1974.4.13 | 兵庫県神戸市垂水区で、井ノ口家の次男として生まれる |
1979.3 | 明石市二見町に引っ越す |
1981~ | 明石市立二見北小学校で勉学。 |
1987~ | 私立 淳心学院中・高等学校で6年一貫教育を受ける |
1993~ | 山口大学工学部応用化学工学科に入学。 |
1997~ | 山口大学大学院理工学研究科応用化学工学専攻に進学。 |
1999.4~ | (株)石川島岩国製作所 入社(山口県岩国市) 機械技術屋として歩み始める |
2001.11~ | (株)アルバックへ移籍(神奈川県茅ケ崎市) 真空装置技術屋となる |
2005.1~ | 旭硝子(株)へ移籍(神奈川県横浜市) エンジニアリングセンター配属 |
2006.12~ | AGCエレクトロニクス(株)へ出向 |
2009.9~ | 旭硝子(株)京浜工場設備技術センターへ |
2012.9~ | 旭硝子(株)生産技術センター 企画推進Gr |
2016.9~ | 旭硝子(株)生産性革新推進部 |
2018.7 | 旭硝子はAGCへ社名変更。 |
2020.1 | AGC株式会社 退職 |
2020.2 | 起業:ココロ・ヅクリ工房株式会社設立 |
2023.1 |
同社 休業。 |
2023.1~ |
岩田硝子工業株式会社 製造部部長代理 |
2023.12 |
同社 退職 |
2024.2024.3 |
ドイツ品質システム認証株式会社 ISO9000 審査員補 |
1981~ | 明石市立二見北小学校で勉学。 |
2005年 1月 旭硝子株式会社 へ転職
エンジニアリングセンター
EEグループ 配属
郡山サイト 関係会社
旭ファインマテリアルズ株式会社
(現AGCエレクトロニクス株式会社)
の事業の一つである
合成石英製造装置の開発・導入・改善
に携わる
工場建設、製造装置導入の
プロジェクトに奔走。
当時、世界最大規模の石英製造・供給体制
に寄与(社長表彰受賞)
2006年12月 旭ファインマテリアルズ株式会社(現AGCエレクトロニクス株式会社)へ
休職派遣(出向)
設備技術センター 配属
合成石英製造装置の
開発、工程改善など担当。
光素子の製造装置導入、
工程改善
を担当する。
奇しくも、時は、東芝のHDDと
ソニー・パナソニックのブルーレイの競争下、
どちらの装置にも使用されていた部品
を製造する装置であった。
QMS推進と図面管理者を担当。
2009年 9月 旭硝子・京浜工場へ復帰
(出向解除)
設備技術センター 配属
・ガラス製造設備(窯・研磨設備他)の保守
・装置開発、導入
・原料調合設備他、コストダウン施策の推進
全社で社長表彰案件あり
・90年以上経過の工場の修繕班を組織
クレーン・エレベーター・コンベアの
定期点検・保守推進
・OHS-MS担当となり、社員教育、
禁煙啓蒙、安全指導など
また、内部監査員の資格を取得し、
他部門の内部監査も担当
・東日本大震災の際には、
工場の開発装置の停止状態の巡回、
その後の非常用発電機設置の手配担当
など
2012年 9月 生産技術センター 配属
企画推進グループ
開発推進チーム 配属
主には研究開発のアシスト、
組織の強化策立案・実行
2010年に研究所の一部と
エンジニアリングセンターの一部が
組織化されて誕生したため、
組織の枠組み作りから開始しており、
安全・OHS・EMSなどISO活動も
組織化、意識化されておらず、
まず、人員整備、人材育成など
体制作りを実践。
・戦略コンサルタントを導入し、
次の開発案件の種の検討
・既存開発案件の整理、改善案の立案
・研究開発費用の管理
・人材育成計画の立案
・省エネ/防災事務局
・戦略的な会議
(技術報告/進捗/予算決定など)の
開催調整
・開発棟ビル管理
など、組織の管理部門の役割を担当。
2014年 京浜工場のBCP
(事業継続計画)を策定。
研究開発部門では、社内初の事例。
他方、技術者の横断的ネットワーク活動
においては、バイオ分野に参画し、
バイオ分野での成長性のある案件
の調査などに携わる
2016年1月 生産技術部 企画・管理Gr
育成・管理T 配属
エンジニアリングセンター、
生産技術センター、
中央研究所の再編があり、
エンジニアリングセンターを母体
として、生産技術センターの約半数
のプロセス系の人員が合体した
部門が生産技術部として発足
・業務内容は、前述の生産技術センター
時代の業務の継続
但し、文化の違う組織が合体した
ため、各部門の方式の統一化・
融合化に着手
輸出管理事務局 拝命
研究開発系輸出管理を全社の窓口担当
