フォーム 予約 決済 メルマガなど集客機能がオールインワン!

なら誰でも簡単にホームページが始められます。 今すぐ試してみる 簡単にホームページ作成


【2015-2021】
東北各地でのフィールドワークを通じて
社会の未来を考えるプロジェクト


故郷(くに)作りをはじめよう
「多様な形で故郷を持つ時代に、誰と、どこで、何をしていくのか。
動きはもうはじまっています。さあ、あたらしい故郷づくりをはじめませんか。」
との呼びかけに、2015-2021年の期間プロジェクトとして、東北の復興後の現場と都市部人材と交流の場から新しいまち、人、しくみづくりを目指しました。
このブロックは画面サイズによって見た目が変化する特殊なブロックです
※編集・削除ができる項目も画面サイズによって異なります

詳細はヘルプページの「フローティングメニューブロックの編集」をご確認ください
2泊3日のフィールドワークと
未来をつくる現場に行ってみた後も続く個々人のアクション
東北オープンアカデミーは、「新しい働き方」や「地方の未来」に関するアイデアとアクションを共有する、学びと実践の場です。所属や立場の垣根を越えた多様な人がフィールドワークに参加して、先進的な取り組みやそれを実行するリーダーから学びました。

フィールドワークで実生活や将来にも役立つ気づきを得た後は、定期開催されるイベントやセミナー等を通して、地域との関わりを継続したり、学びを実践するための仲間探しを個人のペースで続けています。

活動報告
(2015-2021)

活動レポート
・2015年
・2017年
・2018年
※オンラインイベント
・2020年
・2021年
開催フィールドワーク数 71件
参加者(のべ人数) 395名
開催地域
青森県、秋田県、岩手県、
山形県、宮城県、福島県

※オンライン開催は除く

※オンライン開催は除く

プロジェクトから生まれたもの


オーガナイザー/旅の主催者
※肩書きは開催当時

佐藤恒平
地域振興サポート会社 まよひが企画

1984年生まれ福島県出身。東北芸術工科大学大学院デザイン工学専攻修了。 関東で住宅リフォーム会社の営業職を経て、2010年に地域おこし協力隊として山形県朝日町情報交流アドバイザーに就任。 大学時代から行っていた地域振興研究のひとつである「無個性着ぐるみを使った、地域おこしがしやすい地域づくり」の実践として、着ぐるみキャラクター「桃色ウサヒ」による町のPR活動を皮切りに、ふるさと納税、地域学校教育などの分野で実験的な手法による地域振興プロジェクトを手掛けている。 2014年1月、地域振興サポート会社「まよひが企画(マヨイガキカク)」を開業。自身が提唱する成功事例を模倣しない活性化手法「非主流地域振興」によって、地方自治体や公益団体の事業サポートを行っている。 2017年には、古民家をリノベーションした県内初の公設民営のゲストハウス「松本邸一農舎」を開業。あわせて総務省の地域力創造アドバーザーに就任。

後藤大輝
NPO法人アスヘノキボウ

特定非営利活動法人アスヘノキボウ プログラム開発部 大学在学中、東日本大震災のボランティアをきっかけに、東北へ足を運ぶようになる。外交官を志していたが、今後の東北(被災地・地方)から面白いことが生まれていくのではないかと確信し、在学中に女川町へ移住。 女川町を拠点にまちづくりを学ぶプログラムをテスト的に実施した後、2016年10月にアスヘノキボウ入社。現在は、女川をフィールドにビジネスや文化活動をする人を生み出す活動人口創出事業(お試し移住プログラム、女川/地方に関わるきっかけプログラム、創業本気プログラム等)に取り組んでいる。2017年3月 明治大学国際日本学部 卒業。

小松洋介
NPO法人アスヘノキボウ 代表理事

大学卒業後、2005年4月株式会社リクルートに入社。 東日本大震災を機に2011年9月にリクルートを退職。 女川町復興連絡協議会 戦略室に入室。 民間による復興提言書作成サポート、創業支援、事業再建支援に 携わる。2013年4月特定非営利活動法人アスヘノキボウを設立し 代表理事、2014年4月女川町商工会職員として、まちづくり担当を兼任。 国内外と女川をつなぐハブ役として、まちづくり、創業・事業支援、 事業開発、移住、人材育成等に関わっている。 2014年 AERA「日本を突破する100人」 2015年 日本青年会議所 人間力大賞経済産業大臣賞 2017年 復興庁「新しい東北」」復興顕彰

小林 恵里
風景屋 ELTAS ディレクター

福岡県生まれ東京育ち。2009年早稲田大学国際教養学部卒業。新卒で入社した東京の国際見本市主催会社にて、3年弱セミナー企画運営を担当する。その後小さな古本屋を立ち上げ、約1年仕入れから値付け、在庫管理、店頭販売まで経験。軌道に乗った店を共同経営者に託し、約1年間外資系インターネット関連企業人事部にて新卒採用に従事する。2013年一般社団法人ap bankへ転職後、2014年にはReborn-Art Festival(芸術祭)の立ち上げのため石巻に移住し、実行委員会の立ち上げから行政との連携、アーティストや現地協力者の対応まで幅広く業務を担当。2017年夏に第一回Reborn-Art Festivalの開催を経て退職。2017年11月より夫が主宰する風景屋ELTASへ参画。主にイベント企画運営、ディレクション業務を担当する。2019年6月、青森県十和田湖畔にて平日シェアオフィス、週末カフェ併設のゲストハウスyamajuをオープン。

半谷 栄寿
一般社団法人あすびと福島

1953年南相馬市生まれ。東京大学法学部卒。1978年東京電力入社。 環境NPOオフィス町内会、Jヴィレッジなど新規事業を立ち上げる。2010年執行役員を退任。2011年原子力事故への責任と地元復興への想いから、体験学習拠点「南相馬ソーラー・アグリパーク」を2013年にオープン。 高校生の社会起業塾「あすびと塾」を福島市で開講し、「高校生が伝えるふくしま食べる通信」を2015年に創刊。 2016年福島県出身の大学生を対象に社会起業塾を東京で開講。また、農業経営人材の育成を目的に、南相馬トマト菜園を開業。 一貫して、長期を要する福島復興を担う人材の育成に取り組む。

加藤拓馬

平成元年生まれ兵庫県出身。2011年早稲田大学卒業。東日本大震災を機に気仙沼に移住し、2012年まちづくりサークル からくわ丸を設立。2013〜16年に気仙沼市地域支援員として人材育成プログラムを展開。2015年一般社団法人まるオフィスを起業、代表理事に就任。

外和 信哉
株式会社バリューシフト

1972年八戸生まれ。高校卒業から23年間、東京をベースにプロ添乗員やインバウンドツアー企画などを経験。2013年にUターンして観光まちづくり会社「(株)バリューシフト」を創業しツアーやイベントなどの企画に取り組む。“ヒトの在り方(Be-ing)“起点で旅を共創するエコシステムの創造に挑戦している。グロービス経営大学院MBA。旅行産業経営塾運営委員。東北オープンアカデミー実行委員。

眞下 美紀子
北三陸ブランドプロジェクト

1982年岩手県洋野町生まれ。 東北オープンアカデミー第1期参加者。 地元洋野町のフィールドワークに参加をし、地元の課題と共に魅力や可能性を感じ、以後東京にて「北三陸ファクトリー東京支部」を立ち上げ。 洋野町をはじめとする北三陸の地域の情報発信やイベント企画等を行う。フィールドワーク先であった、㈱ひろの屋の事業展開加速化に伴い、2016年4月にUターン。国内外の営業・販売・広報活動を行うとともに、洋野町委託事業「北三陸ブランドプロジェクト」事務局長に就任。町の産品のブランド化および販路拡大に取り組む。

下枝 浩徳
一般社団法人葛力創造舎

福島県葛尾村出身。東京電機大学、東京電機大学大学院にて地盤工学を学び、海外で井戸掘削を行う一般企業に勤務する。その後福島にUターンし国会議員秘書を経て2012年に一般社団法人葛力創造舎を設立。

佐藤良規
曹洞宗藤源寺28世住職

972年生まれ。遠洋漁業を含む20種以上の職種を体験、海外30カ国を放浪の後、生まれ育った岩手県一関市にて創建550年の禅寺の住職となる。2011年、東日本大震災時に津波に遭遇、トラックの屋根の上で九死に一生を得る。以来、「本当に生きるとはなにか」という問いに導かれ、仏教そのものをあらためて参究、その体験と気づきを共有する講演と対話を国内外で重ねる。また、「NPO法人はまわらす」「千年藝術の森」「ぼうけん遊び寺」「寺子屋3.0」「禅ヨガ」「グッドモーニング神社」など、寺をハブとした里山・里海づくり、遊び、学び、子育てなど多くのプロジェクトを通して子どもたちに未来をギフトする日々に生きる。

