神戸中央教会神父、シスターと
黙想の時間

黙想をする時(ポポン エマニュエル神父)

1)時間と場所を決める

自分を失いそうな忙しい毎日の中にこそ、心の中にひびく神様の声を聞くことは欠かせないことです。黙想をすることによってその声に聞く準備をします。
黙想はどこでも、いつでもできますが、自分にふさわしい場所と時間帯をできるだけ選んだ方がいいです。時間は限られているので、黙想のために時間を割かなければなりません。暇な時で黙想をするのではなく、自分が選んだ時間を決めた方が聞くことにふさわしいです。できるだけ場所をも選んだ方がいいです。落ち着くことができる場所がおすすめです。
場所と時間が決まったら、黙想に入る準備をします。黙想の時間を神様に向かって過ごすために、黙想の間に人里離れた所にいることを想像して、電話やSNSなどを切ります。それも黙想に欠かせない準備です。これから聞くことに集中できるためです。場所と始まる時間が決まったら、終わる時間をも決めます。例えば45分間にします。決まったらその黙想を最後までに守ります。退屈になっても守ります。

2)心を用意する

黙想の時間になったら、自分のことを考えないように、自分のすべてを神様に委ねます。最初は心を落ち着かします。いろんな考えを認識しながら少しずつ自分から神様に向かいます。すべての考えを神様に委ねます。そしてイエスが祈っていたように、祈ります。
「父よ、わたしのすべてをあなたに委ねます。わたしの中にあなたの望んでいることが実現されますように。」
最後に神様への信頼を表す祈り言います。心が落ち着くまで繰り返してもいいです。
「父よ、あなた息吹はわたしを命の道へ導いてくださいます。父よ、わたしはあなたを信じます」

3)言葉に聞く

平和になったら、聖書の箇所をゆっくり読みます。読むというより言葉を聞きます。つまり、一人で読んでいても、誰かに読んでもらっているように想像します。自分が自分に読みます。これで読むこと聞くことになります。
言葉を聞くときは聞くことに集中します。言葉の意味が完全に分からなくても聞きます。
黙想は勉強する時間と違って、感じる時間です。相手となる神様を聞くことに配慮します。
読み始めたら、読まれている箇所に描けれているシーンにわたしも参加していることを想像します。特にどんな人物がいる、誰が何をするかを想像します。
読んだこと、想像したことに対してわたしはどう感じますか。読むときに感じることが大事です。読んだ言葉はわたしの中にひびきます。心を動かします。心が動かせれた時、どう動かせれたか、何を感じたかを味わいます。感じることによって神様はわたしを平和に導いてくださいます。神様の息吹と信じて、その導きについていきます。もしその導きが感じられなければ、最後までそれを待ちます。黙想は神様に委ねた時間であるので、期待はしません。いつもの我がままと違って、無償に受け入れる時間です。神様を素直に、無償に待つ時間です。
黙想する時に、脱線するところになりそうだったら、心を落ち着かせる祈りを心を込めてゆっくり繰り返します。

4)時間終わったら、感想を紙に書きます


4)時間終わったら、感想を紙に書きます


ポポン エマニュエル神父

その悲しみが喜びになります 

復活節第6木曜日の福音書にこう書いてあります「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びになります。」と。イエスが弟子たちから離れて、会わなくなることを報告した時、仲間たちとなっていた弟子たちは自然に悲しみを抱きました。その暗い感情にとられて、「悲しみが喜びに変わる」という約束の言葉を聞きそこなってしまいました。

不安と悲しみとに襲われる時に「明日はきっと晴れる」という表現がよく言われます。

それぞれの性格によってその表現に支えられて諦めない人がいれば、その一方それを受け取れない人もいます。弟子たちの場合も、イエスの言葉によって力づけられた弟子もいれば、そうでもない弟子がいました。言葉はそこまでの力があります。

コロナ禍であることがわかりました。聖書にある言葉をいつも解釈しようとして、その解釈のうえで動きました。ただ、動くことができなくなった時に、信仰はどういうものなのかと改めて考えました。教会に行かない、教会の人に会わない今の信仰はどういうものか。教会の活動に参加できないまま、ただ一人でいる時に、信仰はどうなりますか?聖書の言葉を読んでも分からない、難しくて諦める時に信仰生活を続けることができますか?

信仰によって弟子たちはイエスとともにとどまることになります。だから一人でも信じることはできます。イエスを信じることは信者の集会と聖書の言葉の先にあります。言葉も集会も信仰の一つの表現ですが、信仰はその前にあります。ミサもそうです。信仰があるからミサがあります。ミサは信仰、つまりイエスと各一人のわたしたちとの絆の中から行われます。その絆は今どうなっていますか?イエスが喜びを約束する時に、それを信じますか?コロナ禍だけではなく、これからもそれを信じることができますか?

