仙台からアジアを夢見た男
岡千仞の生涯
仙台藩の番士として将来を嘱望され、江戸に出て昌平黌に学び、のち舎長となる。同窓の重野成齋、松本奎堂、松林飯山、南摩羽峰と深く交わり、大坂で私塾「雙松岡塾」を開いて尊王攘夷論を唱えた。清川八郎、本間精一などを教育した。慶応2年(1866年)に藩校・養賢堂指南役。
戊辰戦争に際して、奥羽越列藩同盟に反対したことから仙台藩主及び藩士の怒りを買い、投獄された。
維新後は太政官修史局、東京府等に務めたがほどなく辞任し、芝愛宕下の旧仙台藩邸を利用して私塾「綏猷堂」を開いて門弟の教育活動に当たり、福本日南、尾崎紅葉、片山潜、国分青崖など多くの偉人が門を叩き、福沢諭吉の薦めで啓蒙活動を開始し始めた。
晩年には、大陸経論の志を抱き始め、李鴻章を尋ねて支那改革論を説き、大陸浪人として活躍。初期の興亜会にも関与した。没年に従五位に叙された。
本サイトは、仙台が生み出した先見性のある知識人として岡千仞を紹介し、
東北独自の思想を発信しています。
岡千仞は幕末期の仙台藩に生まれた漢学者です。しかし彼の青年時代には戊辰戦争が発生し、仙台藩は明治政府にとって朝敵となります。しかも明治時代には文明開化という時代となり、洋学が盛んになります。そのため漢学者であった岡にとっては、二重の困難が付きまとっていました。彼はこのような困難をどのように克服したのでしょうか?
彼の生き方は、コロナ禍の社会においても参考になるのではないかと思います。
漢学者であった岡千仞は、近代社会の在り方を深く考えました。しかし当時の社会的価値観とは異なり、欧米社会一辺倒で考えません。彼はどのように日本の在り方を考えたのでしょうか?
また、彼は漢学者でありながら、アメリカや欧州諸国の歴史を紹介する教科書を翻訳しています。これは単純な翻訳ではなく、漢学者である岡独自の見解がふんだんに盛り込まれていました。
それは何でしょうか?
岡千仞は、その後自費で中国へ渡航します。そして様々な文人や官僚に見解し、様々な近代に向けた提言を行います。それはどのようなものだったのでしょうか?
また岡千仞の事跡を振り返ることで、東北文化の現代的問題について考えたいと思います。
岡千仞は、その後自費で中国へ渡航します。そして様々な文人や官僚に見解し、様々な近代に向けた提言を行います。それはどのようなものだったのでしょうか?
また岡千仞の事跡を振り返ることで、東北文化の現代的問題について考えたいと思います。
岡千仞の残した著作は現在も多く残っております。これらの中から主要な資料について紹介します。
『尊攘紀事』『同補遺』『米利堅志』『佛蘭西志』『琉球始末』『渉史偶筆』『蛍雪事業』『北遊詩草』『在臆話記』
岡千仞に関係する研究論文について紹介します。また岡千仞を理解するために便利な著作も紹介します。
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