文鮮明師(ムン・ソンミョン) 人物まとめ

文鮮明師とは?
正確には何をした人なのか。日本との関係は?宗教者としての顔の他にどんな顔があるのか?
様々な疑問をもとに、勝手に整理してみました。
なるべくソースのあるものをベースにまとめてみます。
~数字で見る文鮮明師~

  • 33,795日:地上で生きた日数
  • 2012年9月3日、午前1時54分逝去
  • 享年9393年の生涯、神のメッセージを訴え続けた
  • 1975年6月7日、1,200,000人韓国ソウルで「救国世界大会」開催、120万人を前に共産主義への勝利を訴えた。
  • 1976年9月18日、300,000人米国ワシントン記念塔前で「ワシントン大会」開催、30万人を前に米国が建国精神に帰ることを訴えた。
  • 1989年9月1日文師は「70日後を見ていなさい」と語った。70日後の同年11月9日、東西冷戦の象徴ベルリンの壁が崩壊。
  • 1993年8月9日~94年11月19日、160,000人、1600時間韓国済州島の修練会(計38回)に日本から延べ16万人の女性が参加し、文師はこの間1,600時間メッセージを語った。
  • 2005年9月11日~同年12月23日、100カ都市、文師85歳世界100カ都市ツアーを敢行、67カ国を100日間で回りスピーチ。
  • 2009年、6,000,000文師の自叙伝が韓国・日本で発刊。日本国内で600万部突破。現在までに45以上の言語に翻訳。
  • 23時間35分文師の最長の訓読・説教時間は23時間35分
  • 100%自らの100%を投じて「神様の下の人類一家族世界」(神と人類が一つになること)を訴えた。

●人物概要●

文 鮮明(ムン・ソンミョン)

出生 
 1920年1月6日(陰暦)、韓半島の平安北道定州郡に文慶裕氏と金慶継夫人の次男として生まれる。

学歴
1934年4月1日、五山普通学校3年編入、1年間修学。
1935年4月1日、定州公立普通学校4年に転入、38年卒業。
1938年4月12日、京城商工実務学校電気科(韓国ソウル)に入学、41年に卒業。
1941年4月14日、早稲田大学付属早稲田高等工学校電気工学科(日本)に入学。
1943年9月30日、早稲田大学付属早稲田高等工学校電気工学科を卒業。
 (同年10月に帰国)

教会創立
 1935年4月17日朝、イエス・キリストから啓示を受ける(15歳)。
 1954年5月1日、ソウルに「世界基督教統一神霊協会」を創立。
 1959年10月2日、日本統一教会創立(1964年7月15日、宗教法人認可)

結婚
 1944年3月、雀先吉(チェ・ソンギル)女史と婚約
 1960年4月11日(陰暦3月16日)、韓鶴子(ハン・ハクチャ)女史(現・世界平和統一家庭連合総裁)と聖婚式を挙行。

逝去
 2012年9月3日午前1時54分、肺炎などの合併症のため、韓国京畿道加平郡の病院にて逝去。
 享年、数え年で93歳(満92歳)。

●団体設立

  • 1964年7月、「全国大学連合原理研究会」設立。
  • 1968年、「国際勝共連合」を創設。
  • 1972年、日本で「世界日報」を発刊。
  • 1973年、「世界平和教授アカデミー」を創設。
  • 1981年12月18日、「国際平和財団」創立。
  • 同年7月9日、「国際クリスチャン教授協会」設立。
  • 同年12月、「日韓文化交流協会」設立。
  • 1982年、米国で「ワシントン・タイムズ」を発刊。 
  • 1989年、韓国で「世界日報」(89年)を発刊。
  • 1991年8月22日、「世界平和頂上会議」開催。
  • 1991年、「世界平和宗教連合」を創設。
  • 1991年、「世界平和連合」を創設。
  • 1996年、「世界平和家庭連合」を創設。
  • 1996年6月16日、「世界平和大陸国家・半島国家・島嶼国家連合」創設。
  • 1999年2月6日、「世界平和超宗教超国家連合(IIFWP)」 創設。
  • 2003年10月3日、「超宗教超国家平和議会(IIPC) 」創設。
  • 2004年9月23日、「蒙古斑同族世界平和連合」創設
  • 2005年9月12日、「天宙平和連合」創設。
  • 2007年9月23、「アベルUN」創設。
  • 2012年7月16日、「アベル女性UN」創設。
  • 2015年、「世界平和国会議員連合」を創設。