高橋由佳
一般社団法人イシノマキファーム

二輪メーカーにてモータースポーツ企画運営、自身もレーシングカートのワークスドライバーとしてレースに参戦。その後、教育分野・福祉分野の専門職を経て、2011年に、障がい者の就労支援団体のNPO法人Switchを設立。そして、以前住んでいた石巻で再び新たな雇用の創出を目指し、2016年8月一般社団法人イシノマキ・ファームを成立、代表理事として半農半Xの日々を送っている。

柴田北斗
ヒトラボ TOHOKU キャリアモデル開発センター仙台

平成3年宮城県仙台市生まれ、名取市育ち。東北大学在学中に震災を経験。東北の起業家支援を行っていた一般社団法人MAKOTOのインターンに参画。大学卒業後、東京の人材派遣会社に勤務し、営業、人事を行う。東京へ出たことで「東北の良さ」「東北が好き」ということに気づき、2018年1月から宮城県丸森町の地域おこし協力隊(起業型)としてUターン。Uターン後は石巻の「はまぐり堂」にて3ヶ月修行を行う。 2018年8月からは「ヒトラボ TOHOKU」を屋号として活動。2019年4月からは「キャリアモデル開発センター仙台」のセンター長としても活動。現在は主に、個々人のキャリア相談、地域おこし協力隊の活性化に関わる業務を行なっている。

鍛治川直広
合同会社ぶらり気仙

東京都出身。慶應義塾大学卒。IT(富士通株式会社)、銀行(みずほ銀行株式会社)、コンサル、会計事務所と異なる業種にて、大企業〜中小企業の経営をサポートし、実務経験を積むと同時にビジネススクールにて、経営学、財務/経営管理会計、マーケティング、プロジェクトマネジメント等を習得。 2009年11月より広域下北沢にて情報サイトをはじめとする、エリア活性化事業をスタートし、下北沢の商店街や店舗をを巻き込んだまち単位でのプロモーション活動を展開。  2011年10月以降、陸前高田での活動を展開し、2013年4月に合同会社ぶらり気仙を設立し、広域気仙エリア(大船渡市、気仙沼市、住田町、陸前高田市)を活動エリアとして 1)地域物産の大都市向け販売 2)大都市からの観光客の呼込み 3)付随するインターネットや紙媒体などを使った情報発信 を展開。  2014年より、漁師による漁業体験などを通じたPRを展開する広田湾遊漁船組合の事務局として、県内外コンクールにおける受賞実績のある海産物の加工品開発の企画からプロモーション、販売などを手がけ広域気仙エリアの活性化に従事。

河東英宜
株式会社かまいしDMC

(株)かまいしDMC取締役事業部長。海外ガイドブック『地球の歩き方』発行の出版社にて26年間勤務。主に旅行マーケティングを担当し、旅行会社との取り組みや官公庁とのプロジェクト、在日海外観光局のプロモーションを担当。新たな旅行スタイルとして提案した「海外ボランティアツアー」は市場に定番化している。2011年には観光庁および官邸の依頼で被災地へのボランティアツアーを日本ではじめて企画。未経験の方でも簡単に参加できる仕組み作りと、被災地の渋滞緩和、内陸部の宿泊施設の稼動を実現させるモデルを実現した。2017年8月に同社を退職。地方創生事業にノウハウのある㈱パソナグループを経て現職。

岩佐大輝
株式会社GRA

1977年、宮城県山元町生まれ。 株式会社GRA代表取締役CEO 大学在学中に起業し、現在日本およびインドで6つの法人のトップを務める。 2011年の東日本大震災後には、大きな被害を受けた故郷山元町の復興を目的にGRAを設立。先端施設園芸を軸とした「地方の再創造」をライフワークとするようになる。イチゴビジネスに構造改革をお越し、一粒1000円の「ミガキイチゴ」を生み出す。 著書に「99%の絶望の中に「1%のチャンス」は実る」(ダイヤモンド社)、「甘酸っぱい経営」(ブックウォーカー)がある。

船橋 慶延
企業組合八幡平地熱活用プロジェクト代表理事

1982年3月生まれ、大阪府出身。 大阪コミュニケーションアート専門学校卒業。幼いころ、祖母に連れられて観た芝居の杉良太郎に憧れて、自分も舞台に立ちたいと「松尾塾子供歌舞伎」に入塾、稽古三昧の子ども時代を送る。高校生のときに始めた乗馬に夢中になり、幻の大阪オリンピックを目指し、シドニーオリンピックの日本代表広田龍馬に師事し、障害飛越競技に力をいれる。 専門学校卒業後、馬運車運転のスキルアップの為に運送会社に就職する。愛馬との競技生活を成り立たせるため昼夜働いたり、馬について学ぶため拠点を転々としたり、生活の中心が馬。その後、有限会社 那須トレーニングファーム 牧場部門・場長、有限会社 加藤ステーブルでの乗り役を経て、現在は企業組合 八幡平地熱活用プロジェクトにて地熱活用と馬由来資源の活用をベースにして、引退競走馬や養老馬の余生を支えられる仕組み作りの為にマッシュルームの生産販売と、馬ふん堆肥の販売・普及に奔走している。

菅野孝明
浪江町役場

1969年、川俣町生まれ。 建設コンサルタント、進学準備教育企業を経て、2012年にNPO法人ETIC.の「右腕プログラム」 浪江町復興支援コーディネーターに応募し採用される。 派遣後は、町民の広域分散避難の中での津波被災地復興および 中心市街地のまちづくり計画作成・調整支援、住民との合意形成支援を行ってきた。 2015年4月~9月まで他町村の支援のために一旦ふくしま市町村支援機構へ転職するも、10月からは浪江町に戻り、現在はまちづくり整備課計画係 主査として、町全体の復興事業のハード・ソフトの進行管理支援を行い、役場内の横断調整や課題解決支援を行っている。

池田友喜
一般社団法人日本西海岸計画

1977年山形県酒田市生まれ40歳。
18歳まで酒田で過ごし大学進学を機に上京。大学卒業後ITベンチャーとTV通販ベンチャーの2社経験し、2006年に起業。IT事業、通販事業、海外事業、中古機械販売事業、太陽光事業など事業の多角化を行う。
 2012年6月、経営するひとつの事業で大きな損失を出したことをキッカケに「自分の人生を何のために費やすのか?」を考え抜いた結果、2014年3月、18年ぶりに地元酒田にUターンをする。
 新たに株式会社チェンジ・ザ・ワールドを設立。自ら新事業に挑戦しつつ、2014年8月に日本西海岸計画を立ち上げる。庄内地方を日本の西海岸と呼び、新しい産業を生む多くのスタートアップやベンチャー企業をインキュベーションする日本版シリコンバレーを創ることを使命とし人生を掛けて取り組んでいる。2017年4月に日本西海岸計画は一般社団法人日本西海岸計画となり、代表理事を務める。

阿部真
大学卒業後、2010年4月ロート製薬株式会社に入社。 東京でのドラッグストア営業、大阪本社・三重工場で人事として採用・研修・制度設計などに携わった後に、2015年6月より広報・CSV推進部地域連携室へ。宮城県石巻市・女川町を中心に活動しながら、セクターの壁を超えた「健康プロジェクト」運営事務局として企画・運営に関わっている。
寺崎 幸季

岩手県釜石市出身。慶應義塾大学1年。 小学6年生の3月に震災、津波を経験。小学校卒業後、吉本興業の復興支援イベントに参加した縁で、自身も芸人を呼んだイベントを開催。また、渋谷109と釜石市のコラボイベントにも参画。高校2年生で「地域に根付いたボランティアを通じ、地元高校生に郷土愛を持ってもらいたい」と「釜石さ あべの会」を発足。また、仮設住宅への愛着を育むため、仮設住宅の壁をマグネットアートで彩る「釜石マグネットぬりえプロジェクト」を発案、2017年に「新しい東北」復興・創生顕彰 個人部門にて入賞。 釜石を愛し、好きなことをして地域に貢献することを目指して活動中。

油井元太郎
MORIUMIUS

MORIUMIUSフィールドディレクター。アメリカの大学を卒業後、音楽やテレビの仕事を経て、2004年に帰国後、キッザニアを日本に導入する会社の立ち上げに参画。06・09年に東京と甲子園にキッザニアをオープンさせる。2013年より宮城県石巻市雄勝町に残る廃校を自然の循環や土地の文化を体感する施設として再生。こどもの教育を通じた町の新生を目指す。

高畠 靖明
秋田プロバスケットボールクラブ株式会社

1977年 岡山県倉敷市生まれ 秋田プロバスケットボールクラブ株式会社 専務取締役 筑波大学体育専門学群卒業後、木下サーカス株式会社に入社し全国12都府県にてサーカス興行に携わる。その後、株式会社スポーツビズにてスポーツマネジメントを学び、縁あって秋田県に移住。2008年「秋田プロバスケットボールチームをつくる会」を立ち上げ、2009年 県内初のプロスポーツクラブ「秋田ノーザンハピネッツ」を設立。2017年は運営会社 創立10年の節目の年を迎える。

