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自らの作品におけるドローイング的な部分は、タブローの仕事に向かう前の言葉によるドローイングの段階と、タブローにおけるドローイング的な部分の二つに大別できる。
「言葉によるドローイング」は、紙に文字を書きつける行為を通して、自分の現状を確認し、タブローに向かう内面と身体(手)を準備する役割を担う。時分の作品には毎回明確なモチーフがあるが、それらをデッサンするのではなく、言葉の羅列で書きとっていくのだ。
文章になっていないものも含めて、その時々の関心や、感情、置かれている環境、疑問視していることなどをどんどん書き綴っていく。紙の質は問わない。手帳や新聞紙など、なんでもかまわない。
メモには、モチーフやコンセプトについてはもちろん、どういった色彩にするか、どういう意識でマチエールを作りたいか、といったタブロー制作における具体的な内容も含まれる。
これはその時の自分のコンディションなども影響している、本当に私的なもので、メモを作品として提示することは今までしておらず、これからもするつもりはない。
タブローに向かう前のメモは、自分の制作にとって、建築物の芯にあたるものだ。描くということが絵筆を持たずにすでに始まっている。書くというアクションに身体性が伴っている。繰り返しの言葉も出てきて、媒体に言葉を打ちつけるようにリズムをとって、制作に向かう準備体操を行う。
そこで自分の表現が終わるわけではなく、自分自身の状態を確認した上で、タブローの仕事に移っていく。
「タブローにおけるドローイング的な部分」は、流動性や仮設性が残った状態で完成とする点にある。明確なモチーフを、歪ませたり裂けさせたりすることで見えづらくし、見る者が対峙したときに初めて成り立つ作品を目指している。そのため、作品単体では仮設的、ドローイング的であるといえるだろう。
また、線的な要素が強いという点でも、自分の作品はドローイング的であるといえよう。
文字によるドローイングから出発し、鑑賞者との対話を最終的な目標と考えている、言い換えれば読ませる作品を目指しているという意味で、ある種象形文字的な要素があるのかもしれない。
しかし、制作の過程でタブローは文字や表層意識とは違う方向へずれていき、自分の作品はあくまで「絵」として完成する。