東京都港区三田『龍生院』
~納骨堂「三田霊廟」や「御府内八十八ヶ所霊場」について~

今回は、東京都港区三田の「龍生院」について紹介します。

御府内八十八ヶ所霊場とは?

御府内八十八ヶ所霊場(ごふないはちじゅうはちかしょれいじょう)は、東京都内にある弘法大師ゆかりの寺院で構成された八十八箇所の霊場のことです。
開創されたのは宝暦5年(1755年)といわれています。いわゆるお遍路の一種で、順にめぐる方も少なくありません。

お遍路とは?

正式名称を四国八十八箇所(しこくはちじゅうはっかしょ)という、四国にある弘法大師(空海)にゆかりのある、88か所の寺院のことです。四国霊場でももっとも有名なところで、順番に参拝することを四国巡礼、四国遍路、お遍路と呼びます。

日本では四国の有名な観光地として知られており、外国人観光客の方にも人気です。

御府内八十八箇所は都内にある弘法大師ゆかりの寺院を総称してそう呼びます。四国のお遍路と関連付けられそう呼ばれている、というわけです。

江戸時代頃から西国三十三所観音霊場、熊野詣、善光寺参りなど庶民の間に巡礼が流行するようになり、そのうちの一つが四国八十八箇所です。これを模して江戸時代より小豆島には小豆島八十八箇所霊場、江戸には御府内八十八箇所霊場、九州には篠栗八十八箇所霊場など、そして近年において四国別格(番外)霊場など、全国各地に大小さまざまな巡礼地が作られました。「移し」または「写し」とも呼ばれ、四国八十八箇所隆盛の証左ともいわれています。

お遍路の目的は、健康祈願、自分探しや開運・縁結びなどそれぞれです。巡礼者が持つ笠には、「同行二人」という文字が書かれており、ひとりは自分、そしてもう一人は弘法大師を意味しています。つまり、弘法大師と二人で巡礼の道を歩く、というのがお遍路なのです。

巡る順番や数、期間が自由なだけでなく、巡礼の手段も自分にあわせて選択できるのがお遍路の良いところです。「歩き遍路」「車遍路」「ツアーバス遍路」などの方法があり、自分のスタイルで好みの回り方を見つけてみてください。

龍生院とは?

龍生院は、東京都港区三田二丁目にある高野山真言宗の寺院です。816年に創建され、1200年の歴史を持ちます。真言宗に属し、弘法大師を本尊とし、現代社会と大師信仰が融合し、新たなともしびを次の世代へとつないでいます。

現在は御府内八十八ヶ所第十三番札所にも数えられ、開創以来約1200年に法灯を守り続ける由緒正しき古刹となっています。

山門の石段の手前には「弘法大師御府内八十八ヶ所第拾三番」と刻まれた標石が建っています。この札所は、御府内八十八ヶ所開創当時、霊岸島の圓覚寺でしたが、被災後、諸仏等と共に龍生院に移転され、第十三番札所も継承されています。

三田の鬼退治伝説

三田は大江山の鬼退治の伝説があります。酒吞童子という鬼の頭領を源頼光が退治したというものです。
龍生院にも、大江山の鬼を退治した源頼光四天王の一人で羅生門の鬼退治で有名な渡邉綱(平安中期の武将)の屋敷跡にあり、境内の一角には渡邉之綱産湯の井戸が史蹟として残っています。
酒吞「童子」という名ではありますが、日本の様々な妖怪の中でも一、二を争うほどの力を持った鬼として知られています。
酒呑童子は、一説では越後国の蒲原郡中村で誕生したといわれています。また伊吹山の麓でスサノオとの戦いに敗れた八岐大蛇が出雲国から近江へと落ち延び、そこで富豪の娘に産ませたのが酒呑童子だという言い伝えもあります。その証拠に、父子ともども無類の酒好きであるという特徴を持ちます。

龍生院の歴史

弘法大師が816年に和歌山の高野山に開帳したときに、3つの道場を開きました。

そのうちの一つである声明の道場が「龍生院」であり、これが龍生院の起源です。

(その他の2つはそれぞれ住房の「龍行院」、秘宝伝法の「灌頂院」。)

渡辺貞浄尼によって1891年に現在の場所に寺基が移されて、今の場所に龍生院が根付くことになったということです。

 高野山は2004年(平成16年)7月7日、高野山町石道と金剛峯寺境内、建造物12件が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録されています。さらに2016年(平成28年)10月24日、高野参詣道として黒河道、女人道、京大坂道不動坂、三谷坂が世界遺産に追加登録されました。それだけ歴史ある山であることがわかります。

