瞑想の儀

瞑想家 公慈

◯瞑想とは
行うものではない
それは起きるものだ
全体性の一部であるが故に、それは起きるのである
冬は春となり草木に新緑が香りを奏でる風景が演出される
その演出家は「あなた」なのである
ただ目を閉じて座っていなさい
そうすれば瞑想は演出されるだろう

◯瞑想とは
エゴと戦うことではない
エゴは人間のあなたに関連づけられている以上、自分が自分と闘って勝てるということではない
エゴは神(根源)によって、あなたの生命の向上のために肉体と精神に与えられた以上、それを受け入れることしかないのである
したがって瞑想とはエゴを受け入れる行為でもある
令和元年十月七日 公慈拝

◯瞑想とは
心を真我に明け渡す行為である
生死を含め人生さえも自然という法則に委ねられたらそれは出来る
その先にあるのは絶対的調和による幸福感だけである
令和元年九月二十六日 公慈拝

◯瞑想とは
己の中の世界を調和させる唯一なる行為である
つまり肉体と精神の意識が生命に統合され「一つ」になることである
それが真我なのである
令和元年九月二十五日

◯瞑想とは
神仏を教えの概念とする宗教を正しく改革する本質なる所作である
つまり「神仏さえも殺してしまえ」ということである
神仏論にとらわれた己れは己れの神仏論以上にはならないのである
私が神仏を語るときは「真我」の同義語としての意味を持つ
人間の精神機構に合わせた解釈を講じているに過ぎないのである
したがって、人間はある一定のレベルに到達するまでは神仏論は必要なのである
あなたの中に厳然と存在する神仏を信じなさい
そして、いつかは、必ず現れる「それ」を待ちなさい
もともと思想といわれるものは東洋と西洋の二つが存在する
この両者の違いは宗教を見れば明らかである
お互いに相容れない思想は人類の進化に意図して自然発生的に起きたのである
そしてこの結末は如何に
いまここで私が発言するには波風が立つ
したがって結果を待つことにしよう(笑笑)
令和元年九月十九日 公慈拝

◯瞑想とは
心を征服することである
真我とは無執着である
無執着とは対象が存在しない故に
愛するという対象さえない
これが愛そのものだという所以である
様々な感情を味わうのは
心という対象があるからに他ならない
心を自己と同一視している限り
右に左に揺れ続ける心の振り子が止まることはない
自己を心から切り離しなさい
心を静かに観照しなさい
心の感じるままに自己を委ねることほど愚かなことはない
瞑想とは心を観照することである
心に惑わされずに見守るだけの余裕があれば
真我に一歩近づいたと言えよう
令和元年九月十五日 公慈拝