27歳で開業した富屋食堂が、陸軍の指定食堂となり、陸軍知覧飛行場の飛行隊員たちが訪れるようになる。
若い隊員たちを息子のように慈しみ、親身に世話をし、知覧から出撃する特攻機を見送った。憲兵の検閲を避けるため、隊員から託された手紙を代理で投函。一人一人の隊員の出撃の様子を自ら手紙に綴り、全国の家族の元へ送り続けた。
戦後、特攻隊員の遺族や生き残った隊員が知覧を訪れた時にと、当時隊員たちの憩いの場として使った離れを買取り、富屋旅館を開業。語り部として当時を語った。
昭和30年、特攻隊員の若者達の尊い犠牲を忘れないため、自費を捻出し「知覧特攻平和観音堂」を建立。
花を絶やさず慰霊を続けた。享年89歳。