と連携を執りながら実施
2016年9月 生産性革新推進部 配属
各拠点の改善支援
(主に、鹿島工場、千葉工場の
化学品事業支援)
・基礎化学系プラント運転条件見直し
改善施策実施
・某ポリマー生産能力UP提案施策
実施。約40億円の純利益増に貢献。
また、2017年からは、組織活性化施策活動、
LEGO® SERIOUS PLAY® メソッド
活用認定ファシリテーターとして、
社内外へ組織活性化に貢献。
2017年5月~11月
・相互理解をテーマに、計10回開催
(全部署員対象63名)
・リーダー向け、楽しい働き方をテーマに、
計2回(12名)
・2018年1月 堀場製作所、
ステンドグラスプロジェクト
(7名)を招き、同研修実施
・2018年 社内某事業部 22名
関係会社某事業部 7名
広報・IR 4名
某技術部某チーム 30名
関係会社 48名
・2019年 関係会社 18名
新人研修 6名
社内某部 23名
社内某事業部 10名
社外交流(製鉄会社) 7名
など
他方、
2018年7月 兼業許可を得て、
ファシリテーター業務を社外で活用。
(正式な社内兼業許可第1号)
※参考情報
・現在、日経新聞主催、シニア起業塾
コンサルタントの赤羽雄二先生起案
プログラムである、
「40歳からのネクストチャレンジ」
第1期生起業支援の勉強会に参加中。
(600人規模起業塾:
食と農、デジタルヘルス、人材育成)
・LEGO® SERIOUS PLAY® 分科会:
500人規模のネットワーク交流中
主な実績として、
某オフィス関連企業:
自分たちの会社の価値と各人の役割の確認
シンガーソングライターの曲作りのお手伝い
(入日茜さん+スタッフ3名)
他、大規模から小規模案件多数。
・マンダラエンディングノート
ファシリテーター
・一般社団法人だじゃれ活用協会認定
ファシリテーター
などを基に、2019年1月、人材育成勉強会「ココロ・ヅクリ工房」を立ち上げ、人を元気にする、活性化する活動を展開。
社内外で2019年まで、約120回の研修・ファシリテート実践。
2020.1 AGC株式会社 退職
2001年11月 株式会社 アルバックへ転職
産業機器事業部 設計部 配属
主に蒸留装置担当
翌年、同事業部 第一技術部 配転
真空凍結乾燥装置(フリーズドライ)
真空蒸留装置など
食品、医薬品業界向けの技術開発、
販売促進など担当
(わかもと製薬、テルモ、理研ビタミン、
聖マリアンナ大学など他多数)
また、翌年から、第一技術部に
熱処理装置も加わったため、
真空熱処理装置(焼入れ。焼きなまし)
の装置技術も担当
(NKK富山(現JFEマテリアル)、
諏訪熱処理、合志技研、東京濾器他多数)
2004年7月からは、
製造部 試運転グループ 配転
納入先に伺い、
電気回路・シーケンスを
読みながら、試運転担当
(東京濾器、渡辺冶金など)
会社規模としては、
当時、5000人。
一部上場するかどうかという時期。
ここでの経験は、何もかもが新鮮で、
岩国時代からのレベルアップが格段に
図れた時代。
化学系の装置、食品・医薬品の装置に
携われたことでモチベーションが上がった。
真空技術を吸収しようという意欲と
若さが融合した時期だった。
仕事は、深夜まで、
ひどいときは、3時間だけ帰って、
翌朝、出張ということもあった。
お客様に提示する図面、資料などの作成
が追い付かず、綱渡りで何とかしていた、
バタバタの会社だった。
一方で、現場に行かせてもらい、
現場を担当させてもらえるので、
仕事は早く覚えられ、楽しかった。
特に、2003年に、富山の製鉄会社に
納入した大きなバッチ式の真空炉
これが、ここでの集大成のような気がする。
技術~試運転まで。熱による歪みトラブルで、
設計のやり直し、試運転担当者との意思の疎通が
うまくいかず・・・
仕事のトラブルがすべて集約された時期
だったのかもしれない。
ただ、この経験があったため、
今の私が、戒めとしている部分が
多くのあるように感じる。
内部の人との接し方、
お客様との接し方、
客先での振る舞いなど
多くを学べた。
また、乗り越えた苦労の分、
成長できたと思った。
結局、足掛け3年関わり、
延べ滞在期間、半年くらいだった
と記憶しているが、
帰れない状況で、どう楽しむか
与えられた条件の中で、
どう対処するかが学べた。
とは言え、富山は楽しかった。
食が充実、酒が充実。
滞在先のホテル、宿を変えていきながら、
エンジョイし、満喫した。
雨晴らしの岩、如意の渡り、風の盆
何とも風情のある人々、
今でも好きな地域の一つになっている。
何故、辞めたのか?