聖書は難しいですが、福音書の言葉を通してイエスへの信頼の招きを受け取ります。イエスを信頼したくなります。それで十分。

イエスについての言葉が分からなくても、イエスと一緒に歩むことがよいことだとわかります。

大変な時期ですが、イエスに結ばれて生きることができます。コロナ禍が終息した時でも、

いつまでも。

ご復活祭おめでとうございます

わたしたちに主と呼ばれるイエスの復活は信じられないと思っても、生きることを改めて考えさせるものです。命と愛は死を含めて、全ての悪に勝つ。それは復活が明らかにされたことです。この世の中に、見えないけれどわたしたちを包み、わたしたちを動かす命の息があります。その息吹は神の霊とよく呼ばれています。その息吹がイエスとともずっといて、その息吹がイエスを死から蘇らせました。復活というできごとが大切と言っても、それが一番大切ではないと感じます。

復活は命の息吹の働きによって行われたことです。つまり、わたしたちにできないことで、受け入れるしかないできごとです。とはいえ、復活はその命の息吹である神の霊の存在を証しました。わたしたちはその命の息吹とともに生きています。イエスは復活を述べ伝えませんでした。神の霊とともに生きることを述べ伝えました。天国を述べ伝えませんでした。神の霊に従って生きることを述べ伝えました。

イエスの生涯をみると、一つのことがわかります。命の息吹である神の霊は人の見方であり、人を豊に生きる状態へ導いてくださいます。人にふさわしい生き方を教えてくださいます。

行動や思いを。その神の霊が教える行動と思いは愛と呼びます。イエスは神の霊のうちに愛に基づいた生き方を示しました。愛することと生きることは神の霊につながっていることがわかります。わたしたちは細胞のかたまりだけではありません。霊的な生き物です。命の息吹につながっています。その命の息吹が、イエスが示したように、わたしたちとともにいて、わたしたちに豊かに生きることを教えてくださいます。それは愛です。命の息吹である神の霊は、愛を教えてくださいます。愛は命の息吹が教えるもので、その愛は神の息吹がわたしたちとともにいるしるしです。

愛を実践する人は命の息吹とともに生きるのです。ご復活の時に命の勝利を祝います。愛を実践することによってその命の息吹にとどまることがわかります。イエスが神の霊が教える愛を実践したようにわたしたちも愛を学んで、愛を実践することができます。愛することは神とともに生きることを表します。真に生きることは愛にとどまることにあります。イエスは命を失うまで愛に従いました。失った命は体の命だけでした。愛のうちに生きていたイエスは、真の命を失いませんでした。生きることは体の細胞を保つのではなく、愛する自分を生かすことだとわかります。つまりイエスの復活を通して、すべてより、生活より、健康より、愛にとどまることが大事だとわかります。愛することは自分で決めるものです。神の息吹とともに生きることを決めることです。イエスは愛をする道を歩みました。神の命の息吹に沿って生きようとしました。それが命と喜びへの道になりました。その道もわたしたちは歩むことができます。

命と喜びになる、愛の道をイエスから学ぶことができます。愛の道は神の息吹に従って生きることです。その息吹はご復活の時に非常に強く吹きました。その後も吹きました。今もわたしたちの日常生活の中に吹いています。その命の息吹を受け入れて、従っていきたいです。命と喜びに向かって。

この世の中に苦労はたくさんあります。そして愛のない行動や思いも。でも闇の中に光のように命が輝きました。イエスと同じように愛に従う人は神の息吹とともに生き、その息吹が教える愛を宿すものになります。ご復活に励ませれ、そういう人でありたい。

四旬節・黙想への手引き

愛を支える節制
皆さんはどう感じますかわかりませんが、私にとって待降節に入ると降誕祭、つまりクリスマスを祝うことを首を長くして待つのに、四旬節になると復活祭を祝うことをそんな期待しません。祝いたくないと言いません。子どもの頃にクリスマスが一番喜ぶ祭日でしたが、信仰を真剣に捉えるようになってから復活祭のほうが一番喜ぶ祭日になりました。とは言え、教会を考えると、待降節と違って、四旬節が大事にされていることがわかります。この時期になると節制、犠牲、努力、と言う言葉が会話の中でよく出てきます。待降節はクリスマスの喜びの準備として受け取られているに対して、四旬節は同じく復活祭の喜びに向かわれているんでしょうか?皆さん何のために節制を行います?確かに節制することには深い意味があります。まず神の息吹に敏感になるためです。いつもの欲望の執着から自由になるために節制します。それで、自分の心に振り返ることできます。正直に自分と向き合って、その自分を神様に委ねていきます。そして節制の意味のもう一つは、イエスの道を力強く歩むためにです。自分にとってイエスの道が本当に大切であることを確認してから、覚悟を持って歩むために、節制が必要になります。必要になると言うより、自然に節制することになります。つまりイエスの道を歩むために節制は欠かせないものになります。そう言ったら、キリスト教は厳しいと思われるかもしれません。それは節制に必要になる努力と忍耐をしか考えないときっとそう思われます。それは節制する前に節制の目標を確かめなければそうなってしまいます。家族を作ることに例えてみたいです。家族になって、夫婦生活と子どもの教育によっていろいろ節制することになります。自分を失うまで犠牲になる時もよくあります。でもある程度やりがいがあります。家族を養うために、子どもが心強く成長できるためとか様々な理由で節制します。節制は我慢と同じ意味です。我慢と同じように、我慢する理由が見えなくなってしまうと、むなしく感じてしまいます。四旬節の節制、さらに信仰生活のこの世に対しての節制も同様です。信仰生活に頑張る理由がなければむなしくなって、逆に失望に落ちいてしまいます。そうならないように喜びをもたらす信仰に入った動機を改めて考える時期が必要です。四旬節はそういう時期です。どうして信仰に入りましたか?イエスの言葉に信頼をおいて生きることができます?節制によって自分の心に語ってくださる神様のいぶきを感じて、信仰を確かめて、力強くイエスにしたがっていくことを決心できるためです。そうすればきっと節制は復活祭の喜びを迎えることになります。イエスは私たちの暗闇を分かち合い、節制と苦労しながら私たちのために神の国の喜びを伝え現してくださいました。イエスとともに歩む人は消えない喜びに向かっています。この約束された喜びが私たちの信仰を支えます。イエスが示した愛は私たちの生きがいです。その愛の力を信じたからイエスを信じるようになりました。その愛と喜びが生活の悩みと忙しさに奪いとらわれないために節制します。私たちの節制は愛と喜びを憎むものではなく、むしろ愛と喜びを備えるものでありますように。                                     

