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Yoshikazu
  Iwasaki
Former
 TBS
  Producer



岩崎 嘉一
元 TBSプロデューサー





岩崎嘉一 生地 沼津市 江浦

  岩崎 嘉一

岩崎嘉一 いわさき よしかず 元 TBS プロデューサー 日藝 出身 妻 脚本家 橋田 壽賀子

 元TBSプロデューサー。TBSテレビ(KRテレビ)開局メンバーの一人でもある。「ベン・ケーシー」「奥様は魔女」など外国ドラマを積極的に買い付けヒット
 テレビ映画「古都の雨」や「新妻鏡」、テレビドラマ「渥美清の泣いてたまるか」「プロフェッショナル」「氷点」「結婚」や「橋田ドラマ 見合い結婚」などをプロデュース。又、TBSを定年退職後も岩崎企画にて TBS金曜ドラマ「大家族」などをプロデュース。日藝出身。妻は脚本家の橋田壽賀子。後に橋田文化財団が設立される
 1929年8月3日静岡県沼津市生まれ。同窓に親交も深かった長沢二郎(1964年東京オリンピック競泳日本代表コーチ)や同郷にオリンピアンの小池禮三(1932年ロサンゼルス200m平泳ぎ銀メダリスト、1936年ベルリン200m平泳ぎ銅メダリスト)や岩崎恭子(1992年バルセロナ200m平泳ぎ金メダリスト)などがいる


岩崎 嘉一
足跡

いわさき よしかず
そくせき


1929年8月3日

 岩崎家の次男として静岡県沼津市江浦(えのうら)に生まれる

1942年3月

 静浦第一尋常小学校(現 沼津市立静浦小中一貫学校)卒業

1945年3月

 静浦尋常高等小学校(現 沼津市立静浦小中一貫学校)卒業

1945年4月1日

 15歳の時、船員であった父 彦次郎をタイタニック号の犠牲者を上回る世界史上最大2000人を超える犠牲者を出した海難事故「阿波丸事件」で失う

1948年3月

 静岡県立沼津中学校(現 静岡県立沼津東高等学校)卒業

1948年

 父を失った嘉一は東京の大学で芸術を学びたいという希望をかなえる為、一年間地元で漁師となり大学進学の学費を稼いだ

1949年4月

 日本大学入学 当時の三島(静岡県)教養部キャンパスへ

1951年4月

 日藝 江古田キャンパスへ

1953年4月

 株式会社ラジオ東京(現TBSホールディングス)へ入社。報道記者、ドキュメンタリー放送などを手掛ける

1955年4月

 テレビ局の開局メンバーとしてラジオ東京テレビジョン(KRテレビ、現 株式会社TBSテレビ)へ。「ベン・ケーシー」、「奥様は魔女」など外国ドラマを積極的に買い付けヒット
 編集局企画部課長、映画部兼企画部副部長など歴任

1966年5月10日

TBS創立記念日に脚本家 橋田壽賀子と結婚、新婚旅行は台湾へ(父 彦次郎が阿波丸事件に遭遇した台湾沖の海を見たいと

1969年

 連続テレビ映画「古都の雨」や「新妻鏡」、テレビドラマ「プロフェッショナル」などをプロデュース

1970年代

 テレビドラマ「氷点」のプロデュースなどテレビ局激務の傍ら週末に時間を見つけては沼津の海(駿河湾)に出た。船乗りの父、叔父、義弟、そして自身の漁師経験、海を愛し沼津に自分のボートも所有していた嘉一は甥姪をかわいがり、静浦の沖合で釣りを教えいつも大漁であった

1977年4月1日

 嘉一ら阿波丸事件犠牲者遺族一同は港区芝の増上寺に多方面の協力を得て阿波丸慰霊碑を建立

1980年代

 テレビドラマ「結婚」や「橋田ドラマ 見合い結婚」などをプロデュース

1984年8月末

 TBSを55歳で定年退職、岩崎企画(千代田区三番町) 代表取締役。金曜ドラマ「大家族」などをプロデュース

1989年9月27日

 永眠(享年60歳)肺がんであった。築地本願寺にて通夜葬儀

阿波丸事件

岩崎嘉一 いわさき よしかず 元 TBS プロデューサー 日藝 出身 妻 脚本家 橋田 壽賀子


1945年4月1日
 嘉一の父彦次郎乗船の緑十字船(連合軍が安全航行の保証を与えている船)阿波丸(日本郵船)はシンガポールから日本へ帰国途上台湾海峡にてアメリカ軍潜水艦クイーンフィッシュの魚雷により撃沈された。
 タイタニック号の犠牲者を上回り2000人を超える世界史上最大の犠牲者を出した海難事故、世に言う「阿波丸事件」である。乗船者のうち生き残ったのは、日本郵船一等厨房員であったKS氏一人と言われ彦次郎も命を落とした。
 そもそも阿波丸は南方のアメリカ人捕虜及び市民らに救援物資を運搬するため、連合軍からの依頼により安全を保障された上、人道的見地から運行されたものであった。しかし、結局米軍からの補償はなく、代わりに遺族には1949年国から殉難者一人7万円の補償があった

1964年
 阿波丸遺族会結成


1977年4月1日
 嘉一ら阿波丸事件犠牲者遺族一同は港区芝の増上寺に多方面の協力を得て阿波丸慰霊碑を建立。


1979年
 阿波丸が中国により台湾海峡から引き揚げられ、遺骨は増上寺で遺族ら約800名が参加して納骨法要、遺留品約1600点も増上寺に届くが残念ながら嘉一らは彦次郎の遺品を見つけることは出来なかった


1994年
 慰霊祭(五十回忌)開催


嘉一の兄妹
 嘉一は岩崎家(父 彦次郎、母 けい)二男三女の次男として 1929年8月3日に生まれる
岩崎嘉一 父 彦次郎

 岩崎家は海の男達の家系で、彦次郎(嘉一の父)は喜代丸、辨天丸の船主として静浦で海運業を営んでいた


 彦次郎の弟(嘉一の叔父) 蔵次郎も海運業を営み、第二、第三辨天丸の船主であった

 彦次郎の兄(嘉一の伯父) 兵助は戦前新天地を求めアメリカへ渡り事業を興している

 岩崎家長男(嘉一の兄、故人)は元 沼津市三役の一人(収入役)、その長男(嘉一の甥、故人)は元沼津市歴史民俗資料館長

 長女(嘉一の妹)は長沢二郎(1964年東京オリンピック競泳日本代表コーチ)と静浦村国民学校(現沼津市立静浦小中一貫学校)にて6年間同級で嘉一と共に親交が深かった。夫(嘉一の義弟)は化学者で英国ロンドンのロイヤル・ダッチ・シェルにも勤務、シェル石油株式会社(後の昭和シェル石油株式会社)元中央研究所長

 次女(嘉一の妹、故人)の夫(嘉一の義弟)も船乗りで世界中の海を股にかけ、引退後の現在も健在

 三女(嘉一の妹、故人)夫(嘉一の義弟)長男(嘉一の甥)と人気のシュークリーム店を静岡県内で半世紀に渡り複数店経営(コロナの影響もあり、2022年3月末をもって閉店)。