なら誰でも簡単にホームページが始められます。 今すぐ試してみる 簡単にホームページ作成

Palolo Hongwanji

1641 Palolo Ave. Honolulu HI 96816


「ハワイのお坊さんより」
と題して、

朝日新聞デジタルの論座に寄稿文の掲載が始まりました。

どうぞお読みください。

読後の感想なども頂けましたら幸いです。


連載記事はこちら

 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 

ハワイのお坊さんより

Web論座・ハワイのお坊さんより

worradirek/Shutterstock.com



https://webronza.asahi.com/national/articles/2021012800008.html

 

【第一回】  2021年01月31日

コロナがこの世に出現したわけ~仏教からの視点

自己とは何ぞや? ~皆で大物に成ろうよ~

藤森宣明 ハワイ・ホノルル・パロロ本願寺開教使

--------------------- 

自己を問うて
 「自分とは何か?」 こんな問いをもったこと、ありますか?

 コロナがこの世に出現した理由を考えると、私は、この問いの答えを明確にせよと言いたいがために我々人間界の前に現れてきたのでないかと、このごろ本気で思うようになってきました。

 「おまえな、哲学者にでも、なったような気になってるんでないのか?」って言われそうですね。はい、皆さん、この際だから、一緒に哲学者になりましょうよ。私は、本気でそう思っているのです。

 そういえば、昔、ウイスキーの宣伝で、「ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか、ニ・ニ・ニーチェかサルトルか、みんな悩んで大きくなった、大きいわァ大物よォ、おれもおまえも大物だァ」と歌われていたのはご存じですか? 

 ソクラテスさんは「汝自らを知れ」といいました。そう今回は、悩みながらこの問い「自己とは何か」を解明してみましょう。一人だけ大物になるのでなくて、あなたもこの私も大物になって、コロナウイルスの前に「自己とは○○だ」と答えを持って、みてもらおうではありませんか。

自己懐疑
 この歌のCMがはやったのは1976年だそうです。偶然ですが、今から振り返ると、私が自己発見に大きな転機となる経験をしたのはそのころでした。

 私は1958年、高度経済成長のまっただ中の日本に生まれました。小学校の時にはテレビが入り、大きなステレオ、冷蔵庫など、どんどん、どんどん便利なものが出現してきて、これらのものを追い求めて、それらを持てることが幸せな自分なのだと信じて生きていました。

 そんな自分ですが、この歌の流行った19歳のころ、インドへ放浪の旅にでたのです。この放浪の旅が自己を問う私の転機となりました。

 インドには、物があまりありませんでした。旅の最初、どうやって時間をつぶそうかと毎日考えていました。ガンジス川で有名な街ベナレスに滞在した時のことですが、そこでの時間が「自分とは何か」を考えるきっかけをくれました。



 ガンジス川の麓では、死を待つ老人が多く目に入りました。葬儀はいたるところでやっており、死体が目の前で焼かれて、家族が泣き崩れていました。その川には、動物や人間らしい死体も流れていて、その横で普通に沐浴し、洗いものをしている人の姿が何度も目に入ってきました。大変ショックでしたが、私は、その光景に吸い込まれて、一泊1~2ドルの安宿に泊まり、毎日、ホテルとガンジス川を往来していました。

 その安宿には、ヤモリがたくさんいました。私が生まれ育った北海道にはヤモリはおりません。恐ろしく感じて、日本からもってきた殺虫剤をヤモリにふりかけ、次から次へと殺したのです。翌朝のことですが、私の顔は腫れあがっていました。蚊に大量に刺されたのです。ああ、ヤモリは蚊を食べてくれていたんだ、ヤモリがいる理由がそれなりにあったんだ、と知らされたのです。

 私は、物にふりまわされている自分を発見し、それでいいのかと自問しました。いつまでも好きなように生きられる自分と思って生きてきてた私に、ガンジス川が死を目の当たりにさせ、そう問いかけたのです。そして、ホテルでのヤモリ殺しによって、自分、人間が一番えらいと思って生きてきた自己中心性が問われだしました。インド放浪によって、私は自己懐疑へと投げ出されたのです。

 

 

日本人としての自己を浮き彫りにされて                                                                                                                                                         

 もう一つ、自己を問われた出来事がありました。皆さんは、日本人としての自己を浮き彫りにされた経験がありますか? 

 ちょうど日本がバブル期を通りすきだ1994年のことです。私は、東北タイのドンヤンという森にいきました。森には大木が繁っていて、日本企業がそこから木材を買っていました。そこに住むプラチャックというお坊さんから学ぶために、私は、その森にいきました。

  

 プラチャック氏は、元ギャンブラーで、借金の取り立てにいったときに銃で撃たれたのですが、生き残ったので出家したという、元ヤクザのような面白い経歴を持ち、そして、森にある大木に、黄色い衣を着せて、他のお坊さんや村人たちと共に、樹の前で、お経を読んで樹に出家させるお坊さんとして有名でした。

 しかし、タイ政府は、商業林を売ると経済的に潤うので、そんなプラチャック氏を何度も逮捕しようと試みていました。

 私が驚かされたことの一つには、プラチャック氏は、お経に書いていることを頭で理解するのでなく、身体を通して読むお坊さんだったことです。プラチャック氏は小学校しかでていません。「お経は単に頭だけで読むのではない。虫や樹々と共に救われると経典は説いているだろう」と私に言いました。森の中にいて、実際に樹や虫と共に生きる生き方を教えてくれたのです。

 たとえば、寝る前に一人用のテントを張るのですが、その前に、テントを張る場所を入念にたたいて、虫さんに、これからここで寝ますので、ちょと場所をあけてもらうようにお願いすることを教えてもらいました。