2)黙想するための言葉 ー ヨハネ13、1-9

 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。


「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」
ここに描かれているのは、イエスが「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」ことです。イエスが持っていた愛についてです。

「愛について知りたい、それを読めば愛について学べるかもしれない。」と考える自分に対して、私の信仰心は「答えは必ずあるはずだ」と言います。でも、この箇所を実際にゆっくり読み始めると、その希望はすぐに消えてしまいます。愛はどこにあるのでしょうか。
 しかし、すぐ理解しようとする気持ちを抑え、素直になって、諦めずにゆっくり読んでいくと、あることに気づきました。それはイエスとペトロとが議論しているところにありました。

 イエスがペトロに言う言葉に集中しているうちに、その言葉の裏にあるイエスとペトロとの関係に集中するようになりました。(ちなみに、こういうふうに聖書の意味をいつも深めさせてくださるのは「神の息吹」、つまり聖霊だと信じます)。


 先生であるイエスが弟子たちの足を洗い始めた時、弟子たちはどう感じたのでしょうか。弟子によって違うとは思いますが、ペトロが示した反応は、他の弟子たちも同じように示したと思ってもいいかもしれません。

 自分より上と思っているイエスに足を洗ってもらうことは考えられないことでした。足を洗うのは身分の低い人の仕事です。ペトロはイエスを尊敬するからこそ、それをゆるすことができません。イエスに比べて自分が低いと思っているからです。ペトロは真に素直で謙遜な人です。しかし、イエスが偉いという思いは、イエスとペトロとの関係を邪魔しています。ペトロは自分が正しいと思っていることを優先しています。それは悪いことではありませんが、その結果イエスに反対してしまいます。

 わたしも同じでした。神の道がわからない時に我が道を行ってしまい、神の道とは反対の道に行くことが多かった。ペトロはイエスがなさることを理解せずに、反対してしまいました。

 しかし、イエスが「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言った時にすべてが変わります。何が起きたのでしょうか。ペトロは急に理解したのでしょうか。そうではないと思います。ペトロはイエスが何をしているかまだ理解していません。
 
しかし、理解しなくても、とにかくイエスから離れたくないのです。わたしはそれを理解できます。ほとんどの場合イエスがなさること、言うことはわたしの理解を超えますが、とにかくイエスから離れたくないと言う強い気持ちは深く感じます。

ペトロはイエスと反対していることがわかった途端、大きく変わります。最初はペトロの自我が邪魔になっていましたが、イエスとの絆がその自我を超えました。
きっとペトロはこういうふうに思ったのでしょう。「今イエスが何をしているかわからないが、とにかくイエスから離れたくない。イエスに従おう」と。

 ペトロは素直になって、イエスの愛のしるしを受け入れるようになりました。イエスに足を洗ってもらうのを受け入れるのは、イエスの愛を受け入れることです。その時にはその愛を完全に理解できなかったかもしれませんが、後でわかりました。もしそのまま断っていたとしたら、その愛を受け入れることができなかったでしょう。


 わからないことはたくさんあります。いつかは理解できるかもしれません。しかし、理解することよりも、イエスから離れないことを大事にしたいのです。それはイエスを信じることだと思います。

 ペトロはイエスのもとに喜びを見出し、イエスと一緒にいたいから自分を捨てることができました。喜びに基づいたイエスへの信頼と希望が、生き方を変えるきっかけになります。そしてイエスとの絆が、イエスに従って歩む力を与えます。イエスとの絆は自分を超える絆です。

