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Profile

米倉 仁

超プラス志向

自叙伝「車いすの暴れん坊」2016年5月1日に書店とAmazonで販売開始

一組限定ユニバーサルデザイン温泉宿を計画中

NPO法人 自立支援センターおおいた会長

有限会社  ヘルプメイトグループ取締役社長

車いすの暴れん坊

【第1章】博多の暴れん坊

誕生、神童と言われた幼稚園時代
暴連坊誕生
マクドナルド抗争とサチコ
喧嘩の連鎖とナンパ修行
ピンクのスカジャン
ビーバップハイスクール
JR筑肥線抗争
先輩たちに恵まれた規格外の高校生活
テキヤでビジネスの基本を学ぶ
ディスコ
ツーリング
自衛隊入隊
サバイバルな自衛隊生活
地獄の専門学校
土建会社就職

【第2章】車いすになった暴れん坊

交通事故
看護師さんとリハビリ
口も麻痺していれば、良かったのに
運動機能回復の限界
不良リハビリと宅建の取得
2度付き合った彼女との別れ
ルールへの抵抗

【第3章】車いすの暴れん坊、アパートを造る

ユニバーサルデザインアパートを造る
車いすでネルトンパーティー参加
まちづくりネットワークとNPO設立
ピアカウンセリングとは
自立生活プログラム
ピア・カウンセリングの力
ヒロシの自立
エリの自立
施設生活と自立生活、どっちがいいの?
行政が考える自立生活
障害者の能力を生かした障害者雇用

【第4章】夢はユニバーサルデザイン専門学校

障害者だからできる仕事
障害者のユニバーサルデザイン専門学校
求められるユニバーサルデザイン住宅
ユニバーサルデザインの街や店舗
車いすの飲んだくれ
ユニバーサルデザインホテル
ユニバーサルデザインコンサルタントの実績
介護制度は旅行でも使わせろ
病院で使えない介護制度
俺の哲学
永ちゃん(矢沢永吉)との出会い
ユニバーサルスペース夢喰夢叶からの予想図
別府・大分バリアフリー観光センター
電動車椅子
からあげ夢現鶏
ベッドで仕事
おわりに

【余 録】俺の格言集

はじめに

いろんな出来事に出会うとき、人はどう生きて行くのか、俺はどう生きて来たのか、そんなことを考える。この半世紀と少し、決して誇れるような人生ではないけれど、俺が生まれてから今日までを、行きつ戻りつしながら振り返り、自叙伝として残しておくことにした。誰かが共感してくれればいい。いや、反感でもいい。笑ってもらってもいい。拙い物語のどこかに気に留まるところがあればと思っている。俺はこれまであらゆる場において、自ら選び、自ら決定し、結果に自ら責任を持つことを貫いてきた。このことは生きていく上で、とても大切なことだと思っている。親に勧められたからあの学校に行く、そこで挫折すれば親の責任にする。友達に誘われた、だからこうなった。結局は誰かのせいにして、逃げる言い訳にするような奴にもたくさん出会ってきた。もちろん俺も親や家族だけでなく、友人や知人にも多くの心配や迷惑をかけてきた。重ねて言うが、自分で選択し、自分で決定し、自分で責任を取ってきたということだ。もっと楽な順風満帆な生き方もあったのかも知れない。ただ、俺の人生がこうなったのは、運命論なんて信じはしないが必然だったのではないかと思うこともある。その場その場の判断が間違ったこともあったかも知れない。だけど、決して後悔はしていない。自分で決めてきたことだからだ。さあ、つべこべ言ってないで俺の物語を始めよう。

