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日本キリスト教会
佐呂間教会

 本州の本格的な梅雨にはかないませんが、当地でも珍しく雨や曇りの日が続いています。19日の礼拝中には、短い時間ですが、激しい雷雨の音が聞かれました。
 本格的な夏が始まるまでは、まだまだ気候の変化が大きい日々の中にありますが、教会では、換気をはじめ、礼拝の構成や時間などにも引き続き心を配り、安心して皆で集えるよう、状況を注視し、ふさわしい対応をしながら、活動を続けていきます。

次週(6月26日)の礼拝(午後2時~3時)*この日は中高生も一緒の礼拝です

 「神さまにはできる、と心から信じた人たち(マタイによる福音書9:27~31より)
 
 
礼拝はすべての方に開かれています。どうぞどなたでもおいで下さい。


わたしたちの教会は、1907年に佐呂間の地に入植した、近藤直作という一人のクリスチャンの志から始まった、プロテスタントの教会です。最初の教会堂は佐呂間町武士にありましたが、1969年に現在の場所に移転、更に2001年には、現在のログハウスの新しい教会が建てられました。小さいですが、佐呂間の地にあって、すでに110年以上の歴史を重ねてきています。

 この教会では、現在、次のような集会を行っています。
礼拝も どの集会も、信徒でなくてもご出席いただけますし、むしろ皆さんをお待ちしておりますので、どうぞおいでください。聖書や讃美歌は、教会に貸し出し用のものがあります。

◯日曜礼拝~毎週日曜日午後2時から
 礼拝は、聖書の朗読・讃美歌・お祈り・説教(聖書のおはなし)・献金などで、約1時間ほどです。現在は、子どもたちも含め、毎週10名前後が、佐呂間、遠軽、北見などから集まっています。
◯聖書を読み、語り、祈る会~第一木曜日午前10時30分から
 聖書や信仰についての本を少しづつ読み合い、感じたことや疑問、自分の生活との関わりなどを自由に話し合う場です。話し合いの後、祈りの時を持っています。

その他、季節の集会などについては、下段の「佐呂間教会のご案内」の中で随時お知らせいたします。


牧師とのお話やご相談を希望される方は、日曜日以外に毎週木曜日、教会に在室しておりますので、遠慮なくお訪ねください。また、そのほかの曜日でも、お電話(℡ 01587-2-3629)や下記のフォームにてご連絡いただければ、お訪ねいただけます。

2022.6.19  佐呂間教会 主日礼拝説教

聖書:  ガラテヤの信徒への手紙3:1~6

説教題 「あなたを救うものを見誤らないで」

 

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」(1節)

 

 

 今日の聖書、ガラテヤの信徒への手紙3章の出だしの言葉は強烈です。この手紙の著者であり、ガラテヤの信徒たちに福音を伝え、そしてガラテヤの教会の礎を建てた使徒パウロは言います。

 

 「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。」

 

 この「物分かりの悪い」という言葉は、3節でも繰り返されています。使徒であるパウロの口から、信仰者たちに向けてこのような言葉が語られることに、不快感やショック、中には怒りを感じる人もいるかもしれません。あるいは、自分もまたこのように責められているように聞いてしまう人もあるかもしれません。

 また、聖書の中にはこのような言葉もあります。

 

 「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(エフェソの信徒への手紙4:29)

 

 そうであるなら、わたしたちはこのパウロの言葉を、どのように聞いたらよいのでしょうか。

 

 まず、言葉の強さから勘違いしてはいけないのは、パウロのこの言葉は、ガラテヤの信徒たちの、神さまや聖書や知識についての“知識”とか“理解”というような、いわゆる知的なことについて、レベルが低い、というようなことを言っているのでは決してない、ということです。

そうではなく、“霊的なこと”―神さまが人間の救いのために為してくださったこと、与えてくださったこと、そして、自分たちがかつて信じて受け入れたはずの大切なこと―について、正しい判断や、理解して受け入れることに欠けている、ということを、「物分かりの悪い」という言葉で言おうとしているのです。

 

この言葉は、確かに厳しいものです。けれども、それはパウロの単なる苛立ちや怒りから出ているものではありません。そこには、パウロの悲しみがあり、“どうしてなんだ!?”という切実な訴えがあります。

なぜなら、ガラテヤの信徒たちは、かつてはパウロが伝えたことを分かっていたからです。パウロが、彼らの「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示」した(1節)からです。

 

神さまの人間への救いは、この方が十字架の上でわたしたちの罪をすべて担い、だからこそわたしたちは罪なしとみなされ、赦された罪人となった―という仕方でだけ、本当に実現しました。ガラテヤの人たちは、パウロが伝えたその福音を聞いて信じ、洗礼を受け、信仰者としての生き方を始めたはずだったのです。

 

それなのに、今のあなた方はそれを見失っている。どうしてなんだ!?とパウロは訴えているのです。

  

ガラテヤの信徒たちがそのようになってしまっていることには原因があります。それは、パウロ自身もよく分かっていることですが、1節に出てくる「惑わ」す者たちの存在です。

以前もお話ししたことがありますが、パウロがガラテヤの教会の基礎を据えて、次の伝道のためガラテヤを離れた後、教会に入り込んできたグループがありました。この人々は、神さまを信じない人たちではなかったのですが、その救いを得るために、一言で言うなら、「律法を行う」(2節)ことが必要だと主張しました。中でも、“割礼(旧約時代、神の民とされたイスラエルの人々が、そのしるしとして身体に刻むことを命じられたもの)を受けること”を、特に必要だとしたのです。