 主イエスよ、ペトロと同じように、理解できない時でも、あなたを信じ、すべてをゆだねるようになりたいのです。

1)黙想するための言葉 ー 香油を注ぐ女 ルカ7,36−50

36さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
37この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、 38後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
39イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
40そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
41イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
42二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
43シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
44そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
45あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
46あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
47だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
48そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
49同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
50イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

エマニュエルの黙想(その箇所を黙想して、わたしが思ったことだけです)
シモンは悪い人ではありませんが、世間に正しいと思われていることを守っているからと言って、自分が正しいと思い込んでいます。自分にはたりないものがないと思い、心の中に神様の慈しみを求める必要さを感じていません。シモンとその仲間たちは気づいてないが、神様の慈しみを必要としない心は、神様の息吹に心を閉じると同様です。だから女の人に対して厳しく扱うしかできませんでした。人の前で自分がいいと思う人は憐むことができません。包容する愛を示すことができません。だからイエスは「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と言いました。その一方、イエスの足に接吻する女の人は、周りの人に罪深いと言われていて、侮辱されていました。それで心の中でいつも叫んでいる状態でした。慈しみと愛情とを渇望していました。愛してくださるイエスについて聞いた途端、愛を求める心が動かされました。そして周りの人の悪口に気にせず、イエスに会いに行きました。イエスの愛に動かされて、彼女の中にも愛が解放されました。他の男の人に侮辱されていた彼女はイエスのそばに暖かい愛情を見出しました。その愛情が彼女の愛を生かし、ゆるしになりました。罪は愛しないことです。ゆるしは愛することです。

愛は開いた心で生きることだと感じます。シモンとファリサイ派の仲間たちは自分の正しさに縛られています。その正しさを通してすべてを評価します。裁きます。女の人を見る時に、彼女を見ていません。ただ裁きます。他人を受け入れる心を持っていないからです。愛できないからです。

彼女は自分の足りなさがよく知っていて、ゆるしを求めています。イエスは罪から、愛情のない人生から、救われたい彼女の渇望を受け入れます。それで彼女の愛情が溢れるほど解放されます。罪からゆるされました。自分の罪から、さらに周りの人の罪から解放されました。

この箇所の中でイエスは人からどう思われるかについて全く気にしていません。イエスは心の中にあるものを知っているから、その女の人の苦しみと希望しか見ていません。シモンたちと仲間外れされても。そこで他人を受け入れるイエスの愛の力が示されます。そういう時こそイエスを通して神様の慈しむ心がわかります。神様もイエスもわたしを裁きません。わたしを豊かにしたいだけです。周りを無視して、自分をヘリくだって、自分の足りなさをさえ認めれば。

主イエスよ、人の前に偉そうに見せたいわたしを憐んでください。その女の人と同じように、どう思われることを気にせず、あなたを受け入れることができるように。

赤波江豊神父

黙想のヒント 主の昇天
2021年5月16日

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1:11)

イエスと弟子たちとの別れです。イエスは弟子たちを愛していました。だからと言っていつまでも弟子たちと一緒にいることは望みませんでした。そうではなく愛するからこそ分かれることを望んだのです。弟子たちはイエスの姿が見えなくなって初めてイエスの言葉と行いの意味が理解できました。そしてイエスが永遠に生きておられることを学びました。

 「弟子たちは出かけて行って、いたるところで宣教した。主は彼らとともに働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マルコ16:20)

確かに分かれって寂しいですね。でも別れるとき寂しいと思うからこそ再会するとき嬉しいのですね。別れが寂しくなかったら再会しても嬉しくないと思います。また誰かと別れるとき、同時にその人を待ち続けている人がいることも忘れないようにしましょう。飛行機が空港を離陸して次第に見えなくなるとき、また船が港を出港して段々小さくなり、そして水平線の彼方に消えていくとき、到着予定地の空港や港ではそれを心待ちにしている人がおり、自分の方に向かってやってくる飛行機や船に向かって大きく手を振り、ついに空港や港で歓喜の握手や抱擁が交わされるのですね。

また親密さには適度な距離が必要なのですね。いつもべったりは誤解や争いを招くことがあります。親しいからと言って相手の心に中にズケズケと入り込むのはやめましょう。また親しいからと言って、必ずしも何もかも話す必要はない。石川啄木にはそのことで苦い思い出がありました。

「打ち明けて 語りて何か損をせし ごとく思ひて友と別れぬ」(一握の砂)

ある種のことは神と自分だけの場として一生心の中に納めておくのもいいかと思います。

黙想のヒント 復活節第6主日
2021年5月9日

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12))

 ヨハネは晩年をギリシャのパトモス島で過ごましたが、そのころ彼は90歳近くになっていて体が弱り、自分では歩くことができない状態でした。それで毎日曜日信徒たちは彼を車で教会まで運びヨハネはミサをささげていましたが、説教はいつも同じことしか話しませんでした。それは「子たちよ、神はあなたがたを愛しておられる。あなたがたも互いに愛し合いなさい」でした。それでも毎回大勢の信徒が彼のミサに参加していました。ある日一人の信徒が、なぜいつも同じことばかり話すのかと尋ねたところ、ヨハネは「わたしの先生がそう言っていたから」と答えたそうです。