暴連坊の誕生 P14~

1970年代後半、時代の中心は団塊の世代からしらけ世代に移行しようとしていた。この頃の福岡にも、週末の夜ともなると、愚連隊や暴走族がアクセル全開で走り回っていた。俺たちも、どこか無気力で、行き場のないエネルギーを抱えて天神の街をヤンキーと呼ばれる衣装を身にまとい肩で風を切っていた。俺はその頃からアウトローでいることが心地良かった。でも、そんなことを思っていたのは、俺たちだけじゃなく、当然のようにぶつかり合いがあちこちで起きる。そう、いろんな暴走族のグループから、ガンをつけただのと因縁を吹っかけられるのである。多くは2、3人から声をかけられることが多かったが、時に、漫画の世界のよう、こちらはふたりに対して、相手は 30 人ということもあった。当然、勝てるはずもなく、死に物狂いで逃げる。言葉にならない屈辱に地団駄を踏むこともあった。そこで考えた。高校、中学のときに仲の良かった悪そうな仲間に声をかけてグループをつくることにしたのだ。いや、グループというより、一定の目的を持ったチームをつくることにしたのだ。思いついたらすぐ実行。まず名前を「博 はかたあばれんぼう 多暴連坊」と命名し、チームカラーをワインレッド、三つ葉銀杏の波紋を代紋とした。ご多分に洩れず、総長、副博多暴連坊の法被総長、行動隊長、新鋭隊長など7つの役職を決め、戦闘服も紺の戦闘ズボンにえんじの法 はっぴ 被とした。時代錯誤と笑うかも知れないが、時は今から 35 年前、昭和の馬鹿者たち、いや若者たちの話なのだ。ちょっと前の子供の遊びはチャンバラで、テレビは水戸黄門あたりが大手を奮っていた時代である。たぶん日本で最初に法被の戦闘服をつくったのは我が「博多暴連坊」だと今でも自負している。背中にはいぶし銀の三つ葉銀杏の刺繍と暴連坊の文字を入れ、衿の部分には肩書と名前を入れた。自分で言うのもなんだけど、格好良かった。そうそう、井の中の蛙、大海を知らないからできたこと。それから天神の街や学校の連中に声をかけて仲間集めに奔走した。格好いい奴、イケてる奴、気は心でノリのいい奴、呼吸の合う奴と、最終的には確か100人くらいになった。我が暴連坊には、いくつかの掟があった。女連れの男に喧嘩を売るな、シンナーや薬は禁止、万引き、たかりも禁止、喧嘩は徒手空拳、つまり道具は使わない。まだいくつかあったような気がするが、随分と昔のことだ。話を続けよう。その頃の福岡の暴走族には、こんなチームがあった。暴連坊・紫・蠍・ヘルキャット・悪太郎・滅法・涙 ルパン 犯・悟空・アウトサイダー・餓鬼・邪悪(炎支部、零支部、影支部、幻支部、悪支部、罰支部、蛇支部、轟支部、魔支部、殲支部、鬼支部、流支部、涙支部)。そして、久留米が蝮族・外道。久留米もまだいくつかあったが、忘れてしまった。