ガラテヤの信徒たちは、この主張に大きく揺さぶられました。パウロの言葉で言うなら、「惑わ」されてしまったのです。

 

パウロがガラテヤの人々に伝えたように、“救いは、十字架にかかられたイエスさまによる罪の贖いと赦し以外にはない”―そう知らされて信じる者となった今のわたしたちは、今日の聖書を通して知らされるガラテヤの信徒たちのことを、どう思うでしょうか。惑わされた彼らは弱いでしょうか。“大事なところからは、ずれていってはいけない”と思うでしょうか。

 

けれど、今のわたしたち、そして教会には、ガラテヤの教会に入ってきたような、“律法を行うことが、救われるための条件だ”と声高に言う人々がいないだけで、だからこそわたしたちは、“救いはただ、イエスさまの十字架による罪の贖いと赦しによる”“功績なしに義とされる”ということに、立っていられるだけなのかもしれません。

 律法を守る、割礼を受ける、というような、“何かを具体的にする、行うことによって、人は救われる”という考え方は、実は今でも人を強くひきつけると言ってもいいと思うのです。なぜならそれは、行いを積み上げていくことによって、見えるしるしを身に帯びることで、“救いに近づいていっている”“救いが確かなものとなっていく”という実感が得られやすいからです。これだけしたのだから大丈夫だろう、という安心を得やすいからです。

そのような意味では、律法を行って救われる、という理解・生き方は、窮屈なようでありながら、実はその一方で、“〇〇すれば△△なる”という、楽な生き方である、とも言えるのかもしれません。

  

けれどもそれは結局、自分の力に頼る救いであることに違いはありません。自分がそれらを行えなくなったら、救いは遠のいていくのでしょうか。どこまで行い続ければ、救いは約束されるのでしょうか。それでは、どんな人にも、どんな状態の中にあっても約束されている救いとは言えません。

そんな“不確かではない救い”を、神さまはわたしたちに与えたいと思ってくださった。それが、「律法を行う」ことによらない、わたしたちの外から来る救い、イエスさまの十字架による、罪の赦しの救いだったのです。

それは、わたしたちの内面、力や性格、生まれつき持っているものによらず、また、どんなことをしたか、という行いにもよらない、驚くべき恵みです。そのことをパウロは「(あなたたちは)あれほどのことを体験した」(4節)と言っています。

「それは無駄だったのですか」、否、無駄にしてはいけないと、パウロは今日の聖書を通して訴えているのです。

 

わたしたちも、「イエス・キリストが十字架につけられている」、その姿を、いつも目の前に見ている者たちでありたいと思います。「行い」というのは、何か命じられなくても、定められていなくても、その方をいつも目の前にしているなら、自ずと生まれざるを得ないものなのではないでしょうか。


               (6月19 日 礼拝説教より)

佐呂間教会のご案内~風景いろいろ・行事いろいろ

講壇からの光景
 教会内部の写真を撮るときは、正面の講壇と十字架とステンドグラスに”向かって”、とい方向が多かったのですが、逆に講壇からの光景を撮ってみました。
 ドアの向こうは前庭に続いているのですが、光が差し込んで、どこか違う世界にでも続いているかのようです。
 
 2階部分からは礼拝堂を見下ろすことができ、お子さん連れの方なども、別室ではなく、同じ空間で礼拝に出席することができます。
初夏の先取りのような
 礼拝堂には、季節ごとに、教会員の方々が持ち寄ってくださる花々が飾られます。
 先日飾られていたお花は、黄色や赤色をベースにした大輪の花々でした。まだ肌寒さが完全に抜けきらない中、初夏の雰囲気を持ち込んでくれたような、鮮やかな色合いでした。
どうぞお訪ねください
 教会前にこの看板が出ている時は、牧師が滞在しております。小さな教会ですが、会堂内は自由に入っていただけますので、どうぞ遠慮なくお訪ねください。
 牧師にお話しのある方は、たいてい、入って左手の部屋におりますので声をかけてください。
 静かに祈りや黙想の時間をもちたい方は、正面の礼拝堂へどうぞ。






どうぞお訪ねください
 教会前にこの看板が出ている時は、牧師が滞在しております。小さな教会ですが、会堂内は自由に入っていただけますので、どうぞ遠慮なくお訪ねください。
 牧師にお話しのある方は、たいてい、入って左手の部屋におりますので声をかけてください。
 静かに祈りや黙想の時間をもちたい方は、正面の礼拝堂へどうぞ。

アクセス

名 称 日本キリスト教会佐呂間教会
TEL 
01587-2-3629
住 所

〒093-0501
 北海道常呂郡佐呂間町字宮前町109-30

最寄駅

・JR石北線 遠軽駅 下車 車で40分
・女満別空港より 車で50分
 遠軽、また女満別空港からは、公共交通機関がないため、自家用車かレンタカーの利用となります

駐車場

あり

最寄駅

・JR石北線 遠軽駅 下車 車で40分
・女満別空港より 車で50分
 遠軽、また女満別空港からは、公共交通機関がないため、自家用車かレンタカーの利用となります

お問い合わせ

お問い合わせは、お電話(TEL 01587-2-3629)にてお問い合わせいただくか、下記のフォームにご記入いただきご連絡ください。
また、牧師在室日(木曜日)には教会を直接お訪ねいただくこともできます。その他の曜日の場合も、ご連絡いただければお訪ねいただけます。
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