不死身の起業家からの「招待状」


「孤独の中に金を掴め」

これは挑戦状だ


全ての男たちへ


不屈の戦士たちへ


毎日が不完全燃焼


そうだろ?


悔しくはないか?


虚しくはないか?


ならば求めろ


力を


そして掴め


全てを


自己紹介

職業は起業家。育ちは中流。

 

よく人から聞かれます。

「起業家になるための資質は何か」と。

 


私はこう答えます。

「飢えていることだ」と。

 


起業家か奴隷か

始めに、結論を言ってしまいます。


起業しないと、全ての人は一生奴隷のまま苦しむことになります。

 

まず、前提として、サラリーマンはどれ程働いても豊かになりません。絶対に。

 

副業も、死ぬほど頑張っても稼げる人は少数です。ブログで稼げましたか。Youtubeで稼げましたか。不動産投資で稼げましたか。他でもない、あなたに聞いているんです。どうでしょうか。1円でも稼げましたか。

 


転職も、無駄です。「今の会社が辛いから転職したい・・・」と思っている方は多いですよね。



しかし、無駄です。なぜならサラリーマンという枠組みの中で、ぐるぐる回っているに過ぎないからです。転職エージェントは「転職すれば幸せになれる」と言い張ります。しかし、大嘘です。彼らは、転職者がいないと稼げないんです。

 

じゃあ、学歴が高いと幸せになれるのでしょうか。答えは勿論ノーです。もはや、高学歴でもお金を稼ぐのは難しい時代になっています。東大卒でワーキングプアになる人が沢山いるのは、知っていましたか。あなたは大学どこを出ましたか。東大ですら職にあぶれるこの時代。低学歴なら?言うまでもないですよね。

 

学歴ごとき。たかが学歴ごとき。それだけの理由で、特別な高待遇を受ける時代ではありません。

 

 

 

会社で出世するほど「優秀な奴隷」になる話

超有名大学を卒業して、大手企業で出世コースに乗ると、人はどうなるのでしょうか。答えは「優秀な奴隷」になります。

 

なぜなら、会社勤めが長くなるほど、起業家に必要な「発想力」や「決断力」が弱体化するからです。そして、企業側にとっては、その方が都合が良いわけです。

 

あなたは今何歳ですか?

20代?

30代?

40代?

はたまた50代?

 

「実力をつけてから起業したらいい」と思っていませんか。その考えは甘いですよ。会社で働けば働くほど、奴隷としての能力が付くだけです。



そして、毎日毎日自分の能力は落ちていきます。完全に刃を抜かれてしまうまでに、まだ活力あるうちに起業するべきです。

 

これは人に決めてもらうのでなく、自分の決断によるものです。

 

 

副業が必ず失敗する理由

すでに危機感を感じ、副業を始めている方も多数いますよね。副業で頑張り続けた場合、収入が本業を上回るかもしれません。しかし、副業の延長線上の考えでは、絶対に成功しませんよ。

 

なぜなら、あなたのライバルは「本業でやってる人たち」だからです。副業という「片手間」のあなたと、本業で生活を賭けて努力してる人、どちらが勝ちますか。

 

つまり、副業を『副業』と呼んでいる時点で、負けてますよ。

 

起業家が幸せだと思う理由

私は、毎日が楽しくて楽しくて仕方ないのです。正直なところ、仕事と道楽の区別がつかないような、気ままな生活をしています。

 


起業家として長年続けていると、毎日のように相談を受けます。もちろん、時間に余裕があるときは相談に乗ります。



しかし、相談に乗っていく内に、「起業家になりたい人が気になる内容をまとめ、相手に見せた方が効率的ではないか」と考えてYoutubeを始めました。

 

私の日常風景

朝はブラックコーヒーから始まり、20分で経済・社会の重要な情報に目を通します。午前中は相談先からの経営相談に応じます。




この頃は、相談を受けた企業経営者との相談に応じたり、京都の街をぶらぶら歩いたり美味いものを口にしたりと、随分気ままにしています。

 

ハンマーか釘か

釘よりもハンマーになりたい。そう思いませんか。打たれる釘は情けない、みじめな生涯を送ることになる。ハンマーは叩くだけです。

 