瀬川然
西和賀まるごと食ってみでけろ隊

西和賀生まれ西和賀育ち。 地元の西和賀高校を卒業後、㈱西和賀産業公社に入社。 現在は生産加工課という部署で、西和賀町の特産品である「西わらび」や「大根の一本漬け」の生産をしながら産業活性化に従事する。 地域の若者を中心に結成された馬鹿者グループ〈西和賀まるごと食ってみでけろ隊〉では副隊長を努め、西和賀を盛り上げる合宿やPR企画を実施。 若者が中心となり地域内外の連携を図っている。

松本 典子
山形食べる通信

食べ物つき情報誌「山形食べる通信」の編集長。1983年、山形県鶴岡市生まれ、埼玉県所沢市育ち。首都圏で編集・ライティングの仕事をしていたが、山形県の伝承野菜のドキュメンタリー映画「よみがえりのレシピ」の監督・渡辺智史と結婚し、鶴岡市へとIターン。2014年に第一子を出産。「山形の文化を未来の世代に残したい」と2015年、子育てをしながら『山形食べる通信』を立ち上げる。2016年には第二子を出産。2週間の産休後、よりパワフルに走り回っている。

冨樫 繁朋
幼少期を鶴岡市の最南端の港町 鼠ヶ関で過ごす。大学進学を機に上京し、その後インターネット関連の仕事に従事した。そして、37歳の年、2015年7月にUターン。現在は愛する故郷の伝統や文化、社会を次世代に継承するために、着地型観光による地域活性化を目指すNPO法人で、観光コーディネーターとして地域の魅力の発掘・発信・交流人口の拡大の実現に向け励んでいる。
米田 大吉
NPO法人プラットフォームあおもり

1964年青森市生まれ、慶応義塾大学商学部 卒業
2011年3月NPO法人プラットフォームあおもりを設立し、理事長に就任。 青森県「あおもり出会いサポートセンター」事業・八戸圏域移住推進事業・あおもり移住コンシェルジュ配置事業などの青森県全域の人口減少対策事業や、経産省の企業経営支援事業などを展開。
現 職: 
経済産業省 地域人材バンク事業チーフプロデューサー
農林水産省 青森県6次産業化プランナー
青森県 あおもり出会いサポートセンター センター長
国立大学法人弘前大学 教養教育推進機構非常勤講師
青森市 あおもり産品販売促進アドバイザー
文部科学省 青森COC+推進協議会委員

山内 亮太
株式会社ESCCA

1999年ソニー株式会社入社、以降、テレビの商品企画とマーケティングに10年間従事。2009年11月よりNPO法人ETICに参画。社会起業家の潜在層の発掘、教育に関わる事業の立ち上げを行い、震災後の2011年6月より東日本大震災に際して右腕派遣プログラムの立ち上げ、コーディネーター(南三陸担当)を4年担当。2015年7月より南三陸に移住し、株式会社ESCCAとして地域おこし協力隊のマネジメント、地域資源プラットフォーム設立準備委員会事務局等、復興からその先のまちづくりに関わっている。 また、今春Next Commons Lab 南三陸を運営し、地元で活動している事業者・地域プレーヤーとのコラボレーションにより、新しい事業開発に挑む。

八島 大祐
丸森町役場

1975年生まれ。丸森生まれ丸森育ち。1998年丸森町入庁。税務課、建設課、産業観光課、総務課などを歴任。震災直後の2011年度より宮城県庁に出向。以降2年間、震災振興に携わる。2013年度に丸森町商工観光課へ帰任すると、企業誘致や起業支援ほか町産業振興全般に携わり、町内への事業所誘致ほか新増設8ヶ所など、雇用確保に大きく貢献。2015年度には、地方創生の総合戦略に基づく起業サポートセンター「丸森CULASTA」の設置に尽力し、以降、町内起業者支援のほか、町外からの起業者誘致にも取り組む。人と人を繋ぐことで大小さまざまなしごとづくりに携わり、現在に至る。

横山 達
丸森町役場

1986年生まれ。丸森生まれ丸森育ち。2009年丸森町入庁。保健福祉課住民検診担当、企画財政課財政担当を歴任。2014年度より宮城県庁に出向し、以降2年間、県企業誘致施策に携わる。2016年度に丸森町子育て定住推進課に帰任し、住民の定住支援や町外からの移住支援業務を担当。「HELP!MARUMORI」プロジェクトによるワンストップ窓口「まるもり移住・定住サポートセンター『じゅーぴたっ』」の立ち上げに尽力する。2017年度より商工観光課起業支援担当に着任し、現在に至る。プライベートでは、地元の丸森町大内地区の若者グループ「大内みらい屋」に所属し、地域の良さを未来に伝える活動を行っている。

本多 智訓
一般社団法人MAKOTO

東京海上火災保険(株)で営業を経験後、ビジネススクールを経て、2012年3月より一般社団法人MAKOTOに参画。コワーキングスペースやクラウドファンディングなどの新規事業の立ち上げに関わる。2015年6月より丸森町の起業サポートセンター「丸森CULASTA」のプロジェクトリーダー。2017年4月独立。起業を促進するために、座学の起業スクールよりも効果的な施策を探索中。現在、丸森町の方々と一緒に新規事業プロジェクトに取り組んでいる。

島田 昌幸
株式会社ファミリア

北海道岩見沢市出身。大学卒業後から様々なビジネスの立ち上げを経験し、09年より仙台市にて仙台放送、地元農家と連携したマルシェジャポン仙台の運営に関わる。震災発生2日目からマルシェジャポンの仲間たち共に炊き出しプロジェクトを展開。物資の行き届かない避難所を中心にこれまでに2万食以上の炊き出しを提供してきた。復興にむけて新たな雇用と東北の再生モデルの創出を目指した農林漁業6次産業化モデルファームを展開中。

渡辺 一馬
一般社団法人ワカツク

1978年、宮城県角田市生まれ。 一般社団法人ワカツク代表理事 1997年、新設の宮城大学へ第一期生として入学。2001年、卒業と同時にデュナミスを会社法人化し、代表に就任。震災後、一般社団法人ワカツクを立ち上げ、ボランティアやインターンのコーディネート事業を展開。これまで培った人材育成の手法をより洗練させ、若者たちの「問題解決」への挑戦を支援、「若者が成長できる東北」を目指している。

鈴木 寛太
花巻市地域おこし協力隊

東京都大田区生まれ大田区育ちの25歳。2015年8月に岩手県花巻市大迫町に移住し、現在は地域おこし協力隊として、ぶどう産業活性化のために奮闘中。花巻市が取り組むぶどう農家栽培サポート組織「ぶどうつくり隊」の運営に携わり、岩手大学「ぶどう部」を学生と共に立ち上げ、サポートに従事し、ぶどう産業の担い手不足や後継者問題に取り組んでいる。

中島 祥崇
株式会社わらび座

1987年秋田県仙北市生まれ。株式会社わらび座本社営業部企画担当。秋田県立大学建築環境システム学科、都市アメニティ研究室にてまちづくりを学ぶ。その後秋田市にて市民活動等に従事。2012年株式会社わらび座に入社。企画担当として文化芸術を生かした新たな仕事づくりに取り組んでいる。

松永 武士
ガッチ株式会社

福島県浪江町出身。 慶應義塾大学在学中に創業し、日本だけでなく、中国・カンボジアにてヘルスケア事業を展開する。 東日本大震災をきっかけに事業を譲渡し、日本に帰国。家業である伝統的工芸品「大堀相馬焼」の販促・プロデュース事業に携わる。 「AERA が選ぶ日本を突破する100人」に選出。 One Young World 2014 JAPAN Ambassador

戸塚 絵梨子
株式会社パソナ東北創生

東京都出身。早稲田大学教育学部卒業後2009年人材サービス会社㈱パソナに入社し、人材派遣の法人営業を行う。
震災以降、仕事の傍ら社員有志による復興支援活動を行った後、2012年「ボランティア休職」という会社の制度を利用し、NPO法人etic.右腕派遣プログラムにて岩手県釜石市の一般社団法人三陸ひとつなぎ自然学校で活動。 2013年復職後は継続した釜石との関わりを模索し2015年4月、社内ベンチャー制度にて株式会社パソナ東北創生を設立し、主に首都圏の企業・大学と沿岸部の事業者を繋ぎ実践的な学びをコーディネート、東北での人材となりわい・仕事の好循環を目指した活動を行っている。

伊藤 聡
一般社団法人三陸ひとつなぎ自然学校

一般社団法人三陸ひとつなぎ自然学校 代表理事 1979年生まれ。岩手県釜石市出身。震災前、宝来館に所属し、ネットワークを活かしたグリーン・ツーリズムの新たな仕組みづくりや、自然を活かした宿業の推進を実践するとともに、地域内外、都市部との連携を強化するための活動に取り組む。震災発生時も宝来館で勤務しており、波に追われる様に逃げた裏山で九死に一生を得た。震災後は主に鵜住居川流域一帯の復興支援活動を続け、 2012年4月に独立、「三陸ひとつなぎ自然学校」を立ち上げ、ボランティアツーリズムから観光復興につなげる事業を行っている。

