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白石伸生のスパイシーな生態
~世界の中心でカレーとプロレスを叫ぶ~

「カレー博士塾講師」白石伸生のスパイシーな生態をご紹介

白石伸生とは?

白石伸生概要

カレーとプロレスが大好きな塾講師。愛媛県生まれ、神奈川県在住。

個人塾を経営し、結婚して2人の子どももいます。

ブロガーやコラムニストとしても活動しており、カレー狂い。生徒からは「カレー先生」と呼ばれています。

白石伸生はカレーが好き!

好物はカレー。ただ好きというだけでなく、学生時代にスパイスの研究をするためインドやスリランカなど数か国に旅行しています。

経営している塾では「カレー先生」と呼ばれているほどカレーが大好きです。

個人ブログでは美味しいカレーのお店を紹介していますが、レトルトのカレーを食べることもあります。

スパイスから作るタイプ、ルーで作るタイプ、レトルト…と、とにかく様々なカレーを愛してやまないカレー人間です。
白石伸生はプロレスも好き!

個人ブログでプロレスの最新情報などを紹介しています。好きな選手やメディア情報などを発信しているので、気になる方はぜひチェックしてください!

白石伸生はカレーが好き!

好物はカレー。ただ好きというだけでなく、学生時代にスパイスの研究をするためインドやスリランカなど数か国に旅行しています。

経営している塾では「カレー先生」と呼ばれているほどカレーが大好きです。

個人ブログでは美味しいカレーのお店を紹介していますが、レトルトのカレーを食べることもあります。

スパイスから作るタイプ、ルーで作るタイプ、レトルト…と、とにかく様々なカレーを愛してやまないカレー人間です。

各国のカレーの特徴

インド
カレー発祥の地であり世界的に有名ですが、様々な宗教が信仰されているためそれに合わせて多様なカレーが存在します。
たとえばヒンドゥー教は牛を神聖視しているため、いわゆるビーフカレーは食べません。代わりに鶏肉や羊肉のカレーが多く見られます。
インドでは自分たちの料理を「カレー」とは呼びません。スパイスをふんだんに使った料理が一般的なだけで、カレーという名称もヨーロッパで呼ばれたのが始まりだそうです。
 
スリランカ
インドと同じく多宗教の国ですが、共通しているのはココナッツミルクやオイル、新鮮なハーブを活用することです。チキンカレーが多いですが、スリランカ版のカレー風ブイヤベースであるクールという料理もよく作られます。
魚の頭やエビなどを使ったシーフードカレーも作られるそうです。ほかの国に比べてシンプルなカレーとなっています。
 
ドイツ
遠くヨーロッパのドイツではカリーヴルストが有名です。ヴルストといえば、ドイツで有名なソーセージのこと。豚肉や仔牛肉を混ぜたソーセージを焼いて、スパイスを加えたケチャップとカレー粉をトッピングした、ドイツのファストフードです。
付け合わせにフライドポテトがつくのがヨーロッパらしいところ。非常に人気の料理だそうで、年間およそ8億本のカリーヴルストが消費されていると言われています。

家にあると便利なスパイス一覧

カレー粉

定番なので一つは家に置いておくと、カレー風味のものが食べたくなった時に便利です。炒め物、スープ、肉料理や魚料理などなんにでも使える万能スパイスです。

 

黒コショウ

風味が爽やかで、辛味はあるものの癖のないスパイスです。かけると料理が色鮮やかに見えます。粒タイプを買ってペッパーミルで潰すのもおすすめです。

 

シナモン

お菓子に使われることで有名なシナモンですが、料理に使うこともできます。ドリンクに使っても風味を楽しめるので試してみてください。

 

ガラムマサラ

こちらもいろいろな料理に使えるミックススパイスです。カレーに入れると味はそのままで、辛味だけ増すことができます。刺激が足りない時に少しだけかけるのがおすすめ。かけすぎに注意してください。

 

ドライバジル

トマト料理や肉料理など、様々な料理におすすめです。バジルチキンという料理があるように、特に鶏肉との相性がいいです。濃い緑色なので、食卓に緑が少ないときに使ってもいいでしょう。

 

花椒

中華でよく使われるスパイスです。「かしょう」と読みますが、ホアジャオとも呼ばれます。麻婆豆腐などにかけるとさらに香り高くなります。一般的な中華がオシャレになるでしょう。

プロレスとは?