この話はあくまでも言い伝えですが、わたしはこの話は真実ではないかと思います。ヨハネは弟子たちの中で一番若く、イエスに呼びかけられたときは恐らく14,5歳くらいの少年ではなかったかと思います。だからあまり意味が分からずついてくるこの少年ヨハネをイエスは可愛がり、分かりやすい言葉で何度も繰り返し「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語りかけていたのでしょう。その言葉は少年ヨハネの心に深く刻まれ、福音書だけではなくヨハネの手紙の中でも、まるで体中を循環する血液のように彼の神髄となっています。

ところで、わたしも晩年のヨハネのように毎日曜日同じ説教で済んだら助かるのですが…ヨハネが羨ましいです。

黙想のヒント 復活節第5主日
2021年5月2日

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)

 イエスのたとえには自然を題材にしたものが多いですね。今日のぶどうの木のたとえの他、種まき(マタイ13:1-9)、一粒の麦(ヨハネ12:24)、からし種の木(マルコ4:30-32)、野の花や空の鳥(マタイ25-34)など。イエスは大工ヨセフの子ですが、大工仕事に関するたとえは少ない(マタイ7:24-29など)。きっと大工仕事は毎日あったわけではなかったのでしょう、ヨセフは一年の多くを農作業をして生計を立てていたと思われます。従ってイエスもヨセフの仕事を手伝っており、その体験から自然を題材にしたたとえ話が生まれたのでしょうね。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(15:1)とイエスは冒頭で語っています。「わたしの父」は天の御父を意味しますが、養父ヨセフもまた実際は農夫であったと思われます。

 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(15:4)

 時々アスファルトの隙間からきれいな花が咲いている光景を目にします。印象に残っているのは、春のすみれと秋のコスモスです。不思議な光景ですね。どうやって咲いているのでしょうか。きっとアスファルトの隙間に落ちた種が、その隙間から必死で細い根を伸ばしアスファルトの下の土までたどり着いて、その土から養分をもらって咲いているのですね。しかもコスモスなど1メートルくらいに生長して大輪の花を咲かせている光景を何度も見たことがあります。

 10年くらい前でしょうか。新聞で「ど根性大根」が話題になりました。とある路上のアスファルトの隙間から大根が芽を出したのですが、それが大根として成長するどころか、何とその大根がアスファルトを持ち上げていたのですね。これには皆驚きました。何という生命力。どっぷりと土に根を下ろしていなくても、場合によったらほとんど栄養のない土で植物として飢餓状態にあるときの方が植物本来の生命力を発揮することもあるようです。

 わたしたちも同じで、平和なときより非常に困難なときの方が人間本来の生命力を発揮するようです。神に100パーセントでなくても、細々とでも、クモの糸くらいでも、とにかく何らかの形でつながっていることが大切なのですね。つながってさえすればそこから神は希望という大輪の花を咲かせてくださいます。人は弱いという言い方があります、でも同時に人は強いのです。私たちには自分でも信じられないような生命力が宿っています。しかし多くの場合それを知らないか、信じていないか、信じようとしないかなのです。

皆さん、神とのつながりによって生まれる一人一人の無類の生命力をもっと信じてください。

黙想のヒント 復活節第4主日
2021年4月25日

「ナザレの人イエス・キリスト…この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。」(使徒言行録4:11)

日本の伝統的な陶器の修復技法に「金継ぎ」があります。通常、陶器は割れてしまったらもう使い物にならないから捨てて新しいものを買うというのが一般ですが、金継ぎは伝統的にものを大事にする日本人の心情から生まれた割れた陶器の修復技法で室町時代に確立されました。当時は茶の湯が盛んで、金継ぎの美しさに魅了された人も多かったようです。金継ぎは割れた陶器を漆で張り合わせて固め、その割れ目に金粉をまぶして完成するわけですが、その美しさは割れる以前の陶器以上に新たな美の世界を生み出す一つの芸術となっています。

 キリストは十字架の死により宣教活動も失敗に終わったかのように見え、「家造りの捨てた石」となりましたが、復活という「金継ぎ」によって新しい命の世界をもたらす「隅の親石」となりました。十字架の傷が新しい美の世界を生み出しました。

 私たちもそれぞれ過去の十字架の傷を負って生きています。割れた心の傷は決して修復できないと思っています。でもその傷を美しいものに変えることができます。それが心の金継ぎです。憎しみを愛に、絶望を希望に、怒りを赦しに。私たちの人生は誰も取って代わることのできない唯一無二のもの、そして心の金継ぎによって生まれる人生の美しさと価値も唯一無二です。しかも自分しかかもし出すことのできない無類の尊さです。それができるのはキリストだけです。