高野山カフェ in 丸の内ハウス

龍生院の本山である、高野山本山が中心となって開催している、一年に約10日限定で行われるイベントが
「高野山カフェ in 丸の内ハウス」です。

新丸ビル7階の丸の内ハウスに設置される、高野山や世界遺産を体感できるカフェなのですが、人気がある為何年も継続して開催されています。

龍生院僧侶、高木秀芳氏のプロフィール

龍生院副住職の高木氏は、幼少期を寺で過ごしました。

しかし、そのまますぐに寺に入るのではなく、
大学卒業後にマスコミ関係の職歴を経てから、30歳の頃、僧門に入ります。

インタビューにおいて高木氏は、まずは社会を理解した上で僧になることで、
駆け込み寺として、多くの人々の心情を理解する姿勢や、
寺における新しい試みにチャレンジする精神を養うことができたとおっしゃています。

龍生院の建物について

近代的な外観の龍生院の建物だが、最新の基準をクリアするなど、
耐震設計も万全に整えており、とても頑丈な建物になっています。

建物の中のエントランスは高い天井で、心持ちも落ち着く、
厳かな空間になっております。

参拝ブースは、高野山の杉並木を思わせるように、
細い木が連なっており、お香のかおりも心地よいです。

弘法大師の背景

弘法大師は、真言宗開祖として今も知られていますが、その出生は800年頃の香川県でなされました。完璧な悟りへの探究心を失わず、遣唐使として中国へ渡航、仏教の先進国で学びを得た人材として日本に帰国しました。

高野山を開いた後は、都が京都へと遷都したばかりで混沌とした世の中に突然現れ、カリスマ的存在として、庶民にもわかりやすく仏教を伝えようと試みます。
日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらしました。また能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられています。

延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったといいます。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示しました。この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多いです。しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くありません。『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられています。さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もあるそうです。

ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところでしょう。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳(現在の太竜寺山付近)や土佐の室戸岬などで求聞持法を修ましたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできたと記されています。このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっています。求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒明ではないかといわれている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者です。

空海の得度に関しては、延暦12年(793年)に、20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺で出家したという説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていましたが、延暦23年(804年)、遣唐使が遭難し来年も遣唐使が派遣されることを知った、入唐直前31歳の延暦23年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されています。ただし、太政官譜では延暦22年4月7日出家したと記載する。空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではありません。無空や教海と名乗った時期があるとする文献もあります。

延暦22年(803年)、医薬の知識を生かして推薦され、直前に得度したが遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念し、翌年に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る。当時の留学僧は中小氏族の子弟が多いが、中国語の能力の高さが有利との指摘はあるが、この間の学問僧への変更の経緯は不明である。

第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。
同年5月12日、難波津を出航、博多を経由し7月6日、肥前国松浦郡田浦、五島市三井楽町から入唐の途についた。空海と橘逸勢が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船である。この入唐船団の第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。
空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(延暦23年、804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している(風信帖#入唐を参照)。また、空海個人での長安入京留学の嘆願書「啓」を提出し、「20年留学予定」であると記述している同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安に入った。

永貞元年(延暦24年、805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。

長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の東土大唐——三藏法師。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。

5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。

8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。

8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。

「声明(しょうみょう)の道場」龍生院

声明とは、法会で僧侶が唱える声楽のことです。

昔のインドのバラモンの学問分野である五明(ごみょう)の一つですが、仏教とともに日本まで伝来し、今でも様々な寺にて声明を聞くことができます。

声明は仏教儀式の手段として以外にも、音楽の一種としてもみることができ、現在は宗教音楽の中の声楽として音大で学ばれることもあり、コンサートなども開かれるようです。

都内にも多くの寺院がある

いかがでしたでしょうか?長い歴史を持つ寺院は都内にも多く、寺院の大きさに関係なく様々ないわれや伝説が語り継がれています。

最近は寺社仏閣ブームということもあり、寺院を巡る人が大勢います。寺院巡りをすることで日本の歴史に欠かせない存在である寺院をより身近に感じられますし、思わぬ歴史を知ることもあるかもしれません。

興味のある方はぜひ一度、弘法大師ゆかりの龍生院を訪れてみてください。