●主な業績

  • 1984年9月23日、国際安保会議を開催。
  • 1985年8月18日、共産主義終焉宣布。
  • 1985年1月、国際平和高速道路構想及び推進。
  • 2000年8月18日、全世界国境線撤廃宣布式を開催。
  • 2005年9月12日、ベーリング海峡プロジェクトを発表。
  • 2006年6月13日、世界185カ国平和使節団から「天宙平和の王」として推戴される。

●書籍

  • 2009年3月、文鮮明総裁の自叙伝『平和を愛する世界人として』を韓国で刊行。

●公人との交流

  • 1990年4月、モスクワで開催された「第11回世界言論人会議」にて、クレムリンでゴルバチョフ大統領と会談。
  • 1991年11月30日、電撃的に北朝鮮を訪問し、同年12月6日に金日成主席と会談。
  • 1973年11月23日、統一教会本部で文師が岸信介元首相と会見。

●文鮮明師の複数の「顔」●

宗教・
平和

  • 世界平和統一家庭連合の創設者
  • 世界平和宗教連合の創設者
  • 世界平和超宗教超国家連合の創設者
  • 世界NGO連合(WANGO)の創設者

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政治・
経済

  • 国際勝共連合の創設者
  • 国際ハイウェイ事業団の創設者

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芸術

  • リトルエンジェルス芸術団(韓国の少女民族舞踊団)の創設者
  • ユニバーサルバレエの創設者

詳細

教育

  • 大学生教育・全国大学生連合原理研究会を提唱。
  • 世界平和青年連合の創設者
  • 鮮文大学の創立者
  • ブリッジポート大学の創立者
  • 統一神学校の創立者

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言論

  • 日本「世界日報」を発刊。
  • 米国で「ワシントンタイムズ」を発刊。
  • 韓国「世界日報」を発刊。

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懲役

  • 1942年、戸塚警察署に呼ばれる
  • 1944年10月、共産主義者と間違われ、韓国京畿道警察部により逮捕、翌年2月に釈放
  • 1948年2月、興南強制労働収容所で5年間の労働
  • 1955年7月~10月、西大門刑務所に収監
  • 1984.7.20~1985.8.20、コネチカット州ダンベリー連邦刑務所に収監。

詳細

文鮮明師の日本留学

韓国は、日本に支配されていた日帝時代。文鮮明師は、1941年4月1日、韓国・龍山駅から出発して日本・下関港に到着してから、1943年10月に帰国するまで、約2年半、日本に留学しました。詳細を端折りつつ記載します。(引用:『真の父母様 節理の足跡~日本~』世界基督教統一神霊協会(世界平和統一家庭連合)基元節慶祝記念出版日本編纂委員会。以下、「記念出版本」と記載。)

出発

祖国を思い涙の祈祷

経路:龍山駅(京城駅の隣)→(電車)→釜山桟橋→(船「昌慶丸」)→日本・下関港
  • 龍山駅を出発すると、すぐに懐かしい漢江と3年間過ごした黒石洞(フクソクトン)の街並みが視界に広がり、文鮮明師は、「この民族に誰が責任をもつか」を考え、痛哭しながら釜山に向かった。
  • 釜山埠頭から祖国の山河をみつめながら、下関港に到着するまでの8時間、船内ではなく甲板に出て涙ながらの祈祷をささげた。「かわいそうなこの民族を誰が束縛から救ってくれるのでしょうか。私は夜を明かして星を眺めながら、この民族の解放の一日のために精誠を込め涙を流しながら、この民族のため神様の前に『私は今旅立ちますが、帰ってくる時まで、神様、この民族を守っていてください』」
  • 当時、文鮮明師は21歳。

