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(重度しょうがいをかかえ生きてきたストーリーにふれてみてください)
気をつけよう。
さかもとあつしの
その笑顔!
(幼いころ友達から
よくからかわれた
言葉です^^;)

プロフィール

あっちゃん(本名:坂本 淳)
この世に生を受けて障害をかかえ、踏まれながらも雑草のごとく生きてきました。障害に立ち向かい笑顔で生きてきた男です。
踏まれても踏まれても負けずに立ち上がる男です。
昭和29年10月5日誕生
負けたくない!
もう一度、立ち上がる!
もう一度、立ち上がる!

【 あっちゃん誕生・その時代背景 】

あっちゃんが降り立ったS20年から30年後半のその時代、障がい者は家に閉じこもりがちが当たり前だった。

特に障がいをもったものが家族にいるとオモテに出ることがすくなく、親は隔離してしまうことが多かった。

医学的な進歩もまだまだで、障がい者は亡くなるのも早かった。

経済的な理由もあって、家族として余裕はなく、障がい者の面倒もあまり見てもらえていないということを肌で感じていた。


昭和29年10月5日。歴史的瞬間としてこの世に降り立つがあった。あっちゃんの誕生だ。

生をうけてまもなく、仮死状態が30分間、さっそく三途の川を渡ったとのこと。


両親も初めての男の子。「なんとしてもイノチをつなぐんだ」

そんなおもいで、全身全霊、父は産婆さんからあきらめてくれとは言われながらも、必死だった。

残っていたカンフル注射を心臓にめがけて打ち込んだのだ。父、自らの手で


この世に、必要でなかったら、この奇跡はうまれない。

今までむらさき色だったちっちゃなイノチがよみがえり、顔色が戻っていったのだ。

 

【 幼少期・周囲の人たちとのかかわり 】

父親は家庭を顧みず、表に出ていってばかりだった。

父が家に見返りなく出ている状況で、貧乏まっしぐらの環境だった。


一般の障がい者の環境とは雲泥の差があり、
僕が感じるその世の中の障がい者は、親兄弟から大切にされ、
障がい者中心の家族支援の介護環境が支流の中、
私に限っては、母が父の代わりにはたらきに行かなければならなかった。
もっぱら私は、知り合いのおばあさんと女兄弟の世話のもと生活していた。


よく、ひとりぼっちで家に居ることがあり身体が重度の為、もっぱら寝ころばされて。

部屋の中は車いすもなく家の中でもの移動は、後頭部とかかとを支点にくねらせながら、自分の行きたい方向へ移動していた。

その姿を母親が見るたびに「まるで芝居小屋のヘビみたいやな。」と言われたものだ。


そのおかげか、運よく私は近所の人たちにも可愛がられた。

親がいなくても、健常者との交流が自然にできた。


私の世界がかわってきたのは、小学高学年になったころから。ようやく自力で福祉用具、歩行器を手に入れ、移動ができるようになったのだ。

 電動車いすができたのは、自分が高校を卒業してからとなる。

 

 

その時の環境・背景が自分の性格をつくりだし、今に役立っていると思う。 


自分と同じような重度しょうがい者の立場で健常者との交流ができる人はまれだと思う。

そんな私だから、物心ついた時から身体は不自由でも不自由を感じたことはなく、
親にもなんで障がい者に産んだのかという一般的によくあるように親を責めるようなことはなかったし、しようともしなかった。


 逆に、障がい者で何がわるいのかという持ち主の性格が出来上がった。

 今考えれば周りの人のおかげだったのだ。

【 父親の話 】

中学生くらいの時に、家に戻ってきた。
商売をするといって取り組みだしたときだった。

母親は、僕が高等部を卒業するまでは待ってもらいたかった。

僕も、父に言った。「それまで待って母も手伝うし、卒業したら、自分もなんだかの形でできるのだから」と想いを伝えた。

しかし、父は「お前はだまっとけ」と。
「障がい者のお前に何ができるんか」と。

同時に「よし、実の父親にこんなことを言われたのだから、将来絶対に見返してやる」との気持ちが情熱として沸き上がっていった。

その出来事は、今まで生きてきたきっかけ、原動力になったと思う。

【 兄弟の話 】

自分以外に3人の兄弟がいる。
日常での世話は、当たり前のように手をかけてくれた。

しかし、成人になって、兄弟の結婚イベント。
当然、参加できると思っていたが、参加させてもらえなかった。

その中で、妹の結婚の時、特に障がい者を痛いほど、感じさせられた出来事となった。それは、妹の結婚相手、相手の家族と当人の妹までもが私に結婚式に出ないでほしいと母に言っていたとのこと。 

その母もまた、更に僕に同じようなことを告げられたことは本当に寂しかったし、つらかった。

なぜ、母親がそれを聞き入れたのか?その上、妹の一言は奈落の底に突き落とされたような想いだった。

実の妹から「私が無理やり出るのであれば死んでやる」との言葉をいわれたのだ。

【 日本で2番目にできた養護学校。その思い出と差別 】

日本で、養護学校として開校となったのは、僕が入学する3年前という時代だった。
神戸の東灘住吉に住吉小学校の一部を借りて日本で2番目にできた学校だった。

名前は、友生養護学校。

養護学校ですら差別があった。

友生養護学校で、小中高の学生時代を送るなかで
軽度と重度の区別があり、勉強の内容や活動内容に同じようにはやれないと悲しかった。

その中での一番の差別は、生徒会での出来事。

具体的に言えば、私が中学校3年のころに、生徒会長に立候補したところ、初めは私しか候補者がいなかったのだが、選挙が近づいてくるある日、生徒会の顧問の先生が軽度の生徒を引っ張り出した。

