健康な街

ゲンロンカオス*ラウンジ新芸術校
第三期生展覧会 グループB
2017年11月18日(土)〜11月26日(日)
※会期中無休

平日   15:00〜20:00
土日祝日 13:00〜20:00
※25日(土)は講評会の為 16:00〜20:00の開廊になります。

健康な街とは?

「健康な街」ステートメント

現代は本来の意味とは異なる文脈で、その意味のズレに無自覚なまま使われて いる言葉が多く存在する。「健康」は一つの具体例だろう。 例えば「健康食品」という謳い文句に踊らされ、それを摂取する事で、本当 に自分の理想的なボディバランスに近づこうとする健康信者はどうだろうか。 彼らと、「健康食品」の関係性を改めて見直してみたとき、健康の主導権はど ちらが握っているのか。

 日本国憲法第 25 条 1 項において「すべて国民は、健康で文化的な最低限度 の生活を営む権利を有する」とある。健康に生きる事を国家が担保した「生 存権」を有する私たちの健康に対する欲望が、今の街には過剰に溢れている。

 人間は生きる以上、必ず生きるための「街」を必要とする。 今、街において何 かを「とどめる」ことは困難になりつつある。デトックス や再生(リフォーム) を試みたところで、排出されるべき要 素 とそうでないものを判 別 す る こ と は 難 しい。そのような困難は、人間の受容できる情報量をはるかに超えた「街」と いう外部からの過剰な侵入者に起因している。侵入者の取捨選択において、 もはや人間の側に主体性は無い。

 「街」に在る要素が自分に接近してきたからといって、それ自体について理 解できるわけではない。それは個人の意志を無視して個人の身体に侵入して くる。むしろここで露わになるのは、侵入を受けたことで主体性を奪われたか に見える「人間の様相」だろう。 人間は「街」に生きるしかない。身体を持った個人と関係を結ぶ対象は「街」 の 中に存在する。理想化された自分の姿を盲目的に求める個人と、その欲望に 拍車をかける「健康食品」の関係も、「個人」と「街」という図式において展 開されている。「健康」という言葉のゆがみを伴った流布は、「街」で容赦な く生成し続けるカオスと、それを処理しきれない人間との間において起こっ ている。 言葉としての「健康」のズレ、生きる以上「街」との関係に埋め込まれてしま っている人間の在り様。このような実際の問題をテーマとして踏まえ、過剰 にゆがんだ「健康」概念の輪郭を探る。 混沌を破壊(死)ではなく生成(生)へ向かわせるための、健康な街で。

長谷川祐輔



街について

 東京に15年住んだ。システムと秩序が、私たちを動かす。システムを止めないための労働が、この街の日常だ。私たちは街のために働く。個とコミュミティの意思の境界は溶けて、コミュニティの意思が、個の意思を書き換える。

 街を考えていた。人が集まり、集落を作り、その中で経済活動が始まり、街になっていく。そして街から都市へ。コミュニティが秩序を求める。コニュニティが成熟する。街のシステムは更新され続ける。今、この街には「デトックス」が起きている。人口は減り、経済成長がありえない時代の入り口だが、デトックスされリフォームされた漂白の新しさが、人々にそれを忘れさせる機能を持つ。常に真新しいかの様に作り直される。この漂白の新しさを私たちは必要としていると、現代の空気にプログラミングされている。老いない街。

 8日間だけだが、ここに街を作ろうと思う。この小さなスペースを街というのは、いささか滑稽だろう。しかし、街は、このスペースの中にはない。作品が、新しい街に連れていく。 まだ、コミュニティもシステムもプログラミングも生まれていない街だ。デトックスで流れ落ちた毒素もここにはある。未成熟を許容できない私たちの住む街は、この街を許さないだろう。 私たちの住む街の意思が、あなたの意思でないことを信じて、私たちは、9日目にこの街をスクラップする。それは、ここに作った8日間だけの街の意思である。

小林真行

アーティスト

有地 慈

《スーパー・プライベート》 

日常はループである。

朝起きる。準備する。子どもを幼稚園へ送る。パート先へ向かう…

生活圏の中央に位置する広い霊園を支点に全てがまわる。

自転車で霊園を囲み走り続ける日々。

この街から出られない。

 