若い頃、当時はまだ出始めたころの自己啓発本やビジネスノウハウ本を読みあさりました。ただ、なりたい自分を描くだけでは何も起こりません。まず宣言することが大切と思います。

 


自分で仕事を始める。自分で稼ぐ。何度も死にかけた経験があります。



 

しかし、私は断言する。

 


絶望の淵から這い上がることは何度でも可能です。重要なのは「飢えていること」なのです。

 

劣等感、ハンデキャップ、不公平感などは全てエネルギーとなります。

 

今は先が見えないと思っていても、問題ありません。




この私も、昔はそうでした。

 

 

私の起業経験

 

✔建築設計事務所で起業

建築家として名前を出して独り立ちするのに、最低10年~15年かかります。当然、建築会社に新卒で入社する場合は、サラリーマンとして働くので設計図面を作成するまでのスキルはそれほど要求されません。新卒後入った設計事務所は、最初の建築家志願の人間が入る事務所で、かつては東京オリンピックのパビリオンを設計するなど公共建築物が中心でした。給料は当然安く、相場の半分でした。

 


自分が将来独立した場合、同じようにいわば徒弟関係にあるような経営をする自分の姿をイメージすると、一刻も早く最低スキルを身に付けて別の方法を試行錯誤するしかないと考えました。建築家の世界は意外と閉鎖的で、学閥もありました。当時の有名建築家は丹下健三、黒川紀章、磯崎新。実力はあっても機会に巡り合えない世界でもありました。

 


独立資金を貯めるために、節約して毎日マッチ箱に500円を入れて1年半で100万円を貯めました。吸っていた煙草のショートホープは一日5本と決め、小遣いは昼食代のみといった具合です。

 

開所当初は事務スペースがなく、実家の一室でスタートしました。仕事は建築確認申請のような味気ない仕事でしたが、開業しているとわかれば、ぽつぽつと紹介してもらえることになり、勤めていた設計事務所の収入に近い売上になりました。問題は、1人仕事だとキャリアの経験値が積めず、仕事の質が向上しないことでした。

 


✔商業コンサルタントで起業

結局、すぐに起業しました。仕事の内容は、市場(いちば)や商店街の小売店を集めて、スーパーマーケット化するコンサルタントです。

 


1973年、大店法(大規模小売店舗の商業活動の調整を行なう仕組)が制定されました。かつてのダイエーやニチイ、イトーヨーカ堂など欧米型の大型スーパーマーケットが日本に進出しはじめたころです。

 


大量安価提供と自動車が普及しはじめ、駐車場のあるそれら店舗への急激な進出を抑制する法律です。既存の小売を場所ごとにコマ割りして売り場を提供していたのが市場(いちば)でした。地域ごとの市場自体に個性があり、鮮魚が強くて、生鮮野菜が弱いやかまぼこ練り製品がやたら強いなどといった現象がありました。

 


結果、客離れの歯止めには自らスーパーマーケット化する以外に太刀打ちできない商店街が続出し始めました。


個性の強い商店主に対して説得し、スーパーマーケットのような共用部の活用と買い回りしやすい場所割付、売る上げ金の管理などに対する運営管理にまでまたがる、市場活性化のコンサルタント業務を開始しました。

 

スーパーマーケットでは、訴求力の強い業種は奥の方に配備する、卵はわざわざ探しにくい場所に持ってくる、パンや花など、かごに嵩張りつぶれやすい商材は買い回りの最後の方に配置します。乳製品などの重い商品もパンなどと抱き合わせに最後の方に配置します。

 

人間の体の仕組みから、心臓を守る無意識の心理から時計と反対方向に誘導させるなど、無意識下での工夫は沢山あります。ポスレジの導入などもその一環で、売れ筋商品がリアルタイムにわかるようになりました。現在の大型スーパーマーケットと同じように、客先目線で店舗全体にまとまりがある場合は成功していました。

 

結果は大成功。開始2年で年商5億円になりました。スーパーマーケットの建築を引き受ける建設業は、当時は画期的でした。

 

最初はこういった大型スーパーマーケットの新築及び改造工事が多かったのですが、次第に専門店の施工も手掛けるようになりました。



手掛けた業種としては、小売り系ではブティック・ジュエリー・花屋・精肉店、飲食店系では居酒屋・中華料理店・ラーメン店・焼肉店・コーヒーショップ・ラウンジ・スタンドバー、サービス系では書店・レンタルビデオ・カラオケ店です。