石井 重成
釜石市オープンシティ推進室

釜石市オープンシティ推進室 室長/『釜援隊』立ち上げ人 1986年生まれ。愛知県西尾市出身。国際基督教大学を卒業後、経営コンサルティング会社勤務を経て、東日本大震災を機に岩手県釜石市へ移住。復興支援員制度を活用した地域コーディネーター事業『釜援隊』や、オンデマンドバスの実証実験、成長企業のUIターン採用支援サービス開発など公民連携事業を推進し、市まち・ひと・しごと総合戦略のディレクションを担う。慶應大学G-SEC復興リーダー会議第2期委員、『News Picks』第3期プロピッカー(地方創生分野)、東北復興新聞にて『まちづくり釜石流』を連載中。

逢見 祥平
1989年埼玉生まれ。2016年1月現在岩手県岩泉町に移住。前職はフローリングメーカーに勤務。そこで国内に木材が豊富にありながら、海外から輸入している現状を知り、国内の流通を変えようと決意。現在は岩泉町で広葉樹材を中心に地域材の流通の仕組みを構築している。さらに木や山の可能性を追求し、樹液採取やクリの植林など「食べられる山プロジェクト」を開始。地域のお菓子屋さんや第三セクターと共同して新たな製品づくりに取り掛かる。キーワードは“森との接点をつくること”
黍原 豊
一般社団法人三陸駒舎
一般社団法人三陸駒舎・創設者、理事。 1977年愛知県生まれ。岩手大学農学部卒業後、NPO法人岩手子ども環境研究所、岩手県立児童館いわて子どもの森にて、パーマカルチャーに基づいた循環型の施設整備、自然エネルギー教育、環境教育、子どもの居場所づくりなどに携わる。 2013年4月から2015年5月まで、釜石リージョナルコーディネーターの一員として復興まちづくりに関わり、地域固有の文化再生と継続的な子ども支援の必要性を感じ、三陸駒舎を設立。 家族で古民家で馬と共に暮らし、事業を展開する。
立花 貴
公益社団法人Sweet Treat 311 代表理事
1969年仙台市生まれ。東北大学法学部卒業後、伊藤忠商事株式会社入社。6年で伊藤忠を退社し起業。2000年、食流通関連の株式会社エバービジョン設立。2010年、日本の食文化・伝統工芸を発信する株式会社四縁設立、薬師寺門前AMRIT運営。震災後、石巻雄勝中心に支援活動にあたり、2015年夏にモリウミアスをオープン。著書:『心が喜ぶ働き方を見つけよう』(大和書房 2012年4月17日発刊)。一般社団法人東の食の会理事。一般社団法人3.11震災孤児遺児文化スポーツ支援機構理事。株式会社四縁代表取締役。
阿部 正幸
NPO法人東北開墾 専務理事。代表の高橋博之とともに2013年に東北開墾を立ちあげ、「東北食べる通信」創刊から事業にたずさわり、現在は「東北食べる通信」運営統括のほか全国の食べる通信の展開基盤となるシステム、運営ノウハウの構築をおこなっている。2011年までは関西のシステム会社勤務のごく普通のサラリーマン。2012年に岩手県大槌町の復興団体に参加したことをきっかけに高橋と知り合い、巻き込まれ開墾の立ちあげメンバーに。北海道札幌市出身。
佐々木 伸一
綾里漁業協同組合 総務部。平成4年に漁協へ入社して以来、主に総務・経理・営漁指導を担当する一方、地元漁師たち「小石浜青年部」とともに「恋し浜ホタテ」の直送販売モデル作りに奮闘。「恋し浜」ブランドを育てあげた。2015年には、いち職員の立場ながら「綾里漁協食べる通信」を漁協内で立ちあげ。編集長に。450名の漁民ひとりひとりを海の魅力、漁の魅力をつたえる発信者にするとビジョンをかかげ、漁師たちのプロデューサーとして食べる通信の制作、発信にとりくんでいる。岩手県大船渡市綾里地区出身。

http://taberu.me/post/stories/20160303/236.html

桃浦浜づくり実行委員会
人口減少が進む浜の未来を考えるために、2013年3月に漁師である住民を中心として設立。浜の魅力を伝える「浜の学校 牡鹿漁師学校」を通した浜の担い手募集を目標とし、月に1回程度の継続的な会議を行っている。牡鹿漁師学校の開催に際しては、委員自らがそれぞれの職能を活かした講師となり、学校運営を行っている。現在は移住希望者が安全に暮らせる環境整備に向けて自力による高台移転地や低コスト住宅の検討を行っている。
筑波大学貝島桃代研究室
2001年筑波大学人間総合科学研究科芸術専攻に設立。実践的な活動を通した建築設計とまちづくりの研究を行う。震災後、建築家による復興支援ネットワーク「アーキエイド」に参加し、牡鹿半島の桃浦・月浦・侍浜地区を中心とした高台移転地や低平地利活用の計画策定支援を行う。また、牡鹿半島の集落や建築物、生業を記録した「浜の暮らしから浜の未来を考える 牡鹿半島復興のためのデザインパタンブック」「牡鹿漁師学校教科書」の製作を行う。桃浦浜づくり実行委員会による牡鹿漁師学校の企画・開催に際しては事務局として、広報活動やプログラム作成等の支援を行い、継続的な恊働体制を築いている。
東京牡鹿会
2015年8月に開催した第4回牡鹿漁師学校後、フィールドワーク参加者により設立。牡鹿半島の未来について考える浜づくりサポーターとして都心部からでも牡鹿半島を支援する体制を築いた。筑波大学と協働して月に一回程度会議を行っており、浜の資源活用についての提案や議論を行っている。第5回牡鹿漁師学校の卒業生もメンバーとして加わり、都会と地方というネットワークと各回の卒業生をつなぐネットワークとしての役割を果たす。第4回牡鹿漁師学校時に提案された「フォトロゲイニング」が今回のフィールドワークで実現される。
一般社団法人APバンク
環境プロジェクトなどへの融資をはじめ、持続可能な社会を創るための活動を行う組織。音楽プロデューサーの小林武史と、Mr.Childrenの櫻井和寿に、坂本龍一氏を加えた3名が拠出した資金をもとに、2003年に設立。野外音楽イベントを年に一回開催し、イベントの収益はap bankの融資原資、活動資金、様々なプロジェクトの支援や推進のための資金となる。2011年3月11日の東日本大震災以降は、ap bank Fund for Japanを立ち上げ様々な復興支援活動を行ってきたが、2017年には石巻市や関連団体・企業とともにReborn-Art Festivalを開催する予定。
森 和子
東京都大田区出身。東北オープンアカデミー1期生。2015年4月に北三陸で行われたフィールドワークに参加。2015年8月より5ヶ月間、中小機構の実施するふるさとプロデューサー育成支援事業の研修生として八戸に滞在。研修の一環で、八戸周辺の地域を見て回る中で、島守地区ののどかな雰囲気と温かい人たちに触れて、あっという間に島守ファンに。
下苧坪 之典
1980年岩手県洋野町(旧種市町)生まれ。 株式会社ひろの屋代表取締役。 大学卒業後(株)青森ダイハツモータース、ソニー生命保険(株)に7年勤めた後、2008年4月に帰郷、2010年5月に起業。 その後3.11を受けて『北三陸世界ブランドプロジェクト実行委員会』を設立、発足とともに代表就任。 朝日新聞出版誌「アエラ」で日本を打ち破る100人に選出される。 岩手県商工会青年部連合会副会長。 「愛称 北三陸の海男児(キタサンリクノカイダンジ)」
野呂 英樹
青森県青森市出身、31歳。東京海洋大学大学院を卒業後、青森県庁に水産の専門職として入庁。漁業の現場を肌で触れ、県内漁師らとともにNPO法人FTF.を設立し、試験流通を開始。県職員5年目にマグロの事業にかかわっていたことから、引き抜かれる形で県を退職し、(株)あおもり海山、(株)ホリエイに入社。 マグロの生産現場であるホリエイの漁船に乗船し、品質向上に努めている。また、加工センターの設計から建設に携わり、加工品の商品開発、営業、販売をこなしている。 その他、マグロ資源の減少が叫ばれる中、(株)ホリエイが研究機関として、東京海洋大学らと共同で試験研究を行っている。
高橋 博之
岩手県花巻市生まれ、41歳。青山学院大学経済学部卒業。2006年、岩手県議会議員補欠選挙に無所属で立候補、初当選。2011年の震災後、後援会を解散し事業家へ転身。“世なおしは、食なおし。”のコンセプトのもと、2013年に特定非営利活動法人「東北開墾」を立ち上げ、史上初の食べ物つき情報誌『東北食べる通信』を創刊。 その後一般社団法人「日本食べるリーグ」を創設。すでに20以上の「ご当地食べる通信」誕生している。現在、一般社団法人「日本食べる通信リーグ」代表理事、特定非営利活動法人「東北開墾」代表理事、株式会社KAKAXI代表取締役。
高橋 健
1985年生まれ30歳。宮城県仙台市出身。 東北大学経済学部卒業後、新日鉄住金ソリューションズ株式会社へ入社。大手通信会社向け営業に従事。2015年10月に退職。 2016年1月より特定非営利活動法人アスヘノキボウへ入社。創業支援事業を担当。
梶屋 陽介
鹿児島県種子島出身。 株式会社セッショナブル代表取締役CEO。 東京の大手楽器店にて、動画を活用した独創的なプロモーションによりNo1セールスを記録。 その後ボランティアとして被災地に関わる中で、地方に産業を興すために起業を決意。 仙台に2店舗のギターショップを立ち上げた後、女川町にてギター生産工場の建設に着手。 世界初となる宮大工の技術を使ったギターを制作する。
白川 佑希
東京都出身。東京大学大学院国際協力学専攻修士課程を経て、国際協力系のコンサルタント会社に勤務。2014年4月から1年程スーダンに滞在し、紛争後地域の基本行政サービス向上による復興支援を行うODAプロジェクトに従事。その後アフリカ10カ国を見て回る。 2015年11月よりNPO法人アスヘノキボウにて移住促進事業を担当。
松沢 卓生
1972年 岩手県盛岡市生まれ。岩手大学卒業後岩手県庁に入庁。 岩手県二戸地方振興局勤務時に浄法寺漆の振興を担当したことがきっかけで漆の世界へ。2009年に県を退職し、個人事業として「浄法寺漆産業」を創業。国産漆の精製、漆器のプロデュース、小売を行う。2011年、「浄法寺漆」でグッドデザイン賞特別賞受賞、2012年に法人化。2013年に「Urushito Glass」がグッドデザイン賞を受賞。ニューヨークやパリなど国内外での展示会出展多数。2014年よりアメリカ・フェッツァー財団の支援を受け、海外に漆を普及するプロジェクトに参画している。
松本 孝徳
1975年生まれ。浪江生まれの浪江育ち。1993年に浪江町役場入庁。税務課、企画調整課、産業振興課、総務課、健康保険課などを歴任。2014年度は産業・賠償対策課農林水産係長として、農業者との対話を重ねた取組みを進め、農業再生に向けた「浪江町農業再生プログラム」をまとめるとともに、水稲の実証栽培や花き栽培を取り入れた再生モデルづくりを手掛けた。2015年度から復興推進課復興企画係長に着任し、復興計画や地方創生総合戦略の策定などを担っている。
近野 悟史
1981年浪江町の津島地区に生まれる。福島県立双葉高等学校卒業後、浪江町役場に入庁。震災前から「協働によるまちづくり」を目指した取組みに従事。震災後はその経験を活かし、避難した町民とともに町の伝統的な祭「十日市」の避難先での復活、県外に避難した町民のつながりを維持する「復興支援員」の導入など、町民の絆の維持に深く関わる。 現在、復興推進課まちづくり整備係に所属し、町内への拠点施設の整備に携わる傍ら、プライベートでも浪江焼麺太国や浪江青年会議所に所属し、浪江町の若者とともにふるさとの復興を目指している。
貝沼 航
1980年3月生まれ。福島県福島市出身。 子ども時代は、会津出身の祖父の膝の上で「会津っていうところは特別なところなんだ」という話を聞かされて育つ。 高校時代は文化祭活動、大学時代はロックバンドとインド旅行に明け暮れる。 大学卒業と同時に就職がきっかけで、東京から会津若松市に移り住む。 当初は2年間で会津を出る予定だったのが、伝統工芸の職人さんたちとの出会いが転機となり、いつの間にか会津という土地に心酔し定住してしまう。 2005年、25歳の時に株式会社明天を設立。 柳宋悦『民芸の趣旨』を座右の書とする。
阿部 忠義
2015年4月より、一般社団法人南三陸研修センター理事を務める。それ以前は南三陸町職員として、産業振興課、入谷公民館館長を歴任。南三陸町のマスコットキャラクター「オクトパス君」の生みの親。「入谷YES工房」や、「一般社団法人南三陸研修センター」の設立に関わる。アイデアとユーモアで地域を元気にする仕掛け人。「おふくろの味研究会」にも発足から携わり、事務局を担う。
村上 誠二
長洞元気村事務局長。 陸前高田市の中学校に勤めながら、長洞元気村の事務局長を務める。 震災直後から、長洞地区の自治会長とともに地域の対応をとりまとめつつ、行政との連絡・協議の窓口となった。なでしこの立ち上げをバックアップしたり、長洞元気村の軌跡について各地で講演活動などを行っている。
小林 恵里
風景屋 ELTAS ディレクター

