「20世紀末から21世紀の世界の食糧不足について」(杉崎賢次郎)
将来の世代の権利について論じるとき、当然そこから、現在生きているすべての人々が環境に対して平等な権利をもつという考えが生じます。
コミュニティーも平等に、環境面の利益を享受できなくてはなりません。だれもが利用できる国立公園などは、この平等な利益を保証し不平等を緩和する目的を持っています。
でも、どうすれば世界の人たちに広げていくことができるのでしょうか。世界の2割の先進国の人たちが食肉市場の6割を消費していて、地球の100年後のことを心配します。飢えている人から「今食べるのを我慢しろ」といわれれば、何も反論できません。
将来世代との公平化を漁獲量からみると、こういうことではないでしょうか。1950年から1990年まで海産物の1人当たりの消費量は年8キロから17キロに倍化しました。今後、漁獲量は増えないでしょうから、将来、人口が2倍になれば一人の消費量は半分になります。
世代間の公平化は、魚の消費量のような個々の数字を議論したり、人口の限界をどこかに引く作業ではなく、地球の自己治癒力を超えないようなシステムをつくることだといえます。具体的には漁獲資源を監視することや、無駄のない漁業や魚の利用法を研究・開発し、持続可能な漁獲を維持することが重要です。世代間を見通すレンズの視点です。
今の消費の質も問われています。例えばエビと日本人の関係があります。私の子供のころは盆と正月ぐらいしか食べませんでした。今のこどもは「食べ飽きた」状態ですが、それでも2018年には日本は年間15万トンを輸入し、アジア各国が環境を犠牲にした養殖をしています。そんなに必要なのでしょうか。本当に必要な食糧と、先進国の飽食的、浪費的な欲求とは区別しなければなりません。
現在、世界の人々は平均的に食べていません。将来の100億という人口とそれに対する食糧生産の物理的限界が問題なのか、現在の分配の不公正が問題なのか。この部分を問わないまま、人口と食糧の数字をマクロ的に操作するだけでは本質は見えてこず、単なる中国脅威論、アジア脅威論になりかねません。