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プロフィール

私の父は自他共に認める多趣味人間です。プロの無線通信士の資格を持ち、1982年から1年間、米国へ単身赴任した時は、無線で京都に残した妻と交信、国際電話料金をゼロに抑えました。米国滞在中にスキーを覚え、いまでも冬場はスキーに出かけます。夏の休日は水泳、ラケットボール、バドミントンなどいろいろな種類のスポーツを行っています。

日本型在宅勤務のはじまり(深津紘二朗)

NEC(日本電気)はかつて、東京の郊外、JR吉祥寺駅前のビルの2階に「C&Cサテライトオフィス」を設けていました。1984年9月、NTT(日本電信電話)のINS(高度情報通信システム)実験に参加して設置した「衛星事務所」です。

162平方メートルの室内に、高さ1.1メートルの壁で仕切られた畳2枚ほどの広さのブースが11区画。私の父はその1つで、L字形のテーブルに置かれた本社直結の端末機2台+を使い、コンピューターのシステム開発の仕事を始めました。

上司や同僚からの連絡は電話とファクシミリだけで済ませ、あとは仕事に熱中できました。

慢性的なソフトウエア技術者の不足に悩むNEC(日本電気)が、結婚で退職する女性技術者たちの活用を狙って「在宅勤務」の実験を始めたのは1983年でした。同社の女性技術者の自宅にパソコン1台を持ち込み、4週間にわたって仕事をさせました。

ですが、「話し相手がいない孤独感」や「私生活から仕事への気分転換の難しさ」を強く訴えられ、失敗しました。そこで、自宅に近い郊外で、少数ですが同僚もいるという「日本型在宅勤務」として考え出したのがこのオフィスでした。

評判は上々だったそうです。自宅が近い人からはずっと勤務させてほしい、という要望が強かったといいます。

川崎製鉄も社宅の一室をオフィスにするなど、同様の試みは徐々に広がりました。


深津紘二朗