祖父のこと

毎シーズン山の仕事が始まる前に、どこかしらの海へでかけます。ここ数年は、一度山に入ると4ヶ月間は街に戻ることがない生活。「夏休みらしいことを先取りしておかねば!」という強迫観念でもないのですが(笑)。2018年の春は加計呂麻島へ。LCCのおかげで離島もずいぶん近くなりました。関空の書店で、奄美までのフライト時間をつぶす本でも買おう、と店内をぶらついていて目に入ったのが、「不死身の特攻兵 (鴻上尚史 著)」でした。普段から戦史に興味があるわけではないのですが、サブタイトルの”軍神はなぜ上官に反抗したか”が気になって。加計呂麻島の実久ビーチの民宿に泊まり、釣りをして、泳いで、夜はまたその本を読んでいました。
加計呂麻島へ行ったのも、地名の”カケロマジマ”の響きがなんとなく気に入っただけで、予備知識も思い入れも全くありませんでした。レンタルした原付で釣り場を探して島内をウロウロしていると、ファッションブランド・KENZOの夏コレ撮影をしているモデルさん、カメラマンさん達と出会い、成り行きから私の釣竿とルアーがKENZOのサイトでモデル?デビュー。KENZO Clothing 撮影のあとで釣れました。60cmオーバーのギンガメアジ。
釣り場探しの途中、呑之浦という場所で「島尾敏雄文学碑公園」を見つけました。名前だけは聞いたことがある作家だな、という程度でしたが、その公園が第十八震洋隊特攻基地跡でもあるという説明を読んで、関空で買った本との不思議なつながりを感じました。特攻船艇・震洋を格納していた洞窟からは、呑之浦が穏やかな水面を見せ、ナンヨウクロダイの魚影が時折私の目を引きます。
島から戻って気になり始めたのは、祖父のことでした。幼い頃、祖母に連れられて墓参りに行き、聞かされた話も覚えています。
「おじいちゃんは、この中には入っとらんとよ。ビルマで戦死しんしゃったけど、遺骨もな~んも帰ってきとらんと」
私自身、40代も終わろうかという年齢ですが、それまで祖父のことを詳しく知りたい、と思ったことはありませんでした。婿養子であった祖父のことを、生前の祖母も多くは語りませんでした。2018年という戦後73年経った今、なぜ祖父のことがそんなに気になり始めたのかはわかりません。ただ、祖父は間違いなく戦争へ行き、そして、戦死したという事実が、学校の歴史で習ったものとは違う感覚でリアルに響いてきたのかもしれません。

「死没者原簿」や「兵籍簿」の取り寄せは、思ったよりも簡単でした。必要書類を揃えて、陸軍だったなら都道府県の担当部署(福岡県は”援護課”)へ、海軍だったなら厚生労働省へ申請すれば、手に入れることが出来ます。
祖父の所属していた部隊は陸軍第18師団歩兵第114連隊(通称・菊兵団)で、当時は陸軍最強と言われた部隊らしいです。連合国側もその部隊の強さを認めており、交戦にあたっては他の日本陸軍部隊に対するよりも兵力を増強して攻撃していたらしく、結果、部隊の7割近くが戦死。祖父もその一人となりました。

死没者原簿を手に入れた私は、戦地での祖父のことをもっと詳しく知りたいと思い、靖国神社の偕行文庫で資料を探しました。菊兵団の連隊史や、「戦史叢書」からビルマ戦の該当巻を見つけ、祖父たちの戦闘地域もかなり特定でき、戦局が劣勢になるに連れ撤退していったルートもある程度わかりました。連合国側の猛攻で制空権を失った祖父たちの部隊でしたが、強硬派の上層部が撤退を渋り、その数日の遅れの中に祖父の命日があったことを知った時には、さすがにやりきれない思いが湧きました。有名なインパール作戦の失敗も、祖父たちが戦った激戦地、ビルマのミイトキーナ(ミッチーナ)、フーコン、カマイン地区の壊滅へと間接的につながっていました。

NHKが公開している「証言記録 兵士たちの戦争」の中に、祖父と同じ部隊で戦った生存者の方々の証言があります。祖父の遺骨が戻って来なかったことも納得せざるを得ない、壮絶な戦場であったことが語られていました。懐かしい九州弁で話す生存者の方々、もしかしたら、祖父を知っている方もいるのではないか、そんな思いが今もあります。
北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊 ~福岡県・陸軍第18師団~