プロレスの基本的な情報をご紹介します!
プロレスは、リングで観客へ見せることを目的とした攻防を展開している格闘技を基本としたスポーツ、パフォーマンスアート、エンターテインメントもしくは、その試合を複数展開することにより開催されている興行のことです。正式名称はプロフェッショナルレスリング。
興行レスリング、職業レスリングとも呼ばれている。古くは西洋相撲(角力)と呼ばれていました。
アメリカなどではレスリングとも呼ばれている。メキシコではルチャリブレ、ヨーロッパではキャッチ・アズ・キャッチ・キャンと呼ばれています。

試合は投げ技、関節技、打撃技、時には凶器などを用いて行われて試合において闘う者をプロレスラーもしくはレスラーと呼ばれています。

アメリカ、メキシコ、日本などにおいて歴史があり複数のプロレス団体を有しており、世界各国で興行が連日開催されています。興行がない国においてもテレビとインターネットを通じて世界中の人にも楽しまれています。

・プロレスラーの呼び方

日本においては「プロレスラー」や「レスラー」、もしくは「選手」の呼称が最も一般的だが、女性のプロレスラーと区別する必要がある場合は「男子プロレスラー」と呼ばれます。女性のプロレスラーは、通常「女子プロレスラー」の呼称が用いられます。

アメリカのプロレス団体 WWEでは「スーパースター」(英語:Superstar)(女性は2016年中ごろまでは「ディーヴァ」(英語:Diva)、ただし女性プロレスラー以外にも使用されます。メキシコのプロレス(ルチャリブレ)では「ルチャドール」(女性は「ルチャドーラ」)と呼称される。この他に「ロースター」「スターズ」といった呼称も使用されます。

その他、各レスラーのギミックにより

・覆面レスラー(マスクマン)
・ペイントレスラー
・ベビーフェイス(善玉役の意味、ルチャリブレではリンピオ、テクニコ)
・ヒール(悪役の意味、ルチャリブレではルード)
・スペルエストレージャ(スペイン語でスーパースターの意、スター選手(花形、人気))

などの呼称が用いられることもあります。

画像引用元:「最後の最後まで、生きて生きて生きまくるぞ!」昇天・改も解禁!後藤が激戦の末、GTRで内藤を撃破して『G1』好発進!!【7.20仙台結果】
参考:Wikipedia



プロレスの歴史

いわゆるレスリングよりも歴史は古く、近代オリンピック以降ルールをスポーツとして整えた際に大きく枝分かれをしている。1896年、第1回近代オリンピックアテネ大会で行われたレスリングは当時のプロレスルール(現在のグレコローマンスタイルに準じたもの)で行われていた。

その起源はイギリスのランカシャー地方のランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)にあると言われている。レスリングのグレコローマンスタイルを賞金マッチで行ったものがアメリカで行われていた記録もあり、もう1つのプロレスのルーツとなっている。

19世紀の初め頃にボクシングとともにイギリスで興行が開始されている。有名な「プライズ・ファイター」(現在のボクサー)ジェームス・フィグはベアナックル(素手)、蹴り技、投げ技、絞め技、噛み付き、目つぶし、髪の毛つかみのある当時のボクシングのほか、レスリングも得意であった。

1830年代にはアメリカにレスリング勝者に懸賞金が与えられるという興行が伝えられエイブラハム・リンカーンも行っていた。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとグレコローマンのミックスマッチ(3本勝負で混ぜる)や更に腰から下へのキックを認めるというような変則的なルールが各地、各試合毎に行われていた。