マクドナルド抗争とサチコ P16~

そう、あれは高校1年の夏。天神の新天町にもマクドナルドができていた。友達数人と女の子数人で涼を求めて集まっては、他愛もないことを話していた。ところが、その他愛もない話が、事の発端になろうとは思いもしなかった。友達のひとりが、あるグループからカツアゲをされて、それはそれは悔しい思いをしたと話し始めた。今度会ったらタダじゃおかないと言ったとき、不思議なこともあるもので、ふっと顔を上げると、そのカツアゲの話題の登場人物たち、そう、カツアゲをした張本人のグループ数人が、汗を拭きながらエアコンの効いた店内に涼を求めてやって来たではないか。2階のこのフロアもそれほど広くはない。当然、こちらをチラチラと見ている。普通ならバツが悪い程度で目を反らすくらいで済むのだろうが、こちらも話を聞いてムカついて、今度会ったら任せとけみたいな感じになったばかりの頃合いだから、いきなりガンのつけ合いから一触即発の状態へと沸騰する。案の定、厳ついのが向こうから鼻息も荒く歩み寄ってきた。
「お前ら、なにガンつけよっとや、なにか文句があるとや」
すかさず俺は言い放った。
「お前ら、こいつからカツアゲしとろうが、ちゃんと金返せや」
「なにぃ、お前ら、1階に降りれ、付いて来い」
相手の人数は6人くらい、こっちは3人だった。さすがに人数的に分が悪いと思ったが、女の子の手前もあって格好をつけた。相手に向かって、
「今、楽しみようけん、先に降りときやい」
と言ってしまった。まあそうすれば時間が経ったら熱も冷めて、相手は帰るのではと思っていたら、 10 分くらい経った頃、期待に反して、また上がって来やがった。
「下で待っちょるけど、降りてこんとや」
というではないか。もうこうなると引くに引けない。マクドナルドを出るなり、地下のファーボ(地下街)に降りて来いという相手に向かって、
「お前、誰に言いよるか分かっとうとや、博多暴連坊ぞ」
と、啖呵を切った。相手は、きょとんとした顔をしている。そらそうだよ、まだ売出したばかりで、ほとんど誰も知らない業界駆け出しのグループ暴連坊だった。ただどうしたことだろう。迫力に負けたのか、ちょっとビビっているのが表情の変化で見て取れた。ここで躊躇してはいけない。間髪を入れず、
「お前ら、こいつから巻き上げた金、ちゃんと返しとけよ。お前らの顔、忘れんけんな」
と、そう言うと、相手は6人もいるのに逃げるようにして帰って行った。痛快だったね。そいつらが帰った後、よそで遊んでいた仲間が応援に駆けつけて来て、どげんなったとやと聞いて来る。まあ、斯く斯く云々だと経緯を説明すると、おうそうや、ほな良かったねということで一件落着。こうしてまたひとつ武勇伝が増えていくわけだ。それから何週間経っただろうか。天神を男4人と女2人でうろちょろしていると、この前、マクドナルドで喧嘩した相手のひとりが入っているグループと出くわした。後で分かったことだが、福岡でも結構ワルの多い学校で、相手はそこの2年だった。そして、その同級生らしき、この前いたメンバーとは違う連中が3人、数的には4対4だが、学年はひとつ上。高校生というのは1学年違うと、もうそれは大変な差があるわけだが、同じ学校でもないし関係ない。こちらは女連れ、万が一負けたときに、女に危害が及ぶとたまったものじゃない。女を帰そうとするがなかなか帰らず、後ろからトボトボついてくる。少し経って、女の方も心細くなったのか、なんとか帰ってくれた。それで天神のビルとビルの間の公園に着いて、さて1対1のタイマン勝負となった。向こうから、「誰が出て来るとや、一番強い奴は。そこのひょろっとしたお前、出て来いや」と俺が指差された。そして殴り合いが始まった。何発か殴り合ったところで、相手が倒れ、馬乗りになって2、3発どついたら、もう相手は交戦不能。そこで止めが入り、1回戦終了。次の奴らの順番かと思いきや、勝ち抜き戦だという。それでも仕方なく次の奴と取っ組み合っているところに、ビルから見ていたサラリーマンあたりが警察に通報したのか、警察が走ってやって来た。喧嘩している相手の4人は、素早く逃げたけど、俺たち4人は逃げ遅れて、警察に捕まった。
「お前ら、なにしとったとや」
と尋問され、学生服のポケットには煙草も入っとるし、ヤバイなと思いながら、
「喧嘩売られたんで買いました」
と応えた。すると、
「おおそうか、お前ら勝ったんか負けたんか」
「はい一応、勝ちました」
「まあ、そんならお前ら、恨みつらみはないんやな」
「はい、ありません」
「よし、ほんなら今日は帰っていい」
と、こんなやり取り。その警官も度量がいいというか、男前というか。そうして俺たちは、身体検査もされることなく難を逃れた。そして帰っている途中、さっき帰した彼女たちが待っていてくれたようで合流した。男が上がった瞬間だったかも知れない。その後、そのままいつものたまり場の喫茶店に行って、レモンスカッシュをオーダーした。ところで、俺はその頃、隣の看護学校に通うサチコという名前の女と付き合っていた。ちょっとそばかすのある美人だった。その頃、何人かから付き合ってと言い寄られていたのだが、言い寄る女たちを尻目に、俺はサチコに一目惚れして付き合うようになった。サチコは産婦人科でアルバイトをしながら、そこで寝泊りして学校に通っていた。夜な夜な、そこに遊びに行ったりもしていたのだが、同級生が3人いて、ひとりは年上のハコスカに乗った兄ちゃんと付き合っていた。もうひとりは、俺の中学のときの同級生と付き合っていた。ところが、その中学の同級生が遊びに行っているのが見つかり、それが原因で奴の彼女は高校を退学になってしまった。それで、サチコも心配になった様子で、このまま仁ちゃんと付き合っていると、遊びに来るなとも言えないし、退学になるのが怖い。でも私は看護師になりたい。だから別れてくれという。じゃあ、そんなに病院に遊びに行ったりしなきゃいいんじゃないかと、随分と言ったのだが、聞き入れてもらえなかった。そして、その代わり高校を卒業するまで誰とも付き合わないと、女だてらに仁義を通すような一方的な約束事も言った。もしかすると別れるいい口実だったのかも知れないなと、そのときは思った。しかし、高校卒業前に電話がかかってきて、その約束を果たしたという。そして、もう一度会うということになったのだが、どうにも予定が合わず会えず仕舞いになった。きっと縁がなかったのだろう。その日はむしゃくしゃしながら、なんで好き同士なのに別れなきゃいけないのか、釈然としない思いを「雨よ洗い流しておくれ」と願いながら帰った。