祖父のことを知りたいと思い始めたきっかけともなった本、「不死身の特攻兵」、また、その本で紹介されていた、大貫健一郎(ミュージシャンの大貫妙子の父)著「特攻振武寮」を読んで、十数年ぶりに知覧の特攻平和会館を再訪しました。”特攻隊生残者”とのみ寄進者名が刻まれた石灯籠。初めて訪れたときには気づきませんでしたし、気づいていたとしても、特にこれといった印象は持たなかったかもしれません。戦争に限ったことではないのでしょうが、様々な事実を知ることで、見えてくるものは全く違ったものになる、ということを痛感させられました。

生前、祖父のことを多くは語らない祖母でしたが、祖父も釣り好きであったことは聞いていました。
「ヨブコやら、コットイやらまで、よう行きよんしゃった」と。佐賀県の呼子、山口県の特牛。イカや鯛を釣るのが好きだったようです。祖父が生きていれば、釣りに連れて行ってもらうこともあったかもしれません。と、書いて、思い直しました。
「祖父が生きていれば、おそらく、私は存在していない・・・」
過去が変わってしまえば、現在も変わってしまいます。戦争というのは、祖父を失った孫に、こんな切ない思いまでさせるものなのかもしれません。そのかわり、”あの世”があるなら、祖父を訪ねていって、ルアー釣りに誘いたいと思います。それと、あの厳しかった祖母のどこに惚れたのか(笑)、それも聞いてみたいです。

つい先日、ミャンマーへビザなし渡航が出来るようになる、というニュースを見ました。もうすぐ期限切れとなるパスポート、取り直しておこうかと考えています。祖父が最後に見た景色は昔と同じではないに決まっているのですが、やはり気になります。そして、祖父が越えられなかった”筑紫峠”を、歩けるものなら、歩いてみたいと思っています。
(2018年8月15日)