 私は、自分の背中に、そして両手に、自分の私物ばかりを持って歩いていたのですが、プラチャック氏にその在り方を問われました。「あなたは、両手をすべて自分のために使っているだろう。片手を空っぽにしてごらん。そしたら、他の人、生きとし生けるもののために、一つ手を使えるだろう。手は常に空っぽにしておかないと」と言われました。

 日本では、日本の仏教者は大乗仏教で、東南アジアの仏教は小乗仏教だと習っていました。大乗仏教とは、他と共に救われることを使命としている教えです。しかし、日本で頭で習ったこととは正反対に手をふさいでいた私は、自分のためにだけ生きている。しかし、プラチャック氏は、他の人、人間ばかりでなくて、生きとし生けるもの、木々と共に救われようとして実際に生きていました。この体験で、私は日本人として、仏教者としての自己を問われたのです。

生まれたままの自己を問う

 アメリカは、哲学や思想が不毛な国と言われます。実際、コロナの出現でハワイ大学は財政が厳しくなり、カットする候補にあがっているのが、思想や平和などの施設です。今、宗教学部を廃止する話が出始めています。平和を創る学生や地域の人達を育ててきた、ハワイ大学にあるマツナガ平和インスティチュートも廃止の対象にあがっています。

 コロナ出現は、この方向を望んでいるのでしょうか? もちろん科学的根拠を引き出すための科学は大切です。科学的根拠まで無視して政治をすすめたアメリカ大統領もいました。でも、困難の中で、生きる根拠を、生きる力を、生きる方向を世に示して貢献できるのものこそ、思想、哲学、宗教、文学なのではないでしょうか?

 我々が生きている今、危機意識をあらわにして、国連事務総長は「人類は、自然に対して戦争をしかけています」と訴えます。「自然との平和」を取り戻すため、平和を想像する教育はとても大切です。コロナは、コロナとの平和関係の構築を望んでいるのではないでしょうか?

 思想不毛の地と言われるアメリカですが、ウイリアム・ジェームスという哲学者が出ています。彼は、人間は二度生まれる。それは、「生まれ落ちたままの人〈once-born〉」と「生まれ変わる人〈twice-born〉」に分けられると言います。

 彼の哲学で考えると、私はインドでの体験、タイでのプラチャック氏との出会いを通じて、「生まれ落ちたまま」であったことを問われたのです。自己を疑い、「生まれ変わる」自己をみいだしなさいと言われたように感じたのです。

 コロナに「自己とはなんぞや」と問われ、その答えとして、私がインド放浪以前、タイでの体験以前の「生まれ落ちたまま」の自己を提示したら、「そんな答えではダメだ」と言われるでしょう。みなさんはどうですか? 生まれたままですか? それとも、生まれ変わった自己として生きてますか?

仏教の示唆する自己道をならふといふは

 仏教で自己というと、お釈迦様は「縁起」という教えに目覚めました。しかし、お釈迦さんが目覚めたこととは異なって、一般に私たちは、この「縁起」を、何か嫌なものに出くわしたら「縁起」が悪い、良い事が起こった場合は「縁起」がいい、というように使います。

 この使い方でいえば、コロナに出くわした私たちは「縁起」が悪いということになります。「福は内、コロナは外」なんてやってるのも、こんなとらえ方ですよね。はたして、コロナは、私たちに「縁起」を悪くさせたくて、出てきたんでしょうかね?

 私は、そうではないと確信します。きっと、お釈迦さんが目覚めた「縁起」の教えを理解しなさい、とコロナは言いたいのだと思います。

 では、仏教のいう本当の意味の「縁起」とは、何か?

 自分というものは、さまざまな「縁」に依って、私なる自己は「起」こっている=成り立っている、と言っているのです。もう少しいえば、親の縁、ご先祖の縁、いつも頂いている動物さんたちの命の縁、野菜さんたちの命をいただいている縁によって、自己なる私は、成立している。樹々の縁がなければ、私、人間は、生きていけない。自分は、自分で生きているのでなくて、いろいろな命の支えによって生きているのだ、目にみえないバクテリアさん、ウイルスさん、地球上にいるものが支えとなって生きている命なんだ、と。

 簡単に言えば、私どもが、よく使う、「おかげさま」ということであります。

  

 この「縁起」の教えは、日蓮、法然、栄西、道元、空海、最澄、親鸞など、どの宗派の祖師も共通して同じように理解されています。

 たとえば、道元は「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己を忘るるなり。自己を忘るというは、万物に証せらるるなり」と言っています。仏教は、自己を見出すことだ、自分を主張して自分と言っているけど自分を忘れなさい、といいます。そして、自分というのは、よろずの物、いろいろな命から成り立っているものだと教えてくれます。すなわち、仏教は、きわめて狭い個人の人間中心の命(生まれ落ちたままのいのち)ではなく、大きなサイクルのつながりを生きるいのち(生まれ変わったいのち)なんだ、他の生きとし生けるもの、バクテリア、ウイルス、木々等とつながって生きているいのちが本当の自己だ、と言っているのでしょう。

 コロナに、これら仏教のいう答えをもっていくと、きっと「そうだ、いいね。目覚めだしたか」と言ってくれるのではないでしょうか。

次は→生まれ変わる自己

生まれ変わる自己

 上記のように自己とは、つながってあるもの、「生まれ変わる」とは「つながった命に目覚めること」なんだと思います。それではここで、私に「生まれ変わる自己」を教えてくれた人や事柄を三点、皆さんと分かち合いたいと思います。