福岡県生まれ東京育ち。2009年早稲田大学国際教養学部卒業。新卒で入社した東京の国際見本市主催会社にて、3年弱セミナー企画運営を担当する。その後小さな古本屋を立ち上げ、約1年仕入れから値付け、在庫管理、店頭販売まで経験。軌道に乗った店を共同経営者に託し、約1年間外資系インターネット関連企業人事部にて新卒採用に従事する。2013年一般社団法人ap bankへ転職後、2014年にはReborn-Art Festival(芸術祭)の立ち上げのため石巻に移住し、実行委員会の立ち上げから行政との連携、アーティストや現地協力者の対応まで幅広く業務を担当。2017年夏に第一回Reborn-Art Festivalの開催を経て退職。2017年11月より夫が主宰する風景屋ELTASへ参画。主にイベント企画運営、ディレクション業務を担当する。2019年6月、青森県十和田湖畔にて平日シェアオフィス、週末カフェ併設のゲストハウスyamajuをオープン。


30代男性/第一期(東北オープンアカデミー2015)にご参加

元々、地域活性に関わりたいと思っていたこと、そして、東日本大震災の時に具体的なアクションができず心残りだったこともあり、参加を決めました。
フィールドワークによって初めて訪れた被災地。
そこには、地域や日本の未来について熱く語り、課題に対して諦めずに闘う人たちとの出会いがありました。
その人たちの想いに触れることで、復興や社会課題の解決はもはや他人事では無くなり、当事者として、”今だから見えるこれからの変化を見ておきたい”、”自分もその変化に関わりたい”と強烈に思い、初めて訪れた日から継続して現地に通っています。
現地や関わる方々の生き様に触れることで、自分自身の”どう生きるか”ということについて、真剣に考える機会にもなっています。
そして、アカデミーには同じような志を持ち、社会課題と向き合い、何とかしたいと思いアクションをおこす仲間がいます。
今回の参加はスタートライン。これから仲間と一緒に、未来を豊かに変えていく日々にわくわくしています。

瀧本佳央/岩手県立盛岡第三高校3年

私は,率直に「被災地の今」を知りたいという想いで参加しました。釜石フィールドワークへの参加にあたって,私が着目したことが「オープンシティとなることの意義」です。震災後の釜石市では「よそ者」を積極的に受け入れてきました。オーガナイザーの石井重成さんが立ち上げた「釜援隊」では釜石の復興のために熱い想いを持ちUIターンをした地域の担い手となる存在が,第一線で活躍しています。このような事業は,地元住民の釜石のために,という強い想いと「よそ者」を受け入れる環境・体制が「オープンシティ」として整っているからこそ成り立っていると感じました。地方創生のその先の未来を見据える上で,カギを握るのが「次世代を担う突出した若者」の存在です。「将来は地元のために働きたい」そう思える若者が地方にさらに増えるように,地元を離れる前にその地域や大人の魅力を知る,というきっかけづくりが必要不可欠であることをフィールドワークを通して強く感じました。

若松真哉/福島県南相馬市 若松味噌醤油店 専務

東日本大震災から、もうすぐ4年が経つという時期でした。震災で傷んだ味噌醤油店の事業もどうにか一段落し、これから進むべく道のヒントを私は探していたのかもしれません。そんな折、フェイスブック上で3月から開始する東北オープンアカデミーの参加者募集告知を見つけました。第一回目はフィッシャーマンジャパン・メンバーの話が聞けるとの事。参加の決断に迷いはありませんでした。歴史に残る大災害から復活を目指すメンバーから学ばせていただく機会は二度とないと思ったからです。結論から申し上げれば、もう一度参加したい、そのくらい同じ東北の生産者の私にとって、内容が衝撃的でした。メンバーに共通していたのは震災をきっかけにした自発的な「マインドチェンジ」だったと思います。内容もそうですが、参加メンバーも想いのある活動的な方ばかりで、食材のコラボ企画等も動き出しました。東北オープンアカデミーは私にとって大きな転機になった事は間違いありません。

第一期(東北オープンアカデミー2015)にご参加

「自分にしかできない地域との関わり方を考え、仲間と知恵を出し合い、創造力という資本をもって、新しい未来をつくっていく」この一文にインスパイアされた私は、すぐに参加を決意しました。そして、私は「伝統工芸の未来」というテーマで、会津若松にて会津漆器の現場を自分の目で確かめる機会に恵まれます。何気なく使ってきた漆器が、どんな一生を辿り私の食卓に並んでいたか初めて知ると同時に、手間暇をかけてホンモノを生み出そうとする職人さんの表情に感動を抱きました。漆器だけでなく、会津の風景・食どれも素晴らしかったです。大切なのは、『土と水』その地域の生態系が”生きている”ことであり、それはその地域で産業を営む方々が”プライドを持って暮らしている”こと。そう実感した私は、都会から各地の魅力を具体的に想像できる場づくりをしようとメンバーと検討しており、その地域に共感し観光する人たちを増やしたいと思っています。
一連の活動で多種多様な方々と繋がり、学び合い、熱量高くアクションできる瞬間に出会えたことに感謝しています。

