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榎屋 花心
2022年 12月 営業を終了しました。
花心 エッセイ
2023年 1月

ー 旅立の香り ー
赤岩保元

ー 惜別 ー
西みどり

<赤岩保元>

「旅立の香り」

作品画像

春幻童子

第一受用具
頭巾 手拭 鼻紙
扇子 銭 手鞠
ハチキ

第二随身具
笠 脚絆 カフカケ
上手巾 下手巾 杖
掛絡

第三行履物
著物 桐油 鉢嚢

右出立之砌可讀之
於不然至不自由者也

・「橘屋(良寛の生家)過去帳」より
・良寛備忘録

(訳)
いつでも旅に出られるように、備忘録を書いておく。
春幻童子は、ちびた筆で携帯するものを、書く。
忘れ物はないだろうか。

右、出立の砌(みぎり)、これを読むべし。
然らざるに於いては、不自由するに至るものなり。

あとは、この備忘録を書いたことを忘れないことだ。

(注)
ハチキ:お弾き(おはじき)
カフカケ:甲掛、手足の甲に当てる布製の旅装具。
上手巾(うわしゅきん):現在の兵児帯の類。僧、尼が衣の上から巻いて、前で結んだ。
下手巾(しもしゅきん):ふんどし
掛絡(から):禅宗・浄土宗の僧が、両肩を通して胸間の掛けて用いる小さな方形の袈裟。
行履(あんり):禅宗で、日常一切の行為。
桐油(きりあぶら):アブラギリ類の種子から得る油脂。江戸時代には燈火油に用いられた。
嚢(のう):とじ口のある布製の袋

(エッセイ)
早いもので、「十二ヶ月の香りへの旅」を書き始めてから22年が経ちました。
この2023年1月で、終了と致します。
長い間お付き合い頂き、有り難く、御礼申し上げます。

花心、大内三四子社長は、
2022年クリスマス早朝、銀河に旅立ちました。
今ごろは、銀河で遊泳中です。

2023年が、皆様にとって良い年でありますように。

良寛
1758〜1831年。江戸時代後期の僧侶、歌人、漢詩人、書家。

資料
『書道藝術 二十巻 良寛』中央公論社
『アトリエ臨時増刊 第十八巻 良寛遺墨』アトリエ社
『新修漢和大字典』博文館
『古語大辞典』小学館

画像:
「春幻」 
キャンバス(SM判 22.7×15.8センチ) 
アクリル絵具 透明水彩




 ご意見、ご感想など御座いましたら、下記のアドレスまでお送り下さると、嬉しく思います。
akaiwa@red.email.ne.jp

〈にし みどり〉

惜別

男子(をのこ)名は古日(ふるひ)に恋ふる歌」
若ければ道行き知らじ賄(まひ)はせむ
したへの使(つかひ)負(お)ひて通らせ
——『万葉集』5:905 ——  

訳)この子はまだ幼いのです。あの世への道も知りません。御礼はいたしますから、どうぞあの世からの使いのお方よ、この子をおぶって連れて行ってやって下さい。

  古日という男の子が死んでしまったときの長歌につけた反歌で、山上憶良の作とされている。この歌を詠んだとき、憶良は筑前守で七十歳を超えていたと考えられ、そんなに幼い子がいたのかということで、古日が億良自身の子なのか、古日という子を亡くした知人がいて、この歌はその人のために憶良が作った代作かということで説が分かれている。
 憶良が筑前国にいた頃、大伴旅人が太宰府の長官として赴任してきた。旅人は都から妻を伴ってきたが、太宰府に到着して間もなく、旅人の妻は亡くなってしまった。その時も憶良は旅人になりかわって妻への挽歌を作ったほどだから、古日を恋ふる歌も代作であって不思議はない。憶良の部下か、親しくしていた男がいて、子煩悩な男から古日という名も、日頃の様子も、憶良は聞き知っていたのだろう。