 一点目は、ハワイアンのとらえる自己観に出会ったことです。

 私は12年間、ハワイアンとアイヌの交換プログラムを、北海道とハワイで主催してきました。北海道で交流プログラムをしたときの話です。円陣になって、よく自己紹介をしあいました。

  

 ある一人のハワイアンが北海道で話した自己紹介を紹介します。彼は、先ず、山の話をします。山が彼の祖先をどれだけ育んできたかを述べました。そして、川が自分の地域の方々、おじいさん、おばあさん、家族をどれだけ養ってきたかを述べました。それから、海でどれだけお世話になったかを述べました。最後にやっと、自分の名前を述べます。

 普通の自己紹介では、自分の名前を述べて、どんなすごい大学を出たとか、自分がどれだけえらい地位を獲得したとか、どんな大きい会社で働いているとか、どれだけお金を稼いでいるかとか、自分を主張しますが、山河海とつながっていることこそ本当の自己主張なのであって、人間社会の中で誰かと比較する自分というものは大変狭い、と言っているように聞こえます。

 コロナに、ハワイアンの自己観についての答えをもっていったら、「よいね。あなたは、私の住んでいる大地を尊敬してくれてるんだね」と言ってくれるのではないでしょうか?

 二点目は、日本の伝統に出会ったことです。

 お年寄りからいただいた手紙を読んで、「これだ」これが自己なんだと、私の自己観を再認識させられました。

 近代教育を受けた私は、西洋の手紙の書き方に影響を受けています。最初に「元気ですか」と述べ、次に私の健康状態を述べたり、私がどれだけ今人間界で成功しているとか、どれだけ偉い地位を得ているとか、肩書がここまでになったとか、または、家族はどうだとかを書いたりして、今回お手紙した趣旨を述べます。

 ですが、お年寄りがくれた手紙は、先ず、季節が述べられます。山がどんな色になっている、木々はどうだ。空気はどんな感じか、季節が自分にもたらしているものは何かを述べて、そして、やっとお手紙を書いた趣旨を述べます。

 この日本の伝統的な手紙の書き方には、自然の中で生きている自己があってこその自己なんだ、という自己観が表れてます。日本人は、もともと季節の移り変わり、自然の中で自己を捉える感性を持っていたのではないでしょうか。そうだ、ふうてんの寅さんは「てめいはっしますところ関東平野で生まれ」と、自己主張からではなく、平野から起こった自己から言い始めますよね。すごいですね。

 コロナに、この答えをもっていったら、「よいね。やっとあなたは、ふるさとを尊敬するように回復したね」と言ってくれるのではないでしょうか?

 三点目は、野菜畑であります。

 

 私は、畑をやっています。つながった自己を実践で気づかせてくれる畑なんです。私がやっている畑の方法は、リサイクルをベースにした無農薬ガーデンです。

 

 バクテリアに食べ残しを栄養価のある土にしてもらって、木々の出す枯れ葉、オフィスで出す紙も土に戻し、再生して、みみずや、たくさんの虫たちの力を借りてできている野菜ガーデンなんです。まさに、バクテリア、土の中に住んでいる虫達に、私の食べ残しを食べてもらって、土を豊かにしてもらって、野菜を育ててもらっています。

 ですから、彼らによって、野菜が与えられていると強く感じています。毎日の畑仕事で、つながっているいのちを感じています。

 コロナに、畑でつながっている自己を見出しているよと答えたら、きっと「よいね。土を大切にする生活、他の生き物を尊敬する生き方いいね」と言ってくれるのではないでしょうか?

コロナの喜ぶ自己とは何か?

 「自己とは何ぞや?」という問いへの答えを「我思うゆえに我あり」「人間は、万物の長だ」と答えるのは、どうでしょうか? 人間中心の世界に生きていると他を見下して生きてゆくことになりかねません。

 コロナに、こういう答えをもっていったら、「おまえは、生まれ落ちたままの小物だ」と言われるのでないでしょうか? ならば、山河海とつながった自分、自然の中で季節を感じられる自分、土の中にいるたくさんの虫やバクテリアとつながった自分、そんなつながった命に目覚め、生きられるように生活して、私もあなたも「生まれ変わり」ませんか。「ソクラテス、プラトン、みんな悩んで大きくなった」の歌のように、コロナの時代を生きる私たちも、皆で悩んで、そんな生き方を実践して「大物」になりませんか?

 私たちが「生まれ変わった大物」として生きることができたら、コロナも人間の前にこのような形で現れなくなるのではないでしょうか。

 皆さんは「自己とは何ぞや」との問いに対して、コロナの前にどんな答えをもっていきますか?

以上、第一回掲載分。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

https://webronza.asahi.com/national/articles/2021012800009.html


【第2回】 2021年02月07日

お金とは、つながりをつくる道具である
~コロナ禍の今こそ、仏教経済学のススメ

お金とは何か? どう使うのか?

藤森宣明 ハワイ・ホノルル・パロロ本願寺開教使

ーーーーーーーー

コロナが問う、経済の在り方

 経済か? いのちか?

 私達は、コロナウイルスが出現して以来、この問いに揺り動かされてきました。 いったい経済は、どういう方向に行ったらいいのか? どこの国も、感染者の数が増えたら経済活動に規制を加え、感染者の人数が減ったら経済活動を再開することを繰り返してきました。

 このような繰り返しを、コロナが私どもにさせている意味を思うと、いのちとお金のあり方について考えなさい、いのちを生きている我々にとって、 お金とは何なのか、お金をどのように使ったらいいのかという問いへの答えを見つけなさい、と言われているように感じます。

 あなたにとって、お金とは何ですか? お金をどのように使ったらいいですか?