40代女性/第一期(東北オープンアカデミー2015)にご参加

福島県いわき市出身なので、震災後はずっと動向が気にはなっていました。
ですが、学生時代から憧れていた海外を飛び回ってボーダーレスに色々な文化の人と一緒に仕事をする機会に恵まれていたので、その仕事を辞めるつもりはなく特に東北に対して行動はしていませんでした。
今後の生き方などを長いスパンで考えるうちに「頑張っている故郷に何か貢献したい」と漠然と思うようになったのが2015年3月。それを知人に話したら、あれよあれよという間にいわきで既に活動している方に紹介されたのをきっかけに、『自分ができること』を模索するうちに東北オープンアカデミーを知りました。
参加を決めるまでは、何の知識も起業するという具体的な計画もないのに参加して大丈夫だろうか?と不安でした。参加したことで、特別なスキルがなくても今までそれぞれの生き方で経験してきたことが活かせるあらゆるチャンスがあることを知りました。
何より、志があればスキルや経験は後からいくらでも積めるものだと実感したし、同じような想いの人と「仲間」になれたのがとても嬉しかったです。
人生の中で、「一緒に働きたい」と想える人がいて、その人にも自分のスキルや可能性を認めて求められて、ちょっとの勇気で踏み出せばそこに飛び込めるという状況があるタイミングって、実はあまりないと思います。なので、私はそのご縁を大切にしたいし自分の心に正直に生きてみようと、今回の人生の方向転換をわくわくして決意しました。

杉中 貴/一般社団法人「福島復興ソーラー・アグリ体験交流の会」

2015年7月から、現地の復興に貢献すべくKPMG/あずさ監査法人から出向しています。
私は関西の生まれ育ちです。東日本大震災から年月が経ち、関西に東北の情報が少ないという問題意識を持った時に東北オープンアカデミーを知り、参加を決めました。
参加したのは、現地の現状や復興の担い手の活動に触れて福島県南相馬市の復興事業案を考えるFWと、岩手県洋野町から世界ブランドを展開する活動に触れるFWです。2つのFWに参加し、東北の課題解決は過疎・人材不足など日本全体の課題解決につながると強く感じました。また何より、精力的な現地のリーダーやFW参加者との出会いは大きな刺激になり、また何にも代え難い財産になりました。
私は2015年初めに、出向先の代表であり南相馬市のFWでオーガナイザーを務めた半谷さんと出会い、志とその活動に非常に感銘を受けて出向を希望しました。南相馬でのFWは、出向前に現地の現状・課題を短期間で共有でき、現地で働く意義を考える貴重な機会になりました。
素晴らしいFWをご用意頂いた関係者の皆様には、本当に感謝しています。


「生きるリアリティ」を感じてほしい

立花 貴(東北オープンアカデミー・プログラムオーガナイザー/公益社団法人sweettreat311 代表理事)
2015年夏、宮城県雄勝(おがつ)地区にある築91年の廃校が、こどもの複合体験施設「モリウミアス(森と海と明日へ)」としてよみがえります。仙台から車で2時間。アクセスは決して良いとは言えないこの場所に、施設の改修作業を手伝おうと日本全国だけでなく海外からも、これまで2,500人以上が訪れ、新しいうねりが生まれています。雄勝を「グローバルな過疎地域」だと言うのは、モリウミアスを運営する公益社団法人sweettreat 311代表理事の立花貴さん。伊藤忠商事株式会社を退職して自ら起業、東京でバリバリの企業人としてキャリアを積んできた立花さんが現在取り組んでいるのは、人口1,000人という地域での、教育と体験を通した学びの場づくりです。

  • 雄勝での活動について

雄勝や石巻のこどもたちに体験を通した学びの機会をつくっています。漁師と一緒に船に乗って漁業体験をしたり、林業を体験したり、地元の旬の魚介類を使った料理教室をしたり、川登水源探しと漁業体験をつなげ水の循環を体感したり。学習支援も合わせると、これまでにのべ4,000人以上のこどもが参加しています。「体験」を重視しているのにはわけがあります。本来人間には、考えるのではなく「感じて」動く力もあるのではないかと思っています。震災などの非常時には、誰も指示してくれません。平時、有事に関係なく「心の瞬発力」で動くことができるということが大事で、それは体験を通じて培うことができるのではないかと思いました。
例えば、漁師の皆さんの仕事を見ていると、指示というのはほとんどないんです。その場の雰囲気を見て、何が必要か考えたり一番困っている人のサポートについたりして、物事がスムーズに進むための最善の道を探します。そういう姿をこどもが見て体験することで、頭で考えるだけではない、人間本来の力を呼び起こしていきたいと思っています。

  • 今夏オープンする「モリウミアス」は、こどもたちの学びの場?

こどもが学べるというだけでなく、そこに住む大人や外からやってくる人との交流の場であり、雄勝の豊かな食を体験できる場であり、宿泊もできる場です。この施設はまちのシンボルとも言える築91年の廃校を利用しています。震災後に一度は解体することも検討されたそうなのですが、その理由は「思い出の詰まった学校が朽ちていくのを見たくないから」ということでした。それほど愛されている建物なのです。だから、できるだけ原型を留めようと努めました。裏山が土砂崩れを起こしていて校舎内にまで土砂が入り込んでいるような状態でしたから、本当は解体して新しくつくり直した方がずっと楽だったのですが。毎週末、日本全国、海外から、これまで年間2,500人以上の人が手伝いに来てくれました。土砂をかき出し、柱を継ぎ足しました。屋根に使われている雄勝産の硯石を一枚一枚丁寧に磨きました。モリウミアスには、たくさんの人の愛着が手垢としていたるところについています。修繕が終わったから終わり、というものではなくて、常にまちの人の想いとともに進化し続ける「終わらない」場なのです。

  • なぜ雄勝で活動することになったのか

6年間の伊藤忠商事での勤務を経て、食品流通の会社を起業し、約20年東京で仕事をしていました。東日本大震災の発災時も東京にいましたが、出身が宮城県仙台市なので家族の安否確認のために一旦戻り、顔を見たら東京へ帰るつもりでした。しかし、避難所をいくつかまわり現状を目の当たりにするうちに「このままでは帰れない」という気持ちになって。すぐ前職の仲間に声をかけて水や食料を運んできてもらって配るというところからはじめました。岩手・宮城・福島と色々なところで炊き出しをしていたのですが、ある日雄勝にある中学校の校長先生から相談を受けました。「学校で炊き出しをしてもらえませんか」と。この出会いが雄勝との縁になります。中学校へ給食を届けるなどして支援をしているうちに、先生たちが全く休めていないことに気が付いて、仙台の大学生や塾講師の人に協力を仰いで夏期講習をしたり、放課後支援をしたりといったことに取り組み始めました。今は住民票を雄勝に移しているので、こどもへの支援だけでなく、繁忙期には浜の一員として朝から漁に出て漁師さんを手伝うこともあります。

  • 雄勝に移ってみて東京との違いは

それまで企業人として働いてきましたが、雄勝で日本の地方の現状と言いますか、少子高齢化、過疎化、産業衰退、そういったものを目の当たりにしました。さらに、震災前は約4,000人だった雄勝の人口は、震災の被害と人口流出により1,000人ほどになっています。こうしたことを客観的に見ればマイナスなのですが、そんな中でも、浜のお母さんや漁師さんたちはすごく元気なんです。そこに人間の持つエネルギーを感じたのと同時に、可能性を感じました。ここでひとつずつ小さな事例を重ねていき、たくさんの人に関わってもらうことができたら、もしかしたら何かが変わるのかもしれない、日本の新しいコミュニティや産業創出、学びの形がここから始まるかもしれないと。雄勝では道で誰と車ですれ違っても手を振るし、夜は呼ばなくても人が来るしで、毎日がにぎやかです。雄勝に関わり始めた頃は「なぜこんなにリラックスして過ごせるのだろう」と不思議だったのですが、ある日気が付いたんです。まち全体が家族なのだと。コミュニティ全体がそういう意識だから、誰かが困っていたら自然とみんなでサポートする。そういう関係ってすごく安心感があるし楽ですよね。