ピンクのスカジャン二人組 P30~

ナンパにもだいぶ慣れていた頃だった。天神を友達とぶらぶらしていると、ピンクのスタジャンを着た二人組、髪型は百恵ちゃんカット、もう後ろから見るだけで美人だと分かるような気配、きっとルックスも可愛いはず。ときどき外すことはあるんだが、まあ間違いはないだろう。5分くらい追って行って、チャンス到来。
「ねえ、彼女たちお茶飲みに行かない」
と声をかけ、彼女たちが振りむいた瞬間、我が目を疑った。なんと中学のときの同級生の二人組、それもアイドルの呼び声高い二人組だった。俺の友達はそんなこと知らないから、すごい乗り気でいろいろ声をかけるんだけど、俺はもう恥ずかしさ一杯で、ダッシュで逃げた。こんな気まずい経験は初めてだった。ローカルな話題をもうひとつ。福岡女子という高校に、山口百恵に似た超美人がいた。もうヤンキーの間でも一般高校生の間でも、愛称は百恵ちゃん。いつも見とれていた。女友達の友達だったので、ときどき遊びに行くのだが、話すことはできてもなかなか告白することはできなかった。結局、あれだけナンパには慣れていても、その彼女に告白することはできなかったな。それともうひとり。この子も美人だった。この子は高校の同級生で、工業高校だったのだが、同級生に5人の女の子がいた。建築科にひとり、印刷科にひとり、インテリア科に3人、そのインテリア科のひとりだが、もう見るからに天使。あの頃ちょうどアグネスラムが大流行りで、もう彼女に顔がそっくり、見るだけで癒されていた。しかし、彼女は残念ながら先輩の彼女。ああ、あれが先輩の彼女じゃなかったら、告白したんだろうか。彼女は後にその先輩と結婚した。なんともうらやましい。

