聴器をつけるのは同じで、補聴器はあなたの個性だよ」と言ってくださったけど、当時の私はその言葉を受け止められずに泣いてしまいました。

その帰り道に、黄緑色の補聴器をして、髪をポニーテールにしている若い女性を電車で見かけ、あんな風に補聴器をしている事を包み隠さず生きられるようになりたいと圧倒されたのは忘れられない場面です。

 その頃は出来ない自分は価値がないと思い、誰にも弱みを見せられずに自分に鞭を打ち取り繕って生きていました。仕事も充実して、時間もお金も自由に使え気楽な独身生活の私を側からみたら悠々自適に見えたかもしれませんが、本当は水面下では激しくもがいていました。

恋愛もうまくいかない、ハウリングが怖くて男性に抱きしめられても変なリアクションをするし、補聴器の電池を変えるのも人前で出来ず挙動不審だらけでした。

もう息苦しくて、どうして本当に欲しいものは手に入らないのだろう?

どうして私は生きているのだろう?と40代になり自問を繰り返していました。

病気がちだった幼少期に高熱を出しては三途の河を渡りそうに何度もなり、24歳の時に大参事の交通事故でも指一本の剥離骨折しかしなかった私。

何度も生かされてきた私の命。

私は何のために生きているのか?

最後に辿り着いたのは「死なない為に生きている」でした。

そんな時に始めたばかりのFacebookで後輩があるセミナーで人生が変わったとの投稿を見るや否や、藁をも掴む思いで申し込みました。

そこから私の自分探しの旅が始まりました。

 

日本中を学びで駆け巡り、海外にも「ピン」とアンテナが立てば学びの場を広げました。
フルマラソンや、イタリアを自転車で横断して自分の限界に挑戦し、また内なる私と繋がる感性を磨くために書道も始めました。

自分を知るために貪欲に自己投資に時間とエネルギーを費やしました。

そんな旅の途中にはたくさんの衝撃と素敵な出会いがありました。

それらが今の私を作る「幸せのレシピ」だったのです。

■幸せのレシピ■

「あなたはどんな人ですか?」と問われたら
みなさんはどう答えますか?

「私は素直に自分を愛している女です」
これが私の答えです。
<自分を知る>

自己評価が低く、自己否定が大好きだった私ですが、今でもそんな思いぐせはたまに顔を出しますが、そんな時は一旦その思いを抱きしめて、「本当にやりたい事」にフォーカスして今を誠実に生きるようにしています。

自分がどんな気質や思いグセを持った人間なのか?
一度立ち止まって自分の歴史の紐を解いて考えてみることは、その先の長い人生を生き易くするヒントが溢れていると思います。
どんな自分であれ、どんな過去があったとしても、私達が作り出せるのは「未来」だけ。
そして私達が生きられるのは「今」だけなのです。
<人生のメンターとの出会い>

学びの旅の初めに後に私の人生の師匠となる方に言われました。

「平元さん、本物を勉強しなさい。一流の質屋は本物しか見ないのだよ。本物を見て、感じて味わい自分の心に生まれる感動を刻むことで、偽物を見抜く力が培われるのだから」と。

それ以来たくさんの本物に触れる機会を頂きました。
確かに本物には思考からではない心に訴えかける何かがあります。

その感動を信じ大切にすることを教えて頂きました。
<書道>

子供の頃にしていたのは「お習字」で、大人になって始めたのは「書道」であると気づきます。

自分と向き合い、書と向き合う静かな時間はまさに「道」。

書を通して自分の殻を破り、一歩前に踏み出す作業は自己研磨そのものです。
大きな半切に筆を走らせる時にはなんとも言えない内なるエネルギーを感じます。
私そのものを映し出す白と黒の世界。

書道の師との出会いがなければこの境地を味わうことがありませんでした。

あっという間に5年が過ぎ、まだまだ道のりは長い書道ですが、今の自分を客観的に観察出来て、自分の内なる創造性を成長させる大切な時間です。

<オーガニックコットン>

43歳の冬に突然体が疲れやすくなり、体調が優れなくなりました。

健康診断の結果から、子宮の真ん中に大きな腫瘍が出来ていた為の貧血でした。

そこで一旦全ての活動を停止した時に出会ったオーガニックコットン。

友達に誘われて参加したお茶会で初めてコットンボールを手にした時に、想像をもしなかったその優しさ、暖かさに包まれて泣き出してしまいました。

両手から伝わってくるその暖かさはまるで大きな愛にすっぽりと抱きしめられているようでした。

コットン触って泣くなんて本当に自分でもびっくりしましたが、自然の力、大地の豊かさ、大きな愛を体感して癒されました。

布ナプキン、腹巻き、布おりものシートに出会って自分の身体は自分で作るという概念が私の中に生まれました。

自分にとって必要な情報を自分で選択する、人任せではなく自己責任。

それが人生観にも繋がっていくのです。

自分の心に正直に生きることが私の身体にも影響を及ぼすことを知りました。
身体が冷えていたら、背中も丸くなるし、眉間に皺も寄っちゃいます。

身体を温めることで胸も開いて歩けるし、真っ直ぐに前をみて歩けます。
<九星気学>

今では新規のお客様は受けない気学の大先生との出会いで、人生には9年のサイクルがあることを学び、土を耕し、種を蒔き、水をやり、収穫、枯れるまで、自分が今どのサイクルにいるのか?を知ることは日々の出来事に振り回されず、確実に自分の行きたい道を目指すコンパスのようなものになりました。

