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塚本泰英

Baseball History
日本野球の歴史を探る

【甲子園大会 編】

はじめまして、塚本泰英と申します。


子どもが野球を習い始めたのをきっかけに野球について調べてみたのですが、
意外と奥深かったので皆さんにもお伝えしたいと思います。

現在、日本の国民的人気スポーツの1つである「野球」。

テレビなどで一番よく目にするのがプロ野球だと思いますが、
夏、甲子園で開催される「高等学校野球選手権大会」や大学野球、海外の「メジャーリーグ」などさまざまな方法で観戦してプレーを楽しむことができるスポーツでもありますよね。

今回は、その中でも今年も私の胸を熱くしてくれた
【「高等学校野球選手権大会」通称『甲子園大会』】の歴史を、
野球の起源や、野球は日本にどうやって伝わったか、などをまじえて見てみましょう。

まずは、野球の誕生秘話を・・

野球の歴史ははるか昔、先行人類の時代には始まっていたとされています。
この時代の人々は足の速い動物を仕留めるために石を投げていたとされ、
当時の石は現在の野球ボールと同じ大きさの石を使用していました。
この大きさの石が使用されたのは命中率、威力を兼ね備えたちょうどいい大きさであったためとのこと。

その後古代エジプトなどでは王が棒で打った球の飛び方で「農作物の出来を占う」占いが流行。
この頃も「遊び」というより「自分たちの生活を占う」重要なものであったわけです。

時代が進むとヨーロッパで野球につながる新たなスポーツが生み出されます。
12世紀頃のフランスで「ラ・シュール」という、2チームで足や手、棒などを使い敵陣にある2本の杭の間にボールを通すゲームです。

当時は非常に人気の高いスポーツでしたが、一方で死傷者が出ることもあったようで、
足や手が出るわけですから「格闘技」のようなイメージでしょうかね。

この「ラ・シュール」はイギリスに渡ると牛や豚の直腸、膀胱を使ったボールを敵陣内のゴールまで運ぶ「ストリート・フットボール」に発展。

その後は石に草の茎、糸を巻き付けて作ったボールを使うスポーツが流行しました。
イギリスの子どもの遊び、小石を詰めた靴下などのボールを打者が船の艪(ろ)などのバットで打ち返す「ラウンダーズ」、
打者が棒で打った打球をノーバウンドまたはワンバウンドで捕球した者が次の打者になる「ワン・オールド・キャット」。
当時の人々は周りにある物を利用、工夫しながらスポーツを発展させていたようです。

こうしたスポーツはルールを変えて遊ばれて、
「走者が4つの塁をすべて回って本塁に帰れば得点」
「投手が打者に投球、打者は打ち返す」
「フィールドにいる野手が打球を捕球、打者走者にぶつければ打者アウト」。
明確なルールはないものの、現代のルールとほぼ変わらなくなってきた部分もある一方で、
「サヨナラゲームが無い」
「ピッチャーはバッターの打ちやすい球を投げる」
など、現在の野球のルールとは全く違うルールもあったようです。


その後野球は、プレーのスピードアップと投打のバランスなどを取りながらどんどん進化していきました。

ついに日本に伝わった野球
~野球伝来から近代野球へ~

古代から始まった野球。
その後ヨーロッパ、アメリカと渡ってきた野球は、ついに明治時代に日本へとやってきました。

日本で野球を最初に教えたのが、1871年(明治4年)に来日した
アメリカ人教師ホーレス・ウィルソン。


当時の東京開成学校予科(現在の東京大学)で生徒に野球を伝えると、
野球人気は日本全国へと広まることになったそうです。
【その場所には「日本野球発祥の地」の碑が建てられています(写真)】

ウィルソンは2003年に野球を日本に伝えた功績を称えられて「日本野球殿堂」入りを果たすことに。
日本に野球を伝えたのは教育に関わる人物でした。

 

その後・・・
◎1878年:平岡ひろし(日本初の民間鉄道車両メーカー・平岡工場の設立に携わった人物)が日本初の本格的野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を設立、4年後には駒場農学校(現在の東京大学農学部にあたる)と日本初の対抗戦を実施。

◎1896年:青井鉞男が投手を務めた「旧制一高ベースボール部」と「横浜外人クラブ(現在の横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ)」が横浜外人居留地運動場(現在の横浜公園)で対戦、旧制一高が29対4で大勝。


日本でも野球人気は高まる一方でした。

*野球雑学*
いつから「野球」という言葉が使われるようになった?