修学

早稲田大学付属早稲田高等工学校

  • 1921年4月、「江本龍明」の日本名で早稲田大学付属早稲田高等工学校電気工学科に入学。
  • 現在の早稲田大学西早稲田キャンパス14号館あたりに校舎があった。
  • 電気工学科(1944年、電気科に改称)を選んだのは、「現代の科学文明を知らずには今後の新しい宗教理念を立てることはできないと考えたから」。
  • 授業は夜間(午後6時から午後9時まで)なので、昼間はほとんどの学生が働いていた。
  • 文鮮明師が入学した1941年8月、早稲田大学では戦争に備えて報国隊が編成され、早稲田高等工学校でも同様に編成された。学生には軍事教練が課せられ、照明のあるグランドで銃剣等での訓練があった。日本海軍がハワイ真珠湾攻撃を行ったのは同年12月8日。
  • 通常、早稲田高等工学校の修学期間は3年だが、日本として兵員を確保する必要から修学期間が2年半に短縮されたため、文鮮明師も2年半後の1943年9月30日に卒業した。

生活

祖国を思い涙の祈祷

<下宿>
  • 当時、特に、朝鮮人が下宿を借りることは非常に困難だったが、文鮮明師が下宿した三橋家は、朝鮮人と差別することなく、日本人と変わらない態度で接してくれた。
  • 三橋家の奥さんは、文鮮明師のことについて、「まじめで熱心に勉強しておられました。下宿に帰られるのは、夜の10時頃だったと思います」と語ったらしい。

<朝鮮独立運動>
  • 朝鮮人留学生に対する思想上の監視は非常に厳しかった。警察から、所持品、書籍、郵便物に至るまで調べられ、不審な点があれば勾留されることもあった。朝鮮人はどのような会合を開くにも、必ず警察に届けを出さなければならず、届けを出せば必ず警察が集会に来て、そこで語られる内容を書き写してチェックした。
  • 1919年の二・八独立宣言や三・一独立運動のときは、日本で学ぶ朝鮮人留学生が指導的な役割を果たしたので、日本の警察の朝鮮人留学生に対する監視、取り締まりは厳しかった。
  • 昭和17年(1942)9月頃、文鮮明師が朝鮮独立に関し宣伝扇動をしたことが、特別高等警察の月報に記録されている。文鮮明師は、朝鮮人留学生の秘密結社を組織して、中国の重慶に移った大韓民国臨時政府の金九と連絡を取りながら地下運動を展開。文鮮明師は、一か月に一回は、警視庁(戸塚警察署)に呼ばれた。

帰国

恩讐日本を赦し、愛した

  • 1943年10月、帰国。
  • 学校の職業斡旋により、満州電業㈱のハイラル支店に決まっていたため、満州に行き、ソ連、中国、モンゴルの言葉を学ぼうとされたが、向かう途中に、「行ってはいいけない!」との啓示を受け、満州での就職を取りやめ、故郷に戻った。
  • 1944年3月、崔先吉(チェ・ソンギル)女史と婚約し、京城の鹿島組に就職した。
  • 同年8月、日本統治下にあった京城では、急変する戦況に対処し、民族独立のために運動する朝鮮人を取り締まりを強化しようと、日本は巡査を新規増員した。その後、同年10月、新婚生活が始まった間もない文師の下宿に、突然、私服刑事が来て、日本で独立運動をしていた共産主義者であるという理由で、文師は逮捕された。※日本の早稲田大学時代、ある共産主義者が京畿道警察部に連行され、そこで文師の名前を口にしたことから、文師を逮捕した。
  • 釈放されたのは、翌年1945年2月だった。その間、約半年間、「お前の友人は誰か」と聞くなど、仲間を問い詰めるような酷い拷問を受けた。
  • 文師は、京畿道警察部でのことを以下のように述べている。
  • 「一度は1時間も取り調べを受け、拷問をされ、・・・何度も気を失っては覚める、そうした過程が繰り返され・・・。机の足4つが全部粉々に折れていくように殴られて全身に真っ黒い血のあざができて・・・。」
  • 「彼らの福を祈ってあげるべき責任が私にはあるので、彼らの何を見て福を祈ってあげるかを監房で悩みながら研究したのです。しかし人には良心があるので、朝、人々がみな出たあとに、誰にも分らないように私に謝罪するのです。それが人なのです。」
  • やがて、日本は敗戦を迎えた。文師にとって日本は恩讐の国であり、個人的にも日本人から拷問を受けた許し難い存在である。だが文師は、拷問した特高刑事に対し復讐を計画している友人たちを集めて、「かわいそうなのは、負けた日本人である。もうすでに主権を失い、ひざまずいてわびるその者を打つ者は、神が罰する」と語った。されに朝鮮にいて追われている日本人をひそかに呼び、荷物をまとめてあげ、「拷問されないうちに、早く帰れ」と言って、日本に帰られるように手配した。
  • 文師は戦争に負けた日本人に手を差し伸べただけではなく、日本分割問題や賠償問題などが生じたとき、中華民国の蒋介石総統に手紙を書くなど働きかけてそれらの問題を解決するために尽力した。文師はその頃のことを以下のように語られた。
  • 「日帝のもとで反日地下運動をしていた私にとって、日本民族は恩讐でした。民族的にはもちろんのこと、個人的にも恩讐でした。しかし日本が敗戦したのち、私は日本人を愛しました。むごい拷問をした日本の警察官たちは、私が一言言えば、みな処刑される運命だったのですが、反対に追われてる彼らを安全に送ってあげたのです。

