藤堂高虎
(1556~1630)
藤堂高虎公は、1556年近江の国犬上郡藤堂村(現:甲良町在士)に生まれる。
木下秀長・徳川家康などに忠誠を尽くし、伊勢・津城32万石余りの大大名となる。
優れた建築家として、宇和島城・今治城・伊賀上野城・津城などを築き、江戸城・大阪城などの修築にも功を挙げた。
佐々木道誉
(1296~1373)
「ばさら大名」として世に知られる道誉は永仁4年(1296年)宇多源氏の流れをくむ佐々木家に生まれ、鎌倉時代末期から南北朝の動乱にいたる激動の時代を生き抜き、78歳という長寿をまっとうした。
多くの武将たちの中でも異彩を放つ「ばさら」ぶりは道誉の性格の重要な一面である。
だが、道誉の真骨頂は室町幕府の重鎮として幕府政治の確立に貢献し、4世紀にわたる近江守護職を継承したことにある。
さらに、連歌・和歌・田楽・猿楽および茶・香・花など文芸・芸能等を世に広め、中世文化芸能の中興の祖と云われている。
まさに、佐々木道誉は文武両道に通じた希有な中世人であった。
佐々木道誉の菩提寺勝楽寺(甲良町正楽寺)には、道誉画像(国指定の重要文化財)と道誉の宝篋印塔がある。
甲良豊後守宗廣
(1574~1646)
1574年甲良の庄、法養寺村に生まれる。
建仁寺流宮大工の祖父や父の跡を継ぎ、徳川幕府作事方大棟梁として、江戸に出府、江戸城、芝増上寺など江戸幕府の重要な建物の殆どを建造する。
豊後守の名は、京洛北の「吉田神社」造営により賜る。
後に、世界遺産である「日光東照宮」建造の大棟梁として辣腕を振るう。
時に「宗廣」62歳の時であった。
68歳の時故郷法養寺村に帰郷、豊郷四十九院の「唯念寺」に身を置き仏門に入り名を「道賢」と称し「百済寺」の再建のため、私財のすべてを投じ尽力、73歳で没す。墓は京都の「真如堂」にある。
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