現在のプロレスに直接つながっているのは19世紀後半のアメリカに広まったカーニバル・レスリングとされる。カーニバル・レスリングは"athletic show"あるいは短く"at show"と呼ばれた、いわゆるサーカスの出し物の一つとして行われ、その中では、レスラーは観客の挑戦を受けて試合(いわゆる"all comers")をしたりレスラー同士、あるいはボクサーとの模範試合を披露していた。19世紀末まではレスリングのみのショーは試合数が限られていたため、レスリングを職業として生活するためには、このようなカーニバル・レスリングに参加するか1人で旅芸人として巡業する必要があった。

大仁田厚は自身が設立したFMWへの批判に対して、「プロレスの起源はサーカスの見世物」と反論している。大仁田とは対照的な正統派のルー・テーズも、自伝においてカーニバルレスリングと旅芸人がプロレスの起源と述べている。カーニバル・レスリングをプロレスの起源とする考えはアメリカでは一般的であり、kayfabe(ケーフェイ)、mark(マーク)、boy(プロレスラー)、bump(受け身)といったプロレスの隠語も、カーニバル・レスリングで用いられた言葉とされる。一方、日本のプロレス研究家、あるいはマーク向けライターはカーニバル・レスリングをプロレスの起源とすることに否定的である。例えば日本において出版されたルー・テーズの自伝では前述のプロレスの起源に関する記述はない。これは"at show"の内容が非常に娯楽色が強く、プロレスを真剣勝負として紹介している人たちのビジネスに都合が悪いためと思われる。

1880年代に人気プロレスラーであり警察官でもあったウィリアム・マルドゥーンが警察を退職、専業という意味で最初のプロレスラーとなった。マルドゥーンは劇場などの常設施設で行われるレスリング・ショーの発展に努力して後に「アメリカン・レスリングの父」とも呼ばれるようになる。

1890年代にはカーニバルレスリング出身のマーティン・ファーマー・バーンズがイバン・ストラングラー・ルイス、トム・ジェンキンスらとの試合で人気を集めた。その後バーンズはフランク・ゴッチを始めとする多くのプロレスラーを育てレスリングの通信教育も行った。バーンズもまた「アメリカンレスリングの父」と呼ばれる。

20世紀はじめ、現代のプロレスの祖先である「フランス式のレスリング」が有名なレスラーの出現によってそれぞれの祖国を介する形でヨーロッパに広まっていった。例えばロシアの場合はイワン・ポドゥブニー(Ivan Poddubny)などからである。ところがフランス式のスリングへの関心はロシアでは革命後に薄れていった。ソビエト連邦・ロシアでのプロレスリングへの関心は1980年代末にまでに渡る。

20世紀の変わり目に、ボディービルダーのストロングマン・アトラクションに分類される限定的アクションを盛り上げるために行われるさまざまな行為の一環としてテレビのバラエティ番組においてもプロレスリングが一般に公開されるようになった。1910年代よりアメリカの人口は都市に集中し始め、その結果、町から町へ渡り歩く"at show"は下火となった。代わりに劇場などで行われるレスリング・ショーが増えてプロレスラーは都市を中心としたテリトリー内を巡業するようになった。このことはプロレスラー間のつながりを強めて事前に試合内容を調整することを容易にした。そして競技スポーツから純粋にパフォーマンス行為が生じるレスリング("admitted fakery"または"ケーフェイ")は1920年代に出現する。その初期のスターの1人は、ジャック・カーキーク(Jack_Carkeek)という名のコーンウォール出身のアメリカ人の元鉱夫であったという。彼は聴衆に一緒に10分間戦うよう挑戦を促したという。