  

社会科学としての経済学から、宗教からみる経済学へ

 最近、「科学的根拠」という言葉をよく耳にします。確かに私もコロナ対策には、科学的根拠は必要と思います。

 アメリカの前大統領トランプ氏は、科学的根拠なしに、コロナは風邪のようなものだと言って経済活動を重要視してきました。それは大きなミスリードだったと私も怒りを感じていました。

 経済は、社会科学という科学の分野になっています。科学としての経済という見方が主流でしたが、これからは、宗教からみる経済も必要な時代になると思います。

 スペイン風邪で亡くなった社会科学者マックス・ウェーバーは「プロテスタントリズムと資本主義の精神」をテーマにして宗教とお金の関係を科学的に研究しましたが、これからは、キリスト教の世界から見て経済とは何なのか、資本主義とキリスト教の関係はどういうものか、宗教から経済を語る時代が始まったのではないかと思います。

 キリスト教から、どんな経済観をうちたてるのか? イスラム教からどんな経済学をうちたてるのか? 仏教からどんな経済学をうちたてるのか? 

 私は、お坊さんをやっているので、仏教の視点から「経済といのち」について答えを見つけ出したいと思います。

これまでの仏教者の経済観

 私をはじめ仏教者は、これまで、経済について語ることを避ける傾向がありました。どうしてでしょうか? 

 私が思うに、これまでの資本主義経済システムに、仏教者も呑み込まれて、仏教のもつ経済観を述べるチャンスがあまりなかったからだと思います。

 コロナの出現で経済が問われている今こそ、仏教の経済学とは何なのかを語る時がきたと思います。「仏教経済学」という言葉は、あまり知られていません。お坊さんも知らない人が多いので、みなさんは知らなくても安心してください。それくらい、我々仏教者が経済への関心を示さなかったということです。

 

仏教経済学とは

 「仏教経済学」とは、イギリスの経済学者、シューマッハが提唱したものです。

 彼は、1955年に経済コンサルタントとして訪れた仏教国ビルマで、仏教者の簡潔な経済生活にカルチャーショックを受け、 気づいたことを「スモール・イズ・ビューティフル」という本に記しました。そこで語られる「仏教経済学」は、これまでの「資本主義経済学」でもなく、「共産主義経済学」でもありません。

 シューマッハは言います。「仏教徒の生活がすばらしいのは、驚くほどわずかな手段でもって 十分な満足を得ていることである。現代経済学者には、これが非常に理解しにくい。『生活水準』を測る場合、多く消費する人が消費の少ない人より『豊かである』という前提に立って、年間消費量を尺度にするのがつねである。 仏教経済学者に言わせれば、この方法は、大変不合理である。そのわけは、消費は人間が幸福を得る一手段にすぎず、理想は最小限の消費で最大限の幸福を得ることであるはずだからである」と。

 お金をたくさん得て、たくさんの物を手に入れ、古いものは捨てて、新しいものをもっともっと手に入れることが幸せなのだと信じてきたが、そうではない経済学があった。大航海時代で外国に行って、もっと物を集めることを経験して、産業革命を経験し、もっとスピードアップして新しい物を手にいれることを目指して生きてきたヨーロッパ人であるシューッマッハは、ビルマのお坊さんから経済の方向転換を見せられたのではないでしょうか?

 「吾唯知足」(われ、ただ、たるを、しる)という「つくばい」が京都、竜安寺にあるのを知っていますか? シューマッハがビルマで発見したのは、日本的にとらえると、これでないかと思います。これの意味は、ただ、今、ここ自分のまわりにあるものに感謝して、満足して生きることにうなずけることこそ、大切な経済学だと。

 そういえば、こちらのお寺パロロ本願寺では、毎年年末の恒例行事として、自分の一年を省みる法要をやっています。いくつかの問いを参加者に分かち合い、参加者はメディテーションをしながら、その問いに答えを見出すという法要です。

 この度は、コロナの出現でオンラインでやりましたが、新たな問いに「コロナの出現を経験して、どのように新年は生きたらいいと思いますか?」との問いを加えました。一通りのメディテーションを終えた後、最後に感想を分かち合うのですが、そこで、参加者の一人が「シンプルに生きることだ」「必要でないものと、必要なものを見極めて生きることが大切だと学んだ」と言ってました。「必要のないもの」すなわち、まだまだ、ぜいたく品を追い求めて生きようと思っていたが、それはいらないのだと。「必要なもの」とは、すなわち、ここにあるものに感謝して生きることだと言いたいのでしょう。

 私は、この答えを聞いたとき、コロナの感染者が出始めた初期のことを思い出しました。ハワイでは外出禁止令が出たのですが、買い物は許されていたので、私がやたらと買い物に行くことを楽しんでいると、妻から「そんなに買い物に行く必要ないでしょう」と指摘されたのです。この参加者の答えは、コロナが導きだした自然な仏教経済学だなと思いました。仏教経済学は、シンプルに生きること。「より、もっと」の生活でない方向を示唆しているように感じます。

 

 

早くまっとうなお坊さんになりたい

 日本の仏教には将来はないと大変危惧し、海外の宗教者からもっと学んで日本仏教を再生しなくてはならないと訴えていた、宗教評論家でもあり日蓮宗のお坊さんである丸山照雄という人がいました。

 1980年代から丸山さんは、宗派を問わず、日本仏教者連帯会議「INEB」という会を仲間と共に立ち上げ、 将来の日本仏教のあり方を憂い、同じように憂いているお坊さんと共に海外に学びに行くことを始めました。私もその会に加わらせてもらいました。この動きは、仏教者の中では、新しい国際的な動きで「行動する仏教者」と言われています。                                      