その後も、商業街の活性化事業に関連し、個別商店主からの増改築のお手伝いをさせていただきました。

 

✔レンタルビデオで起業

その後、京都で一番初めにレンタルビデオ店を起業しました。開店資金は3100万円です。


実は、TSUTAYAより私の方が早かったのです。

 

自分で事業計画書を作成し、銀行へ将来性のアピールをしたところ、「これは素晴らしい・・・!」と担当者に深く感銘頂き、即決融資が決まりました。

 

開店準備期間中に、店舗シャッターに営業時間と店名を書き通行人へ強烈な事前アピール。

 

開店チラシを、1週間かけて配布し、チラシ持参者にはビデオ1本無料としました。

 

結果、正式な開店前から「大繁盛」してしまい、アルバイトの採用が大変でした。

 

驚くことに、1泊2日新作500円、旧作400円の時代です。ちなみに2泊3日600円でも人気作はすぐに貸し出しました。家族で600円出せば、あの有名な名作ワンシーンが自宅鑑賞できるのだから当然ですよね。

 

当時の映画は映画館で鑑賞するものと決まっており、映画入場料は1500円。「ビデオでホームシアターをわずか1泊2日500円で・・・」というキャッチフレーズでした。

 

貸出後の回収業務に対して、会員制を導入し、免許証や保険証などのいわば個人情報を開示していただくことが条件としました。ビデオ店の黎明期は、会員になるというプレミアから、入会費1万円が普通で、友人同士でレンタルビデオの会員になったことを見せびらかす風潮がありました。

 

入会金は500円とし、開店の1週間は入会のみ受け付けとしたが、お客さんは満足して帰っていきました。「免許証がない!」と追い返しても、30分後には慌てて持参していただけた状況です。

 

その後、TSUTAYAの参入やネットの波を受けて、「この事業は撤退しよう」と判断しました。この判断は正解でした。私が店を畳んだ後間もなく、同業他社は相次いで倒産。撤退は早めが大切です。

 

これが幸いして、手元には巨額の儲けが残りました。

 

✔ビヤガーデンで起業

5月の初旬には鴨川の床が始まります。例年それに歩調を合わせてビルの屋上でビヤガーデンの設営をしました。


毎年同じように提灯を吊り下げて、仮の厨房を準備。当然生ビールを主体に、それに合う料理を提供するもので、小さな小窓で食券方式です。メニューはから揚げ・おでん・枝豆・ポテトチップ・串カツなどで、価格比較すると現在とほとんど変わらない気がします。

 

バブル前でも景気が良く、若干でも晴れた日には満席となり大変利益が上がった。ビールを注ぐのは私の役で、泡と全体の量とのバランスが大切。きめ細かな泡の持つ微妙なまろやかさとビールの苦みがマッチするとうまい。



たまに、泡は少なめがサービスが良いと主張する向きがありますが、それは間違いです。



ビールは原価50%ですが、その他のメニューは原価率10%~20%だったので、大変面白い商売ができました。



すこし風が強い日など、テーブルに運んだ時には、皿に盛ったポテトチップが全部飛んでなくなっていたこともしばしばです。



それでも、お客さんは笑って、も一度持ってきて来させて謝り方が良ければ、そのバイトにチップをはずむ等、今では考えられない光景がありました。


ちなみに100円のポテトチップは5分割程度にし、減価15円でひと皿300円としました。




ビルはかなり古く、エレベーターもいつ故障してもおかしくないような状態だったが、100坪程度の広さがあり、ビヤガーデンと命名してもおかしくなく夏限定の風物詩のようで、経営側もお客さんも楽しんでおられました。

 

✔ビリヤードで起業

洋画でハスラーが大ヒットし、一時期ブームとなったのですかさず便乗して初めました。まだ、ルールもわからないし、キュウのつかい方も知らない人が多くいたのでプロのハスラーを雇用して、個別指導教室も実施していました。



時間当たりと、人数別に料金設定する店があった。当時は1台のビリヤード台の貸し出しに対して、時間当たりの料金×人数を徴収する方式を取った。主流の料金体系でしたが、2名程度で借りられると、急激に時間当たりの1台が稼ぐ売上が下がりビジネスとしては、それほど妙味はありませんでした。