20世紀に入って英のレスリングの発展により、英国に当時のグレコローマン・グラップラーとして知られるロシア生まれのジョージ・ハッケンシュミットが英国にやって来たが、そこで彼はプロモーターであり起業家でもあるチャールズ・コクランとすぐに付き合いはじめた。コクランはハッケンシュミットをブッキングし、ハッケンシュミットがイギリスのトップレスラーであるトム・キャノンを破った試合でヨーロッパのグレコローマン王者の称号が付いた。このことはハッケンシュミットに世界王者へのふさわしさを与えたが、さらに1905年にニューヨーク市でアメリカのヘビー級チャンピオンという触れ込みのトム・ジェンキンスに勝利したことで確固たるものとなった。このときの世界ヘビー級選手権者は、世界で最高のキャッチレスラーを特定するために1905年に設立された最初のプロレス世界ヘビー級選手権であったが、ベルトという物理的な媒体表現を持っていることが知られている最初のレスリング選手権であった。ハッケンシュミットはアメリカ生まれのジェンキンスを破ったことで、初のチャンピオンシップを獲得するのである。

ハッケンシュミットはレスラーとして評判となり、マンチェスターでは当時の額で週150ポンドの価値を生んだ。ところがコクランはハッケンシュミットの正統かつ支配的なレスリングのスタイルが却って群衆の関心を削ぐ恐れがあることに気づき、ハッケンシュミットにキャノンからショーマンシップを学び、スポーツ性ではなく娯楽のために試合に取り組むように説得。このことはレスリングが将来的にスポーツ観戦/スポーツエンターテインメント要素を示しているが、人気選手のbabyfacesと嫌われている悪役選手のheelsという、両者は多くの有名なスターが英国内でのレスリングの初期の開始時に出現しはじめていた。

このためハッケンシュミットやスタニスラウス・ズビスコといったヨーロッパの本格派の強豪レスラーの多くはアメリカに渡り、トム・ジェンキンス、フランク・ゴッチ、アドルフ・エルンスト(後のアド・サンテル)らアメリカのプロレスラーと対戦して、レスリング・ショーを盛り上げた。ところが米国では1913年ゴッチが引退すると衰退し、一般の人々の目を魅了する新しいレスリングのスーパースターも現れなかった。結果として1914年の第一次世界大戦勃発が完全に停止する前に有名なスターが失われたため、レスリングのビジネスは衰退した。さらにレスリング人気は1915年から1920年に劇的なテールスピンを経験する。すなわちその正当性と競争力のあるスポーツとしての地位に対して広範な疑念からアメリカ国民が遠ざかることとなる。当時のレスラーは1880年代からの試合自体は大部分が偽造されたものと語っている。

1920年代になるとエド・ルイス、トーツ・モント、ビリー・サンドウ(通称「ゴールドダストトリオ」)が独自のプロモーションを形成し、ファンを引き付けるためにリング内の事項を変更。 数百名のプロレスラーを配下にして、プロレスラー同士で架空のストーリー(最も分かりやすいのは「善玉」と「悪玉」の闘い)を演じさせた。また、従来の試合では基本的に1回のショーでは1試合だけを行っていた。プロレスラーにほとんど動きがないまま1時間以上経過するようなことも珍しくなかったためである。これを改め事前に様々な調整することにより、複数の試合からなる興行を行った。彼らはまた、タッグチームレスリングを普及させ、レフェリーの気を散らすなどの新しい戦術を導入して、試合をよりエキサイティングにした。1920年代後半にはギミックや派手なサブミッションホールドなど、アメリカでのプロレスのより効果的な側面の成功が英国のレスリングにも導入された。アマチュアレスラーのサー・アトール・オークリーは、グラップラー仲間であるヘンリー・アーズリンガーと一緒に、オールイン・レスリングという新しいスタイルのレスリングを採用した最初のプロモーションの1つを立ち上げたのである。