 この会に加わったのは、宗派にとらわれず、浄土宗、天台宗、真言宗、日蓮宗、浄土真宗、禅宗、日本山妙法寺などのお坊さんでした。私をはじめとして有名なお坊さんなどは一人もおらず、ただただ、これから仏教者としてやっていく自信もなさそうな、どこか暗さをもっていながら、光が見えないだろうかと憂いている無名のお坊さん方の集まりでした。

 バブル時代に私はこの「INEB」に加わったのですが、その頃、世間一般の人は、私達お坊さんを、自分の為に何かをしてくれる存在ではなく、 資本家の一部のように見ていると感じていました。表面的には尊敬されていても、影ではお葬式すると、これだけお寺さんに払ったとか、お車代をこれだけ払わされたとか、戒名にこれだけ払ったとか、まるでお坊さんをお金を吸い取る人達としかみてくれていないなと感じ、もやもやした気持ちで生きていたのです。

 この「INEB」に参加した地方の無名のお坊さん達も、そうしたお金を吸い取るだけの者としてみられることにうんざりしていて、みんなの役に立てる、意味のあるお坊さんとして生きたいと思って参加したように思います。「妖怪人間ベム」の漫画に、妖怪が「早く人間になりたい」と言う言葉がありましたが、INEBのみんなも「お金を吸い取るだけのお坊さん」から 「早くまっとうなお坊さんになりたい」と思っていたように思います。


東南アジアで、資本主義でないお寺の活動を学ぶ

 そこで、私は、丸山さんをはじめINEBの先輩達に導かれ、東南アジアの行動する仏教者達のもとへ学びにでかけて行ったのです。 シューマッハが、ビルマで仏教経済学を学んだように、私も東南アジアで資本主義とは違う、お坊さんの活動に出会いショックを受けました。

 タイのお寺では、「米銀行」をやっているお坊さんナーン和尚に出会いました。どういう活動をしていたかというと、干ばつになると農民は食べられなくなり、やむなく娘を売り出すということがしばしばあったそうで、お金に困窮した民衆のために、米が豊かに収穫できた時には村の米をお寺が預かり、干ばつがあったり生活が大変になったりしたら米を農民に渡すというような活動をしていました。

  

 また、タイのカンボジア国境添いにある森で樹に出家させるプラチャックというお坊さんに入門して学ぶために森に入りました。樹を商品とみる政府、企業があります。しかし、プラチャック氏は、お経には「樹と共に救われる」と書かれてある。 樹は我々にいろいろと教えてくれる仏さんだと言って出家させていました。

 民衆の苦悩やいのちときちんと向き合う真っ当なお坊さんに出会って、私は、資本主義経済と仏教の見方は違うんだということに気が付きだしたのです。それ以後、仏教と経済の関係は大切な問題になりました。

日本仏教が問ういのちと経済

 宗派によって経済の理解に違いはあるでしょうが、コロナの出現によって、これからのお坊さん達は、生き生きと経済やお金についてものを申しだすのではないかなと思います。禅をしながら、お金とは何ぞやという公案もでてきそうな気がしてワクワクもします。民衆の皆さんが「金を吸い取る妖怪」とみていたお寺さんが、「お金とは何か、お金をどう使うかを教えてくれる人」にみえてくる時代がくると予感します。学校で仏教経済学が教えられる時代も近いかもしれません。

いのちといのちの呼応の経済学-親鸞の経済学

 このように経済のこと、そしてメインテーマのお金とは何か、お金をどう使ったらいいかを考えていると、 浄土真宗で言えば、私には、親鸞が書いた日常家庭でも読まれている正信偈の冒頭の「帰命無量壽如来」(きみょうむりょうじゅにょらい)の教えがお金について示唆してくれている、と思うようになってきました。

 この「帰命無量壽如来」の教えは、個々のいのちが分断化されている中、 つながるいのち「無量寿」として生きて再生してくださいという仏の呼び掛けです。いのちといのちが分断化されている関係をつなげる関係に回復するようにお金を使いなさい、と仏は呼び掛けている。親鸞はそう示唆していると私は捉えます。まさに仏教は「お金とは、つながりをつくるための道具」であり、「つながりを作るために使われるべき」と示唆していると受け取れます。

 親鸞が今生きて現代の言葉で語りかけるなら「いのちが分断された関係があるでしょう。 お金はいのちといのちがつながる回復の道具として使いなさい、いのちといのちが呼応できるよう再生のために使いなさい、と仏は呼び掛けているんだよ。 それが私が言う帰命無量壽如来なんだよ」と言うと思います。

 経済は、分断するためのツールであってはならない。つなげるためのものにしなさい。「 つながるいのちの経済学」こそ、親鸞が示唆する経済学だと確信します。

分断化された経済学から、いのちといのちがつながる呼応の経済学へ

 コロナとの出会いで、分断された関係を再生するためにお金がどう使われたらいいのか、 以下思うところを、4点お分かちさせてもらいます。

 一つは、分断されているのは、人間と自然の関係ではないでしょうか? 

