[パイパイマーマー №65]

 「タムブン」をめぐって
                                 
                                  赤木 攻

 「タムブン」は、タイ社会を貫く最大の仏教的観念である。タイ人一般は、人間の幸不幸は自分が積んだブンの多寡によって決まると信じている。とりわけ、庶民にとって、「タムブン」は自分の意志で実践できる幸福実現の手段であると言える。だから、いい人生を送るには「タムブン」は日常生活の上で欠かせない行為で、きわめて熱心である。我々から見れば、彼らは「生きるためにタムブンしている」のか「タムブンのために生きている」のかわからないほどである。

 しかし、いざ「タムブン」とは具体的にどんな行為をさすのかをあらためて考えてみると、わからないことだらけである。例えば、タイの観光地などでよく見かける「放鳥」(籠の中に捕われている鳥を放ち自由にしてあげること)が本当に「タムブン」なのか、首をかしげる向きが多い。「放鳥」を商いにしている者はどう考えたらいのか。しかも、ひとたび放たれた鳥は自由に大空を舞うどころか、飼育人の籠に戻り、再度商いに使用されるというのである。その上、鳥にある種の薬を飲ませ、籠に戻らせているという。つまり、1匹の鳥を何度も使い、稼いでいることになる。こんなやり方を知っていながら、「放鳥」を行う行為が本当に「タムブン」なのであろうか。はなはだ疑問である。

 こうした疑問から、「タムブン」とは何かをすこし考えてみる機会を持ちたいと常々考えていたが、筆者が代表を務める「日本タイクラブ」が開催する公開フォーラムで実現することになった。2017年10月29日に佐治敬三メモリアルホール(大阪大学中之島センター)で開催された「タムブン―庶民の願い」と題する「日本タイクラブ<第7回>公開フォーラム」がそうである。今回は、テープシリンタラーワート寺院、タイ王国大阪総領事館、公益財団法人日本タイ協会、龍谷大学世界仏教文化研究センター、国際ソロプチミスト大阪―りんくうの後援のもと、台風による悪天候にもかかわらず百名を超す大勢の参加者を得て盛大に開催された。ディスカッサントには、タイ事情に詳しい高井康弘(大谷大学教授)、馬場雄司(京都文教大学教授)、村上忠良(大阪大学教授)に加えて、タイのテープシリンタラーワート寺院から僧侶プラマハー・ソムポップ・サンパオー・リーンハラッタナラックを招いた。タイ僧侶の口から「タムブン」について直接説明を聞きたいという願いからであった。コーディネーター(司会)は筆者が務めた。

 本稿は、上のフォーラムでの議論をベースに「タムブン」についてまとめたものである。筆者の考えも混じっているが、「タムブン」が抱えている問題点を提示してみたい。

<庶民にとっての「タムブン」>

 一般に言われている「タムブン」についての説明は、いわゆる一般庶民の考えまたは実践に拠っている。「タムブン」=「徳を積む」、「善行」という解釈が基本となっているが、さらに、「タムブン」は「幸福=よい生活」をもたらすとの信念が存在する。しかも、よく言われるように、人間は個々に「ブン預金」口座を持っており、「タムブン」により預金残高を増やせば増やすほど、将来や来世においてよりおおきな幸福を獲得できるという考えが庶民の頭には住み着いている。

 この一般庶民の「タムブン」思想は、あきらかに、「タムブン」の先に「いい生活が来る」という結果を期待している。別の言葉でいえば、「見返り」を期待している。だから、「タムブン」にも大小があると考える。寺院の建設費といった金額の張る寄付は、少額の布施よりは大きな「見返り」がもたらされるというのである。カティナ祭の機会などに若い女性会社員が収入に見合わない高額の寄付を寺院に行い周囲を驚かせるのも、こうした考えが背景にあると言える。各地の寺院で見られる賽銭を奉り、線香、花、ローソクを供え、五体投地の礼で必死に手を合わせる庶民にとって、「タムブン」は願いを叶えて欲しいという神頼みであろう。その点では、人や神社に祈願する我々日本人とあまり変わらないとも言えよう。