オークリーの元へはトミー・マン、ブラック・ブッチャー・ジョンソン、ジャック・パイなどが集まり、英国ヘビー級選手権を主宰し、ノーマン・ザ・ブッチャー、カレッジ・ボーイ、ジャック・シェリーらが選手権に名を連ね、オークリー自身が一連の対戦に勝ちのこり、最初の英国ヘビー級チャンピオンに輝いた。その後ロンドンだけでも40のレギュラー会場が設けられていくこのビジネスは当時の一大産業として発展していたがレスリングに対する大きな需要に対し、十分に熟練したアマチュアがいないことを意味し、多くのプロモーターは手続きの一部として武器と椅子攻撃を開発して、より暴力的なスタイルに切り替えていった。さらに女子プロレスや泥レス(mud-filled rings)もこの当時に当たり前のスタイルになっていった。

1920年代にはプロレスショーの仕組みは完成してメキシコ、日本、カナダなどにも伝わったのである。なおメキシコのプロレスはルチャリブレ、極技などはジャベと呼ばれる。

20世紀後半から現在

米国でのプロレスの人気は第二次世界大戦中までに低下していくのであるが、戦後1940年代後半から1950年代に復活した。これはゴージャス・ジョージが人気を博した最初の黄金時代である。メキシコと日本でも1940年代後半から1950年代は黄金時代でもあり、エル・サントはメキシコのヒーローになり、力道山も日本で同様の名声を獲得した。

英国ではこの時期に、スポーツ性を規制し、プロモーションカルテルを形成するための委員会方式というプロモーター同盟を装っているアメリカのナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)のテリトリー・システムを参考にすることによってこのビジネスに革命を起こしたのは、プロモーター自身であった。一握りのプロモーター間でビジネスのコントロールを強化した。そして1952年に共同プロモーションの名前で設立した「ジョイントプロモーション」(Joint Promotions)は、メンバーらがライバルプロモーターをブロックすることに同意する。こうして、すぐに週40回に及ぶ大会を開催。そしてレスラー自身には交渉権限をほとんど与えなかった。

ジョイントプロモーションが起こした最初の動きの1つは、選手権の確立(および管理)であった。当初これは収益性の高いベンチャーであり、タイトルの統括によりチケットの価格が上昇。ところが必然的ではあるが各テリトリーでタイトルを乱発し始める。つまりこの成功例を拡大しようとすると、露出オーバーにつながり始めた。特に各地各所で必ず一流のレスラーが数人は配置されることが多かったため、世界と英国のタイトルにはある程度の信頼性があったが、ヨーロッパ、英連邦、スコットランド、ウェールズ、および地域の王座の追加は手に負えなくなる。ある時点でおそらく、共同プロモーション内だけで追跡すれば70の異なるタイトル所有者が存在した。

後に英国レスリング連盟(British Wrestling Federation、BWF)が創設され、タイトル化はある程度の成功を収めたが、英国のプロレスリングを次のレベルに引き上げたのはテレビであった。1955年11月9日にABCとATV(ITVの週末フランチャイズホルダー)で放映された最初の大会では、フランシス・セントクレア・グレゴリー(トニー・セントクレアの父)対マイク・マリーノ、クリフ・ボーモント対バート・ロイヤルがウェストハムからライブで出演。大会は成功し、毎年秋から春にかけて毎週土曜日の午後にレスリングが注目のアトラクションと化す。1964年には「ワールド・オブ・スポート」(World of Sport)という名でフルタイムの活動に至る。テレビ放映されることによってレスラーが著名な名前になり、個性がレスラーを乗り越えることを可能にした。テレビはプロレスリングの放映でレスリングが主流文化の一部と化して、ライブイベントビジネスへの究極の後押しを証明した。1960年代半ばまでにジョイントプロモーションはライブイベントのスケジュールを2倍にして、年間約4,500回の大会を開催。主要都市すべてで少なくとも月に1回は大会が行われ、ある時点では30を超える都市では毎週開催されていた。