出発

祖国を思い涙の祈祷

経路:龍山駅(京城駅の隣)→(電車)→釜山桟橋→(船「昌慶丸」)→日本・下関港
  • 龍山駅を出発すると、すぐに懐かしい漢江と3年間過ごした黒石洞(フクソクトン)の街並みが視界に広がり、文鮮明師は、「この民族に誰が責任をもつか」を考え、痛哭しながら釜山に向かった。
  • 釜山埠頭から祖国の山河をみつめながら、下関港に到着するまでの8時間、船内ではなく甲板に出て涙ながらの祈祷をささげた。「かわいそうなこの民族を誰が束縛から救ってくれるのでしょうか。私は夜を明かして星を眺めながら、この民族の解放の一日のために精誠を込め涙を流しながら、この民族のため神様の前に『私は今旅立ちますが、帰ってくる時まで、神様、この民族を守っていてください』」
  • 当時、文鮮明師は21歳。

「統一原理」発見までの経緯

文鮮明師は召命を受けた満15歳から、人類救済のため人生と宇宙の根本問題を探求した。今日、「統一原理」として知られる真理の大半は、1945年の「光復節」(日本による植民地支配からの解放を祝う大韓民国の祝日)を迎える前にすでに解明を終えていた。
文師は、人生と宇宙の原理を解明するために、1日に12時間、時には14時間も祈祷し、それを何年も続ける過酷な生活を送ることで満身創痍になった。神の願い、神の目的が何かを尋ね求めていけば、最後に人間にたどりついた。では神と人間はどのような関係にあるのか。宇宙の根本はいったい何なのか。それを神に尋ね求めた。

命を呼ぶ

1

イエス様との霊的な出会い

もともと儒教の家庭に生まれたが、文鮮明師が十数歳の時、長老派のキリスト教に改宗。文鮮明師は、熱心に教会に通いながら信仰に没頭した。

15歳の頃、13人の兄弟姉妹のうち5人の弟妹がわずか1年で相次いで逝去。さらに、次第にひどくなる日本の圧政により、家族だけでなく、民族にまで苦痛が及んでおり、食べ物がなくて、人々は草や木の皮もあるだけもぎ取って、それを煮て食べるほどだった。世界的にも戦争が絶えなかった。そして、文鮮明師と同じ年の中学生が自殺した新聞記事に衝撃を覚え、こうした悲惨なことに直面するほどに祈祷が深まっていった。

「世の中でなぜこれほど異様なことが相次いで起こるのか、善良な人を悲しみが襲うのか」

「私は誰なのか。どこから来たのか。人生の目的は何か」
「人は死ねばどうなるのか。霊魂の世界は果たしてあるのか」
「神は確実に存在するのか。神は本当に全能のお方なのか」
「神が全能のお方であるとすれば、なぜ世の中の悲しみをそのまま見捨てておかれるのか」
「神がこの世をつくられたとすれば、この世の苦しみも神がつくられたものなのか」
「日本に国を奪われたわが国の悲劇はいつ終わるのか」
「わが民族が受ける苦痛の意味は何なのか」
「なぜ人間は憎しみ合い、争って、戦争を起こすのか」

