殿様は言った。
「今日はめでたいものを見た」
The lord said... “I think I saw history today”

殿様は続けた。
「あの天下泰平を一番とせよ」


それ以来、近年に至るも八百屋西魚町の天下泰平が行列の先頭と不文律が定められ、受継がれている。
「小倉祇園太鼓」/大隈岩雄著

小倉祇園のはじまり

細川忠興は他の大名と同じように、
城下町繁栄策の一つとして八坂神社を勧請し、
祇園祭りを取り入れた。
これが小倉祇園祭りの始まりである。
「小倉藩史余滴」/米津三郎

祭りは本来、神を「祀る」ことを意味する。

神をお迎えし、もてなし、お送りするという一連の儀式を経て祭りが完了するといわれてきた。日本人は農耕社会の確立以来、害虫をはらい、豊作への祈願や感謝の気持ちを示すために神を祭ってきたのである。

小倉祇園祭にも神様を迎える「御神幸」、神様を送り出す「御還幸」と呼ばれる儀式があり初日の金曜、土曜のそれぞれ日中に行われている。

その一番山車は八百屋西魚町。

小倉祇園の花形は、
やはり御神幸であった。

御神幸に供奉する町内の順番は年によって異なるが、紫川から東の東回輪の各町内に、紫川からの西回輪の各町内が続いたり、西回輪の各町内が先で、そのあとに東回輪の各町内が続くなどで、東西両回輪が入り交じることはなかった。
東西いずれの回輪の町内が先になろうと、八百屋西魚町は例外で、各町内の先頭は必ず八百屋西魚町の町内の山車であった。
「読む絵巻小倉」/米津三郎編

この一番山車の歴史は古く、小笠原二代目藩主忠雄公が祇園祭をふと御覧になるうち数名の修験者に護られた、八百屋西魚町の山車が、質素ではあるが、純白の御幣の頭に「天下泰平」と記してあるのが眼にとまり、直ちにお声掛かりがあり翌年より一番山車を担うことになった。
これは元禄の頃(1688-1704)のことと伝わる。

そもそも八百屋西魚町ってどこ?

八百屋西魚町は西小倉駅前界隈。現在のヤマダ電機小倉本店前の通りを挟んだ左右の町内。

紫川寄りの町内が八百屋町で西小倉寄りの町内が西魚町である。

新住居表示制度に基づき昭和46年6月1日付で廃止され「室町」に統一し消滅したが、旧町内として小倉祇園太鼓において存続している。
八百屋西魚町には当時、漁師が多く住み、生活も豊かでなく、町内も一般住民が貧しく、響灘の海岸で毎年の祇園社例祭には山車を出すことさえ困難でした。
町内に木賃宿の如き宿があり、旅芸者、行商人などが泊まる宿ですが、或る年の祇園前に数名の英彦山修道者(山伏)が泊まりました修験者たちは「安くて経済的で神格あるもの」として白紙に板切れにて、御幣をつくり、天下泰平と書きました。そして修験者自ら付添って、ホラ貝を吹鳴らしつつ参加したのが、殿様の御気にいったものでしょう。
以来、明治時代まで、山伏が必ず二名付添ったものです。
「小倉祇園太鼓」/大隈岩雄著

その伝統は今も引き継がれる。

Our proud tradition will be passed on...

「伝統だから残す」のではない。
「残るから伝統」なんだ。

「伝統の素晴らしさ」は、
時代を超えて長期間人々に愛され続け、
厳しい選別をくぐり抜けてきたことに意味がある。

伝統を後世に繋げる。

先代たちが守ってきたものを自分たちが守り、
次の世代に渡すことこそが伝統である。

  平成30年 盛夏
        八百屋西魚町町内会

▼小倉祇園 
 八百屋西魚町詰所(本祭中のみ)

■西小倉駅より徒歩0分
■ひふみ鍼灸整骨院様 横スペース
■7/1~練習開始 ※19~21時迄

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