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新しく迎えた年も、あっという間にひと月を過ぎ、2月となりました。”この冬は雪が少ない”と言われ続けた道東は、先日一気に大雪に見舞われ、いろいろな障害も出たようです。
自然の秩序が揺らいでいることを、改めて感じさせられます。その”揺らぎ”に、今のわたしたちの生活や生き方も深く関わっているのではないかと、神さまから問われているように思えてなりません。
次週(2025年2月16日) 主日礼拝 午後2時~3時
説教「折が良くても悪くても」(テモテへの手紙Ⅱ 4:1~5)
礼拝やその他の集会は、いつでも、すべての方に開かれています。聖書・讃美歌などは教会に準備がありますので、安心していらしてください。
2025.1.19 佐呂間教会 主日礼拝説教
聖書: テモテへの手紙Ⅱ3:10~17
説教題 「わたしたちを神のもとに導くもの」
「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(15b~16節)
この手紙を聞くのは久しぶりのことになりますので、背景や内容を少し振り返ってみます。
この手紙は、そのタイトルどおり、テモテという若い伝道者へ向けて、使徒パウロが書いた手紙です。かなり年の差のあった二人のようですが、年若いテモテをパウロが見出して以来、働きを共にすることが多く、深い信頼と親しみとを互いに抱いていたとされています。 そのことは、今日の箇所の10節で、テモテが「(パウロの)教え、行動・・・いといませんでした」というような一文からもうかがえます。
パウロはこの手紙をテモテに記した時、すでに囚人となっており、明日さえ保証されないような立場でした。そんな中で、やはり自分と同じように、イエス・キリストを宣べ伝えているために、様々な苦難や困難にも直面しているテモテを励まし、揺るがないもの、留まるべきものを指し示しているのが、この手紙なのです。
そのように、あくまでも“パウロという個人”から、“テモテという個人”へ向けて記された、いわゆる私信であり、2人の関係性の中で語られた言葉です。けれどもそれがこうして聖書に正典として入れられたということは、テモテを超えて、わたしたちを含む代々の信仰者たちにも受け取るべきものがある、ということです。
パウロが、自分自身のこの世での生涯と伝道の働きの終わりを見据えた中で、テモテに語りかけた、その最後の言葉を、わたしたちも心して聞きたいと思います。
10~12節にかけて記される「迫害」というもの、そのリアリティーや経験は、今、この国で生きるわたしたちの信仰生活の中にはほとんどない、と言ってよいかもしれません。多くの人たちの間違いや悲しい犠牲、立ち上がって声を上げ、闘ってきた人たちの存在・・・そうしたものの上に、今、わたしたちの“権利”として保証されている「信教の自由」の中に、わたしたちは生きているからです。
けれども、時代がそのように変わり、人々の理解や環境が変わってきたから、わたしたちは、キリスト教の信仰をもちながらも、この国で穏やかに、普通に生活していけるのだ、と思ってしまっていたら、わたしたちは、パウロのこの厳しい言葉の前に、もう一度立たなければなりません。
「キリスト・イエスに結ばれて、信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(12節)
何も、人の反感をあえて買うようなことをしたり、やみくもにこの世を批判したり、裁いたり、そこから離れて生きることが勧められているわけではもちろんありません。 この世と、そこに生きる者たちは、確かに神さまの愛の対象であり、そしてこの世が、わたしたちの生きる場所、持ち場です。
けれども同時に、この世はまだ御国の完成の途上にあります。神さまの御心とご支配が、まだ行き渡っていないこの世と人々の間で、わたしたちが、“わたしはこの方のみを主と崇め、この方のご支配の下に生きていく”という新たな命を歩み始めた信仰者であるなら、時に、この世とわたしたちの間にある“溝”ないし“差”というものが、いろいろと喜ばしくない仕方で、わたしたちに表れ、向けられるのも当然のことと言えないでしょうか。
わたしたちが今、この世で信仰者として生きるのに、“日々、何の問題も難しさもない”と感じているなら、パウロの語る12節を、もう一度聞いてみなければなりません。
ただ、そんな「問題や難しさ」の中で生きることが、もちろん嬉しいはずはありません。だからこそ、主の祈りの中の「御国を来たらせたまえ」という祈りは、世界の平和のためだけでなく、わたし自身のためにも、いよいよ真剣な祈りとなるのです。つまり、“わたしを含む誰もが、神さまのご支配の下に共に生きることを喜べるような、そんな時が訪れますように”という祈りとして、これを真剣に、また切実にわたしたちは祈るべきなのです。
そして続けてパウロは、自分自身が受けてきたそのような迫害の中で、自分はどうであったか、そして「主がそのすべてからわたしを救い出して下さった」(11節)ということをテモテに語り、励ましを与えています。
パウロのこの言葉から、わたしたちもまた、この世や世の人々との間の溝に、あるいはそこで経験させられる問題や難しさの中に、一人で放置されることはないのだと確信できるのです。
さて、これまで聴いてきて分かりますように、テモテにとってパウロは“倣うべき人”でした。また、テモテに信仰による学びを与えて、それによる“確信を与えてくれた人”でした。
更にテモテは、15節にも記されていますが、「幼い日から聖書に親しんできた人」でした。それは、この手紙の最初にも記されていますが、信仰者であった「祖母ロイスと母エウニケ」(1:5)という存在があったからです。
そのように、人が神さまへと導かれ、信仰者となることには、そのような存在がある、とある人は語っています。
「キリスト者であればだれでも、自分に信仰を伝えてくれた人の名を、少なくともひとりの名前だけでも思い出せるはずだ。信仰は、その人の証言という個人的経験を通してあなたに届いたのである。その人の名を覚えておきなさい。」
そしてもちろん、人を神さまへ導くのは、そのような特定の個人や、個人的経験だけではありません。パウロも決して、自分がテモテのすべてを作り、与えたのだ、などとは思っていなかったはずです。
パウロは、テモテが「幼い日から親しんできた」聖書が、テモテに「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与える」と語ります(15節)。 聖書は、神ご自身が一言一句を書かれたわけではありませんが、「神の霊の導きの下に書かれ」ました(16節)。
そして、この「神の霊」「聖霊の導き」は、聖書を「書かせ」もし、わたしたちの心を、「恵みに満ちた言葉に聞かせ」もするのです。わたしたちは、“自分と聖書だけ”で向き合うのではありません。聖霊が、“この書かれた神の言葉をわたしに聞かせて下さるように”と祈りつつ向き合うのです。
聖書に聞くことの目的は、「神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられる」(17節)ことにあります。わたしたちが“この聖書を、恵みに満ちた言葉としてわたしに聞かせてくださるように”と祈りつつ、願いつつ聞こうとするなら、一人一人は力に乏しく、また教会として小さな群れであったとしても、きっと「十分に整えられ」て、わたしたちは立っていくことができるでしょう。
(1月19日 主日礼拝説教より)
名 称 | 日本キリスト教会佐呂間教会 |
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