テキヤでビジネスの基本を学ぶ P41~

それともうひとつ話しておきたいことがある。それは暴連坊のリーダー、総長勝也のことだ。勝也はその頃、ほんまもんのテキヤ、要はヤクザ屋さんが営んでいるテキヤのアルバイトをしていた。テキヤというものがどういうものか、高校1年のときなので、最初はよく分かっていなかった。露店でちょっと厳つい兄ちゃんがたこ焼き売ったり、鯛焼き売ったり、トウモロコシ売ったり、リンゴ飴を売ったりするのが、テキヤという商売だということ程度には知っていた。箱崎に事務所があって、面白いアルバイトがあるからせんかと勝也に声をかけられ、俺と友達何人かでそこにアルバイトに行くことになった。行って初めて気付いたことだが、仕切っているのは、ほんまもんのヤクザであり、それも日本最大級のヤクザ組織が仕切っていたのだった。志賀島や海の中道、貝塚の公園などに露店を構え、車で
店まで送ってもらい、露店をひとりで組み立てて、販売の用意をし、ひとりで揚げて、ひとりで売って、夕方、迎えに来るまでに片付けをする。夏休み、冬休み、春休みと、時間の空いているときは、ひたすらそれをやった。たまには県外に付いて行ったりすることもあった。大きい祭りでいうと、福岡の三大まつり、放 ほうじょうや 生会、山笠、どんたくなどでも店を構
える。1店舗で 10 万円も売上が上がることもある。高校1年のアルバイトとはいえ、その店の中では段取りや、どうやったら早くつくれるか、どうやったら早くお客さんをさばけるかを自分で考えた。たくさん売上があるとほめられ認められた。これが楽しかった。親分は白のキャデラックリンカーンに乗り、ときどき俺らバイトを連れて、飯を食いに連れて行ってくれる。親分の好物は、ちゃんぽんライス。つまり、ちゃんぽんと
白飯だ。どこに行っても白のキャデラックで乗り付けて、ちゃんぽんと飯を注文する。「お前ら好きなものを食え」と言われても、親分がちゃんぽんと飯しか頼まないのに、自分らが本当は食べたいステーキとか、かつ丼とかを注文するわけにもいかない。結局、いつも親分と食べに行くときは、ちゃんぽんライスになってしまう。それでも旨かった。親分には小学校3年の娘がいて、「仁ちゃん仁ちゃん」と良く懐かれて、親分から、もちろん冗談だが、「仁、お前、俺の後を継ぐか」と言われたこともある。「いや滅相もございません」と笑いながら断ったが、同時に背筋を冷や汗が流れるような緊張感を味わったことも覚えている。まあそれでもアルバイトというのは気楽なものだった。ただ中に入って見てみると、いろんなヤクザ社会の構図も見えてくる。ある組ではヤクザの息子というだけで威張
っていて、仕事もできないくせに、自分の失敗は弟分の責任にする。理不尽なわがままで弟分をいじめる。親分はキャデラックリンカーンだが、頭はガン垂れのクラウンだったりする。結局、ヤクザ社会も親分にならなきゃ意味がない。東映や日活の映画で、菅原文太や高倉健、小林旭という世界を観て、ある意味ヤクザの世界に憧れ、義理人情に憧れた世代であっただけに、現実を知らされて淡い期待を裏切られた。どうせなるなら違う道でトップをとろうと静かに心を熱くした。そういう意味では、この高校生のアルバイト、このテキヤのアルバイトがビジネスを学ぶ最初のきっかけにもなったし、裏社会を知るいい機会にもなった。テキヤの親分はよくこう言っていた。
「俺らは極道だけど、まっとうな品物を販売してまっとうに対価を得る、そういう商売をしている」
そして口癖は、
「頭がある者は頭を使え、頭のない者は身体を使え。頭も身体もない者は静かに去れ」
と、ほとんど口癖のように事あるごとに話していた。
あるときこんなことがあった。放生会のときに販売されるチャンポンというガラスでできたおもちゃがある。吹くとチャンポンという音がして、中に絵が描いてある。これに絵付けをして、テキヤで販売するのだ。ある組員がそれを任かされていたのだが、ちょうど俺たちがバイトでいるときに親分が入って来て、その組員に尋ねた。
「山本(仮名)、チャンポンはちゃんと仕上がっているか」
「はい、できていると思います」
この「できていると思います」が悪かった。親分が火が着いたように怒りだした。
「こら山本お前、できていると思いますちゃ何事じゃ。ちゃんと自分で検品せんか。そして、答えるときはできていますじゃ。お前そんなことじゃけぇ、いつまでも上に上がれんのじゃ。こら男同士の勝負や、チャカ持って来い」
背筋がぞっとするのを覚えた。でも、これが仕事に対する厳しさだと思った。できていると思いますではなくて、できていると答えなくてはいけなかったのだ。こういう経験というのは、頭で分かる域を越えて、俺の身体の芯に刻まれていったものだと、今になって思うことがある。

障害者の能力に応じた障害者雇用 P138~

日本の場合、障害者就労は0か100なのだ。簡単に言うと、まず、寝たきりの人が就労するというのは、今の段階では限りなく0に近いだろう。もちろん特殊な能力があって、ベッドの上で意思伝達装置などを駆使してパソコンを操作し、健常者でもできないような仕事をするという人もいないではない。かのホーキング博士などは、そういう特殊な能力のある人と言えよう。彼は身体を動かすことはほとんどできないが、頭脳という武器で、誰もなし得ないような宇宙の謎に挑んでいる。日本の就労の場合は、最低賃金が決められ、そして勤務時間も決められ、それに当てはまらないものは就労とは見なされない。だからよく言われる作業所というのは、あくまでも福祉的就労と呼ばれ、一般就労とは一線を画しているわけだ。1日に8時間、週に5日働こうが、一般就労でない以上、最低賃金をクリアする必要はなく、作業所の工賃の全国水準は5千円から1万5千円くらいだろう。この0と100というのが問題で、例えば健常者の 80 %の作業能力がある人が就職をしたいと思っても、企業としては100%でないわけだから雇用するのを躊躇するわけだ。だからそういう人は福祉工場や作業所でしか仕事をすることができない。この 20 %の差がすごく大きい。これを例えば、ドイツの保護雇用制度のように、働ける分だけ働いて、働けない部分は保護雇用制度で、まあ言わば障害年金のような形で、年金で払うようにすればもっと就労のチャンスは広がると思う。例えば、ざっくり言うと、生活保護が 15 万円くらいだと仮定する。この場合に障害年金の1級であれば、8万円程度の年金が出る。つまり、あと7万円あれば最低限の生活が送れるわけだ。この7万円がないために療護施設や訓練施設から出られないという障害者も多い。例えば企業が一般的な給料を 15 万円支払っているとする。その半分の仕事ができる人に7万円払いますよということができるようにすれば、健常者の50 %しか仕事ができない人も年金と合わせることによって、 15 万円の収入を得ることができる。 15 万円の健常者の収入に対して 20 %しか仕事ができない人は、3万円の収入を得る。そしてその代わりに、年金を 12 万円にする。もちろん、生活保護と同じ年金であれば、就労意欲がわかないというのであれば、これを 17 万円と考えて計算してもいいと思う。要は働ける分だけを会社から報酬としてもらえるようにする。そうすれば働く障害者も自分の能力にあった仕事量をこなせばいいし、企業も能力以上の報酬を払う必要はない。法定雇用率というのがあって、一定の従業員がいる会社(従業員 50 人以上の会社)は、全従業員の2%の障害者を雇用しなければならない。だから特例子会社をつくって、無理やりそこに障害者を集めてみたり、100%の能力がなくても、企業イメージを壊すことを嫌って就労させる。しかし働く障害者も自分がそれだけ稼いでいないことが分かっているので、やりがいがなくなったり、企業としても利益に繋がらない従業員を置いておくことでギクシャクしたりする。日本でも保護雇用制度を導入して、仕事の能力に対する対価を払うような制度があってもよいと思う。