テレビでのレスリングの成功は、独立したグループにとってもより良い機会を生み出した。BWFの名前はライバルグループでヘビー級王者のバート・アシラティを中心に構築されたグループにも利用された。アシラティはまだチャンピオンである間にジョイントプロモーションを分割。これによってジョイントプロモーションはタイトルを空け渡していた。アシラティはBWF内で王者を主張し続けたが、BWFでは後にシャーリー・クラブトリーの新しい王座を中心に構築された。クラブトリーは1960年に負傷で引退したアシラティによって空位となった後のタイトルを獲得した若いボディビルダーであった。BWFは1960年代初頭に若いシャーリーとともに歩む。

1970年代から1980年代初頭にかけては米国でプロレスリングは国民の関心は著しく低下していたが、1980年代半ばにケーブルテレビが登場すると、全米がハルク・ホーガンなどのレスラーとともにプロレスブームが再燃、第二次黄金時代が訪れた。アンドレ・ザ・ジャイアント、マッチョマン・ランディ・サベージ、リック・フレアー、ローディ・ロディ・パイパーらの展開するプロレスの質は劇的に変化するがテレビにフィットし、キャラクターの特徴とストーリー性が向上していった。テレビはまた多くのレスラーのメディア進出を助け、影響力のある有名人や大衆文化のアイコンになっていった。レスリングの人気は独立した愛好家が団結してメディアの数が増えると急上昇し、また1980年代に世界レスリング連盟(WWF、現在はワールド・レスリング・エンターテインメントとして知られ、通称はWWEに)の拡大とともに国際的社会現象に発展。1990年代を通じて米国のプロレスは世界レスリング連盟とワールド・チャンピオンシップ・レスリング( World Championship Wrestling、WCW)などの競合するプロモーション間の激しい競争時代に、視聴率と経済的成功の両方で最高収益を達成している。

英国ではその後既存プロモーションへの反旗として、若いオーストラリア人プロモーター、ポール・リンカーンがけしかけていた。1975年までに共同プロモーションの束縛はほぼ崩壊し、創設メンバーの多くが引退し、会社も何度か買収され、プロレスリング業界は独自のビジネスの経験がほとんどない公開会社によって運営されるようになる。最後にプロモーションはシャーリーの兄弟であるマックス・クラブトリーの手に委ねられた。マックスは、ビジネスで最も経験豊富なブッカーとしてジョイントにヘッドハンティングされたのである。マックスは15年間失業していたシャーリーの分身である「ビッグダディ」のアングル伝説を生み出すことで、ブームを生み出した。カルテル全体を1人のパフォーマーに基づいて形成することは、テレビの視聴率向上に役立ったが、会場への集客を増やすことはなく、プロモーションは再び視聴者の興味を失い始める。1985年9月28日、ワールド・オブ・スポートはテレビ放送が打ち切りになる。代わりにプロレスリングは独自で放送枠を確保したが、放送時間枠が週ごとに変わり、通常の視聴者もゆっくりと離れていった。

共同プロモーションにとってさらに追い討ちだったのは、契約が成立したためにではあるがローテーションシステムの一部としてテレビの権利をオールスター・プロモーションおよびアメリカのWWFと共有することを余儀なくされたことである。

ロシアでは1989年、日本のレスリングプロモーターでもあるアントニオ猪木と新日本プロレスは、USSR国家スポーツ委員会との合意を取り付け、ロシアのアスリートを招いてレスラーとして新日本道場レスリングスクールに1か月間のトレーニングを行った。そのうちの2人、サルマン・ハシミコフとヴィクトル・ザンギエフは、その後同団体に参戦し、1989年5月には大阪でハシミコフがビッグバン・ベイダーを破り、名誉あるIWGPヘビー級王座のタイトルを獲得している[26]。1989年から1994年まではUWFインターナショナルに参戦した。その間彼らは1990年のWCWスターケードで、パット・オコーナー・メモリアルカップと呼ばれるタッグチームトーナメントでソビエト連邦を代表し出場した。