 現代まで人間の生活をひっぱってきたのは 資本主義経済です。地球では我々人間が長であると信じこんで、自然を見下し、お金もうけのため、人間の便利さ追求のため、 地球を痛めつづけて、川を汚し、海を汚し、山を切りくずしてきました。我々人間は未開の地をどんどん開発して 、野生動物を我々人間の近いところにもってきたことで、コロナウイルスの出現を呼び起こしました。

 また、資本主義経済は、産業革命を生み出し、化石燃料の使用は、二酸化炭素濃度を増加させて、地球温暖化をもたらしました。 それが、北極南極の氷を解けさせて、やがてそこからまだ我々の遭遇していないウイルスが出現するだろうと多くの科学者が指摘します。次のウイルスが現れる可能性を示唆しています。

 コロナウイルスの出現は、我々人間に、分断してきた自然との関係を回復しなさいと言っていると思います。 ですから、お金は、人間が自然や動物たちのいのちと呼応する、つながった関係を回復するために使われることが求められているのでしょう。 具体的には、お金の使い方を、過度の開発から、自然を再生する方向に変えるべきであります。 原発からソーラー化へ、化石燃料から再生可能エネルギーへ移行する経済学が求められます。

 

 

 二つは、分断されているのは、人間と、ウイルス、微生物、バクテリアとの関係だということです。

 日本の菅義偉首相が今も 「今後人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証として、完全な形で東京オリンピック、パラリンピックを開催したい」と言っていることは、私には信じられません。「ウイルスは悪い」もので、「人間はウイルスを撲滅しなければならない」と言っているのでしょう。一国の首相が分断化をますます進めていく方向に向かっているとしかみえません。

 ゴリラの研究をしている山極寿一氏は「地球は、細菌の惑星、ウイルスの惑星。我々人間が主人公でない」と言っています。 ウイルスに打ち勝つためにお金を使うのでなく、ウイルスと共生していく関係を再構築するためにお金を使うべきではないでしょうか?

 三つは、コロナの出現で、ますます国と国の分断が露呈してきたということです。 これまでのトランプ大統領はコロナ前から自国優先主義を打ち出し、国際的協力よりも自国を重んじてきましたが、 コロナの出現でますます他の国々も余裕がなくなり、自国優先主義がはびこりだして分断化を助長しています。

 そんな中、フランスの経済学者ジャック・アタリ氏は「利己主義、経済的な孤立におちいってはならない。 たしかに各国・各地域の経済的な自立は重要だが、孤立は危ない。 バランスの取れた国際的連帯が必要。パンデミックという深刻な危機に直面した今こそ、 『他者のために生きる』という人間の本質に立ち返らねばならない。協力は競争よりも価値があり、 人類は一つであることを理解すべき。利他主義という理想への転換こそが、人類のサバイバルの鍵である」といいます。

 アタリ氏は、「分断する経済」から「つながる経済」へ転換する必要を訴えているのでしょう。 アフリカなど第三世界や南半球でコロナの感染者が増えたら、北半球にあるアメリカ、ヨーロッパ、 日本なども感染者が増えるでしょう。アタリ氏が言うように、自国ばかりにお金を使うのでなく、 他国の人達にも使う、「他者のために生きる」ように使う。そんな「いのちがつながる経済」が求められています。

 四つは、これまでの資本主義は、人間間の格差を助長して、お金持ちと貧乏人との分断を作ってきましたが、これからの経済は、お金持ちと貧乏人の分断をつなげるようにすることが求められるということです。

 コロナの出現は、これまでにない行政によるお金の使い方を誘発しました。経済的に生活が大変な方々への支援です。 一時金の配布もそうですが、職を失った方々への大胆な失業保険の支援、日本では考えられないでしょうが、 ハワイではパートタイムワーカーにも失業保険を提供し、失業者には500ドルのデビットカードを渡してレストランで使用できるようにもしました。これは、失業者と経営が大変なレストラン業界の人々の支援になります。

 行政による支援を嫌ってきた資本主義大国アメリカがいのちのため生活保障を打ち出してきています。 スペインを始めとしていくつかの国はいのちがまっとうできるように、ベイシックインカムを導入し始めたと聞きますが、 貧しい人達がいのちをまっとうできるように「いのちがつながる経済学」をこれからも進めることが求められます。

 また、すばらしいことに、お金に余裕のある方々の中にも、貧しい人々のいのちを憂い、つながる支援をする人々が現れてきました。 お金に余裕のある人達に、お金を、いのちをつなぐために支援してくださるように働きかけることも、 いのちをつなげる経済に必要な仕事ではないでしょうか。


友達に投資しよう

 日本の国会議員が自分の権力を保持するために、お金を使ってつながろうとしていますが、そうした縦のつながりでなく、横のつながり、友達になるつながりが求められます。

 行動する仏教者の運動を立ち上げた人にベトナムのテクナットハーンという人がいます。ハーン氏は、友達に投資をしようと言います。銀行にお金を残しておいてもどうにもならない、友達に投資しましょうと呼びかけています。

 私にとってこの友達とは、先にあげた、一つ目の自然であり動植物であり、二つ目にあげたウイルス、バクテリア、微生物であり、三つ目の他国の人々であり、四つ目の生きるのが大変な貧しい人々であります。

 お金を銀行に置いて増えると喜ぶ私もいますが、そこから踏み込んで、銀行にあるお金をこれからは友達に投資する「いのちといのちをつなぐ経済学」に移行することが求められているのではないでしょうか? 

 お金は、つながりをつくる道具です。分断された関係を回復するためにお金が動き出す経済学が今こそ必要です。コロナの出現は、そんなお金観を持ちなさいと言っているように強く思うこのごろです。

 あなたにとってお金とは何ですか? お金をどう使われますか?

 


以上、第二回掲載分。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

https://webronza.asahi.com/national/articles/2021012800010.html

【第三回】 2021年02月14日


マスクで気付く「息」の不思議~コロナ禍が示す大自然からの警告

誰が、息をしてるのだろうか?