ある日、小さな案内掲示板に導かれ、日本で初めての飛行機死亡事故の墜落地点に辿り着く。

そしてその事故現場の記念碑は、広い霊園の一角に埋もれるように眠っていたのだった。

 

忘却と反復。

閉塞感に苛まれ、ループのように生活を営む自分の身体が、「記念碑」の埋もれた霊園の周りを走り続けていたことについて考えている。

忘れているから反復するのだとしたら、私も何かを忘れているのだ、この街のように。

 

私はループから抜け出すべく、霊園の中央から石を掘り出し、「忘れられた記念碑」の代わりに「新たな記念碑」を打ち立てることにした。

この石を媒介に、無関係だった霊園と「記念碑」を接続する。

自らの体感の延長に、届かない街への介入を試みる。

届かない街、それは今や忘れ去られた、かつて飛行機が墜落したはずの街である。

有地慈
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五十嵐 五十音

《人を尊敬するための装置》

coming soon

小林 真行

《テンポラリ_ファイル》

  宇宙の外側から何かの生命体に観察され続けている。宇宙は彼らの観察キットで、私たちが蟻を観察する、あのアクリルケースのように僕らは見られているんだろう。これは、僕の小さい頃の妄想だけれども、今もなお有効性を持って、僕の中に存在している。

  それから、僕は写真を撮影する者になった。その瞬間の眼前を記録している。瞬間の行為は尊くも思えるが、その繰り返しでしかない。被写体の反射光を捉えた「撮影」から、ネガを透過した光が、印画紙に再び「図像」を結び、過去が再び過去のまま、この今に現れる。時間と記号(あるいはインデックス)を剥奪脱臼し、それは、花の美しさでもなければ、美しい花でもなく、人の考えが及ぶ『本質的なもの』を抜き取る写真を、僕は撮る。

  そして思う。写真が時間を剥奪脱臼したときのみ時間が表象すると。写真は、ただただ過去であるのに、未来のデブリにも見え、不均等なX軸Y軸Z軸の交差地点に僕は立ち、ただなんとなくこの座標空間を見ているのだ。

これが僕の現在地。ここから、何かの生命体の観察の為に覆われ、書き換え続けられる表層を、たまたまこの地に立っている僕が、その一片のレポーターとなり、視点、視線、時間、メディウム、正しさと嘘、記号、思考エトセトラを剥奪脱臼させて、この時代のズレまくりのレポートを作成し、いくつかのファイルにわけて、宇宙の外側の観察者に提出する。

小林真行
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下山 由貴

《健康意識》

「何かを添加すること、それを抜くこと」

私の関心事は、暴力と倫理である。
もう一つ踏み込んで言うと、作品を作ることの暴力性と倫理だ。

そんな途方も無い問題に取り組むため、今回は添加物というモチーフを採用した。
添加物とは漠然とした言葉だが、いわゆる食品添加物や界面活性剤を指す。

保存料や発色剤は安価で安定したものを大量に供給できるという一方で、体内に与える影響が懸念され、消費者同士の不毛な争いが展開されている。

私たちの健康意識は、細胞を正常に代謝させるだろうか。
そんなことを考えながら、作品を作った。
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1988年生まれ。大阪在住。
主な個展に「こっちへおいでよ」(CAS/大阪)など。
キュレーションを担当したグループ展を12月に開催予定。

下山由貴
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中川 翔太

《ポルターガイスト》

coming soon

長谷川 祐輔

《誰が見て誰が聞くのか-服の死に方第三項》

ファッションの本質は何だろうかと考える。 それは突き詰めれば「個人の好き勝手な選択が、いつのまにか世界全体の様相を作り上げていること」と言える。 歴史を振り返れば当然時代ごとの「風景」が存在する。90年代と今では人々の服装といっただけでなく全体の 景色がそもそも違う。 服を買う時、論理的な理解や歴史的な文脈を踏まえた上で納得して買う人はいないだろう。 「服を買うという行為」に内在している「個(身体)と世界」の対置関係は一般的な意味でのファッションとい う言葉から連想される範囲を超え、人間と世界の関係における根本的な部分にまで射程が拡張される。「1 人の適 当な選択がいつのまにか確固たる輪郭を持った世界の様相を生成する」ということはファッションのファッショ ン性でもあり、同時にそれは人間の生そのものに直結している。