 「ブン(善徳)」の反対は「バープ(悪徳)」であるが、タイ庶民は、「ブン」貯金の残高が高いほど「いい生活」を獲得でき、「バープ」残高が高いほど「不幸」になると信じている。因果応報の原理が、前世―現世―来世を通して続くと、基本的に考えていると言えよう。だから、タイ人は現実を所与のものとして素直に受け入れる傾向がある。貧しい人は、貧しさの理由は前世での「ブン」が少なく、「バープ」が多かった故であると考える。だから、残された現世と来世での生活をより良くするために、熱心に「タムブン」に励む。

 いずれにせよ、庶民の「タムブン」観には、何がしかの自分にとって好ましいものを求める動機が潜んでいるのは、間違いない。すべてとは言えないかもしれないが、「見返り」要求が存在すると言えよう。

<教理から見る「タムブン」>

 今回のフォーラムの最大の特徴は、タイの僧院で、実際に修業を積み、「タムブン」を実践している僧侶を招いた点であった。フォーラムでは、二方の内、日本語を解し、日本訪問の経験があるソムポップ僧侶が「タムブン」について説明するとともに、我々の質問にも答えてくれた。彼の説明は、一般庶民の考えではなく、仏教教理に基づいてなされたように思う。

 ソムポップ師は、上述の庶民の考える「タムブン」観を否定する。とくに、「タムブン」貯金観や「見返り」観を、やんわりと否定した。そして、「タムブン」は個人に属する行為であることを強調した。より具体的には、以下の通りである。

 仏教の真髄は人間の幸福についての説明である。悩める存在である人間はだれもが幸福を求めるが、その在り方を説くのが仏教である。仏教では、人間の幸福は、まさに「タムブン」にあるとする。つまり、「タムブン」は「幸福」を生む行為なのである。

 「タムブン(善徳)」のより具体的な行為は、「十福業事(じゅうふくごうじ)」または「十善業事(じゅうぜんごうじ)」と呼ばれる。そこでは、「布施」、「戒」、「修習」、「恭敬」、「作務」、「回向」、「功徳への随喜」、「聞法」、「説法」、「見直業」の10の行為があげられている。10の行為それぞれが重要であるが、「タムブン」を代表する行為は最初にあげられている「布施(ものを施す、贈与する)」であろう。「布施」こそが「タムブン」であり、人間を幸福にする行為である。

 ソムポップ師が強調したのは、その行為から得られる「すがすがしさ」である。「布施」の際に、心の中に湧いてくる「すがすがしさ」を感じる時、人間は「幸福」なのである。それは、まさに瞬時であるかもしれないが、至福の境地に至っているのである。さらに言えば、それは「布施」行為を行なった本人個人の問題であり、他人には関係ない。「タムブン」は、きわめて個人的な性格を備えている。もう一つ、大切なことは、「見返り」の問題である。「布施」の際に「見返り」願望が同居している場合は、それはもはや真の「タムブン」ではない。「見返りが」心の中にちらついている時に、「すがすがしさ」は湧いてこないはずである。ソムポップ師は強調する。おそらくは、この点が一般庶民の考える「タムブン」と最も異なるであろう。

 フォーラムでは、他のディスカッサントや聴衆から具体的な行為をあげて、それが「タムブン」であるかどうかという質問が相次いだ。一つの典型的な例を紹介しよう。バンコク駐在経験が長く、相応のタイ語能力ある方の質問である。

 タクシーに乗ったのだが、心なしか運転手の元気なさが気になった。運転手と話している内に、入院していた母親が昨日亡くなり、病院代や葬式代がなく、大変困っていることが判明した。タクシーで稼いで何とか支払いをしたいが、おそらくは時間が相当かかると言った話を聞くにつけ同情心が芽生え、結局持ち金を全部運転手に渡した。その時は、目前の困っている人を少しでも助けたいというそれだけの気持ちであった。タクシーを降り会社の事務所向かう自分は大変さわやかな気分に満ちていた。しかし、事務所で日本人同僚にその話をすると、「あんたバカやな。みごとに騙されましたね」と即座に嘲笑された。ただ、タイ人同僚は、その運転手の話は真偽半々で、何とも言えないとの判断であった。私のこの行為は「タムブン」に当たるのでしょうか。以上のような質問であった。

 ソムポップ師は、あなたがさわやかな気持ちになったとすれば、たとえ運転手の話が虚偽であったとしても(騙されたとしても)、あなたの行為は「タムブン」であると断じた。相手の行為や言動がどうのこうのではなく、自分の気持ちが大切であると説明した。