藤森宣明 ハワイ・ホノルル・パロロ本願寺開教使

ーーーーーーーーーー

マスクが問う息

 マスクをしていると息がしにくいですよね。マスクをしてない時は、当たり前に息をしていると思って何も感じない自分がいました。しかし、マスクをしだすと、私は、息をして、吐いていることを、より認識させられます。

 皆さんもマスクをしたことによって、息について感じることがありませんか? マスクを通して「誰が、息をしてるのか?」という問いがでてきます。

 「自分が吸ったり吐いたりしてるんだから、息は、自分がしてるに決まってるだろう」「そんな変な問いを出すな」と叱られそうですね。

 でも、私はコロナが我々にマスクをさせて、「もっと呼吸について探求しなさい」と言っているように思えてきたのです。


息の不思議さ

 私は、坊さんをしていますので、職業柄、死の瞬間に付きそうことがあります。これまで数十人の方々の死の瞬間に付き添わさせていただきました。

 死期が近づくと一つ一つの呼吸が鮮明になってくるのがはっきりわかります。人間は息を吸って止まるという人がいます。ですが、こんなにたくさんの最後の瞬間に付き添っていたのに、私は、最後が吸っていたのか、吐いていたのかあまり記憶にないのです。曖昧なのです。そして、生まれてくる時ですが、息を吐いて生まれるという人がいますが、自分は、生まれてきた瞬間も、また、息を吸ったのか吐いたのか記憶にないのです。

 私達は、息を吸うことも吐くことも意識しないで生きています。息をしていることは、本当に不思議ですよね。自分の力以上の働きを感じませんか?

 死にゆく人たちに付き添ってきた経験から、一つ危惧することがあります。地球上に生きる全人類がマスクをし始めた結果、呼吸というものに意識を振り向けるようになった今の時代は、死期が迫る人たちの呼吸に意識が集まる状況に似てきたなと思ったりもします。なんだか、我々人類の死期が迫っている予兆なのかなと思ったりすることもあります。そうならない方向を見出すためにも、息について確かめる必要があると思ったりもします。


ハワイで息について考える場所

 息について、考えるいい場所がハワイにあります。日本からハワイに来られる方があると是非連れていってあげたいところなんです。

 それはオアフ島の西にある「ワイアナエ コースト コンプリヘンジブ ヘルス センター(Waianae Cost Comprehensive Health Center)」という、先住民ハワイアンの方々の考え方で作られたユニークな病院です。

 

 

 私は、東日本大震災の後、福島の方々にハワイに来ていただく交流プログラムをやってきました。2018年のプログラムに看護師を目指す学生さん達が参加してくださいましたので、将来の看護師さんに福島の将来の病院の在り方を考えてほしいと思い、そのワイアナエの病院を共に訪れました。

 

 

息について考えさせる病院

 どんなところかと言いますと、この病院は、丘の上に建てられているんです。この丘の病院から広大な海が広がっているのが見えます。そして背後には、山があります。その山が私たちを見守るように存在しています。

それから、その山の手前にユニークな散歩道が作られているんです。散歩道というと、都会の街では、エクササイズやダイエットのために、歩きやすいようにコンクリートで作られますが、この道は、たんに身体の健康のためだけではなく、心、精神の回復のためにも作られていると掲示板に書かれていました。


なるほど、その散歩道を歩いていると、樹々があり、その樹々には説明文がついています。これはハワイアンの先祖が薬草として使っていた樹であるなどと書かれてあり、知恵を授けてくれた先祖達にも思いを馳せることができます。フルーツの樹も植えてありました。その中にブレッドフルーツという樹がありました。


ブレッドフルーツは、じゃがいもを柔らかくしたような実で、芋煮のようにしてもいいし、カレーにじゃが芋のように入れて食べてもいいし、主食にもなります。この樹をもっと植えていきたいというメッセージも書かれてあり、樹が身近にあって、人間の生命を支えてくれていることを感じさせられました。

 

 散歩道は、都会のように舗装されたものばかりでなく、土に触れさせてもくれます。散歩しながら、土の中で生きている虫達のことを私に感じさせてくれました。時々眼を上に向けると山が身近に見え、下に眼をやると広大な海、そして河が見えます。

 その道を歩いていて、私は私が息をしていると思っていましたが、本当は、海、山、河、樹々、たくさんの動植物、土の下で生きている虫達などに助けられて、私は息をしているのだと思わされてきたのです。

総合病院とは?

 この病院の名前に掲げられている「コンプリヘンシブ」とは、英語で「総合」という意味です。散歩道を歩いていたら、それがどういう意味なのか、ちょっと理解できるようになってきました。

 日本で総合病院というと、内科、外科があったり、産婦人科など全て揃っている病院のことだと思いますが、ここで言う総合病院とは、そうした技術的なものが集まったという意味ではなく、数え切れない命や様々なものたち、環境の支えによって自分が生かされていることに気づくという意味で「総合病院」と呼んでいるようです。

 そこで私は、他の生命や環境の「総合」で生きていると気づかされると同時に、人間が病気から回復するプロセスにおいて、このような総合、総体に出会うことが心身に大きな影響を与えているのではないかと感じさせれました。

ハワイ語にみる息

 息と言えば、ハワイの「ハ」、アロハの「ハ」(HA)です。ハワイアンに「ハオレ」という言葉があります。「人」を言い表す言葉です。「ハ」は「息、呼吸、命、精神」、「オレ」は何と「ない」という意味です。なので、「ハ・オレ」とは「息、呼吸、命、精神がない人」という意味になるのです。

 息がない、精神がない人とは、すごい人間ですよね。人間とは思えないですよね。みなさんはどんな人を想像しますか?

