沖縄三田会の皆様へ
名誉会長 稲嶺 惠一
今般、本永 浩之新会長の下、新体制が敷かれ、その新しい試みの一つとして、沖縄三田会ホームページが開設されました。沖縄三田会の、より活動を強化につながると喜んでおります。ただ残念なのは目にもみえず、終わりもはっきりしない強敵、新型コロナウィルスの出現により夏の会合も中止となりましたが、会員一同無事にこの危機を乗り越えられ、年末には、お会い出来ることを楽しみにしております。
この機会に、沖縄三田会のこれまでの歩みについて触れたいと思います。
沖縄と塾とのつながりは意外に早く、上杉 謙信の血を引き、最後の米沢藩主だった第二代沖縄県令 上杉 茂憲が県費留学制度を設けた時から始まります。有能な5名の若者が選ばれ、全員学習院に入学いたしましたが、その内の1名(謝花 昇)を除く4名は慶應義塾に転学しました。福沢 諭吉先生の独立自尊の精神を学んだ彼等の活躍は目覚ましいものがありました。
山口全述は司法の道に進みましたが、他の3名は帰郷し、いずれも政界、財界、言論界、各界にわたって活躍するという将にオールマイティー的な存在でした。太田朝敷は琉球新報創設後に社長、沖縄砂糖会社社長、首里市長を歴任。高嶺 朝教は、太田と共に琉球新報創設に加わり、沖縄銀行頭取、初代県議会議長、沖縄初の衆議員議員、首里市長をつとめました。岸本 賀昌は、衆議院議員、沖縄毎日新報社長、沖縄共立銀行頭取、那覇市長を務めました。彼等の沖縄近代化への果たした役割は大きなものがあります。
しかし、県費留学生制度は上杉県令解任により、終わりをつげ、以降、沖縄から塾への進学は非常に少なくなり、その傾向は復帰後も続きました。一方、早稲田は八重山出身の大浜 信泉さんの総長就任に伴い、沖縄特別枠を設け、積極的に有能な若者を取り込み、県内では大きな勢力を築きました。
少人数の沖縄三田会は、慶應に関係する人、全てに呼びかけ、三四会、沖縄通信三田会、本土企業の支店・営業所、塾出身者に積極的に働きかけ、ささやかに三田会活動を維持してきました。特に組織的にしっかりしていた沖縄通信三田会の果たした役割は大きいものでした。
復帰後、県内高校もレベルアップし、それに伴い、推薦枠も徐々に増え、入学者数も飛躍的に増加しました。同時に本土関係企業の沖縄出先機関も増え、特に初めての土地で、沖縄三田会に顔を出せば、人脈も情報も得られるということで好評で、参加者は増加の一途を辿りつつあります。
ごく少人数のメンバーで交流を重ねていた沖縄三田会も最近では、100名に近い盛況の場と転じました。
しかし、残された課題は数多くあります。私も本永新会長にバトンタッチするまで、40数年会長職を務めてきましたが、微力なため、多くの課題は先送りになってしまいました。申し訳なく思っています。沖縄三田会は九州三田会の一員でもあります。九州三田会は毎年、各県でも持ち回り開催をしています。沖縄にも打診がありましたが、受け入れ体制が整わず、お断りしたことがあります。
今回、本永 浩之新会長の下、体制も強化されており、是非九州三田会の沖縄開催が実現出来るよう期待しております。
尚、私は慶應連合三田会の副会長を長年務めておりますが、会長の本永 浩之(沖縄電力社長)、知花 武信(㈲みどり町建設社長)は2018年4月、常議員に選出されています。これを機会に今後塾当局、各地三田会などの交流、そして建学の精神を継承した地域三田会として、より地域貢献を目指して行ってほしいと思います。
(2020年8月)