花心 エッセイ
2021年 6月

ー 蛍の香り ー
赤岩保元

ー 麦秋-東歌 ー
にし みどり

〈赤岩保元〉

ー 蛍の香り ー


蛍火透簾 大内政弘

ともす火は程なく消えてこすのとに
蛍みだるる風ぞすずしき


「画像の文字表記」
止毛寸火波程奈久消衣天己寸乃止仁
蛍美太留留風曾寸寸之幾
蛍火透簾  大内政弘 保元書
クリックしてご覧ください)

(訳)
灯火の消えた暗い部屋から、
小簾の戸を透(とう)して庭が見える。
蛍が乱れ飛んでいる。
涼やかな風が、
項(うなじ)を通り抜ける。

こすのと=小簾の戸。簾で作られた戸。

(エッセイ)
政弘公の館には、多分、大きな池や遣り水(庭園に水を導き入れて流れるようにしたもの)があったのではないだろうか。
室内に居ながらにして、多分、酒でも飲みながら、蛍見物。贅沢。

古今、蛍を題材にした文学作品は数多い。*和泉式部の和歌、源氏物語(蛍の巻)、*室町時代の歌謡集{閑吟集」、*わらべ歌、*斎藤茂吉の短歌等々。
闇の中で光り、水辺を浮游する姿に魅せられるのだろう。
そして、江戸時代の与謝蕪村の発句がある。「蕪村俳句集 夏之部」に、二句並んで載っている。

狩衣の袖のうら這ふほたる哉

一書生の閑窓に書す
学問は尻からぬけるほたる哉

狩衣の〜は、「源氏物語 蛍の巻」を踏まえている。
光源氏が薄衣に包んだ沢山の蛍を放ち、その光で玉鬘の横顔を、
蛍兵部卿宮に見せた話。

学問は〜、中国の古典的教科書「蒙求(もうぎゅう)」を踏まえている。著者は李瀚(りかん?) 成立は8世紀前半と考えられている。「蛍雪の功」や「漱石枕流」などの故事が、この書に見える。「蛍雪の功」は、「蛍の光、窓の雪、書(ふみ)読む月日〜」の唱歌、「漱石枕流」は、夏目漱石のペンネームで知られています。「自分の誤りを認めずに、負け惜しみから理屈の通らない言い逃れをすること」を意味しているそうです。

さて、学問は尻からぬけるほたる哉。二通りの意味が考えられそうです。
1.もっとしっかり学問に励みなさいと、叱咤激励する句。
2.学問は忘れていくものさ。忘れたら又覚えれば良い。又忘れたら、又覚えれば良い。
私は迷うこと無く、2.を選びます。

*和泉式部の和歌(後拾遺1162番)
男に忘られて侍りける頃、貴船にまゐりて、御手洗川にほたるの飛び侍りけるを見て詠める
もの思へば沢の蛍も我が身より
あくがれいづる 魂(たま)かとぞみる

*「閑吟集52番」
我が恋は  水に燃えたつ蛍々  物言はで笑止の蛍
笑止=気の毒な 痛ましい

*わらべ歌
ほ ほ ほたるこい
あっちのみずは にがいぞ
こっちのみずは あまいぞ

*斎藤茂吉の短歌。歌集「赤光」より。
悲報来

ひた走るわが道暗ししんしんと怺(こら)へかねたるわが道くらし

ほのぼのとおのれ光りてながれたる螢を殺すわが道くらし

すべなきか螢をころす手のひらに光つぶれてせんすべはなし

氷室より氷をいだす幾人かわが走る時ものを云はざりしかも

七月三十日信濃上諏訪に滯在し、一湯浴びて寢ようと湯壺に浸
つてゐた時、左千夫先生死んだといふ電報を受取つた。予は直
ちに高木なる島木赤彦宅へ走る。夜は十二時を過ぎてゐた。


大内政弘 文安3年(1446年)-明応4年(1495年)
室町時代の守護大名。応仁の乱には西軍側の主力として、
参戦する。文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる
基礎を築く。
私家集は「拾塵和歌集」。