西日本新聞

読者の感想

I氏 筋ジストロフィー障害者男性

「車椅子の暴れん坊」電子書籍 を拝読しました。
大変読み応えのある内容で感銘を受けました。

ありがとうございます!
ヤンキーって、やんちゃなキッズの短縮系なのですよね?

実は、八歳で施設へ入ったため、世間知らずだったので、厳しい世の中をたくましく生き抜くヤンキーに憧れてました。
一般校から養護学校へ赴任してきた担任がやんちゃな子が好きだったらしく、いつの間にか勉強するようになると有名だったそうです。

養護学校は目標のない生徒ばかり。特にぼくはネクラな変わり者。勉強の意義がわからず、先生を手こずらせ、匙を投げられましたw

やはり、米倉さんの場合はヤンキー時代、自衛隊時代、専門学校時代の過酷な環境がガッツと粘り強さを培ったのでしょうね。テキ屋のエピソードも大好きです。

また事故後のリハビリや後遺症が固定してからの活躍には、勇気付けられました。故郷が奄美大島なのですが、帰郷して自分なりに奄美のために頑張りたいとの想いを強くしました。

ユニバーサルデザインという言葉を知ってはいましたが、実際に商店をリフォームしたり、共同アパートやマンションを造ってゆく過程に眼から何枚も鱗が落ちました。

重度障害者だからこそ、食い込んでいける仕事のイメージも湧いてきました。
最後に、病発症後から自分の性質が変わった氣がしてました。施設時代に植え付けられた悲観的な考え方に苦しんできましたが、ILPやピアカウンセリングと共に、努力すれば楽観的な生き方ができるという手応えを感じる一冊になりました。

本当にありがとうございます!

衆議院議員 岩屋たけし氏

完読しました。この本は実に名著だと思いましたねぇ。。
別府市の??ヘルプメイトグループ社長の米倉仁さんの著。

ヤンキー暴走族を経て自衛隊、そして事故を起こして車椅子の生活へ。しかし、そこから障がい者を支援するための会社を起こし、さらにはNPOをも設立し、今はユニバーサル社会の創設に邁進する日々。。
感服するばかりです。

特に後半の提言には多くを教えられます。
本の最後に掲載されている「俺の格言集」の中の最初の言葉をご紹介しましょう。「最大の幸福、最高の力は、現実を受け入れることである」。

NOAS FM パーソナリティー チョップ イチロットン

『車いすの暴れん坊』を読了した。

この本は2年ほど前に知り合いとなった米倉 仁さんという社長がお書きになられた本で、過去2、3度お会いさせて頂いているものの、まあ、僕自身、元来人見知りが激しい性格ゆえに、あまり深くはお話しをしたわけでもないが、facebookその他、共通の友達からはいろいろとその人柄や人物像については聞いていて、さらにその、特に「生き方」の部分について、僕的にはとても共感するところも多く、尚この度、氏が本を出版されたと知って、本好きの僕としてはどうしても読んでみたく、また、それなら絶対にご本人の手から直接購入したいと考え、先日、失礼ながらアポも取らず急に訪ねて行き、そして、それを手に入れた次第。