 「イエスの傷とみにくさ、このあらゆる美をはぎ取られた人間の姿の中に秘められた美がある。最も力強い美とは、あらゆるみにくさを包み込み、それを変容させてくれるもの。割れたり欠けたりした陶磁器を漆で密着させ金粉で装飾する金継ぎと呼ばれる修復方法は陶磁器をこれまで以上に美しく変容させる。同様に、十字架へと向かう道のりでも神はイエスの内に人生の中の最もみにくい部分を抱きしめ、うるわしいものにしてくれた。だから我々も自分の生活の中の一番汚い側面や、恥と思うあらゆるものに正面から向き合うことができる。我々は目を見開いてしっかりと自分の姿を見つめ、自分たちも割れたつぼだと悟る。しかし我々は神の恵みという芸術性によって抱擁されており、新しい美を発見できる。」(「救いと希望の道」ティモシー・ラドクリフ著)

「最大の金継ぎ師であるキリスト」が私たちの十字架の傷を、心の金継ぎによって唯一無二の美に変えてくださるよう祈りましょう。

黙想のヒント 復活節第3主日
2021年4月18日

「あなたがたに平和があるように」(ルカ24:36)

 復活したイエスは静かです。まるで何事もなかったかのように、まるで受難の苦しみが嘘であったかのように静かに弟子たちに現れます。しかも現れたときの第一声が「あなたがたに平和があるように」です。なぜでしょうか?受難の苦しみのとき弟子たちはイエスを見捨てて逃げて行ってしまいました。あれほど愛していた弟子たちに見捨てられたのなら、復活したときイエスは弟子たちを叱責してもよさそうなものですが、叱責どころか不平不満も一切なく、ただ「あなたがたに平和があるように」です。

 受難の夜弟子たちはイエスを見捨てました。しかしイエスは弟子たちを愛し続けていました。弟子たちはイエスを探しませんでした。しかしイエスの方が弟子たちを探して会いに来てくれました。弟子たちはイエスを信じていませんでした。しかし見捨てられたイエスの方が弟子たちを信じ続けていました。受難の夜イエスを見捨てたことは弟子たちの人生最大の失敗であり後悔でした。しかしその人生最大の失敗は返ってイエスの最大の愛を知るきっかけになったのでした。「自分たちはイエスを裏切ったのに、イエスは自分たちを愛して信じ続けてくれていた」この体験があれほど弱かった弟子たちを力強い宣教者へと変えたのでした。ここに人を立ち直らせる原点があります。

 宣教期間中イエスは徴税人や罪深い女性など多くの罪人と出会いましたが、一度も彼らの過去を問うことはありませんでした。出会った時が恵の時だから。

復活したときも弟子たちの罪深い過去を問うことはありませんでした。出会った時が恵の時だから。

そして私たちにとっても同じで、イエスは私たちの罪深い過去を一切問わない。出会った時が恵の時だから。

 「あなたがたに平和があるように」イエスのこの言葉の意味は「私はあなたの過去を責めるようなことは一切しない。出会った時が恵の時だから。今日から希望をもってしっかり生きていきなさい。」

 皆さん生きる力が湧いてきましたか。

黙想のヒント 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
2021年4月11日

「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(使徒ヨハネの手紙1、5:4)

 パソコンで「しんこう」という言葉を変換するといろんな漢字が出てきますね。信仰、振興、進行、新興、侵攻、神鋼、親交など。それでは私が「しんこうは、しんこうなり」と言ったら皆さんどんな言葉を連想されますか?私が言いたいのは「信仰は進行なり」なのですね。つまり信仰というものは常に前に進んでいくものでなければならない。私たちを後退させたり、悲観主義に陥らせたりするものは決して信仰とは言えない。悲観主義からは何もいいものは生まれません。プラス思考、前進主義は何事にも、困難の中でも何らかの生きる意味を見出す姿勢を生み出します。ですから信仰とは人生に意味があることを信じることだとも言えるのですね。「世に打ち勝つ勝利」とは何でしょうか。この世に勝利するというより、人生に勝利すること、それは決して何か偉大なことを成し遂げることではなく、自分の人生に意味を見出した人が人生の勝利者なのですね。

でも皆さん、勝利、勝利とあまり力まないでくださいね。神学生のとき指導司祭が講話の中で、私たちは三つの「気」で行きましょうと話してくれたのを覚えています。まず何事も「元気」に行きましょう。でもいつでも元気が出るわけでもない。そういうときは「根気」よくいきましょう。でも根気よくやっても落ち込むことも多い。そういうときは「呑気」にいきましょう。実は吞気さも一つの信仰なのですね。神を信じる者は基本的に呑気である必要があります。でも人の苦しみが分からないような鈍感ではなく、全ては神が必ずよくなるよう導いてくださることを信じる「聖なる呑気さ」でいきましょう。何年後、何十年後の自分がどうなるのか不安な気持ちで生きるのではなく、今日一日歩く道の足元を神が光で照らしてくださることだけを信じながら。