猪木とソ連の良好な関係のおかげで、1989年12月31日には新日本プロレスが 1989年12月31日にソ連での最初のプロレスショーがモスクワ市のレーニン運動公園内ルジュニキ・スポーツパレスで新日本プロレスの参加を得て開催された[27]。「モスクワの特別武道フェスティバル」(Специальный фестиваль боевых искусств в Москве)という名前で開催され、約15,000人の観客が集まる。ヴィクトル・ザンギエフとサルマン・ハシミコフ、ショータ・チョチョシビリなどソ連の選手たちも大会に参加した。親日本からはアントニオ猪木、獣神サンダーライガー、蝶野正洋、バンバンビガロらの人気レスラーが参加。大会には合計9試合があり、4カ国から20人のレスラーが参加。内訳は日本から9人、ソ連から7人、アメリカから3人、イギリスから1人である。この大会の試合を映したビデオ録画が幾つか発売されている[28]。

1994年8月27日には日本のリングスがロシア国内で大会を開催している。リングスは旗揚げした1991年にヴォルク・ハンやアンドレィ・コピィロフを発掘し、リングス・ロシアを設立していた。リングス・ロシア勢は持ち味を発揮し、ハンやコピィロフのあともニコライ・ズーエフ、イリューヒン・ミーシャらがスター選手として日本のファンに支持される。エメリヤーエンコ・ヒョードルもPRIDEに参戦するまではリングス・ロシアの一員であった。ロシア側の窓口となったウラジミール・パコージンは、国家スポーツ省の事務次官を務めており、リングスの審議員も務めていた関係で日本での大会開催の度に選手たちとともに来日していた。

1990年代にはロシア国内でもプロレスの試合がケーブルテレビで放映されたり、VHSで販売されたりすることがあった。全国テレビでプロレスリングがより広まったのは、1990年代後半から2000年代初頭にかけてである。

一方で1990年代には英国やカナダなど英連邦やドイツ語圏などの、2000年代半ば以降には日本のプロレスの人気は低下。日本ではプロレスリング・ノアのパワーアワーと新日本プロレスのワールドプロレスリングは放送局によって主に深夜番組へと追いやられている。その一方で小規模なプロレスリング団体の数は拡大を続け、専用チャンネル等が年々増加している。

米国では、WWEがテレビ番組は2018年に過去最高の年間収益を報告しているにもかかわらず、世間からは比較的低い評価を受け、2019年と2020年では視聴者数のわずかな急増にとどまるが、このことは総合格闘技の台頭に伴う競争力のある競技スポーツへの新たな関心と連動している。にもかかわらずWWEは、デジタル視聴プラットフォーム、特にYouTubeでスポーツ指向のコンテンツのトップとしての地位を確立した。なおこうしたプラットフォームでは、スポーツチャンネルのチャンネル登録者数と動画視聴回数が最も多くなっている。

英国ではローテーションシステム化から2004年までテレビ局は地元大会を放送しなかったため、同国のプロレスリングは北米のプロレスに後れを取っていった。一方でこの間小規模なプロレスリング団体は拡大を続け、ファン層も拡大していた。英国のプロレスリングスタイルは、北米のプロレスリングが示すパワームーブや、メキシコのレスリングが行う高空飛行がメインのルチャ・リブレのムーブとは対照的に、より伝統的で技術的なものであり、英国プロレスリングのスローガン/哲学は単に「"We wrestle!"(私たちはレスリングします!)」である。英国の古いスタイルのレスラーの多くはフィニッシュ前の動きや必殺の決め技を持ちあわせていないが、その代わりに試合に勝つために多数のテクニカルホールド/固め技を使用している。

2005年、英国のテレビネットワークITVは、Celebrity Wrestlingと呼ばれる有名人レスラーをフィーチャーしたスタイルで行うプロレスを土曜日の夜のプライムタイムショーとして開始することにより、復活したプロレス人気を利用しようとした。ただしレスリング自体の評価が低く、この試みは失敗した。

参考:Wikipedia

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