 たとえば、ダイアモンドヘットという山があります。ハワイ語では「レアヒ」(Lēʻahi) と言い、「まぐろのかま」という意味ですが、ヨーロッパから来た人々は、そこにダイアのように輝いた石を見つけ、ダイアがたくさんあるのではないかと考え、「ダイヤモンドヘット」と名付けたようです。同じ山なのに「まぐろのかま」と名付けるのと「ダイアモンドヘッド」と名付けるのでは、捉え方がずいぶん違ってきますね。

 欲望で「山」を捉える人々。このようなあり方が、ハワイアンからすると「ハオレ」と呼ばれる「息のない人」たちのあり方です。私も、山や海、川を見ると、あの土地はいくらになるのだろうと金目にみたりする傾向があります。ハオレなる性質を持ちながら生きてるなと自分で感じさせられます。

 

息を養ってくれる大地

 また、ハワイアンの言葉に、「マラマ、アイナ」という言葉があります。「アイナ」とは、土地という意味ですが、たんなる土地でなく、養ってくれるもの、愛してくれるものという意味があります。「マラマ」は、大切にするという意味です。ですので、「マラマ、アイナ」とは、「もし土地を大切にしたら、土地が我々を養ってくれる」という意味なのです。

 仏教に、「報土」という言葉がありますが、アイナは、「報いる土地」にぴったりあてはまります。すなわち、我々の息、呼吸、命は、大地がくれているもの、だから土地が息をさせてくれるのだから、土地を養ってくれるものと捉え大切にしなさいと言っているように感じるのです。

山川国土と呼吸

 「山河国土悉皆成仏」との仏教の教えは、山、河、国土、すべて仏である。すなわち、山、河、国土は、われわれを育ててくれる先生であると教えてくれています。

 終戦後、日本の復興が始まり自然を切り開く開発があたり前になっていた時に、仏教者、曽我量深は、山、河、国土は理知では捉えられない、「感」によって山、河、国土とつながりを「感得」するのだと、ハワイ先住民のアイナのような自然のとらえ方をしています。「血とは、生きた人間ばかりに血が続いているのではない。山河大地みなである。血のもとは、山河大地である」(歎異抄聴記)と、つながりを「感」でとらえることを教えてくれます。                                      

 私は、総合病院に創られた散歩道を歩いて、山、河、土、海、樹々、動植物、虫が私をして息を吸わせてくれていると感じさせられました。そして、呼吸をしながら、命はつながっているということを実感し、山川国土への感謝が生まれてきます。

 

 

コロナが求めるあうんの呼吸

 「あうんの呼吸」という言葉があります。人間同士の中で、微妙な気持ちがタイミングがぴったり合うことだと使われているようです。「あなたとは、呼吸があわない」と言ったりしますね。実は、これは、仏教用語からきてるようです。

 我々現代人は、人間中心に考えがちですが、仏教は、生きとし生けるものとの調和を説きます。なので人間どうしの調和だけでなく、生きとし生けるものとの「あうんの呼吸」の調和も考えなければなりません。

 私たちは、どれほど他の生き物たちを自分たちの都合で追いやってきたのでしょう。他の生き物からすれば、私たちはまさに「息をしない人」「ハオレ」かも知れません。

 コロナは、私たちが人間中心の世界を築こうとしたあまりに現れた、大自然からの警告ではないでしょうか?

 コロナは、人間同士だけで呼吸を合わせるのではなく、樹々、山、河、海とも深く呼吸を合わせなさい、そうでなければ、ずっとマスクをした苦しい生き方になるよ、と言っているように思えてなりません。

 「息は、誰がしているか」との問いを、私たち人間は今、コロナから問われているように強く思います。

散歩道。大田千栄美さん撮影

以上、第三回掲載分。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

<著者紹介>

藤森宣明(ふじもり・のりあき) ハワイ・ホノルル・パロロ本願寺開教使

1958年生まれ。アイヌの人々が住む北海道の大地に育ち、ハワイ先住民が「開発」に直面して苦悩する姿を知り、ハワイ・カウアイ島に渡る。ハワイ先住民とアイヌの交流プログラムを立ち上げ、先住民目線で開発問題に取り組む。タイやフィリピンを中心とする東南アジア、ブラジルなど南米にも活動範囲を広げる。宗教、先住民、開発という視点から「生きるということ」の意味を問い続けている。

 

 

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


        Palolo Hongwanji Bon Dance 2020     
    CANCELED due to a COVID-19     


The theme of our Bon Festival:

Live life sustainably ―持続可能な命を生きる 

- help and support local programs
―地元のものを大切にするプログラムを支援し合おう

- help and support healthy programs
―健康なものを大切にするプログラムを支援し合おう

- help and support charitable programs
ー慈善プログラムを支援し合おう


CANCELED
     
  Date: July 24 (Fri) and July 25 (Sat)        

 Bon Service starts from 6:00P.M.
   Dance Time from 6:30 to 9:30P.M.
Food booth starts from 5:30P.M.

***


CANCELED


   Free Shuttle Bus Service   

July 24 (Fri) and July 25 (Sat)
5:30PM-10:00PM


Sacred Hearts AcademyPalolo Hongwanji
< Round Trip three times per hour >

You can use street parking
or Sacred Hearts Academy parking lot.
(3253 Waialae Ave.)



   Looking for ...  

  Vendors  

Would you like to sell your products at Bon Dance?

More info.

 Helpers 

We are looking for helpers for the Bon Festival. If your family and your friends can help us, we would appreciate it very much.

More info.

 Dancers 

Please join us and
enjoy Bon Dance!

More info.


         Map        

↑ Please use the Free Parking lot of Sacred Hearts Academy.       

No public parking lot in the Palolo Hongwanji
on July 24,25.

      Links      






 Palolo Hongwanji             

 Address;1641 Palolo Av. Honolulu HI 96816  
 Office phone;808-732-1491 
 Closed on Monday