その後、ボーリングブームとなり、一般的にはそちらの方が手軽なレジャーとしては親しまれて利益も良かった。ただ、短命なレジャースポーツだと思い投資してやるビジネスと感じず、ビリヤードの後にボーリングへ傾斜することはなかった。現在でもボーリングの横にビリヤード台が併設されている場所がありますが、今ではその名残です。

 

 

✔株式投資

はじめて株式投資に対して興味を持ち始めたのは、1985年頃でした。


持田製薬がんの特効薬を発表したことで世間をにぎわしたいた頃です。その後、副作用の発表とともにストップ安したことなど友人から、その父親の購入から顛末まで聞かされたことがきっかけでした。


その後、小野薬品をはじめ日本化薬・科研製薬など追随する薬品メーカーも現れましたが、現在のところは小野薬品のノバルテスの信頼性が一番高いようです。昨今のアンジェスなどのメーカーも検証データ、第2相などなどいろいろと材料視されても決め手となる特効薬はありません。

 

最初に購入した銘柄は日立造船でした。


いわゆる大型株で、発行株式も多く現在では見向きもされず、ほとんど株価ウォッチもしないくらいです。バブル前でしたので、その後2年程度も持続していれば10倍にはなっていました。その約年後、日本経済が右肩上がりで、健全な金余り状態の最中、NTTが株式上場し一般の人達が株式市場に参入する大きなきっかけになった時期です。

 

私が株式投資でいわゆる大化けした株式を所有したのは日本カーボンで、短期半年で9倍化したのが初めでした。


当然といえば、当然ながら株式には投資妙味を感じ、ビジネスで資金余裕がでれば買い参入しました。株式は長期投資がセオリーと主張する向きがいます。結論は手法により、必ずしも正解とは言えません。

 

現在のように株式売買をネット購入できる時代ではないころ、売買手数料は売り買い往復で証券会社に3%の手数料が必要でした。要するに、短期のデイトレードなどはできようもなく、気配値は証券会社だけがわかるシステムです。面白いことに優良顧客にだけは、上下5本までを電話で確認するといった具合です。

 

年足、週足は自分でチャートを引くか、週間のチャートブックを購入することが常識化していました。残念ながら、任天堂は当時買うことができませんでした。日興証券の営業マンが勧めましたが「花札の会社」イコール怪しげに映ったものです。



わかりますね。今でもこのように感じる会社が急成長することがあります。


ITバブルも経験し、ガンホーなどのいわゆるテンバガーのフォルダー経験多数。詳細は動画でも紹介します。


 

7回死んだ男

20代の時、有名な占い師の方に「人生で10回死にかける」と言われました。



この占いは、当たってるかもしれません。


振り返ると現在7回死にかけた経験があります。

 

1.盲腸で死にかける

中学2年のとき、転校後1か月目で腹痛に襲われました。専門医に通院したが、食べ過ぎと判断され2日間42℃の高熱に悩まされました。近所の医者に相談した結果、盲腸炎が深刻化して腹膜炎を起こしていると診断。緊急手術で1か月後に復帰。1時間手遅れになれば死んでいたそうです。

 

2.タックルで意識不明

高校1年生の秋、ラグビー練習試合中のことです。ポジションはスタンドオフで、ボールをパスする直前にタックルを受けました。地面に頭部を叩きつけられ、意識不明のまま救急搬送。当時は両手でパスをするのがセオリーでした。最近は片手のパスはよく見かける方法です。

 

原則にとらわれず、片手パスをすれば転倒しても片方の手で地面をささえてダメージを受けることはありませんでした。自分が続けてきたスポーツだっただけに、いまでも残念なハプニングです。

 

3.アイスピックで襲われる

大阪北新地で店舗設計の現地確認の時。製氷業の若者から、アイスピックで頭部を突き刺されかけました。とっさに首を横に振り、相手の手首をおさえて難を逃れました。

 

当時はみかじめ料が存在し、その縄張りに食い込んできたと勘違いされたようです。

 

夜間営業が通常時間帯だったので、特に怪しい風体や服装でもありませんでした。しかし、なぜか「みかじめ料徴収に来た他の組のヤクザ」と感違いされた模様です。

 