  • なぜ「こども」に焦点を絞ることになったか

2011年に、支援に入っていた中学校のこどもたちが太鼓の演奏を披露しました。日本国内や海外からたくさんの支援をもらったことに対する感謝の気持ちを伝えたいということでした。古タイヤにビニールを巻いた太鼓で一所懸命に練習し、日本全国や海外での演奏会に呼ばれて披露しました。そんな中、ある会で感想を聞かれた中学一年生の男の子がこう答えたんです。「震災後にいただいた支援にたいする感謝の気持ちを伝えるために、魂を込めて叩きました」と。そのひたむきな想いに心を動かされて、こどもは経験によってこんなにも成長するのだなと実感しました。さらに考えたのは、こどもたちが色々な経験をしたり、様々な職業の大人が関わったりすることで、まちがもっと魅力的になるのではないかということです。2011年に中学3年生だったこどもたちは現在高校3年生。この春から大学進学や就職が控えています。sweettreat 311ではインターンを受け入れていますが、僕らのプログラムに参加したこどもが、インターンとして来てくれることを楽しみにしています。かつて自分が体験したプログラムを、今度は運営側で関わっていく。そうした、ぐるっとまわるような循環が出来つつあります。産業をつくることはもちろん大切なことですが、もっと重要なことはそのプロセスにこどもをはじめとしたまちの人たちが関わっていくことだと感じています。

  • 今回のプログラムの内容は

漁師さんと一緒に漁業体験をしたり、「モリウミアス」の場づくりに関わってもらったり、普段sweettreat 311で実施していることを含め、身体全体で場の持つエネルギーを感じてもらいたいと思います。僕らが雄勝でテーマとしているのは「持続可能な社会をつくる人材を育てる学びのフィールド」。地域、自然、人、コミュニティ、そういったものをベースとして、何もないところから自分で未来を切り開いていけるということが、これからの地域で必要であると考えています。住んでいる地域だけでなくて日本全体、世界へと視座をあげられるような、そうした人材を育むにはどうしたら良いかを共に考えたいと思っています。夜には地元の漁師さんや飲食店の店主さんたちと一緒に、雄勝の食材を使った料理に舌鼓を打ち、酒を酌み交わしながら語り合いましょう。

  • どういう人が参加すると学びが大きいか

特にこういう人、ということはないのですが、あえて言うなら普通の民間企業に勤めている人でしょうか。現在sweettreat 311では大手民間企業からの出向社員を3人受け入れています。民間企業が株式の関係がない組織に、しかもまちづくりや産業創出というジャンルに出向するということは珍しいことです。それだけこの場に学びがあるということですし、こういう動きはどんどん増えていくのだと思います。もしかしたら東京でずっと過ごしている人には日本の地方がどういうものか、身体全体で感じるとはどういうことか、ピンとこないかもしれません。かつての僕がそうだったように。しかし、おそらくどんなに考えてみてもその答えは出てこないでしょう。まずは考えないで一歩踏み出してほしい。ここでの生活をわずかな時間でも体験することで、感じることや気づきがあると思います。「働くとは何か」「暮らすとはどういうことか」といった、「生きるリアリティ」を感じてほしいと思っています。

  • 東北オープンアカデミーの意義とは

これまで東京や大阪以外の日本の地方というのは、人を送り出す場所になっていました。多くの仕事の機会が大都市に集中していたため、地方に人材が残らないという状況です。サッカーで例えるとフォワードばかりで、振り返ると誰もいないようなものかもしれません。僕も震災がなければ今も東京で仕事を続けていたと思います。しかし働き方や会社の在り方というのが、いま転換期に来ているという、そんな空気を感じています。また、前回の東京オリンピックを境にして日本は大量消費、大量生産する社会へと舵を切り、そこにアジア諸国も続きました。2020年に開催される東京オリンピックにおいては、私たちが世界に何を伝えられるのかが重要になると考えています。僕は、日本の地方や一次産業が元気であること、自然と共存することの豊かさや暮らし方、新しい企業の在り方や働き方、地域や地域に関わる都市部の人たちとの家族や親せきのようなつながりを、提唱していきたいと思います。また、こんなやり方があるのだと事例を伝えたい。そのために、僕らの活動やこの東北オープンアカデミーで一歩ずつ積み上げていけたらと思っています。東北オープンアカデミーは、一極集中の道を進んだ戦後の日本と全く逆の動きにチャレンジしようとしているのではないかと考えています。持続的な産業や地域とはどういうことなのか、僕たちが望む暮らしとは何かを考えるプロセスなのかもしれません。

  • 参加者へのメッセージ

雄勝は楽しいし、刺激的で学びも多いです。僕は20年間東京で働いてきましたが、また雄勝で学びを得られるということに感謝しています。参加者の皆さんには、雄勝で感じたことを持ち帰って自分の働いている会社で提案してみることもできると思います。雄勝で出会う人たちとのつながりは、自分自身からそうありたいと望み行動すれば、この先ずっと続くものとなります。ここでの経験は、いい意味でかなり「ヤバい」ですよ。それだけは約束します。

聞き手:志賀恭子(公益財団法人 地域創造基金さなぶり)
2016年3月31日

東北から日本の未来を切り拓く

高橋博之(東北オープンアカデミー・運営委員/NPO法人東北開墾・代表理事)
015年2月、東北オープンアカデミーの具体的なプログラムが始まります。東日本大震災で受けたダメージをから、むしろ「新しい街」「新しい未来」を切り拓いていく「人」「担い手」をエンパワーメントし、ネットワーク化していくことを目的に、現地でさまざまなプログラムを実施していきます。そこには「まちづくり」「コミュニティづくり」「産業創出」といった大きなテーマと共に、具体的に解決すべき課題が横たわっています。ここではキックオフを前に、東北オープンアカデミーとはどんなプロジェクトなのか、どのような人に関与してほしいのか、実行委員で、震災後に「東北食べる通信」を発刊したNPO法人東北開墾(岩手県花巻市)の代表理事、高橋博之さんに話をうかがいました。

  • 東北オープンアカデミーをはじめる理由

震災で失われたものは、あまりにも大きかった。だからこそ、それを無駄にしないために「震災前よりももっといい街を作ろう」、そうみんなで互いに言い合って活動してきたと思うんです。「復旧」ではなく「復興」だと。でも、実際にこの3年の間には「元に戻そう」というエネルギーが強くて、若いリーダーの心が折れてしまう場面がいくつもありました。確かに世代間に考え方の違いはあるけれど、有事だからこそ気づかされた新しい価値観については誰もが認めたはず。東北オープンアカデミーでは、その価値観を、まちづくりやコミュニティ再生、産業創出の現場で活かせる「人づくり」をテーマに、具体的な体験プログラムを実施する社会実験プログラムを設計しました。

  • なぜ東北を舞台に始めるのか

震災を経験した東北は、日本の中で「課題先進地域」と言われています。加速する過疎化、そして高齢化、一次産業の衰退など。これから日本のどの地域も直面するであろう課題が、いち早く東北で顕在化しました。それには待ったなしで答えを出さなければなりません。良くも悪くも評価はされるだろうけれど、むしろチャンスだし、チャレンジできることは名誉だとも思います。なぜなら、新しいモデルを作れるし、何より同じ境遇の人たちを助けられるからです。さらに踏み込んで言えば、日本は世界からみて「課題先進国」。東北はその中で先頭に立ってしまったわけですから、世界の先頭を走っていることになります。東北が「世界の課題先進地域」なのです。同時に、それは参考にできるモデルがないことを意味します。追いかける背中が見えない以上、自分達で先進事例、つまりフロンティアを作る必要があるんです。これまでの日本は経済で世界をリードしてきたけれど、これからは課題解決で世界をリードできるはず。その口火を、日本の課題先進地域である東北で切ることは、ある意味必然だと考えています。

  • この活動は復興支援なのか

丸3年が経ち、震災の記憶は風化する一方です。自分はむしろ復興という文脈が通じないステージに入ったと認識すべきだと考えています。そもそも東北は、震災を抜きにしても、一年の数ヶ月間を雪に閉ざされる厳しい生活環境に置かれてきました。だからこそ、互いに助け合い、知恵を絞り、自然と向き合いながら生きていかざるを得なかった土地です。「奪い合えば足りないものも、分かち合えば余る」。東北にはこの感覚を持っている人が多く、それが東北の良さだとも思います。遡れば、飢餓の歴史もあるし、中央政府から虐げられてきた歴史もある。言い換えれば、東北は震災前からずっと難しい課題に向き合わざるをえない状況の中に常に置かれてきたとも言えます。震災という大きなダメージは受けたけど、それは元々横たわっていた課題が他より早く顕在化しただけに過ぎない。だから、この一連の取り組みは日本の再生そのものと捉えています。

  • 大事なのは「人」、そして「ネットワーク」

東日本大震災をきっかけに、東北に関与してきた人は多いと思います。経験を生かそうと飛び込んできた人も多いし、逆に高いスキルを期待されて呼ばれた人もいたと思う。東北オープンアカデミーの運営メンバーも、実はそういう人たちで構成されています。私たちのように、震災後の活動を通じて、東北の人たちだけでなく地方から自立する必要があると考える人たちが、ネットワークでつながったことは大きな財産と言えます。そこにはさまざまな考えやノウハウが集まっている。自分はいつもこう言います。「今の東北は、幕末の京都だ」と。「東北から日本の未来を切り拓く」。そのような考えを持つ人が集まり、密度が高まることで、はじめて、東北から新しい社会づくりの萌芽を生み出すことができると思っています。

  • 都会と地方の関係性について

震災前は岩手で県議会議員をしていました。その時は「岩手の中で岩手のことを解決しよう」と考えていた。そのための人材は岩手の外にいる人をUターンやIターンで獲得することしか頭にありませんでした。でも、地方には仕事もなく、教育や医療の環境も都市より整っていないので、若者の移住のハードルは依然高いと言えます。また、一過性の観光も消費されてその地域の底力をかさあげするところまでいかない。養老孟司さんがおっしゃる「平成の参勤交代」という言葉がありますが、これは「移住」と「観光」の間にある新しい生き方の概念だと捉えることができます。観光という短い時間ではなく、都会の人が一年のある一定期間に特定の地方に通い、その土地の人間と関係性を紡ぎ、一緒になってその土地の文化や自然などの価値を守り育てることを意味します。自分は震災でこの必要性と可能性に気づきました。地方再生には観光も定住も大事ですが、もっとも現実的かつ効果的選択肢として「平成の参勤交代」で都市と地方をかき混ぜルことが大事だと思います。都市と地方の新しい関わり方、「平成の参勤交代」を東北オープンアカデミーは提案し、実現していきたいと思っています。

  • 目指す先は「移住」か「交流」か?