 長歌には古日の様子を「明星(あかほし)の  明くる朝(あした)は  敷栲(しきたへ)の 床の辺(ヘ)去らず  立てれども  居れども  ともに戯れ  夕星(ゆふづつ)の 夕(ゆふべ)になれば  いざ寝よと  手を携はり  父母も  うへはなさがり さきくさの  中にを寝むと・・・」とある。
 明けの明星が輝く夜明けになれば寝床の私たちにまとわりついて、立っていても座っていても一緒に戯れ、宵の明星が出る夕刻になれば、さあ寝ようと手を引いて「父さんも母さんも、そばを離れないでね。三枝(さきくさ)のように川の字になって、僕は真ん中に寝ようっと」とかわいらしく古日は甘えるのだった。古日の父親がかわいくてたまらない様子で話すのを、憶良は毎日のように聞いていたのだろう。あどけない古日の死は憶良にとっても他人事とは思えなかったにちがいない。

 長歌の続きには、病気になって日に日に衰える古日を前に「天つ神  仰ぎ祈(こ)ひ祷(の)み  国つ神  伏して額(ぬか)つき」と、天の神々を振り仰いで祈り、地上の神々にはひれ伏して祈る父親の様子が詠まれている。しかし、祈りの甲斐なく「立ち躍(をど)り  足すり叫び  伏し仰ぎ  胸打ち嘆き 手に持てる  我が子飛ばしつ  世間(よのなか)の道」躍り上がり足ずりして叫び、伏したり仰いだりしては胸を打って嘆き、掌中の我が子の魂をあの世に飛ばしてしまった、と嘆くのだ。憶良は、祈りや努力ではいかんともし難いのが「世間(よのなか)の道」、運命であると思い知ったのである。

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 昨年末、香の舗「花心」を一人で経営してきた大内三四子さんが亡くなられました。おそらく大内さん自身、全く予期することもなく突然のことで、「花心」は経営者を失い、閉店することとなりました。お正月早々、私が上記の長短歌をとりあげたのも、そのような理由からでした。

 大内さんからの依頼があって、私は2004年4月から「花心」で『古事記』の講座を始め、2006年からはホームページに毎月エッセイを掲載してきましたが、それも今回をもって終了します。「花心」での講座は『古事記』を一通り読んだ後、受講生の方達のご希望があり、『万葉集』を教えて今に到ります。「花心」の講座とエッセイは月に一回でしたから、講座はざっと230回、エッセイはざっと200編書いたことになります。特にエッセイは私の専門とする古代から題材を探すため、最近では新しい材料に事欠いて、四苦八苦でした。ともかく教えること、文章を書くこと、いずれも「花心」が私の出発点でした。

 私は四十歳を過ぎてから学士入学で学生に戻り、日本古代史を学び、大学院で修士課程を修了した段階で上代文学の教室に転向しました。その時の恩師が隠退なさるときに引き継いだのがNHKカルチャーの万葉集講座でした。「私は歴史学出身だから」とためらう私に、恩師は「学ぶより教えろ」と励まして下さり、今は『万葉集』のほかに日本古代史をベースにした講座をいくつか続けています。歴史学と文学の二股をかけた私は、どちらからも異端ですが、どちらも学ぶことで、実際に生活し喜怒哀楽があり、時には冗談を言ったりもする人々が歴史を刻んできたことを感じることは、私にとっては喜びであり、楽しいことなので、「花心」以外の講座は続けていく所存です。

 「花心」のホームページに掲載されるエッセイを、いったい何人の方に読んでいただいたかは全くわかりません。ですから私からのお別れの言葉もどなたに伝わるのか不明ですが、長年、拙い文章をお読み下さった方がいらっしゃるとすれば、ここに深く御礼申し上げます。おそらく「花心」のホームページも近々閉じられることになるはずです。もし今までのエッセイをお読み下さった方からご意見やご感想をいただける場合は、私個人の下記のアドレスにメールでお寄せ下さい。大変うれしく思います。

 新年と共に明るい未来が開けますように、皆様のご多幸を祈ります。さようなら。

西 緑
midogram@icloud.com