Lunette(ルネット)
フランス語で小さな月を意味します。建築では壁面、特に玄関や高窓の上に付く半円形の明り取り窓を指します。
もし、晴れた日に、きれいな太陽のひかりが入る部屋なら、きっと、いつもと違った時間を過ごすことができますね。
ステンドグラスへの投資は、きっと、小さな「ガラス」じゃなくて、豊かな時間への投資なんでしょうね。
そんな“想い”を込めて、わたしたちが制作するステンドグラスを“ルネット”と呼びます。
SGOカジワラ 代表 梶原 進
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父親の鋳物工場の閉鎖■
1973年に有限会社梶原鋳工所に入ります。入社して3年ほどすると、「お前がヤレ!」父親から代表権を譲られます。
当時、高度成長の終りに近づいてはいましたが仕事量は成長の一途でした。当然、機械化と事業の拡大を試みますが・・・人が集まらない。新聞広告で機械加工の職人さんの2倍の賃金でも一人の応募も無い。職業安定所(現ハローワーク)に求人をお願いしても・・・鋳物か・・・一応、預かっておくよ!」こんな対応でした。
『将来、この事業は人で行き詰る』この時に、鋳物事業から撤退を意識します。これが、長いスパーンでの経営危機でした。
それでも、当面の事業は鋳物です、親企業の業績に左右される下請けから脱却を試みます。
自社製品の開発です。美術鋳物(絵皿)・工芸鋳物(灯篭)・住宅(フェンス・門扉)次々にトライします。
零細企業の宿命ですね、企画・営業・配達すべてをわたし一人でこなすため機械鋳物が忙しくなれば、新しいトライは自然消滅していきました。
1990年より、平成の大不況に入ります。有限会社梶原鋳工所も2年連続の大幅 赤字に転落してしまいます。これが、直接の経営危機です。
わたしは、父親から事業を引き継ぐ時に2つ誓いました。
1・2年連続赤字になったら事業を止める。
2・借入金が、年間売上高を上まったら事業を止める。
もちろん、わたしは給料をいただいておりませんでしたし、かけていた保険も すべて解約して経営に注ぎ込んでいました。
自社でできることをすべて実行した上で、『不況下での、20%単価の値上げ』に踏み切りました。
決算書を片手に、すべてをオープンに26社の取引先にお話・お願いをいたしました。25社、了解をいただきました、ただ、最大の取引先は10%の返事でした。
ここで、廃業を決めました。1998年でした。
この時、背中を押してくれた言葉が、経営のご指導をお願いしていた下請け振興公社oさまの『限界だね』の言葉でした。
『限界だね』この言葉を言っていただける真のブレーンは大切です。
人は弱いし、決断から逃げるクセがあります、一万人の友人より、一人のブレーンです。
1985年にアメリカより、新しいステンドグラス(SGOステンドグラス)が日本に紹介されます。
迷うわたしに、『自分の人生だから好きにしたらいい』母親の言葉でSGOジャパンとフランチャイズ契約をします、日本で4店舗目でした。
これより、13年もステンドグラスと鋳物の二足のワラジを履くことになります。スピードと決断、行動力がわたしには無かった、わたしは事業家としては失格です。
■新しい事業(ステンドグラス)■
1996年~1998年、2年かけて梶原鋳工所の会社末梢を終えたわたしは、家族の 生活を第一に考えなくってはなりませんでした。
朝、酒屋さんでアルバイト、10時からステンドグラスの飛び込み営業、18時から22時まで自動車部品の塗装工場で夜のバイトに入ります。
13年間、細々とステンドグラスを作ってきました。実績も知識もあります。半年から一年でステンドグラス事業は立ちあがる。
この甘い考えは完全に否定されます。歩けど、歩けど、売れないのです。営業知識も経験もないので当たり前です。
「いいモノを作っていれば仕事は向こうからくる。仕事をお願いに行くなんて、見っともない」 こんな時代でした。
同時に最大のスランプに陥ります、それは、プライドです。
父親と母親が夜も寝ないで築き上げてきた鋳物工場を廃業してまで追いかけた“夢”なのに・・・
バイトの日々!!今のわたしは、一体、何をやっているのだ・!
悔しさで、夜のバイトで帰宅しても10分ぐらい車の中で泣いてからでないと、 玄関がくぐれない日々が続きます。