ある夏の大雨の日、私は花火を見に出かけた。雨に耐えられなくなりコンビニでレインコートを買い求めたが、 全て売り切れていた。代わりに小さいはさみとビニールシートを買い求め、その場でレインコートの代用品を自 作して凌いだ。 私はこの極めて偶然性に満ちた一連の出来事全体こそがファッション性だと痛感した。同時にそれは人間の生の パターンそのものではないかという思いが頭から離れなくなった。人間の生は結局のところ、偶然性に満ちたパ ターンの繰り返しでしかあり得ないのだろうか。その構造から逃れ全てを俯瞰して見ている客観的な観客は、存 在可能なのか。そんな思いに駆られる。哲学者メルロ・ポンティは「文字によって見せる(faire voir par les mots)」 という言葉を残している。文章を読んで、あるいは単語を聞いて視覚体験が立ち上がるとき、それは自分の思い 浮かべたいものを自在に選べるわけではなく、過去に蓄積された自分の経験のデータとの照合においてのみ可能 となる。そして蓄積された過去の経験は視覚的にも無意識的にも、偶然性にその大部分は支配されている。 即興で作られたその服は、出来合いのビニールシートで作られているぐらいだから、当然一度大雨に打たれてし まえば使い物にならない。その服は、その場で「生まれて死ぬ」というプロセスをあっという間に経験した。

今ファッションにおいて「洋服の終わり」と言った時、その終わり方は主に2つの仕方で見られる。1つはリサ イクル。そしてもう一つは、ファストファッションの問題点をテーマとする展示にしばしば見られる方法だが、 単純に大量の服を山積みにして「インスタレーション」として見せる方法。しかしここで私はそのどちらでも無 い、第三項の「服の終わり(死)」の見せ方として絵画化するという方法を試みる。 絵画に貼り付けられ「標本化」された服は、服としての機能を持っていない。しかしこれは絵画化されることで 服の機能が失われる(殺される)のではない。すでに使えなくなった服(死んでしまった服)の行き先としての絵 画化である。ポスト服時代のファッションにおける作品の条件の探求、ファッションの文脈にはとどまらない身 体性の問題。今回「ファッションの作品」として絵画を選択するのもそうした問題意識の延長にある。

今ファッションが取り組むべきは、現代美術とファッションの比較でもなく、フォルムやマテリアルをいかに 洗練させるか、ということでもない。制作全体を支えるバックボーンの再構築が必要であり、そこには現代美術 とファッションの垣根なんてない。今回の展示を通して、消費と流行のイメージと結びついてしまったファッシ ョンという語に対して、別の見方を届けられますように。

主な展覧会
クリエーショングループ:「Mjürk」として〈MEI-TEN:PARCO MUSEUM〉に参加。(2017:4月)

coming soon

新芸術校とは? ゲンロンとは?

ゲンロンカオス*ラウンジ新芸術校

ゲンロンカオス*ラウンジ新芸術校はゲンロンが 2015 年に立ち上げたアートスクールです。美術批評家の黒瀬陽平氏を主任 講師に、会田誠氏、椹木野衣氏、岡田利規氏、宮台真司氏ら、多彩なゲスト講師をお迎えして、美大とは異なる形で美術家を育成してきました。2017年度は、今期で3期目を迎え、プログラムをこれまでのレクチャーやワークショップを繰り返すものから、受講生による展示を中心に据えたものに大きく変更しました。 4 月から 9 月の展示指導の授業で学んだことをベースに、10 月以降は実際に展示を行います。

新芸術校 第3期 ホームページ

株式会社 ゲンロン

ゲンロンは、2010年春に起業されたベンチャー企業です。
ゲンロンの事業は大きく、(1)友の会運営、(2)ゲンロンカフェ運営、(3)出版の3つにわけられます。友の会は、ゲンロンの活動を支援する方々の組織です。会員向けに会報の発行や講座の開催を行っています。ゲンロンカフェは、東京の西五反田にあるイベントスペースです。作家や経営者や政治家を招き、多彩な講演・セミナープログラムを実施しています。出版は言論誌『ゲンロン』(旧『思想地図β』)の発行が中心です。この数年は震災後の日本を主題とした著作を送り出しています。ゲンロンは以上3つの事業を通じて、従来の大学や出版に囚われない、領域横断的な「野生の知」のプラットフォームの構築を目指しています。
哲学(フィロソフィー)とはもともと、古代ギリシア語で知(ソフィア)を愛する(フィロ)ことを意味する言葉でした。哲学の起源に戻り、知をふたたび愛されるものに変えること、それこそがゲンロンのミッションです。