二度読んだ。
一気に二度読んだ。

ご存知のとおり、僕は映画は二回以上観てからでないと感想は語らない主義であり、もちろんそれは本に関してもまたしかりだ。
そして、ここに書くのはレビューや書評などでは決してない。

何故なら、僕自身、そのようなものを書けるような身分でもなければ、ましてや知り合いの、もっと言うなら人生の大先輩が書かれた、それはあくまでも“自叙伝”だからだ。

しかし、僕とて物作りの端くれ。

例えば、創作物やフィクションに関しては一言や二言、いや、もはやうるさいくらいの自論を展開する人間ではあるが、こと自叙伝、もしくはドキュメント物の内容に関しては、そこに僕の意見や考え方を挟む余地はないと思っている。
よって、以下は少しだけ内容の紹介と、あとは僕の個人的な“本自体”に対する、あくまでも感想を書いてみようと思う。
ズバリ言って、すごく良い本である。

装丁も素晴らしいし、中にある挿絵もまた、僕の知り合いの尊敬するイラストレーターの方が描かれていたりもする。
そして、内容だが、これまた名著と言っていいだろう。

誤解を恐れずに言うなら、「ポジティブシンキング」という言葉は、まさにこの本のためにあってもいいと言える。
“物語”は福岡に生を受けてから現在大分で会社を経営するまでの主人公(作者)の人生が章立てで綴られている。

前半は地元で札付きのワルだった氏の武勇伝ほかが、その時代背景と共に詳細に語られ、その後の自衛隊への入隊、“社長になるべく”通った専門学校の過酷な日々、土建会社への就職、そして交通事故……

その時々で主人公は幾多の壁にぶち当たる。
しかしながら、氏はそのつど決してめげない。

どころか、持ち前の楽天気質も相まって、そのエピソードはどれも明るい。
もちろん、そこには多くの葛藤や、人知れず泣いた日々もあっただろう。

がしかし、本書には、そこはあくまでも行間に漂わせるだけにとどめ、文中にあるのは本当に前向きな主人公の己を信じて突き進む姿と、その周りの豊かな人間関係、または至極リアルな日常が赤裸々に描かれている。

さらに、中盤、事故からの入院、手術、半身不随、リハビリ。
どれもが想像を絶するような体験の中、それでも尚、主人公は弱音を吐かない。

むしろ、看護師さん他とのやり取りを面白おかしく描写してみせる。
そう、そこには常にどんな状況下にあってもユーモアを忘れないという氏の志しがあるからだ。

そして後半、主人公は起業を思い立つ。
そこには自身の状況をすべて把握し、受け入れた上での決心が漲る。

氏にしかわからない、氏だからこそできることを社会に向けて強烈なアピールと共に発信する。
迷いはない。

何故なら、すべては必然、運命だと捉えた男の覚悟がそこにあるからだ……
この本の根底にあるのは「思い」だ。

もちろん、そこには行動あってこそ、行動も伴ってこそともいえるが。
例えば、やりたいことが何もない、やりたいことが見つからないという人には、是非ともこの本を読んでもらいたい。

まずは見つける。
そして、思う。

思いは行動に直結する。
幸い、僕自身はやりたいことだらけで、尚且つ「思い」に関しては人一倍執着がある方なので……

がしかし、そんな僕でもこの本を読んだあとには少なからず、いま一度奮い立った。
僕は、身近な人間で本を出版した人を自分以外に知らなかった。

そして、たいへん恐縮ではあるが、今ここで同士に出逢った気分だ。
尚、一つ、一つだけ内容について僕なりの欲を言わせて頂くなら、僕はもう少しだけ作者の、というか氏の「弱い部分」が書かれていたらなぁ、そこを知りたかったなぁ、と思った次第。

いや、もちろん、ご本人はとても強い方なので、本当にそのような部分はあまりないのかもしれないが……
まあ、そういった意味では同時に、「不良フェチ」の僕にとって、まさにこの本はたまらない一冊なのである。

最後に本書巻末「俺の格言集」より、この言葉を引用させて頂く。
「人生は成りたい自分を演じることから始める。演じてることがやがて自分の人生になる。だからどんな人生も自分で創れる」
まさに、「思い」である。

マスコミ出演

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