私にとって慶讃法要とは何なのか。これをどうしても一度、自分に問わなければならない。なぜか。もしも「私にとって」というこの一点が抜け落ちると、もう慶讃法要は私には関係がなくなる。つまり第三者になる。「ご本山で大きな法要が勤まるそうな」と、見物人でしかないことになってしまいます。この慶讃法要の主な内容である、親鸞聖人の御誕生を讃嘆するということ。そこからすれば皆さん、自分にとって「親鸞聖人の御誕生を喜ぶ」って、どういうことですか。
私は、今回のご法要のテーマとして掲げられてあるあのお言葉が、如実にそれを教えてくださっていると思うのです。「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」。
親鸞聖人の御誕生を喜ぶということの根底には、何はともあれ、わが身の誕生が受け取れるか受け取れないかということが、問われているのです。
(「宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要、真宗本廟お待ち受け大会・本廟創立750年記念大会」記念法話 ※「真宗」誌2021年6月号より一部掲載)