特に吉方旅行一人旅は格別な旅。
旅の目的はその土地に行くこと!
だからこそご縁に導かれる不思議な自由時間が生み出す特別な旅が生まれるのです。
このご縁に導かれて繋がる日常感覚はまさに「委ねる」ということを体感出来る旅なのです。
気学を学び始めてから目に見えないエネルギーの力をより一層実感するようになりました。
<おしゃれ>
私を表現するのは内面から湧き出るものと、外見的な印象です。

かつての先輩が「装いのプロ」パーソナルファッションディレクターをされています。
「年齢を重ねるほど美しく、楽しく生きる人を創る」をミッションに活動されていて、私らしい装いのご提案を頂きます。

このホームページ用のお洋服もご提案頂いた素敵なお洋服達です♬

女性は幾つになっても「私」という華を咲かせることを楽しみたいですね。
<仲間>

心の旅を始めた私は貪るように学びのために日本各地ならず世界中に学びの場を求めました。

そこで自分の内面に向き合っている人は男女、年齢、職業、そのバックグラウンド問わずしてたくさんの人が自分の人生をより良いものにしようと、自分の課題に向き合っていることを知りました。

一人の人間同士、お互いの人生に関わりあえる喜びを教えてくれた仲間と出会えたことはかけがえのない宝物。

出会いと別れの一期一会大切にしています。

■今の私■

自分の枠を破ってチャレンジをして時にへこたれながら私の人生は変わっていきました。
私が私と繋がれるようになり他人軸ではなく自分軸で生きるようになり、ありのままの自分を私が愛せるようになった頃ようやくパートナーと出会いました。

ずっと近くにいた人でしたが、それまでの私は見ようとしなかったし、気づきたくなかったのでしょうね。ずっと長い間、「愛されない私」が私の正解だったから愛されないように生きてきたのです。

私が私に「幸せになっていいよ」って許可を出したらスルスルと運命の輪が転がっていきました。

今が一番幸せです。

私の心にやっと「円満」がやってきました。

この出来事から、私は目の前に広がる世界は全て私が作っていることを実感する大きな気づきとなりました。

■これからの私■

アラフィフになっても絶賛日々成長中の私ですが、アラフィフまで生きてきたからこそ言えることもたくさんあります。

昔ジンバブエの日本大使館に勤めていた友人から聞いた大好きな話があります。

ジンバブエでは嫁ぐ花嫁さんを囲んで、年長者達が若い花嫁が結婚生活を上手くやっていけるように願い様々な叡智を授ける女子会があるそうです。
この話を聞いてすごく素敵だなって思いました。


核家族が進む日本で、家族や親戚間でもそんな話ってしないように思います。

「豊かさ」とは選択肢が増えることだと思います。

「これしかない!」と自分を追い詰めるより、
「こんなこともある、あんなこともある、どれを選択してもいいんだ!」と
思えたらきっと心も身体もふんわりすると思います。

私達には無限の可能性があって、目には見えないその種は確実に私達の中にあるのです。

私がブレンドした「幸せのレシピ」を真心込めてお伝えしていくこと。

これが私のこれからの人生で成し遂げて行くことです。

皆さんとどこかでお会いできるのを楽しみにしています!

■社会人としての遍歴■

大学を卒業してから証券業界の道を歩きだす。

バブルが弾けた直後に個人営業に従事し、全国トップ10にも選出される。
入社2年目にして自分のチームを持ちリーダーとして、自身とチームの目標達成に向けて尽力し、毎日新聞にも掲載される。

元来の人好きと好奇心によりお客様と接することが何よりも楽しかった個人営業時代。
この時に培われたお客様目線や目標達成スキルはその後の礎となる。振り返れば私はお客様に育てて頂いたのだとしみじみ思います。

その後1年アメリカボストンへ遊学、Harvard University Extension Schoolで語学を学びつつ、Boston Children’s MuseumのJapan Houseにて日本文化を広めるべくボランティア活動に勤しむ。

帰国後は英語を使って仕事がしたいという思いから、外資系証券会社で派遣社員として働き始める。
当時は女性が再就職するというのは当たり前ではなく、派遣社員としてマイノリティ文化も体験。
正社員になる契約をする前日に会社が合併した際にはアメリカ人上司が派遣社員の私へ破格のボーナス支給という神対応に派遣会社では前代未聞の出来事として記録に残りました。

それからは株を売買するトレーディング部門にて小さな会社が大きく成長する歯車として、また大会社の改革を請われてイギリス人上司と日系の会社に転職し、いかに効率よく業務運営できるか?を問い続け、マネジメントを支える後方部隊に従事。

私自身、金融機関という男性社会に長く属していたため、モデリングとなる先輩女性が職場にいませんでした。
だからこそ後に続く女性達に自らの体験を口伝し若手育成にも注力してきました。

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