Colum

純粋な“わたし”を表現する

愛されることを制限していませんか?


進級や進学、引越しや仕事が
変わるとき、今までの価値観が通用しなくなったり、

やることや覚えなきゃいけないことがどんどん増えたりして、
焦ったり、戸惑われたりすることがあると思います。

そんなとき、周りに気を配り、相手を気遣い、自分を抑えることが出来てしまう方は、少し疲れを感じやすくなりますよね。


そういう方は、きっと大人になるにつれて、周りに合わせて生きる術を習得されてきたのだと思います。

それはそれで素晴らしいことなのですが、合わせすぎて疲弊してしまっているのなら、

もしかしたら、自分に制限しているのかもしれません。


調和させるために、どちらかが「我慢する」「遠慮する」「犠牲になる」といったことを続けていると、

比較が生まれ、批判が生まれ、不足感のある世界になります。

それは辛いですよね。


私たちは未熟なとき「嫌われたくない」「傷つきたくない」そんな想いから、
自分を守るために「表現する」ことを諦めてしまうことがあります。


そうなってしまったのは、かつて純粋な自分を表現した時に嫌な思いをしてしまった経験があって、周りから愛されることを制限してしまったからなのです。


もし、受け入れられなかったら

もし、期待に応えられなかったら

もし、失敗したら・・・

そういう恐れからブレーキをかけてしまうことがあるのです。

自分を表現するとは、


でも、それを散々やってきて、いろいろな経験を積まれてきたのなら

「わたしを生きたい」という想いが、強くなっているのではないでしょうか。

だからこそ、感情に敏感になることが大切で、感情の奥にある「本音」に気づくことが必要なのです。


「もっと自分を表現したい」

そう思っているのにそれが出来ないから、イライラしたり、悲しい気持ちになったり、不快な気持ちになるのですね。


「自分を表現する」ということは、感情を全て出すということとは少し違って、

感情の奥にある「純粋な“わたし”という、存在そのものを出す」ということです。

そのままのわたしを表現したら、「愛されないんじゃないか」そう思ってしまうと、表現することに躊躇してしまいますよね。


結局のところ表現できないということは

自分を愛することも

愛されることも

周りを愛することも

制限してしまっているということです。

自分を愛する人は、全力で自分を愛して、周りも愛します。

自分が愛されていることを知っているし、愛されることも受け入れています。

時空を超えて、世界と出会う


実は、「愛すること」「愛されること」は、全部いっしょに在していて、

そのふたつが同居する世界を知ったとき、
わたしたちは、自分を表現したくなるのです。

わたしで生きること

自分自身を愛すること

それは、時に

孤独に感じることがあるかもしれません。

不安や恐れもあるかもしれません。

それらは、なかなか消えてくれないかもしれないけど、少しずつ、少しずつでいいからちょっとの勇気を持って

「エイ、ヤー!」

一歩を踏み出せたらいいですよね。


目には見えなくても、わたしたちは沢山のものを受け取っていて、自分の中にも溢れんばかりの豊かさがあります。

それをいくらでも使ってよくて、どんなものをクリエイションしていい自由を与えられているのです。


近くで見ていると気づけないことも、視点をあげると気づけることがあるように、

平面の2次元の世界を見るときは、3次元の世界から見ることで立体的に見ることが出来るように、

わたし達の住んでいる世界を見るには、3次元より次元を上げる必要があるのですね。

自分を超えて、時間と空間を超えて、見えてくる世界があるのです。


自分を堂々と表現するとき、「わたし」は本当の意味で世界と出会い、世界との協力関係を創ります。


そして世界と一体となって、自分を表現することが出来たとき、なんとも言えない至上の喜びを感じることが出来るのです。


そんな時間を、日々の暮らしの中で、少しでも多く感じながら過ごしていきたいですね。

計りは自分の中にある

『私はこんなにやっているのに・・・』

日々の生活の中で、つい人と比べて自分に優劣をつけて、相手や自分を責めてしまう事ってあると思います。


なかなか望んでいる結果が出なかったとき、焦る気持ちと不安な気持ちに、押しつぶされそうになってしまいますよね。


やりたいことであったとしても、自分の核となる想いが曖昧だと気持ちが揺らいでしまい、続けることが苦しくなってしまうものです。


自分が上手くいっていない時、

『自分はこんなにやっているのに、何であの人は・・・』

人のことが羨ましく見えてしまうこともあります。


でも、その相手がどれだけ努力をしているかなんて、本人にしかわからないのです。


身近にいる人に対してもそうです。

『私はこんなにやっているのに、何で何もしてくれないの』

そう感じることもあるかと思います。

実際にその人は、何もしていないのかもしれません。

でも、自分が気づいてないだけで、
何かをしているかもしれないし、
自分が望んでいることをしてくれていないだけで、
その人なりにやっていることがあるのかもしれないのです。