漁師さんと一緒に漁業体験をしたり、「モリウミアス」の場づくりに関わってもらったり、普段sweettreat 311で実施していることを含め、身体全体で場の持つエネルギーを感じてもらいたいと思います。僕らが雄勝でテーマとしているのは「持続可能な社会をつくる人材を育てる学びのフィールド」。地域、自然、人、コミュニティ、そういったものをベースとして、何もないところから自分で未来を切り開いていけるということが、これからの地域で必要であると考えています。住んでいる地域だけでなくて日本全体、世界へと視座をあげられるような、そうした人材を育むにはどうしたら良いかを共に考えたいと思っています。夜には地元の漁師さんや飲食店の店主さんたちと一緒に、雄勝の食材を使った料理に舌鼓を打ち、酒を酌み交わしながら語り合いましょう。

  • 「地方か都会か」の二軸ではない、これからの関係

戦後、家を継ぐ立場にある長男は田舎(地元)に住んで農漁業に従事し、次男以下の兄弟が出稼ぎでつくったところが東京などの大都市です。なので、その時は田舎(長男が住む場)と都会(次男以下の兄弟が住む場)はいわば兄弟の関係にあったと言えます。だから、帰省ラッシュがあった。でも、今は世代が何巡もして、帰省するふるさとがない都市住民が増えています。その人たちは田舎、つまり地方のことを全く知らない。あと30年もすると、帰省ラッシュもなくなると言われています。そうなれば、都市と地方の断絶は決定的となります。僕は、たとえ血のつながりがなくとも、都市住民が地方で暮らす人たちと価値でつながり、そこにふるさとを新しくつくればいいと思っています。被災地ではそうした関係性が幾重にも結ばれました。実際に若い女子大生やOLが、東北の田舎に行ったり来たりしました。すると、最初は怪訝そうな顔をしていたじいさん・ばあさんも、段々と自分の娘のように接してくれるようになっていきます。逆にその女子大生やOLにとっては何かあったときに相談できる親のような存在になっていきます。地縁血縁がなくても、心の拠り所、命が喜ぶ場所を自分で作ればよい。そこが新しい価値で結ばれたフルサトになっていく。東北オープンアカデミーは、フィールドワークやカンファレンスを通じて、新しいフルサトの姿を可視化していきます。

  • 震災で得た「関係人口」を日本に広げる

東北オープンアカデミーでは、震災後3年の間に起きた出来事から学んだこと、すなわち地方の課題解決を担う「関係人口」の拡大を平時の日本に提案していきます。震災後、岩手県陸前高田市に関わった人はボランティアも含めると数十万人になります。一方で、近隣の一関市は10万人の人口がいるけど、関係人口は少ない。陸前高田は人口2万人を切ってしまったけど、どちらの未来が明るいか問うてみたい。「関係人口」をまちづくりに継続的に取り入れる仕組みが今はないので、これから作る必要はあります。もちろん、今から復興ボランティアはもうない。だからこそ、フィールドワークという具体的なコンテンツ、プログラムを通じて、まずは「関係人口づくり」から始めていこうというわけです。言い方を変えれば東北各地に「準住民」を増やすイメージです。

  • あえて人にほだされてみて

震災後、大きな会社の名刺を持っている人が、都会では埋められない価値を求めてやってきたのを何人も見ました。「都会(の人)も行き詰まっているんだな」と感じました。東北オープンアカデミーは、今の社会の延長線上に未来を感じられない人にとって答えに迫れる場になると信じています。すでに、被災地には地域再生や新しい挑戦を始めている人たちがたくさんいます。現場にはいわゆる「言い出しっぺ」がいるので、この人たちの情熱に触れることからはじめてほしい。その人たちには、心を揺さぶる言葉があるからです。「人にほだされる」ことは良い経験ですし、今の東北にはそういう現場が多くあるのです。

  • 答えは出るのか出ないのか?


そこには、待ったなしで課題に答えを出そうと、もがいている人たちがいます。うまくいっているものばかりではありません。なぜ、うまくいかないのか? 原因は何か? これらを一緒に考えてほしいのです。壁にぶつかりながらもくじけず、そこに居続けるリーダーの姿勢に触れてほしい。そして、彼らと関係を構築していくなかで、1センチでも課題解決に近づいてほしい。そのためにこそ、主体的にコミットしていってほしいんです。すぐに答えが見つからなくても必ず明るい未来(フロンティア)を探し出せる、そう信じているリーダーたちと、その価値観を分かち合ってほしいと思います。東北オープンアカデミーはそのための「考える場」なのです。

  • 「東北食べる通信」と重なる部分


考える場としての表現のひとつに、東北開墾が発行する「東北食べる通信」があります。生産者の哲学、世界観、生産現場の苦労や感動を特集した冊子とともに、その生産者が育てた食べものをセットで送るサービスです。震災前から一次産業は後継者不足、稼げない、だから若い人が見向きもしない、なんとかしないといけない状況にありました。でも同時に、人間がコントロールできない自然に働きかけて命の糧を得る生き方を見て感動しました。それを食べて、もっと感動した。今の社会が喪失した価値を感じたんです。でも、日頃、食べ物の裏側、つまり生産現場にいる人は、私たちには見えない。得られる情報は、食味や見た目、カロリーなど、消費領域の話ばかり。震災で、あらためての食べ物の裏側を見ることができたので、それを伝えなきゃと思ったのが、「東北食べる通信」をはじめたきっかけです。読者は読んで食べた後、生産現場での出荷祭りに参加できるなどの一連の体験の場を提供しています。東北オープンアカデミーも、具体的な体験の場を提供するプロジェクトです。そういう意味では、同じ方向を向いているし、これまで発行を通じて体験してきたことを共有できると思っています。

——こんな人に東北に来てほしい
都会の人たちは、「早く成果を」と急ぐけれど、実際はそうはいきません。これまでの3年間を眺めてみると、課題解決の表面だけを刈り取って、具体的に表現しアピールできる人(ところ)に資金が集まっていたように思います。それはそれで関心と共感を集めることにつながったのかもしれないけど、実際に手を突っ込まなければいけないのは表面に表出した課題の根っこ。そこを変えないと、刈り取っても刈り取っても課題は繰り返されることになる。ここは時間がかかるんです。食べ物の裏側にいる人、地域再生の裏側にいる人、産業創出の裏側にいる人。みんな1センチ進むために、現場で汗をかいている。そうした現場を知った上で前向きに、できれば一緒にコミットしたいと思ってもらえる人に、ぜひ東北に来てほしいのです。待ってます。

聞き手:長瀬稔(三陸経済新聞)
2015年2月1日

*****
高橋博之 | 東北オープンアカデミー・運営委員/NPO法人東北開墾・代表理事

1974年、岩手県花巻市生まれ。2006年、岩手県議会議員補欠選挙に無所属で立候補、初当選。翌年の選挙では2期連続のトップ当選。政党や企業、団体の支援を一切受けず、お金をかけない草の根ボランティア選挙で鉄板組織の壁に風穴を開けた。2011年、岩手県知事選に出馬、次点で落選。沿岸部の被災地270キロを徒歩で遊説する前代未聞の選挙戦を展開した。その後、事業家へ転身。“世なおしは、食なおし。”のコンセプトのもと、2013年に特定非営利活動法人「東北開墾」を立ち上げる。史上初の食べ物つき情報誌『東北食べる通信』編集長に就任し、創刊からわずか4ヶ月で購読会員数1000人超のユニークなオピニオン誌に育て上げる。昨年、一般社団法人「日本食べるリーグ」を創設。四国食べる通信、東松島食べる通信など、すでに10誌が誕生。“都市と地方をかき混ぜる”というビジョンを掲げ、3年間で100の「ご当地食べる通信」創刊を目指し、日本各地を飛び回っている。

プロジェクトへのお問合せ