4.連帯保証人で2億の借金

ごく親しい人の保証人になり、手形の裏書をしてしまったときのことです。とんでもないルートで裏書手形が廻り、反社に追いかけられました。早期に金策できないことを理由に、監禁されました。実は、ナニワ金融道のモデルとなった人物だという噂があります。

 

たまたま先方の親族関係の裏話的な情報を知っていたので、逆にこちらから金融業を始めたきっかけを聞き込むなど、懐柔策を行い、なんとか開放されました。

 

5.ヤクザの事務所に監禁される

お金に対する嗅覚が鋭いのは起業家だけではありません。ビデオ店での出来事です。貸出後1週間経過すると、電話連絡する方針でした。あまりに反応が薄かった高齢の延滞者先に、連日連絡したところ「返却するから、連絡しないでください。」とのことでした。その後も2日に1度は電話でお願いしていました。

 

数日後の深夜1時頃のことです。風貌が怪しい2人が来店して、「オジキが、返すというとったやろ!」とどなりこみに来ました。店内で騒がれるのを避けるため、翌日ホテルで苦情を聞くことにしました。

 

結果、待ち合わせの場所を変更され、窓の少ない建物の2階へ上がりました。俗にいう、ヤクザの事務所です。

 

部屋には神棚や提灯があり、若い丸坊主の人間が掃除がけをしていいました。だみ声やせ型の人との対談です。


「詫びを入れろ!」から始まり、堂々巡りの行きつくところ、ビデオの回収を口実にした定額みかじめ料を出せというものでした。回答がなければ、生きて帰さないとのことでした。

 

私は「考えときます。」などと適当を言って、その後放置していました。

 

しばらくすると、まったく別の組の方からの回収業務の営業が来ました。いわゆる「みかじめ料」は払う意思がなかったので、断りました。

 

結果、なぜか2つの組織どうしの争いに発展しました。

 

店前で「道具を出せ!」とか、私に向かっては「店内のビデオを全部貸せ!」とかのやり取りがありました。しかし、こちらは商売でやっていること、業界どうしで話し合って下さいということで鎮静化を図ることにしました。

 

ちなみに、道具とは拳銃のことらしいです。店前で騒いだ人の片目はなく、小指がありませんでした。2つの関係筋がその後どうなったかは不明です。

 

その後もビデオの回収はアルバイトにさせて、焦げ付いた場合には、自分で訪問しました。こういった経験があるので、仕事では「相手がだれであっても」妥協しない交渉が大切と感じました。

 

6.ストレスで脳内出血

スーパーゼネコンとのジョイント工事での出来事。

 

大規模な工場増設工事の区分で設備関係全般の担当請負をしていました。おそらく暗黙のルールとして、現場工事の各現場では職長クラスを集め親睦会名目で現場分担金を徴取することになっていました。



さすがにこの頃はないと思いますが、参加しないと現場工事の必要期間に施工させないとか、一度施工した箇所を潰されるなどがありました。工事の朝と夕方に集合確認会がありますが、
会話にも入れないことはほぼ常識です。その分担金を払わなかったため、当然のように妨害を受けました。

 

だいたい、そのような職長会のリーダーは決まって一番柄が悪い、要するに反社上がりの連中です。基本的にそういった人たちへの接し方は不得意ではなかったのですが、肝心のスーパーゼネコン側から直接の工事妨害を受けました。

 

結果、頭に血が上り救急搬送の意識不明。脳内出血で3週間の入院となりました。

 

7保険金殺人未遂

パチンコ店を共同経営していた時のことです。1億円の経営者専用保険金をかけれら、海釣りに誘われて突き落とされかけました。今では笑い話ですが、当時は死ぬかと思いました。

 

まとめ

私の主張はこうです。

日本人は全員起業しなさい!

国でもない。
会社でもない。
あなたがやるんです。

自分の人生の【主人公】
になる準備は出来ましたか?

さあ、共にいきましょう。










起業するか死か

幾度となく死にかけました。


しかし


1つだけ真実がわかりました。



それは


人は死なないということ。



どんな逆境でも


死ぬほど追い詰められても


必ず逆転できる。




だからこそ



私は今こうして生きている。



「自分はもうだめだ」


「起業したいが方法が分からない」


「人生を逆転したい」


そう思ってる人は


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必ずヒントが見つかるはずです。