そうして、数えで16歳になった4月17日、イースターの朝、文鮮明師が猫頭山で祈祷をしているときに、イエス様が現れ、「私は十字架による救いをもたらすことには成功したが、それ以上に重大な使命である地上天国の建設は、いまだになされていない」と語られ、文鮮明師に「私の使命を完遂してほしい」と、メシアの使命を託された。イエス様から何度も何度も懇願された先生は、ついに召命を受け入れた。

求道

原理解明のために

  • 文鮮明師は、神の召命を受け入れた後も、外面的には普通の教育を履修していた。しかし、暇さえあれば祈祷され、特に漢江のそばや山腹で祈ることが好きだった。文鮮明師は、徐々に神の心情が理解できるようになり、「天の父の悲しみの心情を持ち、人々の罪と苦しみで傷ついておられる。数えきれない人々が神を捨てて来たが、神は一人の人間さえも捨てようとはされず、救いのために骨を折っておられる」と実感した。
  • また、イエス様の生涯を黙想すると、イエス様がどれほど自らの民と全人類を神の愛の圏内に導きたかったかと痛感し、泣かざる得なかった。そして、イエス様の足跡をたどりたいと思い、大部分の時間を社会から見捨てられた人々とともに過ごした。当時、漢江のそばに乞食村があり、文鮮明師は、家から送金があるたびに1か月分の米を買うと、残りのお金を最下層の人々に与えた。また、散髪の道具を買って、乞食の髪を刈ってあげたりして、乞食たちの最良の友となったりもした。
  • 日本留学時代には、韓国人学生たちと一緒に地下抵抗運動の組織に参加した。日本の秘密警察は文鮮明師を捕まえて拷問にかけ、地下抵抗運動に参加している学生たちの名前を聞き出そうとしたが、文鮮明師は激しい試練に耐え、何も洩らさなかった。
  • また、文鮮明師は、この世界を救済するために働いてこられた神の一貫した原理を理解しようとして、聖書研究に没頭した。祈祷を通じて霊感を受け、徐々に多くの問題が解けましたが、激烈な霊的闘いの後に、ようやく明らかになった部分もある。
  • 文鮮明師は、第二次世界大戦終了時までに原理を解明し、世界的な運動が出発することになった。

執筆

『原理講論』執筆

  • 文鮮明師は、1951年5月11日から、『原理原本』の執筆に入り、翌年1952年5月10日に完了した。

命を呼ぶ

1

イエス様との霊的な出会い

もともと儒教の家庭に生まれたが、文鮮明師が十数歳の時、長老派のキリスト教に改宗。文鮮明師は、熱心に教会に通いながら信仰に没頭した。

15歳の頃、13人の兄弟姉妹のうち5人の弟妹がわずか1年で相次いで逝去。さらに、次第にひどくなる日本の圧政により、家族だけでなく、民族にまで苦痛が及んでおり、食べ物がなくて、人々は草や木の皮もあるだけもぎ取って、それを煮て食べるほどだった。世界的にも戦争が絶えなかった。そして、文鮮明師と同じ年の中学生が自殺した新聞記事に衝撃を覚え、こうした悲惨なことに直面するほどに祈祷が深まっていった。

「世の中でなぜこれほど異様なことが相次いで起こるのか、善良な人を悲しみが襲うのか」

「私は誰なのか。どこから来たのか。人生の目的は何か」
「人は死ねばどうなるのか。霊魂の世界は果たしてあるのか」
「神は確実に存在するのか。神は本当に全能のお方なのか」
「神が全能のお方であるとすれば、なぜ世の中の悲しみをそのまま見捨てておかれるのか」
「神がこの世をつくられたとすれば、この世の苦しみも神がつくられたものなのか」
「日本に国を奪われたわが国の悲劇はいつ終わるのか」
「わが民族が受ける苦痛の意味は何なのか」
「なぜ人間は憎しみ合い、争って、戦争を起こすのか」

そうして、数えで16歳になった4月17日、イースターの朝、文鮮明師が猫頭山で祈祷をしているときに、イエス様が現れ、「私は十字架による救いをもたらすことには成功したが、それ以上に重大な使命である地上天国の建設は、いまだになされていない」と語られ、文鮮明師に「私の使命を完遂してほしい」と、メシアの使命を託された。イエス様から何度も何度も懇願された先生は、ついに召命を受け入れた。

共産主義に勝つ「勝共運動」

共産主義が崩壊すると宣言。・・・