株式会社 ゲンロン ホームページ

主任講師より

生き残れ、現代美術とともに。

現代美術はその歴史のなかで、何度かの「ターン(Turn)」を経験してきた。この数年で加速度的に深刻化した「ポリティカル・ターン」は、もはや逃れられない現実となりつつある。

国内に限って言えば、それはおそらく震災以後、着々と進行していた。出口の見えない閉塞感が社会に蔓延するなかで、人々は自ら、過度に神経症的な相互監視社会を作り上げた。そして自らあらゆる「表現」に対する無制限の「検閲」に耽っては、「炎上」という祭りを繰り返す。

90年代に流行した「PCアート」が、政治的正しさ(PC)を以て作品価値を担保しようとしていたのとは違って、「ポリティカル・ターン」以後の現代美術は、どのような内容であろうと、自動的に社会的、政治的メッセージに変換されることになる。そして、問答無用でポリティカル・コレクトネス・チェックを受けることになるのだ。

「ポリティカル・ターン」以後の表現は、まったく無害で、おそろしく退屈なものになることを宿命づけられている。しかし言うまでもなく、そのような表現は、現代美術の名に値しない。

だから現代美術は、現代の、後戻りのできない「ポリティカル・ターン」に抗して、自らのテリトリーを確保しなければならない。この冗談のような、そして悪夢のような現代から生き残るための術こそ、新芸術校という実験の場で探求されるべきものだ。

したがって、新芸術校の第3期は、より現実的で実践的、そしてシビアな競争をともなうカリキュラムにバージョンアップすることになった。

1年間のうち最初の半年は、主に講義とワークショップによって、知識とノウハウのインストールを集中的に行う。そして残りの半年で、実際に作品を制作・発表し、受講生どうしで「生き残り」をかけた競争が行われる。最終的に、成果展に出品できる受講生は、その競争で生き残った数名に絞られる。

もしかしたら、ここまで苛烈な競争原理を持ち込んだ第3期の新芸術校は、もはや「美術教育」ではないのかもしれない。しかし、既存の美術教育が、この現代から生き残る術を教えることができないのなら、私たちは変わらなければならない。

生き残れ、現代美術とともに。

黒瀬陽平|くろせ・ようへい

1983年生まれ。美術家、美術評論家。ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校主任講師。東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。博士(美術)。2010年から梅沢和木、藤城噓らとともにアーティストグループ「カオス*ラウンジ」を結成し、展覧会やイベントなどをキュレーションしている。主なキュレーション作品に「破滅*ラウンジ」(2010年)、「キャラクラッシュ!」(2014年)、「カオス*ラウンジ新芸術祭2015『市街劇 怒りの日』」(2015年)、瀬戸内国際芸術祭2016「鬼の家」など。著書に『情報社会の情念』(NHK出版)。

カオス*ラウンジ ホームページ

講評会

講師:飴屋法水

11月25日(土)
ニコニコ生放送ゲンロン完全中継チャンネルにて生中継予定 

飴屋法水|あめや・のりみず

79年、17才で唐十郎の「状況劇場」に参加。83年「東京グランギニョル」結成、演出家として独立。90年からレントゲン藝術研究所など美術の場に発表を移す。95年より「動物堂」で動物の飼育と販売に従事しながら、99年「日本ゼロ年」展、05年「バ ング ント」展など。07年、平田オリザ作「転校生」の演出で演劇に復帰。以後、FT、吾妻橋ダンスクロッシング、ポ・ナイトなどに連続参加。小説家朝吹真理子、山下澄人との共同制作や、大友良英、テニスコーツなど音楽家とのライブ共演も多数。

ゲンロン完全中継チャンネル

〒141-0022
東京都品川区東五反田3丁目17−20 2F
カオス*ラウンジ五反田アトリエ
※五反田駅より徒歩7分
2017年11月18日(土)〜11月26日(日)
※会期中無休
平日   15:00〜20:00
土日祝日 13:00〜20:00
※25日(土)は講評会の為 16:00〜20:00の開廊になります。

主催 株式会社ゲンロン
協力 合同会社カオスラ