資料
『拾塵和歌集』国歌大観 角川書店
『古語大辞典』小学館
『蕪村俳句集』岩波文庫

画像:
「蛍」 
和紙(三椏):44.5×34センチ 山口市徳地和紙 千々松和紙工房
ベネチアングラスの棒


文章と作品:赤岩保元

〈にし みどり〉

ー 麦秋-東歌 ー


くへ越しに麦食(は)む小馬のはつはつに

相見し子らしあやに愛(かな)しも

『万葉集』 東歌14:3537



訳)柵越しに首を伸ばしてはつはつと音を立てて子馬がちょっぴり麦を食べるように、ほんのちょっと逢っただけのあの子のこと、大好きなんだ。


 五月下旬から六月頃、麦の穂が黄金色に成熟する季節を「麦の秋」という。古代の東国は馬の有力な産地であった。馬は四月頃生まれるものが多いから、麦が実る頃はまだまだ乳離れもしていないのに、母馬の真似をして柵の間から一生懸命首を伸ばして麦をかじっている様子を、歌の作者は身近に見ているのだろう。「はつに」は「わずかに」という意味だから、大好きになってしまったその子とは、ほんのちょっと逢っただけなのだ。
 馬が乾燥した穀類を食べるときなど、器用によく動く上唇ですくうようにするから「はつはつ」「ぱくぱく」と音がする。美しく色づいた麦畑に、かわいらしい子馬のしぐさと好きになった女の子の姿も重なって、なんとも魅力的な東歌(あづまうた)だ。

 東歌は万葉集全20巻4516首のうち、巻14にある東国12ヵ国の短歌230首あまりのことで、民間の作者不明の歌ばかりが、すべて漢字の音をとって表記されているので、方言もそのままで生活感があふれる歌が多い。1200年以上も前の地方に生きた人々が歌っていたものを、おそらく中央から派遣された国司らが集めたものがまとめられたのだろうが、よくも現代まで伝えられたものだと、そのことにも感動してしまう。

 私の特に好きな東歌のいくつかをご紹介しよう。

  多摩川にさらす手作りさらさらに
  なにぞこの子のここだ愛(かな)しき (3373)

 武蔵国の多摩川近くには調布、砧(きぬた)といった地名が残るように、麻を栽培して織った布がこのあたりの主要な調(古代の税の一種)であった。麻は布に織ってから水に晒すと白さが増し、布が生乾きのうちに、砧という木槌のような道具でたたくと柔らかくなる。麻の茎を細い糸に紡ぐまでも大変な労働だが、紡いだ麻糸から布を織り、水に晒し、砧で打つのは一般に女性の仕事であったようだ。
 この歌も「さらさらに」はさらにさらに何度も麻布をさらす様子であり、冷たい川の流れに足を浸しながら布をさらす音も聞こえてくるようだ。女達が集まって厳しい労働に励むときに、皆で歌った労働歌だろうとも言われる。

 麻は春に種を蒔くと夏の間に背丈を有に超すまでに成長する。稲刈りの前までに麻を束ねて根こそぎ引き抜くのは男達の仕事であったようだ。

  上つ毛野(けの)安蘇(あそ)のま麻(そ)むらかき抱(むだ)き
  寝(ぬ)れど飽かぬをあどか吾(あ)がせむ (3404)

 「かみつけの」は時代が下ると「かみつけ(上野)」と呼ばれた今の群馬県、その「あそ」という地域の歌で、麻の収穫は、何本もの麻をまとめて抱くようにして、力を込めて根こそぎ抜くのだが、そのかき抱く様子を妻を抱く様子に重ねている。
 どんなに力強く抱いて寝ても足りない気持ちをどうしよう....この歌を男達が歌ったのか女達が歌ったのかは不明だ。

  稲つけばかかる我が手を今夜(こよひ)もか
  殿の若子(わくご)が取りて嘆かむ (3459)

 刈り取った稲を木の臼に入れて太い棒のような杵で(月の兎のように)搗いて脱穀する女達の労働歌だろう。お屋敷の若様が、すっかり荒れてごつごつした手をとって「ああ、こんなになってしまったね」と優しく慰めてくださるだろうと、こんな玉の輿はあり得ないと知りながら、かすかな期待を秘めて、皆で笑いながら杵を搗くのだ。

  信濃なる千曲の川の小石(さざれし)も
  君し踏みてば  玉と拾はむ (3400)

 憧れの人が通った信濃の千曲川の小石も、あの人が踏んだ石なら宝石のように特別な石、拾って大切にとっておきましょうと歌ったのは、まだうら若い女性であっただろうか。

  駿河の海 おし辺(へ)に生(お)ふる浜つづら
  汝(いまし)を頼み母にたがひぬ (3359)

 駿河湾の浜辺に生えている「浜つづら」はつる草で、長く延びて強い。あなたとのことは、これからずっとずっと続くと信じて身を任せたの、お母さんに背いてしまったけれど。

 東歌は特定の誰かが詠んだ歌というより、地方で皆が口ずさむ歌が集められただろうから、なおさら共感を呼ぶ歌が多い。平安時代以降に作られる勅撰和歌集などとは違う『万葉集』ならでの魅力である。


文章と写真 : にし みどり