さて、1年ぶりの更新です。ビザなし渡航が出来るうちに。雨季が始まる前に。そして、政府軍とカチン独立軍(KIA)の停戦期間が終わる前に。2019年4月。ヤンゴン発マンダレー経由ミッチーナ(ミートキーナ)行きの飛行機では、タイの出稼ぎ先から友人の結婚式に出席するためにミッチーナへ戻るという男性と隣合わせました。ミッチーナが近づき、エーヤワディー(イラワジ)川が見え始めました。YouTubeで"Myitkiyna 1944”で検索した時に、こんな風景が連合国側の航空機から白黒映像で撮影されていたのを見たような気がします。
ミッチーナの空港に到着した時、イミグレーションの青年に「祖父の戦没慰霊のため、カマインへ行きたい」旨を話したところ、市内のオフィスへ行けばなんとかなるかもしれない、ということでした。実は、祖父の戦没地であるカチン州のカマインは、カチン族の独立運動による紛争が続いているため、外国人の入域が制限されている場所。ダメ元でミャンマーへ来た身にとってはまさかの展開でした。市内のイミグレーションオフィスで対応してくれたのは、20代後半くらいのマジメそうな青年。二ヶ所に電話をしてくれていましたが、表情は渋く、「政府からの許可がないと、やはり無理です」と言った後、本当にすまなそうな顔で「・・・Sorry」と。これまでにいくつかの国でお役人とライトな揉め事(笑)は経験したことがありますが、「すまない・・・」という言葉を聞いたことはありませんでした。ミャンマーの人々が親日的であること、祖父の戦没慰霊という目的への理解が、その一言になったのかもしれません。現地までは無理としても、カマインへ一番近い場所まで行ってみたい。そういうわけで、114連隊の本部があったミッチーナから西へ、レド公路の途中にあるモガウンの街まで。
モガウンは小さな街で、これといった見どころもないのですが、祖父の所属した114連隊のいくつかの部隊は、破壊された鉄道は使えずに、徒歩でミッチーナからモガウン、そしてフーコン渓谷へ続くカマインへと進んだはずです。モガウン駅隣接の食堂で一休みしていると、タクシードライバーが話しかけてきました。せっかくなので、一応聞いてみました。
「カマインまで行きたいけど、行けないんでしょ?」
「外国人は行けないよ」
すると、また他の男性がやってきて、「途中に検問があるから。まぁ、検問までなら行けるけど」という情報を教えてくれました。
「それはどこなんですか?なんという街?」
「8mileだよ」
「え?エイトマイル?」
どうやら、モガウン中心部から8マイル(約13km)の場所に検問があって、その場所の通称になっているようです。これまでにもアジア各国のゆる~い検問や国境も見てきたので、「これはもしや!?なんとかなるかも!」と、かすかな希望がふたたび湧き、モガウン駅からの料金を交渉し、タクシー(といっても、スズキの軽トラを改造して荷台にシートをつけたもの)で8mileへ向かいました。
田んぼが広がる田舎道を延々走り、遠くに山並みが見え始めた頃、道路の真ん中に複数のバリケードが現れました。警備している二人組の兵士は、一人が弾幕を張るための短機関銃、もう一人はショットガンを構えていて、ガチもガチの検問であることが判明。タクシードライバーもバリケードのかなり手前で車を止め、「もう、ここまでだから。早く戻ろう。あと、絶対写真は撮らないように」
検問から1kmほど戻り、道路脇で一休みした場所の写真がこの街路樹。この道をずっと進み、あの山並みのそのまた向こう側、あと50kmくらい進めば祖父の眠るカマインの街があります。そこは今もまだ、平和からはほど遠いまた別な紛争の中にあると思うと、なんともやりきれない、複雑な思いがします。「祖父も75年前にこの街路樹を見ただろうか?まだ、苗木くらいの小さな木だったかもしれないけど・・・」
遠くの山並みに向かって手を合わせ、ミッチーナへ戻りました。
エーヤワディー(イラワジ)川の朝焼け。祖父たちも、駐留したばかりの頃には、この風景を見たのかもしれません。祖父が戦死した1944年6月以降、ミッチーナは連合国側に奪取され、このエーヤワディー川を渡ろうと敗走した多くの日本兵が流され、亡くなっています。
戦時中の話題となると、どうしても悲しい気分になってしまいますが、ミッチーナ、あるいはヤンゴンも、ただ通り過ぎるだけの旅行者の目線からではあるけれど、穏やかな、ステキな風景もたくさんありました。
ミャンマー鉄道の北の終点でもあるミッチーナ。マンダレー、ヤンゴン方面へ向かう列車がまもなく出発します。外国の駅のにぎやかな風景、慌ただしくも、けれど、どこか心地よくもあります。
ミッチーナにはクリスチャンも多く、教会もよく目にします。ある朝、暑くなる前にブラブラとエーヤワディー川まで散歩している途中、教会の向かいの家からピアノを練習する、とぎれとぎれな音が聞こえてきました。
庭で水撒きをしていたお母さんに許可を得て、娘さんの練習風景を一枚。
いつかまた、この教会の前を通ることがあったら、彼女の上達したピアノ演奏が聞けるかもしれません。仏教国で聞く教会音楽も、オツなものです。
世界中どこへ行っても、幸せな親子の風景はジンワリといいものです。そして、見知らぬ者同士でも笑顔で撮影に応じてくれる被写体と撮影者との関係は、もう今の日本では絶滅寸前であることに気付かされます。
ヤンゴン市内。こちらも、父と子の風景。
激動のミャンマーを、無事に駆け抜けていってくれるように。
そして、やっぱり気になる魚釣り(笑)。見ている間には釣れなかったけれど、エーヤワディー川の豊かな流れを眺めているだけでも、ココロ穏やかになります。
ミッチーナからヤンゴンへの復路。なんとなくカマインはあのあたりかなぁ、と雲の切れ間から何枚も写真を撮りました。帰国後、この蛇行した川のずっと奥あたりらしい、ということがgooglemapで確認出来ました。便利な世の中になったものです。

今回、祖父の戦没地であるカマインまでは行けませんでしたが、いつかこの旅を振り返った時、「あれが自分にとっての”終活”の一番最初だったかも」と思うくらい、大きな節目になるのではないか、と感じています。
私と同世代、アラフィフの皆様の中にも、同じような境遇の方がいらっしゃると思います。私には子供がいませんが、子育てされている方がいらっしゃれば、ひいおじいちゃんが戦争へ行った話をお子さんにしてあげることも出来るのかもしれません。平和教育、とか、堅苦しい表現は抜きで。

最後に、ゆる~い話を一つ。ヤンゴン市内にある宝石博物館でのこと。立派な建物の割には来訪者が少なく、私が訪れたときにはなんと貸切状態。若い解説員の女性3人がずっとくっついて説明してくれることになりました。間が持たないので、その中の一人に「いっぱい宝石があるけど、キミは何が一番好きなの?」と質問すると、「ルビーです!」と即答。ピジョン・ブラッド、という色も初めて知りました。そして、「だけどキミたちも、ミャンマーの宝石みたいだよ」と気の利いた言葉を投げたつもりだったのですが、キョトン!とした表情になり、華麗にスルーされました(苦笑)。慰霊の旅、なんていいながら、祖父からは「お前は何しに来たとや!」って怒られそうです。でも、その時にはカンペキな反論があります。
「しょうがなかろうもん!おじいちゃんに似たったい!」
これまでの人生の中で、祖父を一番身近に感じることが出来た、いい旅になりました。
(2019年8月15日)