4月末くらいでも雪が降ることもある、北海道の気候ですが、今年はもう完全な雪の終わりがやってきたように感じます。
春を経て、短い夏の時期に向かっていく時期を迎えます。ただ、一気に暑さが増していく、という向かい方ではなく、まだ朝晩にストーブが欲しい日は続きます。
次週(2024年5 月12日) 主日礼拝(午後2時~3時)
説 教「人生の土台となるべきもの」(ルカによる福音書6:46~49)
礼拝やその他の集会は、いつでも、すべての方に開かれています。聖書・讃美歌などは教会に準備がありますので、どうぞどなたでもおいでください。
2024.4.28 佐呂間教会 主日礼拝説教
聖書: ヨハネによる福音書10:27~28
説教題 「神さまが働いてくださる」
私たちには、様々な選択肢が与えられています。今日、この日曜日の午前に“何をするべきか、しないのか”の判断は私たちに委ねられています。朝ごはんに何を食べるのか、そもそも朝ごはんを食べることも、食べない事も、私たちの自由です。でも、すべてが自分の自由意思によって決めれるわけではありません。自分という、類稀で、一人しか存在しない掛け替えのない存在は、決定的に他者と異なります。生まれ持った、自分という特性があり、肉体的・精神的限界もあります。また育つ過程で受ける環境因子も働き、この自分という存在が構成されています。すべての人間は有限であり、私たちが持っている時間には限りがあります。大げさな言い方をすれば、この私たちの持ち時間は、刻一刻と短くなり、決して長くなることはありません。皆さんに伝えたいのは、“今はまだ、復活節である”ということです。キリストの復活を共に祝い、イースターの喜びを得て、私たちにも与えられた復活の命の福音を喜び祝ったのは、3月31日で、4週前のことなのです。
私たちには様々な選択肢が与えられていますが、すべてが自分の決断や自分の意志、計画によって行われるわけではないのです。生まれて来る日が自分で決められないように、必ずこの世から離れる日があります。私たちはこの自分という人間を生きなければならず、この自分以外の人間を生きれず、自分を生きることが必然であるように、私たちも復活します。キリストが十字架で死んで、死者の中から復活したのです。キリストが死という絶望と失意を、希望へと変えて下さったのです。今、この復活節は、死ですべてが終わりではないと言う福音を、確りと覚えたいのです。
さて、申命記はモーセの遺言です。モーセは奴隷として生活していたユダヤの民をエジプトから導き出した指導者です。神様が、内気で、人前に出て話すことの苦手なモーセを立てて、ご自身の契約の民を、エジプトから導き出して故郷のカナンの大地へと導きだしました。モーセがその務めに立候補したのではなく、主イエス・キリストの父なる神様が、モーセの前に表れて、モーセにその務めを託したのです。決してモーセの意志ではありませんでしたが、でも神様は彼を召し、召されたモーセは、この召しを自分への召命として、受け取り、ユダヤの民を導いて歩むのです。でも、彼は故郷であるカナンの大地を仰ぎつつも、そこに戻ることなく、世を去るのです。
11章1節から2節の前半で、モーセは勧告の言葉を述べます。“神を愛し、その御言葉を常に守る”ように語るのです。かつてはそうではなかったからこそ、今度こそは神を愛し、契約を結んでくださった主なる神のみに仕え、主の御言葉である“命令、掟、法、戒め”すなわち“律法”を守りなさいと言います。何度も言うことですが“律法”と“律法主義”は異なります。“律法”は民が契約の際に神様からいただいた御言葉であり、どの様に神に仕えて生きるべきかを告げるものです。律法の要約、むしろその要は十戒であり、十戒は神を愛し、人を愛して生きることを告げます。律法の目的は、事ある毎に“これは律法に適い、主のみ旨に相応しいのか”を問うことにあります。ですが“律法主義”になると、とにかく“律法を守ることのみ”に専念し、神と人を愛することを忘れてまでも、律法の厳守に生きることです。神様に従っているつもりでも、実際には神様から離れてしまうのが律法主義なのです。1節と2節に記されるのは、今までの人生の歩みを振り返り、如何に神様の恵みが深く、その支えが豊かであったかを覚え、感謝の応答をもって主の律法(御言葉に)に従うべきを呼び掛けるのです。
言うまでもなく、善いことばかりの人生ではないかも知れません。思い出したくもない、事柄もあるかも知れませんし、良い思い出ばかりではないかも知れません。でも、主なる神様は、この私たちの、今日までの歩みを支え続けて来られたのです。そのひとつひとつを数える時、やはりそこに神様がおられ、私たちは確かに支えられ、それでも多くの祝福を受け取って歩んできたことを、思い起こすことが出来るのではないでしょうか。神様はいつも働き、私たちを必ず幸いへと導いてくださっているのです。私たちはこの神様を知る者たちとなっています。何よりも私たちは今日、この北見教会の礼拝に集っているのです。これは、私たちの意志によるものです。今日、この礼拝に集うことを決断したから、この席に着いているのです。そして、同時に、主なる神様が、私たちを招いてくださったからこそ、この日の礼拝の席に着いているのです。
主イエス・キリストはヨハネによる福音書10章27節で次のように告げています。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う
。」
羊でさえも、自分の飼い主の声を聞き分けます。私たちはキリストのものになり、神の羊の群れへと迎え入れらた民なのです。
さらにキリストは続けて仰せになります。
「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(28節)
キリスト御自身が「わたしは彼らに永遠の命を与える」と言ってくださるのです。このみ言葉を信じずに、何を信じ、誰に信頼するべきでしょうか。永遠の命とは、天の御国できる保証です。しかも、キリストの手から、私たちを奪い取る者など誰もいないのです。父なる神様が、それを許さないからです。ご自身の大切な独り子をも犠牲にして、十字架に至らせるほどの犠牲が支払われたのですから。この約束は変わりません。
私たちは有限であり、限りある肉体と限りある能力を抱えて、この限りある時間の中に生きています。でも、死で全てが終わるのではないのを告げ示したのが、キリストの復活です。主の復活を覚え、これを崇めて歩みましょう。
(4月28日 主日礼拝説教より)
名 称 | 日本キリスト教会佐呂間教会 |
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TEL |
01587-2-3629 |
住 所 | 〒093-0501 |
最寄駅 | ・JR石北線 遠軽駅 下車 車で40分 |
駐車場 | あり |
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