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来月の初めより、教会ではクリスマスを待ち望むアドベント(待降節)が始まります。わたしたちは、喜びと楽しみをもってその日に備えていきます。次週11月24日礼拝後には、ツリーをはじめ、会堂のクリスマス準備を行います。
その日は、収穫感謝礼拝として、一年の間、神さまから与えられてきたすべてのものについて、特に感謝をささげる礼拝を行い、皆で食事を一緒にします。
どうぞどなたでもおいでください。
次週(2024年11月24日) 主日礼拝 午後2時~3時15分
説教「わたしたちのすべてが、神の愛によって支えられている」(ホセア書11:1~11)
*聖餐式が行われます。
礼拝やその他の集会は、いつでも、すべての方に開かれています。聖書・讃美歌などは教会に準備がありますので、安心していらしてください。
2024.11.17 佐呂間教会 主日礼拝説教
聖書: ローマの信徒への手紙14:1~13
説教題「言葉で伝える」 北見教会牧師 森下 一彦
使徒パウロは、まだ見ず、直接であったことのないローマの町に住む教会の兄弟姉妹に向かって手紙を書きます。当時のローマは地中海世界の中心であり、最も栄えた都です。パウロの願いは、そのローマに行き、信仰を同じくする兄弟姉妹たちと交わりの時を持ち、ローマの町で福音の宣教をすることでした。
パウロのこの願は叶いました。パウロは捕らえられ、念願であったローマへと行き、裁判の席で、罪ありとされて処刑されるのです。紀元55年頃のことです。この手紙は、パウロがローマへと送られる前に、ローマの教会につながる兄弟姉妹たちへと向けられた手紙なのです。そしてこの手紙は、パウロの最後の手紙、彼の遺言になりました。
さて、この手紙は他の手紙のようにな、教会が抱えるトラブルや諸問題の解決のために記されたのではなく、パウロの自己紹介の様なものであり、彼の神学の集大成であると言えるでしょう。それ故、ここに記されるのも、特別な事柄ではなく、むしろどこの教会でも予想されるような、“人間が抱える問題”について記しています。それは、人は人を裁き、差別してしまう問題です。
「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。」(1~2節)
パウロはここで「信仰の弱い人」について語ります。8章までには、信仰の有無について記しましたが、ここでは「信仰の強弱」について語ります。パウロが語る“信仰の弱い人”とは、ここでは野菜しか食べず、決して肉を食べない信仰者たちのことを語っているようです。それが弱い人という表現で言われております。
彼らが肉を食べない背景には律法の規定があります。律法には数多くの食物規定があり、レビ記、民数記、申命記には食べて良い動物と食べてはならない動物が記述されております。また、食べて良い動物でも、律法の規定に従って適切に処理されていなければ、食べることが出来ません。また、市場で食肉用に処理されて売られている肉は、見た目では何の肉であるか分からなかったりします。ましてや料理に入っている肉が律法に反する肉であった場合、誤ってこれを食べてしまったならば罪を犯すことになるのです。ならば、いっその事、野菜しか食べないのを選んだ人が、“信仰の弱い人である”と言うのです。
あえて言うならば、信仰の強い人とは、“律法の規定”とはかかわりなく、どんなものでも食べる人です。律法の本質は、神と人を愛して生きることにあり、神様から与えらえた食物を感謝していただくならば、何も悪い物はないと確信する人です。ただ、本当に何でも感謝できるのかと言うのならば、大変疑問であると言えるでしょう。どちらにせよ、食べる、食べないの問題は、神様への信仰の問題としてここに記されます。また、これは食物のことではなく、性的な事柄を暗示的に記しているとも受け取ることが出来るようですが、3節には「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。」と記されます。信仰の強弱の問題は、庇護や配慮の問題ではなく、むしろ、相手の立場を認め合うことであり、批判よりも、「受け入れること」なのです。相互に受け入れ合い、認め合うことに、すべての解決の道があるのです。ユダヤ人キリスト者は旧約聖書を背景に生きて来ましたから、簡単には律法の厳守から逃れられません。また、異邦人キリスト者にとっては律法の食物規定など、始めから持っていないのです。神様は、この両者を受け入れ得くださったのだから、4節「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。」と言います。同じ信仰者同士で裁き合うなとパウロは告げます。
「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人、自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(7~9節)
私たちは信仰を持ち、キリストによる贖いを信じ、キリスト者として今、礼拝の席に着いておりますから、このみ言葉を受け取ることが出来ます。ですが、信仰を持たない人や教会の外の人たちがこのみ言葉を聞いたらどう思うでしょう。“この自分は、自分自身や自分の家族のために生きる”のではないかと思うことでしょう。主のため、キリストのために死に、キリストのために生きると聞いたならば、“宗教は怖い”とか、カルト宗教を思わせるような箇所かも知れません。ここには極端な事を語るのではなく、まず、主イエス・キリスト御自身を思い起こさせようとしているようです。すなわち、キリストは人として生まれた神ご自身であり、十字架で死んで蘇られ、今も生きておられる方なのです。この方は、決して自分自身のためだけに、ご自身を使い尽くしたのではなく、他者であるこの私たちのために生き、そして死なれた神の御子なのです。人間の罪や過ちの源は、自分が全ての中心であるかのように考えることにあります。自分の正義や価値観だけが正しいと思い込んで知るのです。そこには他者はおらず、ただ自分だけがいるのです。だから隣人に、そして神様に過ちを犯してばかりなのです。自分のためだけに、自分と自分のすべてを使うべきではないのをみ言葉は語り、人のために生きたキリストを想起させます。
(10~11節)兄弟を裁くな、強い者は弱い者を、弱い者は強い者を裁くなと言います。キリストは、この私たちを受け入れて下さったからです。
「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」(13節)
この箇所は、13節で区切るべきではなく、続けて読むべきです。裁き合い、他者を否定する社会はもう充分です。むしろ受け止め合い、他者を、異質な文化や価値観を受け止める寛容さを受け取りたいのです。否定や批判するのは簡単です。でも、受け入れ、認め合う社会を目指すことの困難さを覚えます。でも、この困難にこそ、真の幸いがあり、キリストの福音が輝いているのだと思います。
(11 月17日 主日説教より)
名 称 | 日本キリスト教会佐呂間教会 |
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TEL |
01587-2-3629 |
住 所 | 〒093-0501 |
最寄駅 | ・JR石北線 遠軽駅 下車 車で40分 |
駐車場 | あり |
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