現在では「野球」「ベースボール」という言葉は一般的なものとなりましたが、
「ベールボール」を初めて「野球」と訳したのは
「第一高等中学校」の野球部員であった中馬庚(ちゅうま かのえ)。

1894年(明治27年)に刊行した「ベールボール部史」を執筆途中に
「Ball in the field」という言葉を「野球」という言葉に翻訳。
中馬は執筆から3年後の1897年(明治30年)には一般向けの野球専門書「野球」を出版、
その後1900年代に入ると「ベースボール」の訳語として「野球」が一般的に使われるようになります。



【中馬 庚(ちゅうま かのえ)】
ベールボールを『野球』と訳した球人

1897年に野球研究書「野球」を著作。
これは単行本で刊行された本邦最初の専門書で我が国野球界の歴史的文献と言われている。
一高時代は名二塁手。大学に進むやコーチ・監督として後輩を指導。明治草創時代の学生野球の育ての親と云われた。

夏の甲子園大会が始まる
1915年~

~1939年
始まりは10校、「聖地」も完成

 全国中等学校優勝野球大会の名称で、第1回は10校が参加して1915年に開催された。
場所は大阪の豊中グラウンド。
甲子園球場(当時は甲子園大運動場)が完成するのは24年だった。
米価が暴騰し、米騒動が起きたのは18年。
地方大会を勝ち抜いた14校が大阪入りしていたが、大会は中止になった。
JOBK(現NHK大阪放送局)がラジオで実況放送を開始したのは27年。
29年、甲子園球場のアルプススタンドが完成し、翌年、参加校数は500を突破した。
ただ、37年に北京郊外で盧溝橋事件が起きるなど、戦時色は徐々に強くなっていく。

1940年代
戦争による中断、そして復活

太平洋戦争への突入、その後の敗戦と、1940年代は高校野球の歴史にとっても暗雲に覆われた時代だった。
太平洋戦争が始まった41年は地方大会のみ実施され、翌年から大会は4年間中止に。
戦争が終わると、甲子園球場は米軍によって接収された。
だが、大会は力強く息を吹き返す。46年、全国中等学校野球連盟(現・日本高等学校野球連盟)が発足し、西宮球場で大会は再開。
47年に参加校数は1000を超え、7年ぶりに全国選手権が甲子園球場に戻ってきた。
翌48年は学制改革があり、大会名を現行の「全国高等学校野球選手権大会」に改称。
今も歌い継がれる大会歌「栄冠は君に輝く」が全国募集で制定された。

1950年代
できあがる「原型」

戦後の色合いが残る1950年代、現在の高校野球の「原型」が少しずつできていく。
戦時中に供出されていた内野席の大屋根が51年、甲子園球場に戻ってきた。
銀色のアルミ製で、「銀傘(ぎんさん)」という愛称がその後、定着していく。
ポジションを示す「背番号」を初めてユニホームにつけてプレーしたのは52年。
翌53年には、NHKが初めてテレビの実況中継を始めた。
56年には初のナイター試合を実施。
58年、各都道府県から代表が出場し、米統治下の沖縄代表(首里)が初めて甲子園球場の土を踏んだ。