 総じて簡単に言えば、(見返り願望の気持ちを持たず)他人にモノなどを贈与(布施)した際に、自分がすがすがしい気持ちになれば、それこそが「タムブン」である。それが仏教の教理による説明であり、上述の庶民が考え実践している「タムブン」とは、やはり、差異がある。「タムブン」は、人間が幸福になるための行為であり、その代表は「布施」で、「布施」により当該個人がすがすがしい気持ちを感じることである。それは幸福を感じる時であり、ただそれだけである。先にあげた「放鳥」も、鳥を放した時の気持ちの持ち方次第であり、「放鳥」を営んでいる業者のことは関係ないということになる。悪徳政治家が汚職で手にしたカネを寺院に寄付した場合でも、カネの入手方法は問題ではなく、その政治家の気持ちがどうかということになる。ソムポップ師は、多分そのような場合は、気持ちのどこかに引っ掛かりを感じるであろうし、「見返り」を考えているだろうから、それが「タムブン」であるか否かは容易に推察がつくであろうと、説明する。

<すべてはサンガの維持>

 「タムブン」は仏教徒にとっては幸福を獲得する行為であるが、社会経済的視点から見れば、また別の機能が浮かんでくる。

 「タムブン」の代表は「布施」であると述べたが、寺院建築への寄進は「ブン」をたくさん積むことができると信じられている。また、最も多くの「ブン」をもたらす「タムブン」は出家であり、女性の場合は母として息子を出家させることである。日々の僧侶への托鉢への食べ物などの供与、寺院への参詣、僧侶を招いての様々な供養儀礼の挙行などが、典型的な「タムブン」である。

 少し検討してみると、すべての「タムブン」が「サンガ」(僧侶集団)の維持に関係していると、容易に理解できる。つまり、「タムブン」は、大きく捉えれば、出家者である僧侶の生活とその集団の維持を可能にしていると言える。宗教活動の場(寺院)、食事、袈裟、経費のほとんど、つまり僧侶の衣食住は「タムブン」により賄われている。しかも、「サンガ」の維持に最も大切な成員補給は、出家という「タムブン」によりなされている。「タムブン」はサンガの維持運営という機能を果たしているのである。さらに言えば、仏教そのものの維持に必須の行為である。

 タイでは、少なくとも20万人以上の僧侶を「サンガ」は抱えている。経済的には、僧侶は生産活動に従事できない存在であり、もっぱら消費だけを行なっている。サンガを支えているのは一般社会であり、その支えを理論化しているのが「タムブン」であるといえよう。実際、この規模の非生産人口の生活を支える社会はある程度豊かな社会である。「タムブン」の対象のほとんどは寺院を中心とした「サンガ」であり、「タムブン」が無くなれば仏教も消滅するであろう。信者に幸福をもたらす「タムブン」は、このように上座仏教のシステムに組み込まれていると言わざるを得ない。

<贈与、社会変革>

 フォーラムでは、「タムブン」をもう少し広く捉えると、贈与の範疇に入るのかもしれない。贈与の視点から「タムブン」を論ずるのも面白いのではないかという指摘もあった。たしかに、古代社会において、商業の始まる前は贈与が日常生活の基本であったと聞いたことがある。仏教に贈与の論理が取り込まれたのはなぜだろうか。興味は尽きない。

 また、上に少し触れたが、「ブン」思想は現実を所与のものとして受け入れるため、社会変革のエネルギーにはなりにくいことも、タイ社会の保守性と関係しているのではないかという意見が出された。おそらくは、その通りであろう。地域開発に率先して取り組む「開発僧」への関心が一時期高まったが、現在はどうなのか。気になるところである。

 以上が、日本タイクラブ主催の公開フォーラムでの議論のおおよそである。フォーラムを終えて、あらためて「タムブン」がタイ社会そのものであると痛感した。ただ、「タムブン」を正面から取り上げた研究が、他のビルマなどの上座仏教国との比較も含めて、まだまだ少ないのではないかと思う。 

[備考]「日本タイクラブ」は、日本とタイの市民レベルでの友好親善に寄与せんとする人々の善意と力を結集する場として1990年に設立された「タイ好き人間のゆるやかなネットワーク」です。大きな活動としては、①公開フォーラム開催、②北タイのラムパーン県のチットアーリー福祉学校との交流、③「タイの歴史本」の翻訳などを行なっています。ご関心の向きは、nihonthaiclub@gmail.com (事務局)までご連絡ください。