自分という存在を極めていく


私たちは、自分が見たいようにしか世界を見ていません。

そのことは、いつもこころの何処かに置いておく必要があると思うのです。

私たちは、自分で自分のことが見れないから、
『相手を見て自分を知る』ということが必要です。

でもその世界は、どうしても比較が必要なんですね。


比較はジャッジを生み、善悪や優劣を生みます。

正義を生み、争いを生み、我慢や遠慮や犠牲を生むこともあります。


それらを散々やってきたのなら、

『自分という存在を極めていく』

フェーズに入っていく番です。

個を極めながら、社会にも適用するように磨きあげていく。


そして、個を極めた者同士が出会い、協力し合うからこそ調和した世界になります。

その世界では、比較は必要ありません。


自分が頑張ってきたこと、体験してきたことは、自分にしかない経験です。

それは、誰とも比較は出来ないし、本当は比べる必要もないですよね。


自分が何をしてきたのかは、自分が一番よくわかっています。

後悔するのは、失敗したからではないのです。

本当の自分に出会うプロセス


何処かで諦めてしまったり、手を抜いてしまったことを、自分が一番よく分かっているからではないですか。

後悔したことは、なかなか抜けない小さな棘の様に、自分の心に刺さったまま残ります。


だからね、やると決めたことは信じてやってみると良いと思うのです。

たとえ人より時間がかかったとしても、上手く出来なかったとしてもです。


それは間違っていることかもしれないし、無意味に感じてしまうことかもしれません。

それでも、そうやって遠回りしたことは、決して間違いでも無意味でもなく、本当の自分に出会うプロセスであり、経験値となるのです


出来なかったとしても、続かなかったとしても、ただそうであったというだけで、その自分を本当は責める必要などないのです。


そこまでしか出来なかった自分はそれとして認め、そんな自分を甘やかすわけでもなく、自分の限界をちょっとでも超えていくつもりでやってみる。


それで良いのです。


続けていくことで自分の枠が少しずつ広がって、気がつけば『ここまできたんだ』ということになるからです。


そんな未来の自分を楽しみにしていたら良いのではないですか?


計りは自分の中にしかないのですから、

『自分なりに頑張ってきた』

清々しくそう言い切れる自分で在りたいですね。

“わたし”で在るために、自分を知る

その「欲しい」は本当?

欲しいと思って買ったはずなのに、手に入れてしまったら、「なんで買っちゃったんだろう」とか、
「せっかく買ったのに活躍してないな」と感じた経験はありませんか?


「手頃だったから」「取り敢えず必要だったから」と、自分の中で割り切れているなら良いのですが、


「欲しい」と思ったその奥に、不安や誰かの価値観が潜んでいるということが多々あるんです。


例えば、お店の人が語る世界観に乗せられて、その時はステキだなと思ったけど、本当はそういうスタイルを望んでなかったとか


これを着たらカッコイイだろうと思ったけど、本当は周りから認められたいだけだったとか


ステキだと思ったものでさえ、自分が本当に欲しいものではなく、不安感からきているのかもしれません。


ネットは、より顕著かもしれませんね。

「あなたへのオススメ」が出てきて、自分の不安を揺さぶられる様なモノは、手に入れたくなってしまうものです。


アルゴリズムによってマニュアル通りに仕組まれた世の中では、「自分にとっての価値」を追求することが、より大事になってくるのだなと感じています。


自分の存在そのものに還っていく


これは、モノに限ったことではないですよね。

自分が今まで、
時間とお金と労力をかけて習得してきたものや、
愛着を持って取り組んできたことが、
AIの発達によってたやすくコピー出来てしまう時代に突入しようとしています。


そうなった時、自分の価値を証明する為に手に入れてきたものに対しては、危機感を感じるかもしれません。


「自分が大事にしたいことはなんだろう」

「自分は何の為に生きているのだろう」

「自分の価値ってなんだろう」

という様な、掘り下げざるおえないテーマに、直面するかもしれません。


こういう話をすると、不安に感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、

自分の価値を証明するために身につけた価値観に気づいて、自分の存在そのものに還っていくチャンス

なのではないかと思うのです。


これからの時代、技術的には、合理的・効率的に物事が進んでいくのは間違いないですよね。

ですが、人間が進化して目指していく先は、本当にそこなのかなという疑問もありませんか?

合理的・効率的に済ませたいものもあれば、損得ではなく、大きな手間ひまをかけてもやりたいこともあると思うのです

それは、物理的に得るものよりも、

「こころに何かを得たい」

のではないでしょうか。

本質を見極める


本当に得たいものというのは、

誰かが語っている素晴らしい世界ではなくて、

物質やお金で変えるものでもなくて、

もっと感覚的なものだと思うのです。

それを自分の “コア” や “本質” と言います。


もっと幸せにならないと

もっと自分を癒さないと

もっと満たさないと

もっと賢くならないと

もっとステキな人生を手に入れないと私は生きていく価値がない


そうやって、どこか不安に囚われて身につけてきた価値観や、 “人・モノ・コト” ではなくて、

自分にとっての美意識

自分が生きるうえで大事にしたいこと

素晴らしいと感じるもの

この価値を大切にしていきたいと思うものを、

例え人から理解されなかったとしても「貫いていけるか」どうかが問われている気がするんです。


自分にとって重要ではないものは、合理的・効率的に済ませ、その空いた時間を自分のコアや本質に触れる時間に当てていく。


自分の持っている “非合理性” と “合理性” を繋げることが、これからの時代の大きなテーマになってくるのではないでしょうか。


“わたし” 自身で在るために、自分自身を知る

ということが、とても大事になってきます。


技術革新や価値観の変化、時代のルール変更に対して、

“自分はどう向き合っていくのか”

“自分は何を感じ、どう生きていくのか”

改て考えることが必要な気がしています。 


そして、自分が大切にしたい “人・モノ・コト” を大切に出来るように、

“本質は何なのか” 見極められる目を養っていきたいですね。