黙想のヒント 復活の主日 2021年4月4日

「イエスは死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」(ヨハネ20:9)

 死者の中からの復活とは何でしょうか。難しいですね。「二人はまだ理解していなかった」どころか、私たちもまだ理解していないですよね。私もまだ理解していません。まだ死んだことがありませんから!でも次のように考えてみるのも復活信仰へのアプローチになるのではないでしょうか。

 弟子たちがイエスの言葉と行いの意味を理解したのはイエスの死と復活と昇天の後、即ち目に見えない姿となった後でした。イエスの言葉と行いは弟子たちの心に強く焼き付けられました。即ち、イエスの「記憶」があれほど弱かった彼らの人生を逆転させ、力強い宣教者へと変貌させたのです。NHKの番組に「逆転人生」というのがありますね!まさに弟子たちの人生のことです。彼らを変えたのはイエスの「記憶」です。

 私たちは復活というと、どうしても自分が死んだ後のことをよく考えます。でも私たちはまだ死を経験していない。確かに死の彼方には何か大いなるものがあるに違いないとは信じているが、まだ見ていない。そこで、まだ見ていないものについて考えてばかりいても仕方がない。大事なことはいかに自分の記憶を次の世代に残すかということではないでしょうか。記憶は人を生かしもし、殺しもする。いい記憶を残された人はその記憶を道標(みちしるべ)にまたしっかりと人生を歩みます。反対に悪い記憶を残されたらその人の人生の歩みが止まってしまうかも知れない。天国も地獄も人の心の中にあり!しかも記憶に残るのはその人の「人柄」だけです。能力や業績はあまり記憶に残りません。優しかったか、誠実であったか、偽りがなかったか、これだけです。この記憶が残された人の道標となり、場合によったら弱かった人たちの人生を逆転、復活させるのです。復活信仰!自分のことより、もっと次の世代のことを考えましょう。

黙想のヒント 受難の主日 2021年3月28日

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)

 福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネから成っていますが、それぞれストーリーも違いますし、食い違っている箇所もあります。マタイの話がヨハネにはなく、ルカの話がマルコにはなかったりなど。でもどれが正しくて、どれが間違いかということではありません。弟子たちはそれぞれ自分たちの信仰の目でイエスを描いたのですね。私たちもまたそれぞれイエスの見方が違います。あるときはイエスの目が厳しく感じられたり、あるときは優しく感じられたりします。福音書は信仰の書です。科学の書でも歴史の書でもありません。十字架上のおけるイエスの最後の言葉も同じです。マルコとマタイは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と言って亡くなり、ルカは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(23:46)で終わり、ヨハネは「成し遂げられた」(19:30)と言って息を引き取っています。これもどれが正しくどれが間違いかという問題ではなく、私たちもまたそれぞれの人生において苦しみの中で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という絶望的な叫びをあげ、もう教会なんかいくものかと自暴自棄になったときもあれば、その人生の闇のなかで「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言ってまた神に立ち返りながらも、生涯の最後はやはり今までの人生の喜びも悲しみも全てをよしとして、今までの自分の人生はこの時のための準備であったのだ、全ては「成し遂げられた」と言って感謝のうちに神のふところに帰りたいものです。

黙想のヒント 四旬節第5主日 2021年3月21日

「キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞きいれられました。そして完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して永遠の救いの源となりました。」(ヘブライ人への手紙5:7-9)

 聖書の中でこれほどイエスの苦しみを生々しく描いている箇所は他にありません。なぜこれほど苦しまれたかというと「すべての人々に対して永遠の救いの源」となるためでした。どういう意味でしょうか。

 この世界には同類の者、同じ性質の者は引き付けあう法則があります。悪いことばかり考えている人には、同じことを考えている人が分かります。正しく生きることを願っている人には、同じように生きることを願っている人が分かります。同じように大きな苦しみを経験した人には、大きな苦しみを経験したが人自然と分かります。その人が多くを語らなくても、黙っていたとしても。そうしてお互い共にいるだけでお互いを癒しあうことができるのです。このことを経験された方も多いと思います。癒しの賜物は何も特殊な人が持つのではなく、大きな苦しみを経験することによって誰もがもつことができるのです。そういう意味で私たちもイエスと同様、大きな苦しみを経験することによって隣人の「救いの源」となることができるのです。

 確かに苦しみは避けて生きたい。でもどうしても避けることができないときもあります。それを等身大で受け止め、それをステップとして更に生きる力としていきましょう。苦しみにこそ大きな意味と価値があります。

 「もしこの世が喜びばかりなら、人は決して勇気と忍耐を学ばないでしょう。個性は安らぎや静けさの中で生まれるものではありません。試練や苦しみを経験することでのみ魂が鍛えられ洞察力が研ぎ澄まされるのです。世の中はつらいことでいっぱいですが、それに打ち勝つことも満ちあふれているのです。人の苦しみをやわらげてあげられるかぎり、生きている意味はあります。」(ヘレン・ケラー)