1960年代
カラー中継、高まる列島の熱

戦争が終わってから20年以上がたち、第50回記念大会が実施されたのは1968年だった。
64年の大会から出場選手は全員、戦後生まれになった。
大会の規模も徐々に拡大し、高校野球熱も高まっていく。
63年、参加校数は2000を突破した。NHKがカラーテレビで中継を始めたのは65年からだ。
69年、松山商(愛媛)―三沢(青森)が決勝では初めてとなる延長18回引き分け再試合の熱戦を繰り広げ、全国の高校野球ファンを魅了した。

1970年代
49代表制、盛り上がる故郷対決

1970年代は、高校野球の質が大きく転換する。
理由は木製に代わる金属バットの登場だ。
初めて使用が認められた74年から、本塁打数は一気に増加傾向となる。
ラッキーゾーンが撤去された92年に一時、本塁打数は減少するが、73年までは普通だった1大会で1けたにとどまるようなことはなくなった。
参加校数が3000を超えた78年の第60回記念大会から、現行の49代表制が定着した。

1980年代
攻撃型野球、観客を魅了

1980年代は、金属バットの威力が発揮され、野球の攻撃力がクローズアップされはじめた年代だった。
「やまびこ打線」の呼び名で、池田(徳島)が打棒をふるって全国制覇したのは1982年。
翌年は、「KK」と呼ばれた1年生コンビ、桑田と清原らの活躍でPL学園(大阪)が強さを見せて頂点に立った。2人が3年生になった85年、PL学園は史上最多の1試合29得点など多くの記録を打ち立てた。
一方、甲子園球場も近代化していく。
84年、手動式だったスコアボードが電光式となった。
一定期間以上の教諭在籍を条件に、プロ退団者の指導が認められるようになったのもこの年だった。

1990年代
参加4000校を突破

1990年、参加校数がついに4000を突破した。
96年に戦後初めて減少に転じるまで、参加校数は増え続けていく。
91年には外国人学校に門戸が開かれた。
95年1月、阪神・淡路大震災が発生。
甲子園球場のグラウンドはひび割れ、アルプス席には亀裂が入った。
だが、開催が危ぶまれた選抜大会、そして夏の選手権大会は無事に開かれた。
男女を問わず、記録員1人がベンチ入りできるようになったのは96年から。
翌年には学校の統廃合によってできた連合チームが大会に参加できるようになった。

2000年以降
次の世紀へ、続く模索

21世紀に入り、大会の運営も少しずつ様変わりし始めた。
2001年の選抜大会からは、一般選考に加えて、他校の模範になる学校を対象とする「21世紀枠」が導入された。02年の選手権からは、ファウルボールが観客にプレゼントされるように。
翌03年の大会からはベンチ入りできる選手が16人から18人に増え、選手への門戸が広がった。
また、真夏にプレーする選手の健康管理の必要性も議論されるようになる。
00年から延長は18回から15回に短縮。
13年からは会期中に休養日が1日、設けられるようになった。






                  <以上、朝日新聞DIGITALより抜粋させて頂きました>

1950年代
できあがる「原型」

戦後の色合いが残る1950年代、現在の高校野球の「原型」が少しずつできていく。
戦時中に供出されていた内野席の大屋根が51年、甲子園球場に戻ってきた。
銀色のアルミ製で、「銀傘(ぎんさん)」という愛称がその後、定着していく。
ポジションを示す「背番号」を初めてユニホームにつけてプレーしたのは52年。
翌53年には、NHKが初めてテレビの実況中継を始めた。
56年には初のナイター試合を実施。
58年、各都道府県から代表が出場し、米統治下の沖縄代表(首里)が初めて甲子園球場の土を踏んだ。


塚本泰英のあとがき


ここまで読んでいただいてありがとうございました。
塚本泰英のまとめはいかがでしたか??

毎年感動させてもらう甲子園大会ですが、
こうやって歴史を知ることで、今後はさらに深く楽しむことができそうですよね。

今回は甲子園大会についてお伝えしましたが、
今後はプロ野球についてなども調べ上げて追記したいと思いますので、
また覗きに来ていただけると嬉しいです。


塚本泰英