今でも辞めなくてもよかったと思える会社。
多分、旭硝子に受かっていなかったら、
辞めずに勤めていたはず。
ただ、当時は、二流半の人が多かったかな・・・。
例えば、目の当たりにしたのが、
とある製造部の主任が、
今度の出張先にどこの下請けを連れて行こうか
考えたときに、下請けの社長が主任に忖度が
始まり、商品券、接待、季節外れのお中元、
お歳暮など・・・。
(これ以上は書けません・・・)
ここに居ては、人として狂ってしまうと
思った矢先、旭硝子の募集があった。
茅ケ崎のある小料理屋のおかみさんから、
「一流の会社には、一流の考えや精神がある
あなたはここに居る人ではないので、
旭硝子に受かったんなら、行きなさい」
と背中を押してもらった。
涙が出るくらいうれしかった出来事。
1999年4月 株式会社 石川島岩国製作所入社
技術部 産業機器設計課 配属
加熱炉装置の設計に携わる
初年度より、金属系メーカーの溶解炉、
溶融炉の一部を設計
(三井金属鉱業、住友金属、
IHIエアロスペース向けなど)
翌年、技術部 真空・新素材設計課へ配転
真空加熱炉(主に焼入れ、焼きなまし)
の設計・製作に携わる
金属冶金メーカーをはじめ、
バネ、重工業業界向け案件担当
(東海バネ、日本発条、住友金属、
川崎重工など)
・安全担当として、職場の安全活動に参加
・改善提案表彰など
(出典:写真は、IHI機械システムHPより)
当時、就職超氷河期と言われた時代。
自分のキャリア形成のため、と言うよりは、
「就職浪人」とか「第2新卒」という言葉すら
無かった時代であり、
「就職すること=当たり前」の価値観が
根強かった。
山口大学から推薦をもらい、
何とか職を得たのが実態であった。
当然ながら、大学の専攻の延長線上なんて、
選べるはずもなく、
学生時代に習ったこともなく、
見たことすらなかった
”機械系技術、電装系技術”の世界に
入ることに・・・。
何事も勉強という意識が強かった新人時代。
お金をもらいながら、
初めてのことを仕事でやっていく・・・。
恥ずかしながら、
ここでの社会人デビューは、
未熟だったという言葉がピッタリ。
馴染みのない世界で戦うことは、
正直、どれだけしんどかったか。
でも不思議なことに、
ここでの経験が技術屋として、
人としての原点になっているように、
今となっては感じるところ。
会社規模は、当時、200人弱。
真空熱処理炉(バッチ式では、シェア1位)
昔から、得意の溶鉱炉の製作などを
本社が受注したものを請け負う会社。
何故、辞めたのか。
①若かったから。
自分は、こんなところで終わってたまるか、
と思っていた。
正直、大学院を出たという自負、
学んできたことが活かせない世界
福利厚生のあまりない会社
(本社の制度がほとんど使えなかった)
労働環境が悪いと感じていた。
②処遇の面への不満
①にも書いているが、
給料が安かったのは、事実。
当時、IHIの本社の新卒で、22万円くらい
だったか
私の初任給が、18万円、
手取り、12万円・・・。
次年度も、2千円くらいしか上がらず・・・。
やっていけない・・・と正直に思った。
そんなこんなで、イライラが募ったところに
設計⇒試運転への配転(2001年)
気に入らない奴を現場へ飛ばす、
誰からも嫌われていた某部長O氏の意向
だったと聞いた。
これで、The END だった。
配転を知らせる当時のI課長との面談で、
啖呵を切った、
「どうなるか、覚えていろ!!」
と言ったのを覚えている。
(正直、今、思うとよく言ったと褒めたい。)
これだけやっても、
変われない組織は、やっぱり変われない。
当時は、変化した方が組織のためになる
なんて考えを持って働いている人は
ほとんど居なかった。
残せた実績は、あまりないが、
よくしていただいた先輩の息子さんの
家庭教師を無償で行った
(夕食をごちそうになる代わりに
高校受験の教科を教えることに)
9月くらいから、週3日くらいだったか
このご子息に、学ぶことの面白さを
体感頂けたのが人としての成長かな・・・。
住環境としては、
製紙会社から出る排煙は、ちょっと臭かった。
山口県自体、自然には恵まれている。
錦帯橋、錦川の鵜飼い、鮎、レンコン、
かなり食と趣味を楽しむにはよいところ。
岩国付近は瀬戸内でも比較的、深い海。
浅瀬では、サヨリ、岸壁からは、太刀魚、
ベラ、アイナメ、クロダイなどが釣れる。
田舎の良さがある土地、地域。