黙想のヒント 四旬節第4主日 2021年3月14日

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

 皆さん、信じるとはどういうことでしょうか。神様や天国や永遠の命を信じるとか、言葉では分かるがピンとこない。見たことも触れたこともないものをどう信じたらいいのか分からない。でも何かありそうだ、あるに違いない。だから「信じたい」。皆さんこんな思いをもっておられるのではないでしょうか。
 どう信じたらいいのか分からない。でも「信じたい」。これが大事だと思うのですね。実は、「信じたい」という思いが「信じること」なのです。即ち、願ったそのときかなえられているのですね。イエスご自身嬉しいことを語ってくださいました。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。」(マルコ11:24)人を愛したいと願ったとき、既に愛しています。人を赦したいと願ったとき、既に赦しています。癒されたいと願ったとき、癒しは始まっています。しっかりと人生を歩みたいと願ったとき、新しい人生を歩みだしています。
 私の好きな典礼聖歌に「キリストはぶどうの木」があります。なぜ好きかというと、この歌詞がいいのですね。この歌詞はすべて願望で終わっています。
 キリストはぶどうの木 私はその枝のひとつ いつくしみの雨に洗われ つながっていたい いつの日もキリストはいのちの泉 私はほとりにたたずむ みことばの水に満たされ うるおっていたい いつの日もキリストはこの世の光 私のこころを照らす 喜びの光をあびて 輝いていたい いつの日もキリストは父への道 私はその道を歩む 救いのみわざを信じ たどりつきたい いつの日も
 即ち、キリストにつながっていたいと願うことが、既につながっていること。キリストの泉にうるおされていたいと願うことが、既にうるおされていること。キリストの光に輝いていたいと願うことが、既に輝いていること。父への道であるキリストにたどりつきたいと願うことが、既にたどりついていること。
 同じように、キリストの弟子とはどんな人のことを言うのでしょうか。自分はキリストの弟子だと確信したら、もしかしたらそこには少し高慢があるのかも知れません。そうではなく、人間的な弱さ、もろさを身におびながらも、それでもキリストの弟子でありたいと願い続けている人がキリストの弟子ではないでしょうか。
 皆さん、コロナが終息したら大きな声で「キリストはぶどうの木」を歌いましょうね。

タンス神父

コーナン神父

小長谷壽子シスター

「受洗と初聖体の秘跡の準備を共にして」
聖マリアの無限罪教育宣教修道会 マリアローザ 小長谷壽子

最近、洗礼あるいは初聖体の秘蹟を受けた方々の心の準備をサポートさせて戴いた中で受けた感動と心の高まりが覚めやらぬうちに、その幾分かをこの紙面を借りて、拙い言葉ですが皆様と分かち合いたいと思います。
 これらの準備は子どもたちとその御家族、ならびに洗礼志願者との和やかな交わりのうちに希望をもって静かに進行しました。
 毎週のクラスの始まりに一連のロザリオを唱えることによって、主祷文とアヴェマリアが空で唱えられるようになり、終盤には皆、自分の言葉で自然にお祈りができるようになりました。
 これはある子どもの受洗が母親よりも先になったケースです。お母様の受洗の準備講座の開始日に、「シスター、お母さんをよろしくお願いします」と子どもから頼まれた時には正直びっくりいたしました。通常、保護者が「子どもをよろしくお願いします」というのと逆のケースでしたから、不思議な感動を覚えましたし、「お母さん、僕が先輩だね」と言うのを聞いて、更に不思議な驚きを感じたのです。
 共にカトリック 平坂さん要理を学びながら、改めて真理(キリストと共にあること)の豊かさを発見して参りました。
 受洗の日も決まり、その一週間前の五月二日(日)に、洗礼を受ける前の面接をポポン神父様にして頂きました。それはキリスト教生活の導入でもあり、霊的旅路の手引きとも言えるものでしたが、終始聖霊のさわやかな息吹がそよ風のように感じられる一時であり、お話に吸い込まれるように傾聴させて戴きました。
「自己のエゴによらないで流れる雲のように」、「人に見られることを意識していない美しい青空のように」、「誘惑に対しては聖書をもってサタンと闘ったイエスさまのように生き、「誤って道を踏みはずしたと感じたら、いつでも御父の家に帰るように」。また、様々な意見の真っ只中にあっては、一歩退いて自分で考えてみるように」というキリスト教生活のガイドでした。
 緊急事態宣言中で、公開ミサの無かった日曜日の朝、私たち二人にとってはもったいない程の霊的糧を戴き、「あれは御父様の悟りなのでしょうか」と感動を分かち合いながら帰途に着きました。御父様を通して戴いた神様のお恵みに心から感謝します。
 今の私の願い、それは洗礼はキリスト者の歩みの出発点ですから、ミサに与って旅路の糧であるご聖体を拝領する毎に、キリストとの一致、家族との一致、仲間の信者たちとの一致を深めながら、共にキリストの背丈に迄成長するお恵みが戴けることです。アメン