結局その軽度の方が生徒会長に任命されたのだ。

「なぜ?」の想いは消えることはなかった。悔しかった。先生にも、尋ねた。

返答は、言葉がなかなか出てこない。活動において、他者の力を要する。人より手がかかるというようなことだった。

しかし、そのことがきっかけとなり、私の福祉活動を奮い立たせることとなった。




【 松の木福祉会 】

感謝と願い
約20年長きにわたり活動させていただいた松の木福祉会、本当に多くの方々のご支援をうけたまわり、感謝申し上げます。
あの時のみなさんとの触れ合いは、忘れません。今、このご時世の中、今再び自分の果たせる役割を考えたとき、初心に立ち返らずをえません。
 自分が、この世に求められているのか、今一度確かめてまいりたい。





💎活動のひとつ。

give&take(広げよう助け合いの輪)を
タイトルとして綴った小冊子。

その当時、集った仲間が想いを綴ってくれました。


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こんなこと、言っていいのかな。
こんなこと、言って人はどんなふうに思うのだろう。
親は、この本音を知ったら、どんなふうに思うのだろう。
しかし、間違いなくそこがどうしても、つっかえていて気にしないように気にしないようにしていても、頭から離れられないのです。
このことを、わかってくれる人に届いたらいいな。
しかし、あまり、広がりすぎない程度に。
怖さもありますが、この機会に想いをのせました。


🌥 🌥 🌥 🌥 🌥 🌥 🌥 🌥 🌥 🌥 

昭和49年3月松木福祉団体ふれあい会設立

【基本路線と本会のモットー】

本会では肢体不自由者・健常者などと区別をすることなくお互い尊重しあい、共に理解・協力・感謝をモットーとして人と人との心の触れ合いを通した肢体不自由者・在宅の高齢者・自立の手助け活動や福祉向上を図るために互いに助け合い、人との付き合い活動を基本路線としています。

【活動内容】
趣味教室・外出送迎介助者派遣協会・広友会/主にサークル活動を開催。
ボランティア講習会及びレクレーション及び旅行などの親睦会の開催。
年会8月にチャリティーふれあいコンサートの実施。
福祉情報小冊子ハート&ハートにて。自分の障害のことについて。かんがえていること。など、詩にしたり、文章に綴りました。

機関紙ふれあいニュースの発行。
定期的に発行活動行っていた。


【 恋愛について 】

高校出たてのころに、同級生の女の子が家に来て、帰りたくないといわれたこともあった。

高校卒業して19歳。今、考えるとドラマのような出逢い。


👧相手は29歳。運動場で、たまたまボケーとおったら、ボールけりやっていた輪からもれてきたボールが自分のところに飛んできた。

そんな運命からご縁をいただいた。

彼女は、養護学校のスクールバス添乗員。待ち合わせ場所は、決まって阪神御影駅ちかくのバス停。
決まった時間に、バスから降り立つ彼女を歩行器で迎えた。

2時間から5時間、喫茶店にずっといた。

時間があっという間だった。
たぶん、相手もそんな感覚だったと思う。


仲良くなると会う回数も頻回となり、時には僕にマフラーを編んでもくれた。

その子のお兄さんが灘区の歯科医院の開業をしていたこともわかっていた。今でも覚えている。昼から料理食べる約束で自宅に来ていた。

いい雰囲気になり、「こっちけいへんかと。」言われたことがあった。

しかし、その時は邪魔が運悪く入ってしまった。

自然に恋人同士となっていた。

松の木福祉会も手伝ってくれた。


付き合った2年目に彼女から添乗員を辞めて保育士になりたいと、相談を持ち掛けられたことがあった。

今でも、はっきりと覚えている。

「大阪に行っていいか」と。

その時は、あまり深い意味は考えなかった。

「自分のしたいことしたらいい。」と返答した。


後から考えるとそれは彼女にとって大変大きなメッセージだったのかなと思う。

僕の世話をしたいけど、「私が入っていける場所がない。」
とのことばを聞いていた。

いつしか、疎遠になっていった。

日が経ち、松の木福祉会を発足して知り合った人がその子の居場所を調べてくれた。

大阪の此花区に住んでいるのが分かった。

Tさんが連れて行ってくれた。家の前から電話をかけた。
たしかに繋がった。
しかし、いませんと言わた。本人の声とわかった。終止符がそこでうたれた。



よう踏み切れなかったのは、経済的なことも自信がなく考えることすらも至らなかった。

僕は、障害があるからと引いていた。

強引に行けたのは嫁さんになってくれた人だけ。

 


女の子との関係は、恋人関係になること、ましてや結婚について、障がい者という負い目を感じ、出来るわけがないとの思いがあった。今考えると若かったのだと思う。相手はそこそこの年齢であり、遊びに連れて行ってくれる人はあったが、同情抜きでそういう雰囲気となるまで付き合ったのはその人と嫁となってくれた人のみだ。


おしまいに

  • ここまで見てくださって本当にありがとうございます。このサイトにあげたことはほんの一部分です。今後、他のSNS・noteやYouTubeなどを利用しながらこの続きを発信してまいります。気軽に、ご感想と気になる点等ありましたら是非コメントいただけたら幸いです。今後ともよろしくお願いいたします。


さらに詳しくは、こちらで更新しております。
ぐらべる あっちゃん (noteにて)

  • 残り少ない人生の総仕上げとして、全ての経験を活かし、今一度自分を見つめなおし立ち上がっていこうと思っています。その時には、あたたかいご支援をくださいますよう願っています。
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